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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

仏教

学道用心集の現代語訳

作者: Eliphas1810
掲載日:2026/06/04

 菩提心を起こすべきである事。


 菩提心は、別名は多いが唯一の心なのである。

 龍樹 祖師は、「ただ、世間のものは生じたり滅んだりして常に変化してしまう、と観る心を、また、『菩提心』と名づけるのである」と話している。

 そのため、一時、この「世間のものは生じたり滅んだりして常に変化してしまう、と観る心」を「菩提心」と見なすべきではないか?

 実に、「無常」、「この世のものは常に変化してしまう」と観る時、

自身に執着する心は生じないし、

名声や利益への思い(、執着)は起こらないし、

「時の流れは、とても速い」と(正しく)恐怖できるのである。

 そのため、頭が燃えているのを救うように、仏道を修行し、「肉体の命は堅牢ではない」と顧みるのである。

 このため、「翹足」、「つま先立ちするほど喜んで精進する事」に()れるほど精進するのである。

 たとえ、緊那羅や迦陵頻伽が賛嘆する音声を聞いても、夕方の風が耳を払って通過したかのように執着しないのである。

 たとえ、王嬙とも呼ばれる王昭君や西施という有名な美人の美しい妙なる容姿や顔を見ても、朝の(つゆ)が眼を遮っただけであるかのように執着しないのである。

 色形や音声への執着を既に離れたら、自然と、悟りを求める心への道理に合致するのではないか?

 古今、見聞(、学)が少ない人を見聞きするが、その多くが、名声や利益という穴に堕ちてしまって、半永久的に仏道のための命(、機会)を失ってしまうのである。

 あわれむべきである。

 惜しむべきである。

 知るべきである。

 たとえ、「方便の」、「便宜的な方法の」仮の仏教や、真実の仏教の妙なる経典を読む事が有っても、

たとえ、密教以外や、密教の経典を伝える事が有っても、

名声や利益への執着を未だ投げ捨てていない者を、「悟りを求める事を思い立って心した者である」と呼ばないのである。

 ある者どもは、「『菩提心』とは、仏の『無上正等覚心』なのである。名声や利益に執着するべきではない」と話してしまう。

 ある者どもは、「『菩提心』とは、『一念三千』、『一つの思考には三千の全てのものが備わっている』と観察して理解する事なのである」と話してしまう。

 ある者どもは、「『菩提心』とは、『一念不生』、『一つの(悪い)思考も生じない境地』である仏法への門なのである」と話してしまう。

 ある者どもは、「『菩提心』とは、仏の世界(、境地)に入った心なのである」と話してしまう。

 これらのような(やから)は、「菩提心」を未だ知らず、妄りに「菩提心」の悪口を言ってしまい、仏道の中で(真理から)「遠い中でも遠い」、「最も遠い」者どもなのである。

 試しに、自身や名声や利益に執着している(とう)の心を顧みて、

「一念三千」、「一つの思考には三千の全てのものが備わっている」性質や外見と「融」、「融通」、「一体化」しているか? 否か? 一体化していない!

「一念不生」、「一つの(悪い)思考も生じない境地」である仏法への門を証しているか? 否か? 証していない!

 ただ、名声に貪欲に執着したり、利益に愛着したりする(みだ)りな思考だけが有る者どもが、「菩提 道心」、「悟りを求める心」を(さら)に得るのは不可能ではないか? 不可能である!

 古今の、真理を会得し、仏法を会得した、聖人達には、「同塵の」、「俗世の人々に合わせる」、「方便」、「便宜的な方法」は有るが、名声や利益への邪悪な思考は未だ無いのである。

 「法執」、「全てのものへの執着」ですらなお無いのである。

 まして、「世執」、「俗世のものへの執着」は無いのである!

 いわゆる「菩提心」とは、であるが、前述の「『無常』、『この世のものは常に変化してしまう』と観る心」は、その「菩提心」のうちの一つなのである。

 (「菩提心」とは、)狂っている者どもが(誤って)()しているような物では全くないのである。

 あれらの、「不生念」、「一念不生」、「一つの(悪い)思考も生じない境地」や、「三千」、「一念三千」、「一つの思考には三千の全てのものが備わっている」外見とは、「発心した」、「発菩提心した」、「菩提心を起こした」以後の妙なる行いなのである。

 (「菩提心」について、)混乱させるべきではない!

 ただ、一時、自身への執着を忘れて、(ひそ)かに修行する事が、「菩提心」に親密に近いのである。

 ゆえに、「六十二見」、「六十二の邪悪な見解」は、自身への執着を根本としてしまうのである。

 もし、自身に執着している邪悪な見解を起こしてしまった時は、「静坐して」、「心身を静めて坐禅して」、観察しなさい。

 今、自身の肉体の内外の、(この世の)諸存在は、何を根本(、源、元素)としているであろうか?

 身体髪膚は、父母から受け取った物である。

 「赤白二滴」、「母の赤い血と父の白い精液による人という命」は、最初から最後まで、(くう)なのである。

 そのため、(肉体を含む、この世のものは、真の)自身ではない(と言える)。

 「心意識」、「心、意識、理解」や(誤った)智慧は、(人を)寿命に束縛してしまう。

 (呼吸で鼻を)出入りする一息とは、最終的に、何物であろうか?

 このため、(肉体の命は、真の)自身ではない(と言える)。

 あれこれ、執着するべきではないのでは? 執着するべきではない!

 迷ってしまう者は、これらに執着してしまう。

 悟る者は、これらを離れる。

 さて、

(真の)自身ではない物を自身であると、はかってしまい、

(真に)生じていない物を生じている物として執着してしまい、

仏道の行うべき行いを行わず、

俗世の情のうち断つべき情を断たず、

真実の法を嫌い、

(みだ)りな(虚偽の)法を求めて、

どうして誤らないであろうか? いいえ! 誤ってしまう!





 正しい仏法を見聞きしたら必ず(正しい仏法を)習って修得するべきである事。


 忠臣が一言、献上すれば、しばしば、天(の神による運命)を半回転させる(ほど変革する)力が有るのである。

 仏祖が一言、めぐらせれば、回心する人がいるのである。

 自身が賢明な君主でなければ、忠言を受容できない。

 自身が抜群の修行者でなければ、釈迦牟尼仏の言葉を受容できない。

 回心していないような者は、生死に流されてしまって、生死(の輪廻)を未だ断てない。

 忠言を受容しないような者は、国家を統治して国家で善い政治を未だ行う事ができない。





 仏道を必ず修行によって「証入する」、「証して悟りに入る」べきである事。


 俗世でも、(「論語」の「衛霊公」で孔子は、)「学べば、給料(という報い)は、その(学の)中に存在するのである」と話している。

 釈迦牟尼仏は、「修行すれば、証は、その(修行の)中に存在するのである」と話している。

 学ばないで給料を得た者どもや、修行しないで証を会得した者どもなんて、未だかつて聞いた事が無いのである。

 たとえ、修行には、「信法」、「仏法を信じる事」や、「頓漸」、「悟りが速いものと、悟りが遅いもの」の、差異が有っても、必ず修行するのを待ってから、証を(証から証へ)超越していくのである。

 たとえ、学には、浅いものと、深いものや、利発か、愚鈍かの種類が有っても、必ず学を積んでから、給料(などの報い)にあずかるのである。

 これらは、ただ、王者が優秀であるか、否かや、天の(神による)運命が(こた)えて報いてくれるか、否かによる物ではないのでは? ではない!

 もし、学ばずに給料(などの報い)を受ける事ができる物であれば、誰も、先王の秩序や無秩序における道理を伝えない!

 もし、修行せずに証を得る事ができる物であれば、誰も、「如来」、「釈迦牟尼仏」の「迷語」、「謎」、「神秘」の仏法を「了解」、「理解」しようとしない!

 「識」、「理解」するべきである。

 迷いの中で修行を確立してから、覚の前で証を獲得できるのである。

 「時に」、「さて」、初めて、「船筏の昨夢」、「悟る前の全てのものは、悟りという向こう岸へ渡るための船や(いかだ)のようなものであるし、昨晩までの夢幻のようなものである」と知って、永遠に、「藤蛇の旧見」、「(ふじ)(つる)を蛇と誤解するような古い邪悪な見解」を断つ事ができるのである。

 これは、釈迦牟尼仏による強引な行為ではないのである。

 「機」、「才能」をめぐらせた事による物なのである。

 まして、修行が招く物とは、証なのである。

 「自分の家の『宝蔵』」、「釈迦牟尼仏の教え」は、外によって来てくれるのではないのである。

 証の行使(、発揮)とは、修行なのである。

 「心地」、「境地」や「蹤跡」、「行跡」を退転すべきではない!

 さて、もし、証という眼で見回して、修行している境地を(かえり)みてみると、一つも眼が、かすむ事は無く、果てしない白い雲が見えるのである。

 「行足」、「修行という足」をあげるのを、証という段階にしてみようとしても、一つの(ちり)も足を受け止めてくれるものは無いし、天と地ほど、かけ離れている空間、虚空を踏むような物なのである。

 「ここ」、「虚空」で後退してみたり、「仏地」、「仏の境地」を跳躍してみたりしているのである。(精魂を弄して修行するのである。)


 「天福二年 甲午」、「千二百三十四年」の三月九日に書いた。





 「有所得の」、「得ていたり得られたりするものが有る」、「ものに執着する」心によって仏法を修行するべきではない事。


 仏法を修行するには、必ず、先人の達道者の真の秘訣(ひけつ)を受けるべきであるし、自身への用心を用いるべきではないのでは? 用いるべきではない!

 まして、仏法を、「有心」、「ものへの執着」によって、会得しようとするべきではない。

 (また、)「無心で」、「思考を停止して」、(仏法を)会得しようとするべきではない。

 ただ、「操行」、「日常の行い」における心が、真理と符合していなければ、心身を未だかつて安寧にできないのである。

 心身を未だ安寧にできなければ、心身を安楽にできないのである。

 心身を安楽にできなければ、「道」、「真理」を証しようとしても、荊棘(いばら)を生じてしまうのである。

 いわゆる、「操行」、「日常の行い」を真理と符合させるには、どのように、「行履」、「日常の所作」を行えば善いのか?

 心で取捨選択せず、心で名声や利益に執着しないのである。

 仏法を修行するには、他人のために修行しない事なのである。

 今の世の人々のうち仏法を修行しようとする人々は、(多くが、)その心が真理から「遠い中でも遠い」、「最も遠い」のである。

 もし、他人が愛好するのであれば、たとえ、「非道」と知っていても、それを修行してしまう物なのである。

 もし、他人が(うやうや)しく敬ったり賛嘆したりしてくれなければ、たとえ、「正道」、「正しい真理」、「正しい言動」と知っていても、捨ててしまって、修行しない物なのである。

 痛ましいかな。

 あなた達、試しに、心を静めて観察してみなさい。

 その「心行」、「心の動き」、「思考」を仏法とする事ができるのか?

 それとも、仏法ではないのか?

 恥じ入るべきである。

 恥じ入るべきである。

 (あなたの思考や行動は隠そうとしても、常に、)神聖な神や仏の眼によって照らして見られているのである。

 仏法の修行とは、自身のためですら、なお、ないのである。

 まして、名声や利益のために、この仏法を修行するべきであろうか? いいえ!

 ただ、仏法のためだけに、仏法を修行するべきなのである。

 諸仏は、「慈悲」、「思いやり」で、「衆生」、「生者達」を思いやってくれるが、(仏)自身のためではないのである。

 また、他人のためではないのである。

 (思いやるのは、)ただ、仏法では「常」、「当たり前の事」なのである。

 見聞きした事が無いか?

 小さな生物ですら、その子を養育するために、心身を苦悩させて辛く苦しい事を営むが、結局、子を成長させるために養育しても、父母には利益が無いのである。

 けれども、しかし、子を思いやる思考は、小さな生物ですらなお、そうなのである。

 (生物の思いやりは、)自然と、諸仏からの「衆生」、「生者達」への思いと似ているのである。

 諸仏の妙なる仏法とは、ただ、唯一、「慈悲」、「思いやり」だけなのである。

 仏は、普遍に、(仏法への)諸々の門を現してくれている。

 それらの諸々の仏法の根本とは、全て、そう(、思いやりだけ)なのである。

 (僧は、)既に、「仏の子」、「仏の弟子」なのである。

 どうして、仏の家風に慣熟しないのか?!

 修行者は、「自身のために、仏法を修行しよう」と思うべきではない。

 名声や利益のために、仏法を修行するべきではない。

 果報を得るために、仏法を修行するべきではない。

 「霊験」、「神や仏による利益」を得るために、仏法を修行するべきではない。

 ただ、仏法のためだけに、仏法を修行するのである。

 これ(、仏法のために仏法を修行する事)が、「道」、「真理」なのである。





 禅に参入して仏道を学んで修行するには、正しい師を求めるべきである事。


 古代の先人は、「『発心しても』、『悟りを求める事を思い立って心しても』、正しくなければ、全ての行いが(むな)しく成ってしまう」と話している。

 この言葉は、真実なのである!

 仏道修行は、導師が正しいか、邪悪であるか、に左右されてしまうのである!

 「機根」、「修行者の素質」は、良い材料のような物なのである。

 師は、大工に似ているのである。

 たとえ、良い材料でも、良い大工を得られなければ、綺麗な加工品を表す事は未だできないのである。

 たとえ、ねじ曲がっている悪い材料でも、もし、良い大工に出会えれば、妙なる成果を(たちま)ち出現させるのである。

 師が正しいか、邪悪であるか、によって、悟りの真偽が存在してしまうのである。

 前述によって、悟るべきである。

 ただし、我が国、日本は、昔から、正しい師が未だ存在しない(と言える)のである。

 何によって、「そうである」、「日本には昔から正しい師が存在しない(と言える)」と分かるのか?

 言葉を見て察するのである。

 川の流れから水をくんで、水源を検討するような物なのである。

 我が国、日本では、古くから、諸々の師が書籍を編集して弟子を教え、(教えなどを)人や天人に施している。

 (しかし、)それらの言葉は、青い。

 (つまり、)それらの言葉は、未熟なのである。

 (それらの言葉は、)「学地」、「未だ学ぶべきものが有る境地」の頂上にすら未だ到達していないのである。

 どうして、段階的に証を超越していく(ほと)りにすら及んでいるであろうか? 及んでいない!

 ただ、文字、言葉を伝えているだけなのであるし、名前や文字を読ませているだけなのである。

 日夜、他人の宝を数えているような物で、自身には半銭の分の利益も無い有様(ありさま)なのである。

 古代の先人への叱責(しっせき)(の理由)は、これらに存在するのである。

 あるいは、他人に「心の外の正覚」(という有り得ない物)を求めさせてしまう。

 あるいは、他人に「他の仏国土へ行って生まれ変わる事」、「他の世界へ行って生まれ変わる事」を願わせてしまう。

 これらのせいで、「惑い」、「迷い」や混乱が起きてしまう。

 邪悪な思いで、これらに務めてしまう。

 たとえ、(仏法、言葉、文という)良い薬を与えても、(正しい修行方法という)薬の飲み方を教えていないので、病気に成ってしまって、毒を服用するよりも、ひどいのである。

 我が国には、古くから、良い薬を与えてくれる人が、いないような物なのである。

 (正しい修行方法という薬の飲み方を教えて、)薬が毒に成ってしまうような害を無くす師は、未だ、いないのである。

 これらのせいで、(「生老病死」という四つの苦しみのうち)「生病」を除去するのが難しいのである。

 (「生老病死」という四つの苦しみのうち)「老死」をどうして免れる事ができるであろうか?!

 全て、これらは、日本の古今の師の「咎」、「過失」なのである。

 全く、「機根」、「修行者の素質」による「咎」、「過失」ではないのである。

 なぜか? (と言うと、)

 人の師である者が、人に根本を捨てさせてしまって、些末なものを追求させてしまうからである。

 これらが、そうさせてしまっているのである。

 「自解」、「(みずか)らの理解」、「自らの悟り」を未だ確立させる以前に、ひとえに、自身に執着してしまう心だけに専念させてしまって、(みだ)りに、邪悪な境地に堕ちてしまう悪い結果を、他人に招かせてしまうのである。

 あわれむべきである。

 師であるべき者が、これらの邪悪な「惑い」、「迷い」について未だ知らないのである。

 弟子が、どうして、「是非」、「善悪」を「覚了」、「理解」できるであろうか?

 悲しむべきである。

 辺鄙(へんぴ)な小国では、(真の)仏法が未だ広まって流通していないのである。

 正しい師が、未だ、この世(のうち日本)に出現していないのである。

 もし、「無上の仏道を学びたい」と欲するのであれば、遥か、宋の時代の中国の、善知識を持つ人々を訪ねるべきなのである。

 遥かに、「心の外の活路」、「身による行いによる方法」を(かえり)みるべきである。

 正しい師を得ていないのに(誤って生半可に)学ぶくらいなら、(全く)学ばないほうが良い(かもしれない)。

 正しい師を得るには、長老であるか、否か、を問わない事である。

 ただ、「正しい仏法を明らめて、正しい師からの印、証を得ているか」を問うのである。

 文字(、言葉)の巧みさを優先するべきではない。

 (言行が伴っていない)理解、会得を優先するべきではない。

 「格外の」、「格別な」(修行している)力量が有るべきである。

 過度な志が有るべきである。

 「我見」、「自身に執着する邪悪な見解」に、こだわっていないべきである。

 感情や、(誤った生半可な)「識」、「理解」に、停滞していないべきである。

 行いと理解が相応であるべきである。

 これらのような者が、正しい師なのである。





 禅に参入するために知るべきである事。


 禅に参入して仏道を学んで修行するのは、一生の一大事なのである。

 杜撰(ずさん)に修行するべきではない。

 軽率に修行するべきではない!

 古代の先人は、(第二十九祖の慧可が)「断臂した」、「腕を断ってしまった」し、(「無門関」で、倶胝が、悟らせるために、弟子の)指を斬ってしまった。

 中国の優れた行跡なのである。

 昔、釈迦牟尼仏は、家を捨てたし、国を捨てた。

 仏道修行の、残してくれている行跡なのである。

 今の人々は、(誤って)「行いやすい修行を行うべきである」と話してしまっている。

 この言葉は、もっとも、誤っているのである。

 (この言葉は、)ひどく、仏道には合わない。

 一事だけに専念して修行にしようとしても、仰向けに寝る事ですらなお、(なま)けてしまうであろう。

 一事を(なま)ける者は、万事を怠けるのである。

 行いやすい事を好んでしまう人は、自然と、「仏道の器ではない」と知る事ができるのである。

 まして、今の世にまで流布している仏法は、釈迦牟尼仏が、無量劫の昔から、行い難い修行を行い苦行して、その後、会得した仏法なのである。

 (仏法の)(もと)の源(である釈迦牟尼仏)が、既に、こうなのである。

 (仏法という)流派(の修行)は、行い難いのである!

 仏道を好んでいる「士」、「一人前の者」は、行いやすい修行を志すなかれ。

 もし、行いやすい修行を求めてしまえば、確定的に「実地」、「実践」すら到達できないし、絶対に「宝所」、「宝の場所」、「仏の無上覚」に到達できない! (※「法華経」の「化城喩品」で「仏の無上覚」は「宝所」、「宝の場所」に例えられている。)

 古代の先人は、(修行をする)大いなる力量を備えていてもなお、「(修行は、)行い難い」と話している。

 「識」、「理解」するべきである。

 仏道は、深い、大いなる物なのである。

 もし、仏道(、修行)が(もと)より行いやすいのであれば、古今の、(修行をする)大いなる力量が有る「士」、「一人前の者」達は、「(仏道、修行は、)行い難いし、理解し難い」と話さなかったであろう。

 今の人々は、古代の先人と比べると、「九牛の一毛」、「多数の牛の無数の毛のうちの一本の毛」にも及ばないのである。

 この(、「行いやすい修行をしよう」としてしまう)「根」、「素質」の矮小さや、浅はかな「識」、「理解」では、たとえ(意思)力を励まして「行い難い修行をよく行おう」としてもなお、古代の先人による「行いやすい修行」や「理解しやすい仏法」に及ばないのである。

 (そもそも、)今の人々が好んでしまう「理解しやすい仏法」や「行いやすい修行」とは、どのような代物であろうか?!

 既に、世俗の法ですらない代物である。

 また、仏法ではない代物である。

 「天魔波旬」、「仏敵」の行いにすら未だ及ばない代物である。

 外道や「二乗」、「人や天人」の行いにすら未だ及ばない代物である。

 「凡人の迷っている妄りな行いのうちでも、ひどい代物である」と言うべきである!

 たとえ、迷いと輪廻転生を出て離れようとしても、かえって逆に、終わり無く輪廻転生してしまう。

 (常啼菩薩が自身の髄を法涌菩薩に捧げるために、)骨を折って髄を砕いたのを観ると、(仏法、修行は、行うのが、)難しいのである!

 心の「(みさお)」、「堅固さ」を整える事は、とても、難しいのである。

 「長斎して」、「長い間、戒を守って節制して」、「梵行する」、「修行する」のは、難しいのである!

 「身行」、「品行」、「行い」を整える事は、とても、難しいのである。

 もし、骨を粉砕する事を尊重するべきであれば、この(骨を粉砕する)事を忍耐した者達は昔から多いが、仏法を会得した者達は少数なのである。

 「斎 行 者」、「身を清浄にして修行する者」達を尊重するべきであれば、(「身を清浄にして修行する者達」は)古くから多いが、真理を悟った者達は少数なのである。

 これらは、心を整える事が、とても難しいからなのである。

 聡明である事を最優先しない。

 学や理解を最優先しない。

 「心意識」、「心、意識、理解」を最優先しない。

 「念想観」、「記憶、想像、観察」を最優先しない。

 古今、これらを全く用いず、心と身(の行い)を整えて、仏道に入門しているのである。

 釈迦牟尼仏は、「観世音菩薩は、『入流して』、『八正道という、仏への流れに入って』、古い知識を忘れた」と話している。

 「心と身の行いを整える」とは、この「八正道という、仏への流れに入って、古い知識を忘れる」という意味なのである。

 「(妄りな)動揺や、(思考停止といった)静止という二つの外見が、明らかに、生じない」。

 「(妄りな)動揺や、(思考停止といった)静止という二つの外見が、明らかに、生じない」事は、「心と身の行いを整える」事なのである。

 もし、聡明さや、解釈の博識さによって、仏道に入門してしまうべきであれば、神秀 上座が、「その人」、「祖師」、「第三十三祖」に成ってしまっていたであろう!

 もし、仏道は、「庸体」、「凡庸(ぼんよう)な外見」や卑賤(な地位)を嫌うべきであれば、「曹渓高祖」、「大鑑禅師」、「第三十三祖の慧能」は、()えて、仏道に入門しなかったであろう!

 仏道を伝えてもらって会得する法は、聡明さや解釈の博識さの外に存在するのである。

 その(、「仏道を伝えてもらって会得する法は、聡明さや解釈の博識さの外に存在する」)事は、この、第三十三祖の慧能によって、明らかなのである。

 探求し尋ねるべきであるし、顧みて参入するべきである。

 また、老いを嫌うなかれ。

 また、幼さや、壮年(による性欲などの盛んさ)を嫌うなかれ。

 趙州真際大師は、六十歳余り(、六十一歳)で、初めて、禅に参入したのである。

 (趙州真際大師は、)それでも、「祖席」、「祖師達の道場」における英雄に成ったのである。

 (女性の)鄭娘は、十二歳から、長い間、仏法を学んだ。

 (鄭娘は、)「叢林」、「禅寺」でも「抜萃」、「抜群」の者に成ったのである。

 仏法の修行の威力は、禅に参入しているか、否か、で見えるし、禅に参入しているか、否か、で分かる。

 あるいは、「教家」、「禅宗以外」で長い間、習っている者も、あるいは、(仏教以外の)世俗の経典を古くから学んでいる者も、皆、「禅門」、「禅宗」を訪ねるべきなのである。

 そのようにした人達の前例は、多いのである。

 南嶽慧思は、多才な人であった。

 (南嶽慧思は、)それでもなお、達磨による禅宗に参入した。

 永嘉玄覚は、秀逸な「士」、「一人前の者」であった。

 (永嘉玄覚は、)大鑑禅師とも呼ばれる第三十三祖の慧能の所に参った。

 仏法を明らめ、仏道を会得できたのは、正しい師の所に参る事ができた力による物なのである。

 ただし、「宗師」、「優れた正しい師」の所に参って質問している時、師が説いてくれた教えを聞いて、「己見」、「自説」と同化しようとするなかれ。

 もし、自説と同化しようとしてしまえば、師の法を会得できないであろう。

 正しい師の所へ参って仏法を聞く時は、心身を清浄にしなさい。

 眼や耳を静めなさい。

 ただ、師の法を聴いて受け入れて、更に他の思考を混ぜるなかれ。

 心身を統一して、「水瀉器する」、「一器水瀉一器する」、「師という、ある器から、自身という別の器へ、水を注いで完全に移す」ようにしなさい。

 もし、これらのように、できれば、まさに、師の法を会得できるであろう。

 今の「愚魯な」、「愚鈍な」(やから)どもは、あるいは、記憶している書物の説や、あるいは、今まで聞いて蓄えた説に、師が説いてくれた説を同化しようとしてしまう。

 このようにしてしまった時、ただ、自説や、「古語」、「古代の先人の言葉」だけが念頭に有って、師が説いてくれた言葉に未だ(かな)っていないのである。

 あるいは、ある(たぐい)の者どもがいる。

 自説を最優先してしまって、経を開いて見て、一言、二言を記憶して、(誤って)「仏法である」と見なしてしまう。

 後に、「明師」、「明らめている師」や「宗匠」、「優れている師」の所へ参って仏法を聞いた時に、自説と同じ場合にだけ、「正しい」と見なしてしまう。

 もし、「旧意」、「昔からの意見」に合わなければ、「誤っている」と見なしてしまう。

 邪悪(な思考)を捨てる方法を知らないのである。

 (これでは、)「正しさ」、「善」への帰り道を登れない!

 たとえ、「塵沙劫」、「長い時間」が()ってもなお、迷っている者であろう。

 とても、あわれむべきである。

 悲しむべきである!

 学に参入して「識」、「理解」するべきである。

 仏道は、思量分別や「卜度」、「推測」や「観想」、「想像と想像の観察」や知恵や学や「慧解」、「智慧による理解」の外に存在するのである。

 もし、(仏道が、)これらの中に存在してしまっているのであれば、(人は、)生まれて以来、常に、これらの中に存在していて、常に、これらを(もてあそ)んでいる。

 (仏道が、これらの中に存在してしまっているのであれば、人は、)なぜ、今に至るまで、仏道を悟っていないのであろうか?

 仏道を学んで修行する時には、思量分別などの物を(意識的に)用いるべきではない。

 常に、思量などを帯びて、自身を点検するのが、明らかに鑑定できる者なのである。

 その仏法へ入る門を、仏法を会得している「宗匠」、「優れている師」は、所有しているし、この仏法を究め尽くしている。

 文字を数えるだけの(霊感が無い)僧が及ぶ事ができる所ではない、だけなのである。


 「天福二年 甲午」、「千二百三十四年」の「清明」の日に、書いた。





 仏法を修行して迷いと輪廻転生を出て離れる事を心から求めている人は、禅に参入するべきである事。


 仏法、仏道は、(他の)諸々の道よりも優れている。

 そのため、人は、この仏法を求めるのである。

 釈迦牟尼仏が存命時も、(仏教は、)全く、唯一無二の仏教なのである。

 (釈迦牟尼仏は、仏として、)全く、(仏教の)唯一無二の師なのである。

 釈迦牟尼仏は、ただ、「無上菩提」、「無上正覚」だけで、「衆生」、「生者達」を(善へ)誘引しかしなかった。

 (初祖の)迦葉が「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」を伝えて以来、西のインドの二十八人の祖師達や、中国の六人の祖師達や、「五家」、「臨済宗、曹洞宗、潙仰宗、雲門宗、法眼宗」の諸々の祖師達は、正統に、伝承していったし、(さら)に、断絶する事は無かった。

 そのため、梁の「普通」、「五百二十年から五百二十七年まで」の間、以後、僧から王や役人に至るまで、抜群の者達は、仏法に帰依した。

 実に、(本当に)優れている事を、愛するべきである根拠とする者達は、(仏法という、本当に)優れているものを愛するべきなのである。

 (「新序」の「雑事」の第五巻目で、)葉公が(彫刻などの偽の)竜を愛したように、偽物を愛するべきではない!

 中国以東の諸国は、文字で、「教綱」、「仏教の要綱」を、海まで(の全土に)公布して、山にまで普遍に行き渡らせている。

 (国家が仏教を)山にまで普遍に行き渡らせていても、「雲心」、「雲のように執着していない清浄な心」は無いのである。

 (国家が仏教を)海まで(の全土に)公布していても、枯らしてしまったかのように、「波心」、「水面」、「悟りの象徴である月を映す水面のような心」は無いのである。

 愚者は、この仏法を(たしな)むが。

 (愚者は、)例えば、魚の目を取って、「宝珠」、「宝玉」として執着してしまうようなものなのである。

 迷っている者は、この仏法を(もてあそ)んでしまう。

 (迷っている者は、)例えば、「燕石」、「宝石に見えるが無価値な燕山の石」を手に入れて、宝玉として崇拝してしまうようなものなのである。

 多数の者が、「魔」、「仏敵」の穴に堕ちてしまって、しばしば、自身を損なってしまう。

 あわれむべきである。

 (中国以東という)辺鄙(へんぴ)な辺境では、邪悪な風習が大衆を扇動しやすく、正しい仏法は流通し難い。

 けれども、中国、一国は、既に、釈迦牟尼仏の正しい仏法に帰依している。

 我が国、日本や、高麗国などは、釈迦牟尼仏の正しい仏法は未だ「弘通して」、「広く流通して」いない。

 どうして、だろう?

 どうして、だろう?

 高麗国ですらなお、「正法」という名称を聞く事ができる。

 我が国、日本では、未だかつて、(「正法」という名称を)聞く事ができ得ない。

 以前から中国に入国していた諸々の師は、皆、「教綱」、「仏教の要綱」で停滞していたからである。

 仏法の書物を伝えても、仏法を忘れてしまっているようなものなのである。

 仏法の書物を伝えた事による利益は、どのような物であろうか?

 仏法の書物を伝えた功績は、最終的には、(むな)しいのである。

 それは、仏道を学んで修行する「故実」、「前例」を知らないからなのである。

 あわれむべきである。

 徒労してしまって、一生しかない人の身体を受けている時間をむなしく過ごしてしまう。

 仏道を学んで、初心者、入門者である時は、善知識を持つ人々の教えを聞いて、教えの通りに修行するのである。

 この時、知るべき事が有る。

 いわゆる、仏法が私を転じるのである。

 私も仏法を転じるのである。

 私が仏法をよく転じている時は、私は強く、仏法は弱いのである。

 仏法が、かえって逆に私を転じている時は、私は弱く、仏法は強いのである。

 仏法には、従来から、このような両方の「時節」、「機会」が有るのである。

 仏法を正統に()いだ者でなければ、未だかつて、この事を知らないのである。

 僧でなければ、(仏法の)名称すらなお、聞く事は(まれ)なのである。

 この仏法の「故実」、「前例」を知らない者は、仏道を学んで修行する事を未だ、わきまえていないのである。

 正義や邪悪も分別できていないのである!

 今、禅に参入して仏道を学んで修行している人は、自然と、この仏法の「故実」、「前例」を伝授してもらえるであろう。

 そのため、誤る事は無いであろう。

 「他の門」、「禅宗以外」には、無いのである。

 仏道を心から求めている人は、禅に参入しなければ、真の仏道を「了知する」、「明らかに知る」、「会得する」事はできないのである。





 禅僧の「行履」、「日常の所作」の事について。


 仏祖が、「直指して」、「直接的に指し示して」、「単伝して」、「単一に伝えて」以来、西のインドの二十八人の祖師達と、東の地の中国の六人の祖師達は、(仏法に、)わずかも、(邪悪な自説を)つけ加えなかった。

 (仏法を)(ちり)、一つも破らなかった。

 釈迦牟尼仏の衣(と仏法)が曹渓山の第三十三祖の慧能にまで及んで、仏法は「沙界」、「ガンジス川の砂のように無数の世界」に普遍に行き渡った。

 その時、釈迦牟尼仏の「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」は、巨大な中国で盛んに成った。

 その仏法の様子を、模索する事はでき得ない(と言える)。

 求めても得る事はでき得ない(と言える)。

 「見処で」、「見ると」、(古い)知識を忘れる。

 会得した時は、心を超越していく。

 黄梅の第三十二祖の弘忍の所で、(古い)「面目」、「様子」を()くす。

 少室峰の少林寺の第二十八祖の達磨の所で、第二十九祖の慧可は、「断臂得髄」して、心を(ひるがえ)して、仏教の風流に応じて、(仏法は厳密には言葉で表せないので、無言で)第二十八祖の達磨を三回、礼拝した後、自分の位置、居場所に後退して戻る、という便宜的な方法に堕ちてしまった(ように見えるが)。

 けれども、しかし、心でも、身でも、何ものかに依存せず、執着せず、留まらず、停滞しなかったのである。


 ある僧が、趙州真際大師に、次のように、質問した。

「犬には、かえって逆に、『仏性』、『仏に成れる性質』は有るのか? 否か?」


 趙州真際大師は、次のように、話した。

「(犬は仏ではないので、犬には、『仏性』、『仏の性質』は、)無い」


 「無」という文字の上に、(無を)推測して、(「無」、「空」を)会得したのか?

 「擁滞して」、「停滞してしまって」、会得したのか?

 「巴鼻」、「とらえ所」が全く無いのである。

 請い願わくば、試しに、「手を撒して」、「懸崖に手を撒して」、「大胆に(おこな)って」みなさい。

 一時、「手を撒して」、「懸崖に手を撒して」、「大胆に(おこな)って」みなさい。

 心身とは、どのような物であろうか?

 「行李」、「日常の所作」とは、どのような物であろうか?

 生死とは、どのような物であろうか?

 仏法とは、どのような物であろうか?

 世俗の法とは、どのような物であろうか?

 「山河大地」、「大地や河や山」や人や家畜や家屋とは、結局、どのような物であろうか?

 見て来て、見て去りなさい。

 自然と、「(妄りな)動揺や、(思考停止といった)静止という二つの外見が、明らかに、生じない」であろう。

 この、「(妄りな)動揺や、(思考停止といった)静止という二つの外見が、明らかに、生じない」時、頑固である訳ではないのである。

 (今の)人々は、これを証する事が無いのである。

 これに迷う者が、多数なのである。

 学に参入している人は、しばらくして、途中で、会得し始めるのである。

 道を(まっと)うするまで辞めるなかれ。

 祈祷しよう。

 祈祷しよう。





 「向道して」、「真理に向かって」、修行するべきである事。


 仏道を学んで修行している「丈夫」、「一人前の者」は、まず、「向道する」、「真理に向かう」ための正誤を知るべきである。

 釈迦牟尼仏は、菩提樹の下で坐禅して、明星(、金星)を見て、(たちま)ち、急に、無上の(仏)乗、無上の仏道を悟った。

 その、釈迦牟尼仏が悟った仏道に、声聞や「縁覚」、「独覚」などの段階の者が及ぶ事はできないのである。

 釈迦牟尼仏は、自然と、よく悟って、(悟りを)釈迦牟尼仏から仏(祖)へ伝えていって、今に至るまで断絶していないのである。

 その、釈迦牟尼仏の悟りを会得した者達は、仏なのである!

 いわゆる、真理に向かっている者は、仏道の境界を了解しているのである。

 仏道の様子を明らめているのである。

 仏道は、人々の足の「かかと」の下に存在するのである。

 仏道に支えられて、今、明らかに了解しているのである。

 悟りに支えられて、修行者、当人は、「円成する」、「円満に成就する」のである。

 このため、たとえ、十分な会得を挙げてみてもなお、一つの悟りや、半端な悟りを落としてしまっているのであろうか?

 このようであるのが、「向道している」、「真理に向かっている」、風流なのである。

 今の、仏道を学んで修行している人は、仏道の通じる事と塞がる事を未だ、わきまえていないのである。

 (今の人々は、)強引に、実際に見る体験が有る事を好んでしまうのである。

 (そのため、)誰もが、誤ってしまうのである!

 (「法華経」の例え話のように、仏という)父を捨てて逃げてしまって、(悟りという)宝を捨てて、(他国を)踏み従ってしまうのである。

 (「法華経」の例え話のように、)「長者」、「お金持ち」の一人息子であっても、長い間、「客作」、「被雇用者」である卑賤な人と成ってしまうのである。

 実に、理由が有るのである。

 仏道を学んで修行している者は、真理に支えられる事を求めるのである。

 真理に支えられている者は、悟りの跡を忘れるのである。

 仏道を修行している者は、まず、仏道を信じるべきである。

 仏道を信じている者は、「自身は、(もと)から、真理の中に存在していて、迷わず惑わず、妄想せず、転倒せず、増減せず、誤りが無い」と信じるべきである。

 このような確信を(心に)生じて、このような仏道を明らめて、仏道を修行しなさい。

 これが、仏道を学んで修行する根本、基礎なのである。

 その、仏道の風規は、(悪い)「意根」、「意識」を「坐断して」、「(くじ)いて断って」、知恵や理解という手段に向かわせないのである。

 これが、初心者を誘引するための「方便」、「便宜的な方法」なのである。

 その後、(古い)心身を脱ぎ落として、迷いや悟りを放して下ろす事が、第二の様子なのである。

 大体、「自身は仏道に存在している」と信じている人は、最も得難いのである。

 もし、「真理に存在している」と正しく信じれば、自然と、大いなる真理の通じる事と塞がる事を了解して、迷いや悟りの「職由」、「原因」を知るのである。

 人が、試しに、(悪い)「意根」、「意識」を「坐断すれば」、「(くじ)いて断てば」、十中八九、(たちま)ち、「見道する」、「真理を明らかに理解する」事ができ得るのである。





 「直下、承当」、「直接的に、受け取る」事について。


 心身を「決択すれば」、「正しく決断して選択すれば」、二つの事が有るのである。

 「参師聞法」、「正しい師の所に参って仏法を聞く事」と、「功夫」、「鍛錬」して「坐断する事」、「悪を(くじ)いて断つ事」である。

 「仏法を聞く」とは、「心識」、「心の理解」に遊んで戯れる事なのである。(精魂を弄する事なのである。)

 坐禅とは、修行と証を左右する事なのである。

 ここで、仏道に入門したら、(仏法のうちの)一部分でも捨ててしまって受け取るべきではないのである。

 人には、皆、心身が有る。

 (人の思考と言動の結果である心身という)作品には、必ず、強弱が有る。

 勇猛さと、愚昧さと劣悪さである。

 または、(自発的に)動いたり、または、受容したりして、この心身で、直接的に、仏を証するのである。

 これが、(仏を)「承当する」、「受け取る」事なのである。

 いわゆる、従来の心身を半回転したりしないのである。

 ただ、他のものである(と言える)証に従って去る事を、「直下」、「直接的」と名づけるのであるし、「承当」、「受け取る事」と名づけるのである。

 ただ、他のものに従って去るのである。

 そのため、「旧見」、「古い邪悪な見解」ではないのである。

 ただ、(仏法を)「承当して」、「受け取って」去るのである。

 このため、「新巣」、「新しい巣」、「新たな迷いという巣窟」ではないのである。

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