7.いいな、この雰囲気
マンションの駐車場に止めた車に乗り込んだ凌は、眼鏡をはずし前髪を掻きあげた。
「最低だな、あの男」
自分勝手にも程があると溜息をつきながら車のエンジンをかけた凌は実家へ。
「おかえりなさいませ。凌様」
有名な高級住宅街の一区画にある実家へ戻った凌は、当然のように自分の部屋に向かった。
平日の夜は残業後にここまで帰ってくるのが面倒で、会社に近いマンションで寝泊まりしている。
だから、あの部屋を彩葉に貸し出したところで何も困らないが、きっと今頃気にしているのだろう。
『実家についたよ。おやすみ。また明日』
メッセージを送るとすぐに既読になる。
『おやすみなさい。今日はありがとう』
こんなやり取りだけでうれしくなる。
明日も会えると思うと浮かれる気持ちを隠せない。
「凌様、今よろしいでしょうか?」
「あぁ」
ノックの音と共に入ってきたのは眼鏡にスーツのいかにも真面目そうな秘書、益富だった。
「本日、営業部の荒巻流星に内々示をしました」
手渡された書類の会社は、鹿児島の小さな取引先。
あのBBQのあとすぐに流星の出向先を探してもらったがなかなか受け入れ先がなく、ようやく見つかったのがこの会社。
荒巻流星は来月からこの会社に出向だと、今日本人にだけこっそり伝えられた。
任期は一年間。上の意向のため拒否権はないと部長が伝えたと益富は淡々と報告した。
「……なるほど。鹿児島に転勤が決まったから、彩葉のところに復縁を迫りに来たのか」
やはり最低な男だと呟きながら書類を返すと、益富はお辞儀をして去っていく。
「そろそろ付き合おうと言ってもいいのだろうか……?」
だが、NOと言われたら立ち直れない。
商談は強気で即決できるのに、システム製作も即時対応できるのに、恋愛だけは上手くいかないなと凌はベッドに転がりながら大きく息を吐いた。
◇
朝、食材とにらめっこしながら彩葉は悩んでいた。
昨日、自分のマンションから野菜や卵を持ってきたまではよかったけれど、この部屋には調理器具どころか包丁さえ見当たらないのだ。
凌はいったいどうやって生活していたのか。
『おはよう。朝食を買って来たけれど、入ってもいい?』
凌のマンションなのに、入るのを遠慮しているなんておかしいでしょ。
思わず笑いながら彩葉は『どうぞ』と返信した。
玄関が開く音がし、足音が聞こえてくる。
「おはよう、彩葉」
目が合ったかどうかもわからない状態の黒縁眼鏡に長い前髪の凌は、彩葉に「眠れた?」と尋ねた。
「うん。ありがと。ごめんね、実家は急に行っても大丈夫だった?」
「実家はすぐそこなんだけれど、一人暮らししたいってわがままを言ってここに住んでいるから」
気にしないでと答えながら凌はテーブルの上に買って来た朝食を並べてくれた。
「えっ? この店って朝から大行列のベーグル屋!」
「苦手だった?」
「ううん、大好き。ありがとう」
サーモンチーズ、炭火焼チキン、エビとアボカドなんて、どれにするか選べない!
スープもついていてうれしい!
「どうして3個?」
「俺が2個食べるから」
変かなと聞かれた彩葉は少しだけ凌の食欲に驚いたが、全力で首を横に振った。
「好きなの選んで」
「サーモンチーズが食べたいけれど、チキンも捨てがたい」
「じゃ、半分ずつにしよう」
朝食を食べながら鍋や包丁がほしいと話すと、買いに行こうという展開に。
わざわざ買うのはもったいないので彩葉のマンションから持って来ることを提案したが、デートしようと押し切られてしまった。
鍋や包丁は凌の専門外なので彩葉が選んだが、お金は凌が出してくれた。
雑貨屋、服、本屋。
特にお目当ての商品はなかったが、二人で回るのはとても楽しい。
今まで流星は買い物は面倒だと付き合ってくれなかったから、二人で選ぶというのは新鮮だ。
お昼ご飯も食べ、映画も見て、飼えないのにペットショップでかわいい小犬を見て。
彩葉は普通に凌とのデートを楽しんでしまった。
「夕飯どうする?」
「もしよければ作る……?」
鍋も買ったしと彩葉が答えると、凌は嬉しそうに笑った。
「肉じゃがって作れたりする?」
「普通でいい?」
「普通じゃないのってどんなの?」
たしかに。普通じゃない肉じゃがってなんだろう?
自分で聞いておきながら変だったことに気づいた彩葉が笑うと、凌も笑ってくれる。
いいな、この雰囲気。
凌と一緒なら、素の自分で居られる。
食材を買い、いつの間にか手を繋いで車へ。
夕飯を食べ終わった凌が、この日実家に帰ることはなかった。




