10.辞令
「……仕事を辞めるってこと……?」
「辞めなくていいよ」
大丈夫、何とかするからと凌は彩葉の背中をポンポンしながら話してくれる。
「でも、部署の異動はあるかもしれない」
「……私、今の仕事しかしたことなくて」
営業も自信がないし、経理や人事の管理部門もよくわからない。
開発部なんて絶対に無理だ。
「大丈夫。彩葉ならできるよ。資料をきれいにまとめられるし、相手のことを思いやってくれるし、たぶん今よりも向いているから」
どんな仕事かわからないけれど、仕事が続けられるなら。
凌が大丈夫だというなら信じてみたい。
「結婚してくれる? 彩葉」
真っすぐな目で見つめてくれる凌に彩葉は泣き顔のまま微笑む。
「はい」
凌とは知り合って間もないけれど、誰よりも誠実で頼りになる人。
つらいとき、困ったときに、いつでも側にいて助けてくれた人。
「私も好きです」
彩葉が初めて自分の気持ちを口に出すと、凌は嬉しそうに微笑み、息もできないほどの熱い口づけをしてくれた。
◇
そこからはあっという間だった。
応接室から駐車場に移動するときには守衛さん以外会うことはなく、凌のマンションに戻るのかと思ったら向かった先は宝石店。
なぜかサイズがぴったりな豪華すぎる婚約指輪を店で受け取り、予約が取れないことで有名なカリスマ美容師にヘアカットをしてもらい、メイクまで。
入ったこともない高級ブティックでサイズがぴったりなスーツに着替え、ブランドのビジネス鞄にタブレット端末?
凌も普段のラフな服からスーツに着替えたのはなぜ?
「行こうか」
「ど、どこに?」
「会社」
黒縁眼鏡をはずし、長い前髪をかき上げた凌はまるで別人。
いつもの優しい雰囲気ではなく、まるで黒豹だ。
「凌様、こちら調査結果です」
凌様!?
この真面目そうな眼鏡にスーツの男性は誰?
「……そういうことか」
目を通した凌は、彩葉に調査書を手渡す。
「え? 流星の彼女が写真を?」
写真に保存された位置情報や端末情報からスマホの持ち主を特定したという調査結果に彩葉は目を見開いた。
こんなのどうやって調べるの?
個人情報でしょ!?
「こちらが辞令です」
眼鏡の男性から手渡されたのは、入社のあと1度だけもらったことがあるうちの会社の辞令だった。
『辞令 平野彩葉殿 本日を以て、専務 西九条凌の秘書に任命します』
専務?
西九条? あれ? 九条? 西九条?
秘書? 誰が?
彩葉の頭ではうまく理解できない。
「彩葉、彼は秘書の益富。彩葉の上司になる」
「益富誠一郎です。よろしくお願いします」
見た目もそうだが、名前も真面目そうな人だ。
「よろしくお願いします。秘書の業務はまったく知識がなく……」
「少しずつ覚えていけば大丈夫です。凌様がお選びになった方なら問題ないでしょう」
益富にニッコリ微笑まれた彩葉の背中に冷や汗が垂れる。
これは必死で勉強しないとマズいかもしれない。
早速お辞儀の角度から指導を受け、いきなり社長へご挨拶しに行くことになってしまった。
「お気づきだと思いますが、社長は凌様のお父様です」
ですよね~。姓が西九条の時点でそうだろうなと思っていました。
「凌様がシステム開発部で働いていることを知っているのは、部長以上とわずかな関係者のみです」
益富が運転する車に乗り込み、彩葉と凌は後部座席へ。
「どうして姓を九条に?」
「わざと変えて、一般社員のフリをして働いていたんだ」
専務は「西九条凌」、システム開発部のエンジニアは「九条凌」それだけで、誰も気づかなかったと凌は笑った。
もちろん黒縁眼鏡に前髪を下ろして、可能な限り顔を見せないようしていたのだと教えてくれる。
「一緒に働いた方が会社を理解しやすいから」
あぁ、見た目は黒豹みたいだけれど、やっぱり凌だ。当然だけれど。
彩葉は急に別人のような見た目になってしまった凌に少し驚いてしまったが、いつもの真面目な凌の言葉にホッとしてしまった。




