66話
授業終わりの空き教室。
窓から風が吹き込み、昼間の暑さが少しずつ和らぎ始めている。
この場にいるのはディートハルトとルイスに、勿論私。
そして、特別講師としてやって来たカレステンだ。
「ほう、ほほーう……噂には聞いていたが、なるほど……これが、竜人種……!」
「……鼻を拭ったらいかがかしら、ヘア・ティーリマン」
ハンカチを差し出すと、鼻血を出していた彼がペロリと人中付近を舐める。
鉄の味が口内に広がったのだろう。不思議そうに目を瞬いた。
「これは失敬、少し興奮しすぎたようだ!」
「みたいですね」
ハンカチを受け取り、遠慮なく鼻腔に押し込むカレステン。
隣でディートハルトが頭を抱えている。
が、彼を私たちの常識で考えてはいけない。あれはくれてやろう。
鼻息がかかるほど、顔を近付けられていたルイスの表情は固い。
助けを求めるような視線がこちらを向いた。
が、ディートハルトは無慈悲だ。
ルイスには目もくれず、カレステンに訊ねる。
「何かわかったか?」
鼻に刺したハンカチを飛ばす勢いで、彼はレンズの奥を輝かした。
「勿論だともっ! 彼の肌にある鱗は完全に皮膚と一体化し、これは皮膚の表面が鱗化しているのではなく皮膚細胞の中に鱗になるものと皮膚になるものが混在していて、成長するに従いそれぞれの特徴が表面化しているようだ! 詳しく調べるには専用の機器と新しい魔術を開発しなければならないが、これは研究が捗る! すぐにでも研究所に連れ帰りたいくらいだ!」
口角から泡を飛ばし、力説するカレステン。
唾が飛んできたであろうディートハルトが、露骨に顔を顰めた。
「それは僥倖……だが……近いっ!!!」
「あっはっは! 堪忍してくれ、うら若き紳士諸君! 僕は今人見知りを忘れるほど興奮している!」
「そのようね」
鼻に刺した白いハンカチが半分ほど赤く染まっている。
心配になってくるレベルだ。頼むから倒れないでほしい。
本日、私たちは彼にこう頼んだ。ルイスを調べて欲しい、と。
私たちの目的を明確には伝えなかった。
ただ友人の助けになりたいという子供らしい名目で。
しかし、理由なんて彼にはどうでも良かったようだ。
研究に協力的なシュタルクが現れた。
それだけで、彼は秘密裏の研究に二つ返事で飛びついてきた。
「研究所内にシュタルクを入れたくないのなら、研究所外で調べさせればいい」
ディートハルトの言葉は尤もだ。
しかし、これだって私に負けず劣らずの屁理屈じゃないか?
それにしても、カレステンの舌はよく回る。
ルイスの観察を始めて、十分も経っていないのにこれだ。
「真の魔術狂いを見たって感じね」
「同類が言うな」
ディートハルトが呆れたように言うが、この人と一緒にされるのは流石に心外だ。
眉根を寄せつつ、私は再び饒舌な魔術師に向き直る。
未だ言葉数の衰えないカレステン。彼の話をまとめるとこうだった。
現状わかったのは、やはり彼の生態はヘビやトカゲをはじめとした爬虫類に近いということ。
また、骨格はクルークに近いが、クルークにはない筋肉層が確認できたそうだ。
「手足にあるこの骨格筋は、やはり爬虫類と同類のものだ。クルークも胎児の頃にはあったりするんだが、殆んどの場合生まれる前に消失する」
「待て。胎児と言ったか?」
ギョッとした顔のディートハルト。それもその筈。
この国においての医療は、私がいた現代ほど発展はしていない。
そんな中で、胎児の筋組織まで確認する方法を彼は知っているのか……?
驚きに包まれる中、カレステンは「ああ、そうだとも」と興奮気味に目を細める。
「エグモンド大先生と共に発明した魔術のお陰でね。胎内を満たす羊水に働きかけ、胎児の様子を観察することが可能になったんだ」
えぐっ……!
というか、そうか。彼は水の魔術刻印を持っていたんだっけ。
珍しい属性をお持ちで、と言えば、彼は「お陰様で!」と嬉しそうに頬を染めた。
あまり興奮しないでほしい。また血が吹き出すから。
カレステンの話を聞き、ディートハルトが少し眉根を寄せる。
それで、と先を促す声はどこか固い。
「他に何か気になることは?」
そうだねえ、と目を輝かせたカレステンは、再びだらだらと語り始める。
が、その殆んどは『これから詳しく調べてみたい』といった方面での『気になること』だった。
しかし、最後になって、彼は「ああ、それから」と付け足すように言う。
「彼の心音が異様に遅いのは、種によるものか、彼個人のものか。そこもきちんと調べてみたいね」
とんでもない爆弾を落とされた私たち。揃って間抜けな声を出してしまった。
「は?」
「今、なんて……?」
鳶色が不思議そうに瞬く。
「うん? 聞こえなかったかな? よろしい、ならばもう一度告げよう! 彼の心臓は……」
「拍が遅いって、どういうこと!?」
思わず、彼の話を遮ってしまった。噛み付くような私の声色に、カレステンが瞠目する。
こんな取り乱した姿を彼に見せるのは初めてだ。さぞかし驚いているのだろう。
だが、そんな立ち居振る舞いに気が回らないほど、私は動揺していた。
「……ものすごい剣幕だね、フラウ・フォーゲル。言葉通りだよ」
ずり落ちた丸眼鏡を押し上げながら、カレステンは語る。
「生物が一生の間に打つ心拍の数は、おおよそ決まっているんだ。寿命の短い小動物は、心拍が早い」
彼の手が、小さな拍を叩く。
焦りを煽るような速度で叩かれる手のひらに、心臓がつられるように早くなる。
一方、と今度はたっぷりと間を開けて、手のひらが打たれる。
「寿命の長い生物は拍が遅い。心臓の負担が少なく、代謝もゆっくりだからだ」
授業時のような落ち着いたカレステンの声色。しかし、私の心臓は依然として落ち着かない。
眉根を寄せ、焦る気持ちのまま「ですが」と行儀悪く口を挟む。
「心拍が遅い理由には、心臓の弱まりも可能性として上がりますよね?」
「その通り。医学的には、むしろそちらの方が可能性として高い」
パッと彼の両手が動きを止める。その仕草が逐一煩く、癇に障った。
私の言葉をあっさりと肯定するカレステンに、ディートハルトも険しい表情を浮かべる。
脱水だけじゃない。心臓にも問題があったというのだろうか。
そんな心配や不安が脳裏をよぎった時、あの、と控えめな声が教室内に響いた。
その場にいた全員の視線を受け止め、ルイスは言った。
「おそらくですが、それは種族的なものだと思います」
母もそうでしたので、と僅かに視線を落とすルイス。
手折られた花のように傾ぐ彼の首は、あまりに痛々しく————儚げであった。




