60話
日当たりの良い空き教室。
本当は、エルフリーデの好む温室で、と思ったのだが……
「あんな鼻が痒くなるようなところは御免だ」
と、ディートハルトが嫌がった。なんて仲の悪い婚約者同士なんだ。
呆れてため息が出てしまったのは、大目に見て欲しい。
そんなわけで、今、教室内にいるのは私とディートハルト。
それから、エルフリーデと彼女の従者カーヤ。
そして、当然——ルイスもいる。
半分ほど伏せられた目は、チラチラと忙しなく動き、主人たちの動向を伺っている。
そんな彼の落ち着きのなさを、同業者のカーヤは煩わしげに睨んだ。
「ルイス……本当に、いいのね?」
確認するように問いかけると、彼はパッと顔を上げる。
こちらを向いたルイスの顔には、僅かに怯えの色があった。しかし、
「先日、お答えした通りです。……アメリア様が望むなら、俺は、何でもして差し上げたいと、思います」
勿論ディートハルト様の許す限りで、と自信無さげに付け足された言葉に、思わず笑ってしまう。
ふんっと、誰かの鼻を鳴らす音が聞こえた。
ディートハルトとの盟約が結ばれた後、改めて、私はルイスを訪ねた。
主人の前では話し難かろう、と場所変えを提案した私に、彼は言った。
「先日のお話、改めて受けさせていただけませんか」と。
彼に一体どんな心境の変化があったのか、私にはわからない。
ディートハルトから何か口添えがあったのかとも思ったが、どうやらそうでもないらしい。
困惑する私に、ディートハルトが他人事のように「黙って受け入れてやれ」と言った。
勿論、私にとっては良過ぎるくらいに、都合の良い話だ。
だからこそ、本当に、そこにルイスの意思があるのか、不安だった。
しかし、
「わかったわ。……ありがとう。貴方の協力を、私は必ず無駄にはしないわ」
これ以上の遠慮は、彼の選択を軽んじる行為だと気付いた。
ルイスがそう言ってくれたことを、今はただ素直に喜ぼう。
では、と改めて、私はディートハルトとエルフリーデに向き直る。
ピリついた空気を纏う二人が、一斉にこちらを見た。
「早速だけど、二人にお願いがあるの」
こうして始まった作戦会議は、驚くほどすんなり進行した。
「それにしても、お前が協力するとは意外だな」
話に一区切りがついた時、ディートハルトはエルフリーデを睨んでそう言った。
婚約者のじとりとした視線を受け、エルフリーデは静かに微笑む。
「取引したのよ。どうしても、彼女の助けが必要だったから」
答える気がないであろうエルフリーデの代わりに、私が答える。
彼女の秘密を、ディートハルトが知っているかはわからない。
である以上、あまり詳細は口にできないが、下手な嘘も通じないだろう。
ディートハルトは意外そうな目で、私とエルフリーデを見比べた。
「……フン。女狐に上手く取り入ったか。少しは処世術がついたようだな」
「ええ。貴方よりも上手な交渉だったわよ。やっぱり吠えるだけのつまらない犬は駄目ね」
ディートハルトとエルフリーデの煽り合いが始まる。
褒められているはずなのに、何だか居心地が悪い。人を口実に喧嘩を始めるな。
ふう、と肩を落とすと、ルイスが一人もじもじとしていた。
俯きがちな背を、私は軽い力で叩く。
「しゃんとなさい」
「ひゃいっ!」
今にも飛び上がりそうな声に、なんだか申し訳なさを覚える。
ごめんなさい、と思わず謝罪を口にすれば、今度は角が折れそうなくらい首を横にふる。
「いえ! あの、俺の方こそ!」
騒々しい従者の姿に、一同の視線が集まる。ルイスはみるみる間に小さくなった。
真っ赤な頬で黙り込む彼に、私は「ねえ」と改まって声をかける。
「……何か、言いたげに見えたのだけど、気のせいかしら?」
「いえ、その……何だか、畏れ多くて……」
はて、と視線で続きを促せば、彼は消え入りそうな声で、溢すように語る。
「アメリア様もディートハルト様も、とても御志が高く……俺なんかが、その手伝いをして良いものかと」
勿論、お手伝いできることは光栄ですが、と慌てて付け加えるルイス。
しかし、言葉ほどの自信がないのだろう。すぐに口を閉ざし、困ったように俯いた。
確かに、主人から突然
「シュタルクたちのため、国を変える手伝いをしろ」
なんて言われたら戸惑うに決まっている。
ディートハルトは「ルイスの為だ」と、明言こそしなかった。
しかし、その言葉に、最も身近なシュタルクであるルイスが何も感じないはずない。
床を見るルイスに、私はなんと声をかけるべきだろうか。
言葉を探していると、精悍な声が「自惚れるな!」と一喝する。
この部屋でそんな声を出すのは、たった一人だ。
「ディートハルト様……」
「お前に務まらぬ仕事なら、端からお前には頼まん! お前が期待に応えられなければ、それはお前に頼んだ俺とフォーゲルの目が腐っていた——ただそれだけだ」
そうなるのが嫌なのでは、と思ったが、口を噤んだ。
代わりに、
「しれっと私を混ぜたわね」
「言い出しっぺはお前だろう。俺は乗っただけだ」
不敵な笑みでこちらを一瞥するディートハルト。しかし、その空色はすぐにルイスを見つめる。
ピッと彼の背筋が伸びる。尻尾の先まで緊張が走り、彼は神妙な面持ちで主人の言葉を待った。
「ルイス。本当にお前が役に立たぬと思うなら、今すぐこの部屋を出ていけ。見込み違いだった」
思わぬ言葉に、非難の声をあげそうになる。勝手に計画を変えるな、と。
しかし、ルイスの顔を見て、私はぐっと言葉を堪えた。
大きく見開かれた黄金の目が、恐ろしい程の怒りを携えていたからだ。
「いえ、残ります」
ハッキリと、珍しいくらい強い口調で、ルイスは断った。
「アメリア様の選択が間違いでなかったと、俺が証明します」
え、そこ?
思わず目を瞬く私に、エルフリーデがくすりと笑い声を落とす。
「残念だったわね、ディディ。貴方の飼い犬は、主人よりも野良犬の方が大事みたいよ」
「その呼び方は止めろ」
じろりと婚約者を睨み、そのまま視線をルイスに戻す。私のことは一瞥もしなかった。
忌々しいとでも言いたげに、ディートハルトは鼻を鳴らす。
「なら、話したとおりだ。お前はただ、俺たちについてくればいい」
わかったな、と問いかける声に、ルイスは今度こそ決意を固めたらしい。
はい、と恭しく頭を下げた。
話を終え、解散した私たち。
ふう、とため息を吐くと、カーヤの施錠を横目に見ていたエルフリーデが話しかけてきた。
「不満げね」
「……そう見えるのね」
不満なんてない。ようやく動き出した計画に、喜びすらある。
だと言うのに、目の前の蜂蜜色は見抜くように「嘘ね」と言った。口の中で苦い何かが広がる。
「男のプライドに、女が口を挟むものではないわ」
ガチャン、と重々しい施錠の音が響く。
カーヤが鍵を管理室に戻しに行くと告げ、エルフリーデは短く了承した。
「それでは、御機嫌よう」
ミルクティー色の髪がふわりと靡き、エルフリーデとすれ違う。
香水の匂いに後ろ髪を引かれ、去り行く彼女の背を振り返った。
何を言うでもなく、その背を見つめ——姿が見えなくなってから、静かに息を吐いた。
私がルイスのために覚悟を決めたよう、ルイスもまた、私のために覚悟を決めた。
ただそれだけの話だ。だと言うのに、どうしてだろうか。
やけに心臓がざわざわと騒つく。
私が彼のために動くことに抵抗はないのに、彼が私のためにというのには不安が募る。
エルフリーデは「それがルイスのプライドだ」と言うけれど、本当にそうだろうか。
私からの期待に応えなくてはならないと、強迫観念があったのではないだろうか。
繰り返される、答えの出ない自問自答。
するだけ無駄だとわかっていても、私は問いかけ続けてしまう。
静かに頭を振り、雑念を追い払う。
今はやめよう。せっかく全てがうまく運び始めたのだ。
誰もいなくなった教室棟で、私は一人、足を踏み出した。
回り始めた歯車は、もう止まらない——……




