3話−3
パァン、と風船が割れるような音が、子爵邸の中庭で響く。
それは、私がギルベルトの頬に平手を食らわした音だった。
「こんのっ……大バカ野郎!!! 何考えてんの!? 何が大丈夫!? どこが大丈夫!? いい加減にしなさいよ、このバカっ!!!」
息を吸い込み、敷地内中に響き渡るような大声で私はそう叫んだ。上手く声が出せず、僅かに咳き込むが気にしてなどいられない。
父さんが小さな悲鳴をあげたが、私の目にはギルベルトの幼い顔しか入らなかった。
先程とは違う、シンプルな驚きの色を顔全体に浮かべ、私を見上げるギルベルト。言葉を発せないくらい困惑した状態のまま、突然叩かれ怒鳴られた彼の驚きは想像に難くない。
しかし、そんなの知った事じゃない。
ギルベルトを慮っている余裕など、私にもないのだから。
「気を付けなさいって言ったでしょ! どれだけの高さだかわかってる!? 死んじゃうかとっ……!」
そう。死んでしまう高さだ。
口にしてしまったら、途端に怖くなった。今更這い上がってきた恐怖に背筋が震え、ぼろぼろと涙が溢れた。頬を滑り、滴る涙が服や地面を濡らす。
ギルベルトがつられるように肩を揺らした。
「ア、ミィ……?」
「っるさい、バカッ! 怪我じゃ、済まないんだから! バカッ! バカッ! 大バカ野郎!」
嗚咽に邪魔され、まともに話せなくなる。それでもバカだと罵ることは忘れず、私は力の入らない拳でギルベルトの腕や肩を殴り続ける。その小さな手が当たる度、真っ白だったギルベルトの顔は徐々に色を取り戻し、最後には真っ赤な顔でぼろぼろと、私と同じように涙と鼻水で顔を汚した。
「ご、めっ……ごめんなさい……っ! ごめんなさぃ……!」
うわぁ、と声を上げて泣き始めたギルベルト。初めて見せる子供らしい泣き姿に、私まで止まりかけた涙が再び顔を濡らす。わんわんと泣き続けるギルベルトを横に、私も一緒になって泣き出した。
もうギルベルトを叩く手は止まっていた。
地面に触れてからどれ程の時間が経っただろうか。ギルベルトより先に泣き終えた私は、ヒリヒリと痛む目元を擦り、ようやく自分たちを取り囲むなんとも言えない空気に気が付いた。
泣き続けるギルベルトはともかく、父さんの顔色は先程以上に悪く、エーリアスは驚きと若干の……怯え、かな……に近い様子も見えなくない。
もしかして、私やっちまったのでは。
父さんにつられるように血の気が引く私に対し、追い討ちをかけるような声が響いた。
「魔術刻印が現れたか」
「っ……父上!」
いつの間に来たのだろうか。
私たちのいる中庭に、決して駆け付けたのではないであろう優雅な足取りで一人の男が現れた。
エーリアスの言葉が指し示す通り、ギルベルトたちの父親——ヴァイツゼッカー子爵が立っていた。
ギギギ、と油の切れたブリキ人形のような動作で振り返る私と、既に頭を下げている父さん。もしかしなくても、私がご子息をぶん殴ったところ見ちゃいましたよね?
そんな私の心配をよそに、ヴァイツゼッカー子爵はギルベルトを横目で確認すると、寄る事もせず「エーリアス」とその兄を呼んだ。
「エルザ医師に使いを出せ。怪我はないだろうが、念の為だ」
「わかりました」
遠巻きにこちらを見る数人の侍女。エーリアスが彼女らに何かを告げると、頭を下げた後、一人は屋敷へ向かい、二人はこちらにやって来た。彼女らはギルベルトを宥め、どこかに連れて行く。きっと温かいミルクでも飲ませてやるのだろう。
そんな動きを一瞥すらせず、子爵は私を見据えた。
「シュナイダー、医師が到着したら彼女も見てもらうといい」
視線は私を、しかし言葉だけは父さんに向けられる。頭を下げたまま、庇うように私を抱き締め礼を言う父さん。たとえ声が震えていても、格好が悪いなんてちっとも思わない。私でもそうなる。
ギルベルトよりも色素の濃い栗色の髪と同色の口髭。切れ長の目は椿の葉のように深い緑をしており、細かい皺がその年齢と貫禄を感じさせている。
ヴァイツェンシュタットを治める、領主の顔だ。
「アメリア」
不意に名前を呼ばれ、背筋が伸びる。顔をあげた際、側頭部が父さんの顎にぶつかったが、勢いもなかったお陰でそれ程痛くない。ただ、父さんは少しだけ泣きそうだ。ごめん。
「はい、領主様」
「抜けた腰が治ったら、私のところへ来なさい」
え、やだ怖い。
とはさすがに言えず、私は「……はい」と頷く他なかった。え、普通に嫌なんですけど。
言うだけ言うと、ヴァイツゼッカー子爵は残った侍女に言付け、エーリアスを連れてその場を去った。
指示を受けた侍女は、静々とこちらに歩み、優雅に頭を下げる。
「シュナイダー様、アメリア嬢。お待ちになる間どうぞ中へ。ご案内致しますわ」
死刑宣告までのカウントダウンが始まった。
エルザと名乗る女医に軽く診察をして頂く。
特に問題はない、という言葉に安堵の息を吐き、できるだけ丁寧に頭を下げた。エルザさんは「それだけちゃんとできれば、一人でも大丈夫そうね」と笑い、私を残してさっさと出て行った。
そうだね、一人でも…………父さんは大丈夫かな。
侍女に案内された部屋に着くなり、彼女は私を下ろした父さんにこう言った。
「主人よりヘア・シュナイダーにお話があるそうです。差し支え無ければ、このままご案内しても?」
一瞬にして父さんの表情が凍った。
できれば一緒に行ってあげたかったが、私もこの後呼ばれている、という事は別々に話があるのだろう。恐らく、私には魔術の事で、父さんには……私がギルベルトを引っ叩いた事、かな……ごめん、父さん。
思わず祈りを捧げてしまった。
音も出ない程柔らかい椅子から、久方振りに立ち上がった瞬間だった。聞き慣れないノックが響き、両肩が跳ねる。
「フロインライン・アメリア。主人よりお話があるそうです」
ご案内しても?
能面のような侍女の顔に、今度は私の顔が色を落とした。




