49話
その人は、いつぞやの彼と同じように、突然やって来た。
「フラウ・フォーゲルはいらっしゃるかしら?」
香水のように甘ったるい声が、放課後の教室内にどよめきをもたらした。
クラスメートの視線がザクザクと刺さり、先月もこんなことがあったな、と嫌な記憶が蘇る。
教室の入り口に立っていたのは、見覚えのない美しい女生徒。ガラスのような翠の瞳が、教室の中をゆったりと見渡す。
バチリ、と目が合うと、彼女は厚ぼったい唇を僅かに引き上げた。
「ご機嫌よう」
舐めるような目が、私の爪先から頭のてっぺんまでを見つめる。
あまりに失礼な視線を向けてくるので、自然と眉根が寄った。
少し硬くなった声で、ご機嫌よう、と返せば、彼女はついっと制服のスカートを摘んだ。
「お初お目にかかりますわ、フラウ・フォーゲル。私、辺境の地を治めておりますリッター家が娘、エルネスタと申します。以後お見知り置きを」
「……ご丁寧にありがとうございます。ご存知いただけているようですが、私がアメリアですわ。お目にかかれて光栄です、フラウ・リッター」
かつて先生に習った綺麗なお辞儀。あれから少しは洗練されたのではないだろうか。
そんなことを頭の片隅で思いながら、空虚な挨拶を交わす。
彼女が顔を上げると、女性らしい香水の匂いがふわりと香ってきた。
「早速で申し訳ないのですが、少しお時間————よろしいかしら?」
今までピンと来ていなかったけれど、エルネスタ=リッターって……ヴィクトールの恋人じゃなかったっけ?
そう思い出したのは、彼女の五歩後ろを歩いている時だった。
ヴィクトールルートでも数えるほどしか出てこず、殆んど名前だけのキャラクターだったからすっかり忘れていた。
普段だったら、初対面の人の呼び出しなんて、絶対に一人じゃ応じない。しかし、彼女はただの使いパシリだった。
そう、私を呼び出した張本人は——……
「ご機嫌よう、フラウ・フォーゲル。相変わらずのようね」
大輪の花に囲まれ、優雅に微笑むエルフリーデ。
頭のてっぺんから爪の先まで美しい彼女は、隙のない仕草でカップを傾ける。
エルネスタが、彼女を囲う取り巻きの中に混じると、エルフリーデは短く「お掛けなさいな」と正面の椅子を指し示した。
「ご機嫌よう、フラウ・ヴェルナー。珍しいわね、貴女が私を呼び出すなんて」
「そうね、きっと今日が最初で最後だわ」
「そうだと嬉しいわ。急な呼び出しは、心臓に弱いから」
和やかに話す私たちの姿は、極めていつも通りだ。
そして、初めて居合わせたであろう取り巻きが、どこか引いたような態度を取るのもまた、いつもと変わらない。
席に着くと、どこからともなくお茶が用意される。ここまでも一緒。
しかし、いつもならすぐに解散する取り巻きがいつまで経っても動かない。
それどころか、じいっとこちらに嫌な視線を向けてさえいる。
違和感を覚え、彼女らを一瞥した瞬間、正面のエルフリーデが「ところで」と鈴を転がすような声で言った。
「最近、人の婚約者と親しいみたいね」
ひやり、と首筋にナイフを突きつけられたような気がした。
ガラスのように透明で、冷ややかな声色に、背筋がゾッとする。
正気を疑うように、エルフリーデを見れば、蜂蜜のような瞳が静かに笑っていた。
私は姿勢を正し、できるだけ平時と変わらぬ声で答える。
「ええ、ルイスのことで時間をいただくこともあったから」
私の答えに、エルフリーデの背後がざわついた。眉を顰め、隣人とヒソヒソ言葉を交わしている外野が少し煩わしい。
「……ふふ、相変わらずの豪胆だこと」
「おかげさまで。貴女にも随分鍛えられたものだわ」
「あら、そんなつもりはなかったのだけど……踏まれるたびに強くなれるのは、雑草の特権ね」
誰が雑草だ。
ふう、と一旦怒る肩を落とし、改めてエルフリーデと向き合う。
それで、と話を続けると、カップを傾けるエルフリーデの指先が小さく揺れた。
「そんなことを言うために、わざわざ呼び出したのかしら?」
「ええ。バカな子にはパフォーマンスがいるのよ」
珍しく、彼女はカップに口をつけず、そのままテーブルに置いた。
ミルクティ色の髪を揺らし、エルフリーデ僅かに首を捻る。一瞬だけ後方に向けられた蜂蜜色が、嘲るように笑った。
「だってそうでしょう。貴女とディートハルトの間に、浮ついた空気が少しでもあって?」
「ないわね。これっぽっちも」
「仮にあったとしても……そんな後ろめたいことをして、あの誠実な彼が隠せるわけないもの」
誠実と書いて、馬鹿正直と読む。
さすがに人前で婚約者を貶めるようなことを言わないあたり、エルフルーデは品がいい。
とはいえ、その言葉に鋭さがないと言えば嘘になる。
この場にディートハルトがいたら、苦虫を噛みつぶしたような顔をしていたことだろう。
「そして…………それは、貴女も同じ」
一緒にされた。
先ほどディートハルトの顔で想像した表情が、自分の顔に乗るのがわかる。
「でも、そんなくだらない噂に踊らされるような子は、真実を見極めようとすらしない。事実確認もせず、ただ面白いから、なんて浅はかな理由でスキャンダラスを騒ぎ立てる」
愚かよね、とエルフリーデが花のように笑う。
彼女の後方に控える取り巻きたちが、気まずそうに目を逸らすのが見えた。
ああ、そういうことか、と納得し、私も大仰に頷いた。
「そうね。断片的な情報を勝手に繋ぎ合わせて、湾曲した話を作り上げるなんて愚の骨頂だわ」
「あら、うふふ……それは言い過ぎじゃないかしら?」
「……笑いが隠しきれていないわよ、フラウ・ヴェルナー」
性根の悪い、と言外に込めれば、彼女はやはり計算し尽くされた笑みを浮かべる。
張っていた肩を落とし、カップに残った紅茶を飲み干す。
ご馳走様、と言えば、給仕を勤めてくれたらしい少女が、戸惑ったように黙礼した。
「話はそれだけかしら。もう戻っても良くて?」
「ええ、いいわよ。躾はもう済んだもの」
「それは重畳。次からは自前の鞭を使ってちょうだい」
「あら、それはごめん遊ばせ」
ちっとも思っていない調子で、エルフリーデは口元に手を当てた。悪戯っぽく笑う目は、いやに楽しそうだ。
こういう時の彼女は、ろくなことを言わない。さっさと退散してしまおう。
それじゃあ、とスカートを押さえながら、席を立つ。
「お詫びに、良いことを教えてあげるわ」
エルフリーデが言った。
「知りたいことがあるのなら、新しいお友達を大切にすることね」
私よりも詳しいはずよ、と彼女は笑う。
言葉の意味を問うように、彼女を凝視する。しかし、当然それ以上の答えはない。
口を開こうとしたが、エルフリーデの目はもう私を見ていなかった。ただ揺れる琥珀色の水面を見つめ、カップを揺らしている。
これ以上の話はないのだと、悟る。
「ご忠告、痛み入るわ。それでは、ご機嫌よう」
ご機嫌よう、と静かな声が背中にかかる中、私は来た時よりも堂々と退室する。
温室の外に出ると、びょうっと春の風が温まった頬を冷やす。
ふるり、と背中が震えた。
その翌日のこと。
「フォーゲルはいるか!」
今度は婚約者の方が来やがった。なんなんだ、この来訪ラッシュは!




