46.5話
side:ヴィクトール
「良かったの?」
ヴィクトール、と名前を呼ばれ、振り返る。視線の先にいるのは、ススキ色の髪をした美しい女生徒だ。
ガラス細工のように透き通った翠色の瞳が、ヴィクトールを睨め付ける。
次いで、つい先程までアメリアが座っていた席を見て、彼女は高圧的にフンと鼻を鳴らした。
「嫌味な子ね。わざとらしいくらい貴方を嫌ってみせて……本当は貴方の気を引きたいんじゃないかしら」
「やあ、エルネスタ嬢。こんなところで奇遇だね」
「貴方も嫌味な人ね、ヴィクトール。私に気付いていたくせに、紹介もしてくれないなんて」
品よくスカートの裾を揺らし、エルネスタはパーゴラの下に入り込む。彼女が一歩近付くたび、クレマチスの香りが掻き消える。
エルネストはヴィクトールの肩に手を這わせると、そのまま彼の顔を上から覗き込んだ。そして、キュッと翠の瞳を細める。
「ねえ、ヴィクトール。今度はあの子なの?」
「何がだい?」
「惚けないで。『|女泣かせのヴィクトール《パウロ・ヴィクトール》』の次の標的の話よ。純朴そうな女の子ばっかり狙って……本当に酷い人ね」
不名誉な名で呼ばれたものだ、とヴィクトールは苦い笑みを浮かべる。
そんなつもりはないのだが、何故かヴィクトールが関わる女性はみんな涙と共に別れを告げてくる。
声をかけ、親しくなり、逢瀬を重ねているだけなのに、彼女たちは口を揃えて言うのだ。貴方は酷い、と。
そんな彼女らが全く理解できないヴィクトール。肩を竦め、「人聞きの悪いことを言わないでくれよ」とエルネスタに告げる。
「そんなつもりはないよ。ボクは、ただ話をしていただけだよ」
「嘘つき。あの子に隙があれば、口付けの一つでもしていたでしょ」
「このボクが? そんなまさか……キミという人がいながら、そんな軽薄なことはしないさ」
両手を肩の高さまで上げ、とぼけるヴィクトール。しかし、エルネスタは彼の薄い頬をつねり、再び「嘘つき」と彼を詰った。
「私にはしたじゃない。忘れてないわよ、あの時のこと」
「それは……エルネスタ嬢、キミだからだよ」
パッとエルネスタの白い頬が色付く。文句を言おうとした唇は、紡ごうとした言葉を忘れてしまったようだ。
不満そうに尖っていた唇がむにむにと動き、すぐにもう、と小さなため息に変わる。
「貴方って本当にずるいわ」
ふふふ、と笑い、ヴィクトールは眼前の顔に手を伸ばす。
頬を撫で、触れるような口付けを交わす——と思いきや、彼は「そうかな」と眼前でわざとらしく笑った。
エルネスタは再び「もう」と呟き、不満をぶつけるようにヴィクトールの肩を叩いた。
すでに予鈴は鳴り終わり、もう間もなく授業開始の鐘が鳴る時間だ。
「授業はいいの? そろそろ戻らないと、本当に遅れてしまうよ」
「あら、貴方こそ」
「ボクはいいのさ。父も先生方も、ボクにそこまで期待していないだろうからね」
エルネスタは何も言わなかった。ただ、憐れむような目をヴィクトールに向け、彼の隣に腰掛ける。
同時に、そっと白い手でヴィクトールの手を包み込み、ほんの少し、力を込めた。
ヴィクトールは目を瞬かせ、すぐに指先を絡める。困ったような笑みを見せれば、エルネスタは寄り添うように頭を預けてくる。
なんて単純なんだ、とヴィクトールは心底呆れた。
もちろん噯にも出さないが、こんな純粋で、こんな愚かで、彼女はこの先生きていけるのだろうかと訝しむ。
いけるのだろう。いけるだけの地位と金が、彼女らにはある。
そう思うと、ヴィクトールは腹の底がどんどん冷えていくのを感じた。
ああ、なんて妬ましい。
口をついて出そうになる感情を飲み込み、ヴィクトールは静かに目を伏せた。
暖かな風が聞き慣れた鐘の音を運んでくる。香水の香りに混じって、花の匂いが鼻腔をくすぐった。
いい香りだねと言えば、彼女は当然のように「流行りなのよ」と返してくる。ヴィクトールは、曖昧に笑う他なかった。
彼女は何も気付かない。ヴィクトールの哀れみも、妬みも、蔑みも。
ふと、脳裏に過ぎったのは、意志の強い黒眸。ヴィクトールを嫌いながらも、彼女は誰よりもその本心に近い気持ちを見抜いた。
いや、嫌いだからこそ見抜けたのだろうか。
彼女だったらなんと答えただろうか。訝しげに眉を顰め、なんの話ですか、なんてつっけんどんに言ったかもしれない。
容易に想像でき、ヴィクトールは小さな笑みを漏らした。エルネスタが「どうかしたの?」と問いかけてきた。
「いや、幸せだなと思ってさ。今、こうしてキミといれることが」
もちろん嘘だ。しかし、単純な彼女は満更でもなさそうに「まあ」と喜色を滲ませる。
口では「またそんなことを言って」なんて言っているが、エルネスタが喜んでいることは明白だ。
「本心だとも」
「ふふっ……そういうことにしておいてあげるわ」
嬉しそうなエルネスタ。二人は寄り添い合い、恋人のようにパーゴラの下で愛を囁き合う。
しかし、ヴィクトールの口から出てくるのは、出まかせばかりだ。
彼はそうやって生きてきた。きっと、これからもそうやって生きていく。
ねえ、ヴィクトール、とエルネスタが呼ぶ。
午後の授業をふけ、二人は風が冷たくなってきたことを理由に屋内へ移動した後のことだった。
誰もいない静かな空き教室で、エルネスタの囁くような声にヴィクトールは「なんだい?」と穏やかに返す。
「貴方、本当にあの子はもういいの?」
流し目で問いかけるエルネスタ。彼女の言う『あの子』が、アメリアを指していることはすぐにわかった。
ヴィクトールは「ひどい人だなあ」と、ちっとも思ってもいない調子で嘆く。
「ボクが他の子の話をしたら怒るくせに」
「私からするのは良いのよ。ねえ、どうなの?」
「まったく……我が儘なフロインラインだねえ」
「あら、お嫌い?」
くすくすと笑うエルネスタに、ヴィクトールもまた喉を鳴らしながらいいや、と否定する。
甘い甘い時間を楽しみながら、ヴィクトールは言い聞かせるように答える。
「彼女はそんなんじゃないよ。キミが心配するような関係にはならないさ」
「……随分はっきりと言うのね。珍しいわ」
「おや、そんな意地悪を言うのかい?」
「だってそうじゃない。貴方が他の子をそんな風に言うなんて、」
珍しいわ、と繰り返すエルネスタの目に、ヴィクトールは燃えるような感情を見た。
ああ、彼女もか、とヴィクトールはますます冷えていく。
ゆっくり体を起こし、エルネスタから距離を取る。離れた二人の間を、すうっと冷たい空気が流れた。
不思議そうな声がヴィクトールの名を呼ぶが、彼は答えない。
ただ、いつもと同じ穏やかな笑みを浮かべ、エルネスタを静かに見下ろしている。
「さて、そろそろ解散にしようか。いつまでもこんなところにいたら、体が冷えてしまう」
「待って、ヴィクトール。私何か、」
してしまったかしら、と続くはずの言葉は、ヴィクトールの声に遮られる。
「今日はありがとう、エルネスタ嬢。とても有意義な時間だったよ」
「待って、待って、ヴィクトールっ! ねえ、貴方!」
エルネスタの必死の呼び声に、ヴィクトールはいつもと変わらぬ笑みを浮かべる。それは春風のように爽やかで、
「それじゃあ、またね。エルネスタ嬢」
春一番のように恐ろしい、偽りの微笑みだった。




