40話
ごめんなさい、と言う小さな謝罪に、ギルベルトはただ穏やかに微笑んだ。
申し訳なさと情けなさ、いつもと立場の逆転した子ども扱いに小さな苛立ちと————確かな安堵を覚える。
それは、子供が親に抱くような、この人ならば、私がどんなになっても見捨てずにいてくれるだろうという、絶対的な信頼感に近いだろう。
上手く口をつくことのできなかった感謝の言葉を、いつか伝える日が来れば良い。
そんな事を思いながら、急かす事なく私の言葉を待つギルベルトの優しさに、私はただ甘えていた。
心地の良い沈黙の後、私はゆっくりと口を開く。
「……私、勉強が好きよ。魔術の勉強が、楽しいの」
「そうだろうな。そうじゃなきゃ、あんなにやらないよな」
「まだまだ知りたい事があって、学びたいことがあって……やりたい事があるの」
「うん」
「……みんなとのお茶会も、先生方との勉強会も、楽しい」
「オレもだよ。アメリアと一緒にいると楽しい」
けれど、婚約をしてしまったら、それもできなくなるだろう。
少なくとも、婚約者以外の異性と二人きりという状況は避けるべき事柄になってしまう。
こうして、ギルベルトと二人で隠れるようにいる事すら、控えるようになってしまうだろう。不自然でない程度で、確実に溝ができる。
「私は、それが嫌なの。今まで当たり前にしていた事が、できなくなってしまう事が嫌」
不自由だわ、と吐き捨てるように言う私に、ギルベルトは「うん」と小さく頷いた。
ぐちぐちと、聞いていて楽しくもないであろう話に、よくもまあ、大人しく耳を傾けてくれるものだ。話せるか、話せないかの判断しかせず、思いついた事をそのまま口にする。まるで子供のようだ。
けれど、今日だけ……今日だけは、こうして幼馴染の優しさに甘えても良いだろうか。
明日からはしゃんとするから、と誰ともつかない相手に言い訳をする。
うん、と頷いたギルベルトの相槌を、私は都合良く受け取った。
話せる事を話し終わった時、私の気持ちは少しだけ落ち着きを取り戻していた。先程よりも冷静になった頭で、自嘲気味に笑う。
「本当に悪かったわね、ギルベルト。気持ちばかり焦って……お粗末な頭がついて来なかったみたい」
「考え過ぎて、逆に頭が回らなくなっただけだろ。少し落ち着けば、ちゃんと対処できるさ」
本当にそうだろうか、なんて不安が湧いては沈む。気持ちはまだまだ安定しそうに無い。
しかし、それをそのまま相手にぶつけるような真似だけは、もうせずに済みそうだ。
一旦目を閉じ、自分の呼吸の数を数える。そうね、と返事を返せたのは、五つまで数えた後だった。
重たい瞼を開け、傾き始めた陽で赤く染まりつつある草花を見つめる。随分と長い間、ギルベルトを拘束してしまったようだ。
「近いうちに、一度、フォーゲルの家に帰るわ」
いろいろ考え、ようやく私はそう宣言した。
入学してから一度も帰らなかったあの家に、もう一度足を踏み入れる。本当は卒業まで近付きたくは無かったのだが、そういうわけにもいかなくなってしまった。
手紙だから、紙面上だから、どうしても一方的に殴られたような衝撃を覚えるのだ。顔を見て、面と向かって話せば、印象が変わるかもしれない。
……いや、流石にそれは期待できないな。せいぜい、殴られた分だけ殴り返す事ができるだけだ。
それで何が解決するわけでもないが、少なくとも一方的な言葉に腹を立てたり、傷付くことはない。
対等な条件で話し合える分、私は対面での会話の方が好きだ。その上で、互いの要求に折り合いのつく妥協点を探りあればいい。……というか、そうでなければ困る。
私の出した、取り敢えずの答えにギルベルトは心配そうな顔を浮かべる。きっと、私の顔が未だに曇ったままなのが、気になるのだろう。
けれど、仕方ない。
気持ちは少し晴れたものの、問題は何一つ解決していないし、そもそも苦手意識の強い相手に挑む事を決めたのだ。ピクニックに行くような心地にはならないだろう。
「大丈夫か?」
そう問うギルベルトに、いつもなら答えられる「大丈夫よ」という言葉は上手く喉を通らなかった。
「どうかしらね」
「オレに何かできる事は?」
「…………骨は、拾って頂戴」
縁起でもない、と顔を顰められた。他に思いつかなかったという言い訳は、今の彼には通じそうもない。
どこか思い悩むような顔をしたギルベルト。それに私は気付かなかった。彼に呼ばれ、その顔を見るまでは。
アメリア、と真面目な声が呼ぶ。
向けた視線の先で、ギルベルトはまるで私の表情を写したかのように深刻な顔をしている。何かしら、と問う前に、ギルベルトはやはり固い声で言った。
「オレと……オレと婚約するんじゃ、ダメか?」
一瞬、息が止まった。
冗談や浮ついた気持ちでなく、本気で、私のこの状況を打開する策として提示されたそれに、私は思わず視線を泳がせる。
ゆるり、と回答を探すように視線をさ迷わせ、落ちた先は少し遠くに植えられた花。いつもならパッと出てくる名前が、思い出せない。
五つの花弁がピンク色に色付く、あの花の名前は何であっただろうか。
「駄目よ」
「何で? オレなら……次男なら、アメリアは今の生活と変わらなくて済む。魔術の勉強も、オレたちとのお茶会も制限されない。
……婚約者となら、行動を共にしても問題にはならないだろ?」
「そうかもしれない。けれど、それは、」
「オレは、結婚とか考えた事ないし、エーリアスやアメリアみたいに、家の為に強制される事もない。だから、もし……もしもオレと婚約する事でアメリアが助かるなら、オレはっ……」
まくしたてるようなギルベルトの声を、私ははしたない大声で遮った。
「駄目だってば!!!」
想定以上の声が出て、ギルベルトは勿論、私自身も驚いた。
息を飲むように黙るギルベルトの隣で、やはり私は視線を合わせる事なく、一瞬で荒れた呼吸を整える。やけに喉が狭く感じる。いや、気のせいなのだろう。
ああ、駄目だ。また頭が回らなくなる。ギルベルトの甘言に、納得させられそうになった。
「っ……そんな、貴方の人生を狭めるような事、私にさせないで。……貴方は、これからたくさんの出会いがある。より良い縁が、あるかもしれない。その可能性を、そんな貴方の未来を、こんな形で、こんな理由で、潰す必要はないの」
「アメリア、そんな事を言っていたら、オレは誰とも付き合えなくなるぞ。こういうのはタイミングで、」
「なら、このタイミングで言わないで。……これで、私が受け入れたら、貴方の優しさを利用する事になるじゃない」
嫌だ。それだけは、絶対に嫌だ。
けれど、ギルベルトは寂しそうな顔で目を細める。それでも良いと言いたげな表情に、彼の言葉を先読んだ私は、遮るようにその名を呼んだ。
「ギルベルト、私、今からすごく酷い事を言うわ。貴方を傷付けるかもしれない」
「……良いよ。何?」
「っ……、悪いけれど、仮に、私が貴方を利用したとして、貴方の未来を奪ったとして……それでも、貴方との婚約で話が解決するとは思わないわ」
「何故?」
それを問うのか。いや、それはそうだろう。わからないからこそ、これが最適解だと提示したのだ。
けれど、ギルベルトはリヒャルトという男を深く知らない。彼が私に婚約を望むのは、それが貴族の娘としての義務だからというだけでない。
家名を存続させるだけならば、確かにギルベルトとの婚約が最も————あくまで状況的には、適切な判断になるだろう。
けれど、リヒャルトの望みは更にその上へ向かっている。
そう告げれば、ギルベルトは静かに息を吐いた。そして、ついと視線を空へと向ける。
「……成る程な。確かに、子爵家の次男に嫁いだんじゃ伯爵家の利益は薄い、か」
「……ごめんなさい。家名で人を見るなんて、良くない事だわ。貴方の優しさや真摯さを、踏み躙っている自覚もある」
「アメリア……始めに言っただろ。お前にそういう意思がないなら、オレは気にしない。アメリアはオレやニコラを下に見たりはしないだろう?」
当たり前だ。元より階級制度とはほぼ無縁の世界でパーソナリティを確立させたのだから、今更、そんな視点を持てと言われても、難しいものがある。
人は適応する生き物だとはいえ、きっと、それが私の倫理に反するというのも大きいのだろう。
頑固で良かったと、そう思える数少ない利点かもしれない。
はっきりと頷いた私に、ギルベルトは「なら良い」と笑う。
「悪いな、アメリア。オレ、何にも力になれないみたいだ。むしろ、悪戯に混乱させた……バカだな、オレ」
はは、と笑うギルベルトの声が痛ましく、思わず避け続けていた視線を彼に向ける。若草色の目が、ばっちりと合った。
意外な事に、彼の目はいつもと変わらず穏やかな色をしていた。自嘲も、悲しみも、負の感情が一切ない透き通った黄緑色が、緩やかに笑う。
「ギルベルト……私、」
「大丈夫だよ、アメリア。別に優しさが無碍にされたなんて思わないさ。アメリアが断った理由もわかったし、嫌われてるわけじゃない事も理解してる。……それに、どうやらアメリアも、ある程度落ち着いたみたいだしな」
これなら実家に戻っても大丈夫そうだな、と揶揄うギルベルト。上手く話を逸らそうとしている。
終わった話に戻す意味が無いと思っているのか、それとも傷付いた本心を隠す為か。
どちらとも判断のつかない状況に、返答をできずにいる。すると、ギルベルトは困ったように、少しだけ眉を落とした。
「そんな顔をするなよ、アメリア。大丈夫だから」
その大丈夫がどこにかかっているのか、問い正す程、私は無粋ではなかった。呟くように返した「そうね」という言葉は、一体彼にどう聞こえただろうか。




