38話
そうだ、と思い付いたのは、エルフリーデの元に戻ろうとした時だった。
先行するディートハルトの名を呼び、少しだけ足を止めてもらう。話は終わったのに何だ、と鋭い空色の目が怪訝そうに問いかけてきた。
「エルフリーデの事で少し聞きたい事があるのだけれど、今度時間を頂いても良いかしら」
「俺にか? 本人に聞けば良いだろう」
「聞いたわ。その上で、よ」
少し込み入った話になる。
それが伝わったのか、ディートハルトは難しい顔を浮かべた。
ふむ、と腕を組み、口元に長い指を当てるディートハルト。すぐに顔を上げると、ルイスを呼んだ。
エルフリーデの相手をしていたルイスは、慌てて一礼。戸惑いながらも、主人の元へと寄る。長めの白髪がふわふわと揺れる。
「っはい、なんでしょうか」
「今週末の帰省予定を来週に動かせるか?」
「えっと……はい、大丈夫だと、思います。定期報告だけなので、もしご都合が合わないのであれば、俺だけでも、」
「いや、俺も父上に話があるからな。家に連絡をしておいてくれ」
はい、と返事をするルイスだが、予定があるならそっちを優先して欲しい。しかも帰省予定って。
さすがにそれは悪いと思い、ディートハルトに「別に急ぎじゃないわよ」と告げる。
しかし、ディートハルトは鼻を鳴らすと「別に構わん」と言った。
「お前みたいな芋女との予定は、日を空けると忘れてしまいそうだからな。さっさと終わらすに限る」
「……あら、そう。なら、お言葉に甘えるわ」
嫌味のひとつでも言ってやりたいところだが、頼み事をしているのはこちらである。半目でその暴言を受け入れましょう。
悪いわね、と言えば、彼は「くだらない内容なら許さんからな」と残し、再び歩き出した。
「内緒話は終わったかしら?」
戻った私たちへ優雅に問いかけるエルフリーデ。そんな婚約者に、ディートハルトは「どうせ聞き耳を立てていたんだろう」と吐き捨てる。
くすり、と彼女は笑った。
忌々しいと言わんばかりに舌打ちをしたディートハルト。険しい顔のまま、律儀にも「ではな」と挨拶をこちらに残す。
そして、今度こそルイスを伴って温室から出て行った。
彼らの背が見えなくなってから、私は本日の目的であるエルフリーデへと向き直る。
「……さて、今日はどんなご用かしら?」
聞き耳を立てていたとディートハルトは言っていたが、エルフリーデはわざわざそう問いかける。真偽はわからないが、訊かれたのなら答えるまでだ。
「貴女に相談があって来たのだけれど、お時間を頂けるかしら」
「ふふ、珍しいわね。魔術の事はもう良いのかしら?」
「貴女の情報が魔術で得られたものではない。それがわかった以上、取り敢えずは良いわ。それよりも、ちょっと面倒な問題が出てしまったのよ」
「……そう、なの。…………ふふふ、ええ、良いわ。貴女が私に相談だなんて、初めてだもの。聞くだけ聞いてあげるわ」
面白い話だと良いのだけれど、と心底楽しいと言わんばかりに目を細めるエルフリーデ。
くすくすといつもより笑いの絶えない彼女に、なんとなくゾッとするものを覚える。しかし、後には退けない。
私は彼女の従者であるクラリッサの用意した椅子へと腰掛けた。
注がれたアールグレイの香りが鼻を掠め、ゆっくりと深呼吸をする。
さて、答えは得られるだろうか。
「貴女は、望まない婚約を親に迫られたら、どう断るのかしら」
「つまり、そういう話が出てきた、という事なのね? おめでとう……とでも言うべきかしら」
「結構よ。それをどう断るかを、相談に来たのだから」
貴女だったらどうするのかしら、と問う。途端に、エルフリーデはつまらなさそうな表情を浮かべた。
口元の笑みは変わらない。しかし、悪戯に光っていた目は静かに色を落とす。重力に反して上を向く長いミルクティ色の睫毛が、僅かに下を向いた。
ゆらゆらとカップの水面を波立たせ、そのまま口をつける事なくカップをソーサーへと戻すエルフリーデ。
そして、彼女は言った。
「クラリッサ。彼女のお茶を片して頂戴」
「まだ口をつけてすらいないわ」
「悪いけれど、フラウ・フォーゲル。貴女の茶番に付き合うつもりはないの」
帰りなさい。
珍しくストレートな言葉で拒絶を示すエルフリーデに、私は思わず怯んでしまった。
いや、正確には怯んだのではない。
————傷付いた。
友でもない彼女の拒絶に傷付いてしまったのだ。
傷付いて、傷付いた事を自覚したくなくて、私は見当違いな怒りを抱いてしまった。
「茶番、ですって?」
乾いた低い声で聞き返す。変わった語調を気にも留めず、エルフリーデは静かに頷いた。
「ええ、茶番だわ。貴女は既にその問いに対する答えを持っている。知っている筈だわ。それだけの言葉を交わしたのだもの」
「わからないわよ。だから、わざわざ聞きに、」
「いいえ、フラウ・フォーゲル。貴女は知っている。けれど、それから目を背けているだけだわ」
エルフリーデは私を見ていない。だというのに、言葉だけは的確に私を刺した。
「私の答えも、貴女がどうすべきかも……本当はわかっているはずよ。それでも尚、都合の良い答えが欲しくて、往生際悪く縋っているだけに過ぎない」
違う? と確信的に問うエルフリーデに、狼狽えた。
言葉を失う私を前に、彼女は更に言葉を重ねる。こんなにも言葉数の多い彼女は初めて見た。
淡々と言葉を吐き出すエルフリーデは、蜂蜜色の瞳に冷たい笑みを浮かべている。
「そうね。もし——これは、本当にもしもの話だけれど——偽りでなく、貴女が答えを出す事が出来ないとしたら、それは貴女が愚かだからよ」
「っ……!」
「考えればわかる事だもの。思考する事を放棄して、教えて教えてと駄々を捏ねるのは、幼子のする事だわ。貴女はもう少し知恵があると思ったのだけれど」
残念だわ、と言って、ようやくカップに口を付けるエルフリーデ。私のものは、主人に忠実なクラリッサによって、既に片されている。
はたから見れば、いつもと変わらぬ風景に見えるだろう。いつだって、私たちはどこか険悪な様子で向かい合っていたのだから。
しかし、けれど、この日は明確に普段と違っていた。
初めはエルフリーデの様子がおかしいのだと、そう思っていた。けれど、そうじゃない。そうではなく、おかしいのは私の方だった。
そう気付いた途端、私は激しく落ち込んだ。唇を噛み、飲んでもいない紅茶の礼を述べると、大人しく席を立った。
振り返る事なくまっすぐに————逃げるように温室を去る。エルフリーデは何も言わなかった。
そして、どうしようもない自己嫌悪だけが、私の胸に残った。




