35話
「え? 先生、辞められるのですか?」
思わず聞き返した私に、ローラントは違う違うと煙草を咥えたまま、片手を振る。
「お前たちの授業をしなくなるっつーか、高等教育課の方に移るんだよ」
ああ成る程、と頷く。
そういえば、彼がアメリアの担任となるのは十六になる年だったな、と頭の片隅で思い出す。その前に彼が所属課を移るのは当然だ。
寂しくなりますね、と言えば、ローラントは適当な相槌を打つ。全然そんな事なさそうだ。
「部屋も変わられるんですか?」
「そりゃな。わざわざこの部屋から隣の棟まで、毎時教えに行くのも怠いし、設備もあっちの方が上等だしな」
雑然とした部屋に視線を巡らす。引越しが大変そうだ。
そう思ったのが、顔に出ていたのだろう。ローラントが先んじて「手伝いならいらんぞ」と言った。
「まだ何も言ってませんが」
「アメリアはお節介だからな。日頃のお礼だなんだと口実を付けて、手伝いにやって来そうだ」
「……いえ、まあ、否定はしませんが」
苦々しげな私の顔に、ふ、と笑うローラント。最後の煙を吐き出し、短くなった煙草を灰皿に押し付けると「まあ、そんなわけで」と言いながら近付いて来る。
「放課後の特別授業も、もう少しで無くなるわけだが……今日は何をする?」
「引き続き、水の魔術についてですね」
「……あっそ」
つまらん、と答えるローラント。言葉とは裏腹に、視線は真面目にテキストをなぞる。さて、と身を乗り出したローラントは、いつものように気怠げな声で解説を始めた。
「じゃあ、来年から先生変わるんだ」
異様な数の角砂糖を紅茶に落とし込むニコラを横目に、そうなるわね、と肯定する。毎度の事ながら、彼女の味覚は少しおかしい。
アドルフが非難するような目で彼女を睨んでいるが、当の本人は素知らぬ顔で砂糖水と化した紅茶を啜っている。
「私らもだけど、アメリアは特に先生と仲良かったからね。寂しいんじゃないの?」
うりうり、とおちょくり顔で腕を突くニコラ。ルイスが意外そうな顔で「アメリア様が?」とギルベルトに給仕をしながら、こちらを見た。
私が何かを答える前に、ギルベルトが
「授業以外でも勉強見てもらってるだけだろ」
とつまらなさそうに口を挟んだ。まあ、その通りである。
しかし、年頃の女の子であるニコラの視点は違うらしい。呆れたような顔でギルベルトを視界に収めると、やれやれと肩を竦めた。
「子供だねぇ、ギルベルトは。遊びたい盛りな年頃の私たちが、わざわざ、自発的に、先生のところへ勉強しに行く?」
「まあ、ニコラのように金勘定さえできれば良い人は行かないでしょうね」
「その通り! 行かないでしょ!?」
アドルフの言葉尻だけを捉え、ニコラは声高に主張する。最近アドルフの彼女に対する態度が、目に見えて雑になっている気がするのだが、気の所為だろうか。
……ニコラ本人が気にしていないので、慣れて来たのだと捉えておこう。アドルフもあれで人見知りをする方だから。
テーブルを叩くまではいかないものの、だいぶ勢いのある動作でニコラはこちらに身を乗り出す。思わぬ挙動につい椅子を数ミリずらしてしまった。ズッと嫌な音が立ち、アドルフがやはり不快そうに眉を顰めた。
「アメリア。ずばり、ローラント先生の事、気になっているでしょ!」
「いいえ、全く」
私の即答に、ギルベルトが「否定はっや」と笑った。そりゃあ、話の流れが読めてましたもの。
どうして、こう若い女の子はすぐに話を色恋沙汰に持っていこうとするのか。
流れるような動作で中身の少なくなったカップに口をつける。ルイスがおかわりを準備しようとしたので、ジェスチャーで座るように示した。
素直に従うルイスと違い、大人しく黙らないニコラは、やはりどこか興奮したような調子で「嘘だぁ」と葡萄色を細める。
「ローラント先生、影で人気あるんだよ? よく見ると顔も悪くないしさ。やる気無さそうに見えて、意外と面倒見良いし、授業もわかりやすいし」
「顔の良し悪しは知らねぇけど、確かに良い先生だよな」
「リヒター家と言えば、学術都市の方にある名前だったと思いますが」
次々と出てくるローラントの批評。アドルフの言葉に、「家柄まではわかんないけど」とニコラが口を尖らせる。
いや、だからなんだと言うんだ。
半目になる私を他所に、ルイスまでもが「ヘア・リヒターでしたら、ディートハルト様も気にされているようでしたね」とローラントを持ち上げ始めた。
「魔術に対する知識や意識の高さは、教師陣の中でもトップクラスだとか」
「そんな相手と、度々放課後の教授室で二人きりなんだよ!? 何もない方がおかしいでしょ!」
何かある方がおかしいわ。教師と生徒だぞ。
あのねえ、と頭を抱えたくなった。ニコラだけならまだしも、ギルベルトやルイスまでもがチラチラとこちらを気にしている。本気で興味なさそうなのはアドルフだけだ。
なんでこんな話になったんだっけ、と思わず遠い目をしてしまいそう。
「申し訳ないけど、本当に何もないわよ。私も、向こうも」
「なんで? アメリア、ローラント先生みたいなのはタイプじゃないの?」
「私のタイプがどうであれ、教師は対象外よ。私が生徒である限りね」
「つまり卒業後なら有り、と」
「……意外と引っ張るわね」
しつこいわよ、と言えば、ニコラは「いやあ、楽しくなってきちゃって」と笑う。人で遊ぶんじゃない。
話に飽きて来たらしいアドルフが、帰りたそうな顔でこちらを伺う。
下手に口を挟めば、標的が自分に移ることを承知しているが故の無言なのだろうが、そんな顔だけを向けられたって困る。私にだってどうしようもない。
使えない、と湖水色の目が冷たく言った。この野郎。
「アドルフ、カップが空ね。お代わりはいかが?」
「いえ、お気遣いなく」
「遠慮しないで。それとも、私のお茶は飲めないかしら?」
新しくお茶を淹れようと茶葉の準備をしていると、アドルフは何のためらいもなく「飲めないと言うほどではありませんが……まあ、そうですね」と肯定した。思わず手が止まる。
「……それは、不味い、という事かしら」
「いえ、決して不味くはないですよ」
含みのある言い方をするアドルフ。思わず視線を付き合いの長いニコラやギルベルトに向ける。まさか、今まで私が淹れてきたお茶は美味しくなかったのだろうか。
ニコラは不思議そうな顔で「別に、普通じゃない?」と言った。
「そ、うよね。ちゃんと手順通りに淹れているもの。ねえ、ギルベルト」
「んー、まあ、そうだな」
思った以上に反応が悪い。これはもしかしなくてもアドルフ寄りの意見らしいぞ。
救いを求めるようにルイスを見ると、彼は大きく肩を揺らした。えっと、と言葉を探すルイス。え、ちょっと待って。まじで?
「……何が、悪いの、かしら?」
思わず声が裏返ってしまった。まあ、腕なんだろうけど。
だいぶ凹む私に気を使ったのか、ギルベルトとルイスがあたふたと慰め始める。その優しさが逆につらい。優しくするならもっと早く指摘して欲しかった。
ふ、と笑うアドルフ。言い出しっぺの責任だと思ったのか、誰も指摘しない味の違いを、彼はこう言った。
「淹れ方が悪いと言うか、茶葉の扱いに繊細さが足りないと言うか……今まで、安価が売りの同じ茶葉しか使ってこなかったんだろうなぁ、という味がします」
「ぐっ……!」
反論できない!
私の技術は、まだ町の仕立て屋さんだった頃に得たそれである。使う茶葉のランクなんて、高が知れている。フォーゲル家のように、お茶と呼べる容器がずらりと棚に並ぶお家とは違うのだ。
言い訳をさせてもらえるのなら、家が変わってからは、自分でお茶を淹れる事もなくなった。味の違いを舌で覚えるので精一杯だった。淹れ方までは学んでいない。
以上だ。怠慢と呼ばれても仕方がない。
ルイスが優しく「気にする事ないですよ」という言葉をくれる。
「アメリア様は、淹れてもらう立場の方なのですから」
「ルイス、義姉上を甘やかさないように。ギルベルトにだってできるんだから」
「オレにだってってどういう意味だよ」
このやろう、とアドルフを小突くギルベルト。その手を煩わしそうに跳ね除け、アドルフはチラリと私を一瞥した。
その目には軽い嘲笑を含んでいる。
「そんなわけで、次はもっと美味しいお茶を期待していますよ。義姉上」
失礼、と言って、彼はこれ幸いと席を立った。いつも引き止める私が、ぐうの音も出ない程叩きのめされていたのだから、仕方があるまい。
渋い顔で缶を持ち上げ、茶葉を見る。今まで扱っていたものとの違いがさっぱりわからない。はあ、と私が肩を落とすのと同時に、ニコラが「いやぁ」とため息に近い声を漏らした。
「今、舌の違いに明確な格差を感じたね」
「……全くだわ」
上手く話をそらされた事に気付いていないニコラより、私の方がダメージが大きい。
ルイスにお茶の淹れ方を教えてくれと頼み込むのは、このすぐ後の話。




