29話
翌日、登校した私を出迎えたのは、しかめっ面のギルベルトだった。
珍しく寄せられた眉とつり上がった若草色の目に、二、三度瞬きをする。おはよう、と言えば、ギルベルトもむすっとした声で「おはよう」と返した。
「随分と御機嫌斜めね」
「怒ってるからな」
「私に?」
「そう、アメリアに」
ニコラから聞いたぞ、と言われ、ようやっと思い当たった。そうか、昨日のノイマン家の事か。
余計な事を、とニコラを見れば、彼女は素知らぬ顔で「私よりギルベルトの方が適任かと思って」とそばかすごと笑った。くっそ、良い笑顔しおって。
観念した私は肩を落とし、降参の意を示す。荷物だけは置かせて欲しいという要求は、頷き一つで受け入れられた。
「では、どうぞ」
姿勢を正し、説教を受ける準備を整える。促されたギルベルトは難しい顔のまま、あのな、と口を開く。
「アメリアの気持ちはわかるよ。俺も間違った事をしたとは思わない」
「なら、どうして怒っているの?」
「……シュナイダー家のアメリアだったら、怒らなかったんだけどさ。アメリアはもうフォーゲル家だろ? だったら、らしく、振る舞わないと」
少しだけ言いにくそうに、ギルベルトは言った。
ああ、と少しだけ苦いものが心の中に広がる。貴族らしく振る舞う私が嫌だと言ったギルベルトが、私に貴族らしさを求める事に感じた苦味ではない。
それを、ギルベルトに指摘させてしまった、私に対するものだ。
ごめんなさい、と心の中で呟きながら、私はギルベルトの言葉を待つ。言葉を探すように、ギルベルトはゆっくりと話し出した。
「使用人の失態は、主人の指導不足という扱いになる。だから、主人の面子を守る為に、従者同士が互いのミスを隠蔽したり、逆にミスばかりするやつを嫌悪する事は良くあるんだ。
アメリアの見た従者同士の諍い————特にシュタルクを下働きに雇っているところでは、そう珍しいものじゃない」
「そうかもしれないわね。……でも、一方的な暴力は、諍いではないわ」
「オレもそう思うよ。けれど、それを他の家に指摘されるのは、主人であるディートハルトに恥をかかせる事になる」
ましてや、彼の知らないところで口出しされたらたまらないだろう、と言われ、思わず下を向く。
確かにギルベルトの言う通りだ。
従者ではないけれど、もしもアドルフに人を不快にさせる悪癖があって、私が全くそれに気付かず、他人から注意されてしまった事だけを後で聞かされたとしよう。
それは、とても恥ずかしい。
責任能力を問われるのもそうだが、普段から何を見て過ごしているのだと自身を叱責する事だろう。それに気付いていたであろう周囲から相談すらされない事で、信頼関係もうまく築けていないと自覚するかもしれない。
あ、駄目だ。結構へこむわ。
「わ、私、どうすれば良かったのかしら……?」
大変なことをしてしまったと、私はようやく気付く。
プレイヤー時は、散々アメリアを愚直だなんだと叱っていたが、実際にその現場に立って初めてわかる。私もその手の種類なのだと。
助けを求めるように、ニコラとギルベルトを交互に見る。難しい顔で唸ったニコラが、嫌な奴って思われるかもしれないけど、と前置きをした。
「私だったら見て見ぬ振りしちゃうな。人ん家の事だし、ウチはほら、貴族の中では新参者だしね。あんまり他の家に睨まれたくないんだよ」
お得意様とかだと強く出れないし、と苦笑いを浮かべるニコラ。幻滅したでしょ、と言う彼女に、小さく首を横に降る。
彼女は、彼女なりに家を大事にしようとしている。周囲に成金だと馬鹿にされても、ニコラにとって一代で財を築いた父は尊敬の対象なのだ。それを守りたいという思いは、決して軽蔑されるものではない。
けれど、私には無理だ。
上手く折り合いを付けて、自分に言い訳をして、道理を曲げてまで……守りたいと思える程、私にとってフォーゲルという名は大切なものではない。フォーゲル家のみんなが嫌いなわけでも、フンベルクの街が嫌なわけでもない。
ただ、私が私の信じた正しさを曲げた時、失いかけたものが今、目の前にある。あんな奇跡が二度も起こってくれる筈もない。
ギルベルトの真剣な色を宿した明るい目が、ニコラの言葉に二、三度瞼の裏に隠れる。
「多分、というか絶対アメリアには無理だな」
ふっと笑うように言ったのは、私の考えに同意するものだった。言い出しっぺのニコラすら賛同をするのだから、もう私の頑固は周知という事らしい。放っておいて欲しい。
「けど、アメリアはそれで良いんだよ。アメリアは見て見ぬ振りなんて出来なくて良い」
愛されてるねえ、と言うニコラを私は無視しても良いのかしら。
冷たい視線を向ける私とは違い、ギルベルトは気にした風もなく、ニコラを一瞥すると、たださ、と話を続けた。
「アメリアは、少し素直過ぎるんだよ。感情がすぐ行動に出る」
「……短気な自覚はあるわ」
「悪意のある言い方をすればそうなるかもな。……そんな顔するなよ、責めてるわけじゃないんだ」
余程変な顔をしていたのだろう。ギルベルトが困ったように笑う。その表情は、幼い頃に見たエーリアスのそれに良く似ている。
「悪い事を見過ごせない、その正義感に救われることもある。けど、耐えなきゃいけない時もあるって話」
若草色に少しだけ影が落ち、その色が深みを増す。一瞬、目の前の幼馴染が、自分とは違う世界にいるような気がして、心に不安がよぎった。
私の知らないところで子爵子息として生きてきた彼は、想像もつかないような出来事があったのだろう。私が布切れに囲まれ、のうのうと笑っていた時、彼は既に貴族社会の一員として過ごしていた。
その事を思うと、少しだけ胸が痛んだ。
「ディートハルトは偉そうだけど嫌なやつじゃないから、恥をかかされたと因縁付けてきたりはしないと思う。けど、世の中はいろんな奴がいるからさ。……偉そうな事を言ったけど、俺はただ、アメリアには自分も大事にして欲しいんだ」
目を瞑って、耐えることで守れるものもあるよ、とギルベルトは苦い笑みを浮かべた。
ああ、本当に……この男は、私に対して過保護だ。
ギルベルトの怒っている理由が私を慮ってのものだと気付き、どうしようもなく困った。
この優しさを向けられる理由が、私がアメリアだから、というだけなら、きっと私は納得できただろう。
けれど、私はアメリアだけれどアメリアではない。
『私』というアメリアに向けられる、この優しさを素直に享受できる程、私は可愛げがないみたいだ。
気恥ずかしさを隠すように、私は「具体的には?」と話を進める。そうだな、と小首を捻るギルベルト。寄せられた眉根は、先程のニコラと同様に自分だったらどうするかを考えているのだろう。
「オレだったら、少し様子を見るかな」
「傍観ってこと?」
「というよりは、静観かな。あまりに酷いようなら声をかけるけれど、できるだけその場は穏便に済ませたい」
まるで私のやり方が過激みたいじゃないか。確かにカッとなってしまった自覚はあるけれど……あるな。感情と行動が直結しているという、ギルベルトの言葉が否定できないじゃないか。
慰めるように和らぐ若草色の目に少しだけ癒され、続くギルベルトの言葉に耳を傾ける。
「後で、できるだけ遠回しにディートハルトへ伝えるよ。さっき使用人たちが集まっていたけど、何をしていたんだろうねって」
「そんな言葉で通じるかしら」
「詳細はわからなくても良いんだよ。何かあったってことが伝われば、それを調べて解決するのが主人の役割なんだから」
「そういうものなの?」
「そういうものなんだよ」
そう、と頷く。ともかく、今回の私の行動がとてもお節介だった、という事はわかった。
正直、ギルベルトの話を全て納得したわけではない。言いたい事はわかるのだけれど、わざわざ遠回り過ぎないだろうか。何があったのか、はっきり伝える方が親切な気もする。
「少し遠回りをするくらいが良い時もあるさ。近道ばかりが正解じゃないって事」
「……肝に命じておくわ」
納得したわけではないけれど、ギルベルトの忠告を無駄にもしたくない。もう一度ゆっくり自分で考えてみる。
そう告げれば、ギルベルトは嬉しそうに「うん」と頷いた。ニコラがどこか寂しそうに口を尖らす。
「なんか、私だけ保身ばっかりで情けない気がする」
そんな事ないよ、と二人でニコラのご機嫌を直すのに、少しだけ苦戦したのは言うまでもない。まったく、大人なんだか、子供なんだか……。
その日の放課後のこと。
「……フォーゲル? ああ、彼女なら隣のクラスだよ」
ありがとうございます、と小さな声と共に、彼は丁寧に頭を下げた。長いクセのある白銀の髪がふわりと揺れ、月明かりのように青白い角にかかる。
踵を返した彼の背から垂れた、従者クラスの制服である黒い燕の尾が翻った。
「アメリア・フォーゲル様……」
薄い唇から零れ落ちるように紡がれた名前。
それが私に届くまで、後もう少し——……




