15話
カロリーナは室内の惨状を見ると、困ったように「あらまあ」と頬に手を添えた。
「お、はようございます、お義母様。今日はお体の調子がよろしいのですね」
「おはよう、アメリア。心配かけてごめんなさいね。体調はいつも通りなのだけれど……大きな声が聞こえたものだから、少し様子を見に来たのよ」
「……き、聞こえてましたか」
お恥ずかしい、と俯く私にカロリーナはやはりどこか困ったように笑う。
そこでようやく、先程まで見えていた小さな影がいつの間にか居なくなっていることに気付く。
「あの、アドルフは、」
「私とすれ違いに出て行ったようだけれど、何があったのかしら?」
穏やかに、けれど誤魔化しなどは効かなさそうな空気を匂わせるカロリーナ。思わず背筋が伸び、それだけで冷静になれた。声色を整え、はっきりと答える。
「大したことではありませんわ、お義母様。ただの姉弟ケンカです」
「……けれど、それは貴女の朝食よね? アドルフがやったのかしら」
「アドルフは袖を引っ掛けてしまっただけです。故意にやったことではありませんわ」
そう、と静かに呟くカロリーナ。軽く伏せられた長い睫毛の下で、彼女は何を思っているのだろうか。
ややあって、やはり体の調子が良くないのか、カロリーナは自室に戻ることを告げる。付き添おうかと手を差し出せば、やんわりと断られた。
「ビアンカとドーリスは私の部屋へ。話を詳しく聞かせて頂戴。それから、アメリアも」
どこか申し訳なさそうに、カロリーナは眉を落とす。
「食事が終わったら、少しお話ししましょう」
「…………はい、お義母様」
「ふふ、そんなに畏まらないで。それでは、先に失礼するわね」
ビアンカとドーリスが、慌ててカロリーナの行く手を支え、扉を開ける。ゆっくり歩む彼女の背が見えなくなり、ラーラに食事の支度ができたと声をかけられる。そこでようやく気付いた。
私が呆然としている間に、いつの間にか床もテーブルも片されてしまっていた。
しまった、やられた。
まるで時間を止められていたように錯覚する程、カロリーナの存在は私の意識を全て持って行った。貴族令嬢らしからぬ私の行為を、止めることなくやめさせた。
もしあれが意図的なものであれば……いや、仮に意図的でなかったとしたら、それはそれで凄いとしか言いようがない。
侮れぬ義母の能力に、私は密かにゾッとした。
「お入りなさい」
緊張で麻痺するかと思った舌は存外肝が座っているようで、いつも通り美味しい朝食を頂いた。その後、呼ばれていた通りにカロリーナの私室を訪ねる。
扉の中では、カロリーナが揺り椅子に座り、ドーリスにお茶を淹れさせていた。ビアンカはすでに席外しており、部屋には二人だけだ。
失礼します、と入室する私に彼女は目の前の柔らかそうな椅子を勧める。
「ごめんなさいね、こんな格好で」
「いえ、それよりも起きていて大丈夫なのですか?」
「ええ。たまには体を起こさないと、頭に血が上ってしまうわ」
くすくす、と笑うカロリーナ。ドーリスは私の手前にお茶を置くと、カロリーナのひざ掛けを正し、静かに退室する。
私がひと口、喉を潤すのを待ってから、カロリーナはゆったりと口を開いた。
「二人から話は伺ったわ」
「……そう、ですか」
こういう場合、なんと答えたら良いのだろう。
自分に悪いところがあるとは思っていないが、やはり暴力に訴えたところは、カロリーナの教育方針的にどうなのだろうか。アウト? セーフ?
窘められる覚悟で来たものの、少しだけ居心地が悪く、カップの中身に視線を落とす。
ふ、とカロリーナの息を吐く音が聞こえた。
「ごめんなさいね」
幾度も聞いた言葉が、これまでとは違う響きで耳に届く。
はっと上げた視線が捉えたのは、いつもと同じどこか申し訳なさそうなカロリーナの顔。その儚さに、思わず息を飲む。
「私たち、貴女を傷付けてばかりだわ。……そんなつもりで呼んだわけではないのに」
「そんなっ……お義母様は何も、」
「ありがとう、アメリア。でもね、子どもの責任は親の責任だわ。私が不甲斐ないせいで、あの子も、貴女にも余計な傷を負わせているの」
目を伏せるカロリーナ。そんな彼女の表情に、私はぐっと唇を噛んだ。口惜しいことに、私はその言葉に心の何処かで賛同している。
シャルロッテが亡くなり、アドルフは心に傷を負っている。それを抉るかのように、同じ魔力持ちを直ぐ養子に取るだなんて、正直おかしい。家族を亡くしたのは、何もアドルフだけじゃない。カロリーナやリヒャルトにとっても、シャルロッテは大事な娘だった筈だ。
だと言うのに、何故、こうも平然としているのか。平気で私に笑いかけられるのか。
彼女たちがそういう人間なのだとしたら、そうでないアドルフの方が正常だ。
けれど、その残酷な彼女たちの選択が、私の望みを叶える事に繋がっているというのも、また皮肉なものだ。
「シャルロッテを失って、もう一年近いとはいえ、あの子にはつらい思いをさせてしまっている。けれど、それは貴女につらく当たって良い理由には、」
ならないわよね、と切なげに話すカロリーナに、私ははたと思考を止める。
「一年?」
「え? ええ、……正確にはまだ一年経っていないのだけれど、あの子が他界したのは今年の初めだったから」
それが何か、と小首を傾げるカロリーナに、私は慌てて首を横に振る。そうか、ここでもズレがあるのか。
以前語ったように、アメリアの幼少期については然程詳しく語られない。プレイヤーもそこまで興味のある内容ではないからだろう。
それでも、アメリアは亡くなったシャルロッテと入れ替わるようにしてフォーゲル家にやって来た、とゲームでは記されている。
養子を取るにしては短い期間だろうが、それでも一年近く経っていれば、そんな言葉は使わないだろう。
ならば、本来アメリアはもっと早くこの家に来ていたのだ。という事は、もっと早く、魔術刻印が現れていたのだろう。
私とは違う、水の刻印が。
袖の下の刻印を、確かめるように左腕に触れる。しかし、そこに触れるものは何もない。指先に感じたのは、ただ質の良いシルクの手触りだけだった。




