14話
ガチャン、と音がして、ひっくり返った皿が目の前で落ちる。いや、落ちたのは食器だけでは無い。白い上品な皿に盛られていた、朝食にしては少し重めの料理が、見るも無惨な形で上等な絨毯へと投げ出された。
「あ……っ!」
小さな悲鳴と共に皿を落としたのは、疑うまでもなく、目の前の小さな男の子だろう。想定外の事に対応できず、湖水色の目が狼狽する。
いつもの悪戯の一環だったのだろう。私の食器を弄ろうと手を伸ばし、思いの外早く私が現れたので、慌てて手を引っ込めた。
その際、貴族らしい豪勢な袖周りの装飾が、予期せぬ形で食器を動かした。連鎖するようにグラスが倒れ、皿を動かし、一番テーブルの端に近い皿を落とした。
私の朝食となる筈だった皿を。
フォーゲル家に来てから一ヶ月半、私は規則正しい毎日を送っていた。起きる時間はいつも同じで、朝支度をドーリスに手伝って貰い、朝食に行く。
けれど、今日は偶然寝坊をしてしまった。いつもの時間に合わせて食事の用意をしてくれているであろうシェフに申し訳なく、すぐに行くから先に出して置いてくれと頼んでしまった。
それがいけなかった。
いつもは置いていない食器と急ぎ足で現れた私に、アドルフはいつもの悪戯を失敗させてしまった。食卓も床も、倒れたグラスやぶちまけられた食事で地獄絵図となっている。
いつもは冷ややかなアドルフの顔も、やってしまったと言いたげだった。
これは、さすがに謝るだろう。
そう思った矢先、アドルフは椅子から転げ落ちるように飛び降り、そのままこちらに向かって足早にやって来た。
そして——……
「ちょっと、どこ行くの」
「ッ!」
私の脇を通り過ぎようとしたアドルフ。さすがに腕を掴み、こちらを向かせる。思わず脅かすような低い声が出て、アドルフの肩が揺れた。
潤んだ目に一瞬同情心が湧いたものの、すぐにその目は睨むように鋭くなった。まだそんな顔をするか。
「言うべき事があるんじゃない?」
「っアメリアには関係ないでしょう!?」
冷ややかな私の声に、アドルフは掴まれた腕を振り払う。同時に、私の堪忍袋の尾が切れた。
弾かれた右手で拳を握り、そのままアドルフの頭を殴る。ゴッと良い音がした。
「関係ないわけないでしょ!? あれ誰の食事だと思ってんの!!!」
アドルフの胸倉を掴み、食卓を指差す。ビアンカの小さな悲鳴が聞こえた気がしたが、それも私の怒号に飲み込まれる。
「作ったのはシェフのフランツ! 運んだのは誰!? ディアナ? ラーラ? 少なくともアンタじゃないでしょ!?」
視線を使用人たちに向ければ、彼らも動揺した様子でおろおろとする。けれど、言葉使いすら正せない私に彼らを気遣う余裕はなかった。
「皿に盛られていたクルトンひとつにだって膨大な数の人が関わってる! それがわからない!?」
小麦の町出身者として、食材を無駄にするような事は見過ごせない。どれだけの人が頭を抱え、より良い麦を作ろうと必死になっていたかを知っているから。汗水垂らして働いても、天候ひとつで全てが台無しになることもある。虫が大量発生する事も、病気が流行る事も、稀ではない。
小麦ひとつでこれだけの苦労があるのならば、今落ちた皿一枚で、どれだけの人の艱難辛苦があったことだろう。
それをひっくり返しておいて、謝罪のひとつもないとは、人生舐めてんのか。
「仮にフォーゲル家で使われている小麦がうちのじゃなかったとしても、手間暇は同じだわ! 彼らの努力を水泡に帰したってんなら、それ相応の態度ってもんがあるでしょう!」
眼前で怒鳴られ、湖水色の瞳はすっかり怯えの色を映している。しかし、それでもまだ反論するだけの意地は残っているらしい。
たどたどしく、震える声でアドルフは言葉を紡ぐ。
「い、今まで散々無視してたくせに、いきなり、そんな、あ、姉みたいなことをっ……他所者のくせに!」
「やられてんのが他所者の私だけだったから無視してたんでしょ? アンタの気持ちだって理解できなくないし」
だけどね、と再び語調を強める。
「今回アンタがやった事は、多くの人を巻き込んだ所業だわ。挙句、散らかしておいて自分はさっさとトンズラかます気? 片付けすら人任せの奴が、偉そうな事言ってんじゃない!」
掴んだ胸倉を揺さぶれば、とうとうアドルフは唇を強く噛んだまま俯いてしまった。泣いているのかもしれない。
けれど、ここで追随の手を休める気は無い。
「アドルフ、言うことがあるでしょ」
まだ決定的な言葉を聞いていない。
急かすように名前を呼べば、もごもごと口の中で何かを言う。聞こえない、と静かに圧をかける。
きっと、アドルフは「僕」と言いたかったのだろう。けれど、ぼ、と聞こえた時点で、私は「は?」とその声を遮った。
「『ぼ』じゃないでしょ? 『ご』でしょ?」
ほら、と再び急かすように揺さぶる。少しだけ気を取り戻したらしいドーリスが、慌てた様子で「お嬢様、もうそろそろその辺で……」と仲裁に入る。
甘い! と彼女を叱責しようと顔を上げた瞬間だった。
「ごめん、なさい……」
小さな、透き通る謝罪が聞こえた。
ドーリスと二人、揃って視線をアドルフへ戻す。私より低い位置にある顔は俯いてしまっているせいでよく見えない。けれど、子供らしい丸い頬に濡れた跡はなく、鼻をすする音も聞こえない。
ゆっくりと右手から力を抜いた。くしゃくしゃになった胸元を軽く整える。跳ね除けられるかと思ったが、特に何も言われなかった。
屈むようにして、目線を合わせる。アドルフは泣いていなかった。
元々、反省はしていたのだろう。
あの時のアドルフの顔は、本当に動揺していたから。けれど、素直に謝ることができなかったのは、意地と焦りが邪魔をしたせいだ。この場に私がいなければ、きっともっとすんなり言えたに違いない。
全く、どこまでも可愛くない義弟だ。
今にも溢れそうな湖水の目に、私は笑う事なく言った。
「もう、怒ってないわよ」
私はね。
付け足した言葉に、アドルフはゆっくり使用人たちを振り返る。慌てて彼らも同意する。成り行きをはらはらしながら見守っていた彼らは、ようやく時が動き出したかのように汚した床や食器を片し始める。
そんな彼らに近付き、私も膝を折った。
「ごめんなさい、フランツ。本当に悪いのだけれど、もう一度食事の用意をお願いしてよろしいかしら?」
「勿論ですよ! それより、お嬢様! 片付けは彼女らがやりますから! 手が汚れます!」
手伝う私を止めるフランツ。けど、元々は私たちの姉弟ケンカだからね。責任は自分たちで取らないと。
手が汚れたら洗うから良いわ、と言えば、ドーリスに「そういう問題じゃありません!」と怒られてしまった。
ドーリスのお小言に返事をしながら、お前もやらんかい、とアドルフのいた場所を振り返る。
しかし、そこに居たのはアドルフでなく、部屋で休んでいるはずのカロリーナだった。




