10. ドロゼウス子爵令嬢マチルダ(2)
ドロゼウス子爵令嬢マチルダだけはまだ学園にいた。どうしても婚約者のクライヴにサインを貰わねばならない件があったからだ。
「スピカ侯爵令息クライヴ様におかれましてはご機嫌うるわしゅう」
マチルダからの呼び出しに応えてくれたためしのないクライヴを呼び出すために、わざわざ学園に連絡をお願いすること五回。ようやく呼び出しに応じた婚約者を訪ねて学園が用意した個室に入ってみれば。
「用件はなんだ。さっさと終わらせろ」
ソファについてふんぞり返るクライヴと、彼の膝の上にはなぜか男爵令嬢ピピナが乗っかっていた。開いた口が塞がらないとはこのことである。
(家の用事だとはお伝えしたはずですが?)
しかし、仕事は仕事だ。マチルダは心を無にして割り切ることにした。
「本日は父の名代として参りました。こちらの書類を確認の上、サインをお願いいたします」
本来は当主同士が交わす書類なのだが、マチルダの父は例の地面陥没の復旧作業のため領地から離れられず、スピカ侯爵の方は宰相の業務が忙しく息子にと言付けられたのである。
「わかった。見せろ」
ソファから立ち上がりもせず、ニュッと手を伸ばすクライヴに、マチルダは「ええと……」と膝の上に乗っかっているピピナに目を向けた。
「申し訳ありませんが、領地の機密に関わる書類ですので、ロマーナ男爵令嬢には席を外していただきたいのですが……」
怒るだろうなぁと思いながらもそう言えば、案の定クライヴはカッと眦を吊り上げた。
「貴様はこの心優しいピピナが書類を盗み読みすると思っているのか!!」
「ひ、ひどいです!!」
ピピナまでどういう仕組みなのかブワッと目から涙を溢れさせて、ギュウとクライヴに抱きついた。
「貸せ!!」
怒鳴りつけるが早いか、クライヴはマチルダの手から書類の束をひったくり、ピピナを膝に乗せたままパラパラと捲り、乱暴な筆致でサインをした。
「これで文句はないだろう。消えろ」
(えぇ……)
マチルダはチラリと膝の上のピピナに目をやった。彼女の表情はピンクブロンドの髪の陰になって見えなかったが。
(こんな横柄な人で本当にいいのでしょうか……?)
確かにクライヴは見目は良いかもしれないが、婚約者への態度が……いや、婚約者ではなくても態度が最悪である。マチルダは、仮に自分がピピナの立ち位置でも、ここまで激しく二面性があって、相手によってはドン引きするほど横柄になる人間は無理である。絶対苦労するもん。
(でも、サインはもらえましたし)
マチルダが書類で許可を求めたのは、魔晶石をペリクルス新道建設プロジェクトに提供することと、魔晶石運搬船の曳船である。
あれから待てど暮らせど領境の陥没災害の支援は届かず、かと言って重い魔晶石運搬に適した道は他にない。やむなく、領境を流れるテレーズ川支流の川岸に臨時の桟橋を拵え、魔晶石を積んだ船を両岸から綱で曳く――曳船運搬することに決めたのだ。両岸――スピカ侯爵領側も綱を曳く人足が踏み入るので、領主であるスピカ侯爵の許可が必要だったのである。
大河テレーズ川は、フランゴ橋を少し東に過ぎた地点でこの支流と本流に分岐する。支流は本流に比べて川幅が狭く、また流れがさほど急ではないため曳船が可能なのだ。これで、重い魔晶石を領外に運べる。
と、そこでマチルダは一つ大切なことを言い忘れたことに気づいた。
(夏至祭に参加できないと、お伝えするのを忘れました……)
チラとさっき出てきた個室を振り返ったが、今戻れば罵声を浴びるのは間違いない。それに、ピピナの前で切り出すのも何となく癪だ。
(いいわ。お手紙を書いておきましょう)
夏至祭まで日には余裕があるし、クライヴが自分にドレスを誂えるとも思えない。パートナーだって困りはしないだろう。何なら手紙を読まなくたってたぶんクライヴ的には問題ない。
(私が出すことに意味があるのですものね)
こちらに非がないことが大事なのだ、とイリスが言っていた。迷惑にならない時期に報せを出し、礼を尽くしたなら、たとえ相手が手紙を読まなくてもマチルダの責にはならないのだから、と。
「クライヴ様にお手紙を書きますわ。確認なさいますでしょう?」
幸い、ここには監視の名目で常に国王から派遣された文官がついている。証人として利用するとしよう。
テレーズ川支流の方にはいくつか橋がかかっておりますが、曳船もできる川幅なので、エノア橋以外はすべて跳ね橋です。




