あの頃のこと
あれは私が成長に伴って日に日に膨れ上がって姿を変えていく性器の形に怯えていた中学生の頃のことです。女性器の形の変化は取り返しのつかないことのようで、子どもの私が永遠に失われてしまうのだと思うと、恐ろしくて夜も寝つけなくなったりしていたのです。
人間の肉体は日々変化していきます。あなたも今日、私にあって老けたなと思ったでしょう。いいんです、嘘つかなくても。そうなっていくものですから。でも小学校くらいまでは、時間が無限であるかのように感じていたんでしょう。毎日は永遠に続いていくように感じていたのでしょう。子どもの私にとっては自分が大人になるなど夢物語でしかなかったのです。終わりのないたおやかな幻想の世界に包まれていました。その終わりのない世界が中学校に入るくらいから急に、しかも自分の肉体の変化という内側からの原因で浸食され始めたのです。
自分の性を知るということは、自分の死を知るということ、というのは言い過ぎでしょうか。でも確かに当時の私を捕えていた不安や恐怖はどこか死の臭いがしました。
もちろん私は優秀な子どもではありませんでしたが、それでもあの頃までは世界が自分に期待をしてくれているような、少なくとも両親は自分のために働いてくれているような、自分の時代が遠い未来に訪れるような、そんな気がしていたんです。それが私の意志にかかわらず母親になる準備が勝手に始まっていたと知ったとき、私もまた自分の子のために命を捧げるように創られた生命の鎖の一つなのではないかという気がしたのです。主人公の役から下ろされてしまったようでした。
男の人にはそういう感覚はないんでしょうか。あなたはどうやって思春期をむかえましたか。覚えてない? そうですよね。私の話も後の私の解釈が入り込んでどこまでが本当にあったことなのか分からないぐらいですから。
世界中のすべての少女が自分の肉体の変化という恐るべき状況を克服して大人になっていけるというのはほとんど奇跡みたいですよね。
でもある時期からふとどうでもよくなるのです。女性器の形がいくら醜くても、陰毛がもじゃもじゃ生えても、生理中におぞましい臭いがしてもそういうものだと納得してしまうのです。多くの人間はそんなに長い間苦しんでいるほど根気のある動物ではないのかもしれませんね。
今になって思うと性器の形だけではなくて、あの頃の私は全体的にひどく醜い少女でした。何で笑うんですか、今も変わらないって言いたいんですか。確かに今もそんなに綺麗ではないですよ。あなたはそう思いながら私の話を聞いているんですね。でも当時の私は他人に自分を美しく見せようということにまるで関心がなかったのです。ひょっとすると関心を持ってはいけないと自分を抑えつけていたのかもしれません。ただ制服を着て寝癖もろくに直さないで登校していました。カロリーも気にせず、ガツガツ食べました。クラスの男子とも随分がさつな口調で話しました。大口を開けて笑いました。男子から「あいつは実は男だ」なんてからかわれるような少女でした。
私が子どもっぽい少女だったのは弟がいたためかもしれません。いくら学校で友人たちと男女の噂話をしたところで家に帰れば弟とテレビやおやつのことで馬鹿らしい喧嘩をしたりしているのですから。弟とは仲が良かったと思います。弟は気が弱いくせに妙にプライドの高い生意気な子でした。一人では何にも出来ないくせに、それを認めたがらないのです。でも私がかまいすぎていたのかもしれません。
もちろんもう就職していますよ。それどころか近々結婚するらしいです。やっぱりその婚約者に威張ってそれでいてべったり甘えているんでしょう。今では私に何の音沙汰もないです。結婚の話も母親と電話で話していて初めて聞いたぐらいです。
別に愚痴を零しているわけではありません。
話が逸れましたね。
そうです。私はまったく色気のない少女だったんです。お化粧をすることにも何となく引け目を感じていました。いつかは自分も化粧をして綺麗な女性になると信じていたのですが、そのときはまだまだずっと先のことだろうと思っていました。
ある日です。学校で友人の、あれ、不思議ですね。名前が思い出せません。あんなに沢山話したのに。どうして思い出せないんだろう。すみません。でも名前なんてあなたにとってはどうでもいいですよね。それでも記憶がなくなっているのは何か恐ろしいです。本当に彼女と仲良しだったんです。でも覚えていないということは、彼女との時間は今の私にとってどんな意味があるのでしょう。そうして私自身も多くの人たちに忘れられていくんですよね。
また笑う。下らない感傷ですか? そうかもしれないです。そんなこと考えても何の得もないですから。
その友人、Aでいいですか。Aに秘密の話があるとメモを渡されました。わくわくする響きですね。秘密の話。当時はまだそんな言葉だけでも心を躍らせていたのです。今は秘密の話なんて言われたら、それだけで面倒くさい気がしてしまいますが。
Aのことを少し説明しましょう。Aとは小学校からずっと一緒でした。といっても私の町は小さい田舎町なので私立にでも行かない限りは小、中と一緒なのですが。特に仲良くなったのは中学に入ってからでした。痩せていて、少し神経質な顔立ちでした。でも綺麗な子でした、少なくとも私よりは。私と友達だったくらいですからやっぱり地味な、どちらかといえば大人しいタイプです。ちょっとしたことをとても気にして不機嫌になるところがあり、それでたまに戸惑うこともありました。言ってみれば気分屋だったのです。でもそうした面は私を含めた親しい人に対してしか見せませんでした。
わりとあなたの好きなタイプの女の子かもしれません。ダメですよ、否定したって。あなたがどんな女の子が好きかくらい分かります。
授業中にノートの切れ端のメモを回して私に話があると知らせてきたのです。女の子ってそういう間接的なコミュニケーションが好きですよね。休み時間まで待って直接言えばいいのにわざわざ紙を回すんです。
そして私たち二人は休み時間にトイレに行きました。あの頃、なぜか私たち二人はトイレでよく長話を話したりしていたのです。狭く閉ざされた空間が私たちを安心させたのかもしれません。臭いですか? 女の子のトイレは臭くないんです、男子トイレと違って。
もちろん嘘ですよ。真に受けないでください。
体育館のすぐ横のトイレはあまり人が来なかったので、私たちはそこに行きました。そこはもともと古い私の中学校の校舎の中でも特に古い建物だったんですけれど。
洗面台の前で、Aは髪を梳かしながら私に話します。
「ねぇ、今日子。あなた、二組の坂口くんと仲良いの?」
その髪を整える手と表情、鏡を向いて決して私の顔を見ない彼女の仕草がなぜか少し恐い気がしたんです。それで焦って言いました。
「え、坂口くんて、タカシ? 仲良いって、まぁ家が近くで親同士が親しかったから」
言い訳のような口調になりました。
「何、怯えた声になってるの。別にあなたが坂口くんと付き合ってるなんて思ってないよ」
Aは鏡に顔を近づけて眉毛を整えていました。
「何とかならないかなぁ、彼」
「え、タカシに何かされたの?」
「そうじゃないよ。私、彼のことが気になって仕方ないの」
「タカシが? あんなだらしないやつなのに」
言ってからタカシと呼び捨てを連発していたことに気がついてAに馴れ馴れしいと思われないか心配になりました。
「私のことどう思っているか聞いてよ。それとなくでいいいから」
「自分で聞きなさいよ、何で私が」
「あなたは坂口くんと幼なじみなんでしょ、それとも彼のこと好きなの?」
「そんなことあるわけないじゃない、子どもの頃から一緒に遊んでたのに」
「じゃあいいじゃない。ちょっと聞くだけ」
「いいけど」
「本当?」
Aは振り向いて私を見ました。こういう瞬間、友達って何なんだろうと私は思ってしまいます。私がAを友達と思っているなら、タカシに話をつけてあげるべきでしょうか。彼女が私を友達だと思っているから私に話したのでしょうか。私は彼女にただタカシと親しいというだけでいいように利用されたような気がしてしまうのです。もちろん私だって気づかないうちに他人の気持ちを無視して相手を利用してしまっているのかもしれませんけれど。
タカシとは、Aに言ったとおり親同士が仲が良く、まだ小学生になる前からよく遊んでいました。Aがタカシを好きだと言ったとき私は本当に驚きました。タカシをそういう対象として見たことがなかったからです。タカシと話をするときは他の男の子と話すときと違い、何の抵抗もなく緊張もなく、まったく気が楽なのです。異性としての緊張が二人の関係からまるで抜け落ちているのです。弟に接するのと変わらない感じなのでした。
そのタカシをAが好きだと言うのです。私の知らない間に彼も成長して男になってきていたのです。私はそれを見ないように見ないようにしていたのかもしれません。確かに体は小学生の頃よりずっとガッシリしてきて私よりも低かった身長もいつの間にか抜かれていました。それでも恋愛の対象として考えるとどうしても気が抜けて笑ってしまいます。
例えば血の繋がった兄妹でも離れ離れで育てば恋愛感情を持つ可能性が大いにあるけれど、血が繋がっていない兄妹でも一緒に育てばその可能性は少なくなるという話を聞いたことがあります。幼児期をともに過ごした記憶は人を恋愛感情から遠ざけるのでしょうか。
ただ、中学に入ってそれぞれ違うクラスになり以前ほどタカシとは会わなくなっていました。それだけではなく、女と仲良くするなんてかっこ悪い、という気持ちが小学生の高学年頃からタカシに少しずつ芽生えていったような気がします。特にタカシが他の男の友達といるときにはそうでした。でも二人で会えば相変わらず昔と同じで男も女も関係ないように馬鹿な話をして大口を開けて笑います。そんなタカシにどんな顔をしてAの話をすれば良いのか私は困りました。
冷静に考えてもAは随分変わった趣味をしていたと思います。タカシは確かに顔は少しは整っていたかもしれません。でも何事にも無頓着で、髪もボサボサで、女の私を平気で叩いてきます。あんな男やめたほうがいいとAに言いたかったですが、嫉妬だと思われそうで言えませんでした。
嫉妬。本当は嫉妬もあったかもしれません。でもそれは私が異性としてタカシを好きだからではなく、私と子どもの頃から遊んでいたタカシが、私をおいて一歩先の世界へ大人の世界へいってしまう気がしたからです。もう少し、タカシと子どものままで遊んでいたかったのでしょう。
でもこれは今の私の解釈です。当時はただ漠然と少しの淋しさと不快感があっただけでした。
私は通学路でタカシを待っていました。私たちは徒歩で通学していました。それでも二十分くらいはかかりました。タカシはたまに遅れそうになると自転車を使います。ただ私の中学の自転車置場はとても狭く、よほど遠くからの人でない限り自転車で通学してはいけないと言われていました。
私たちの町は海に面していました。夏になると海水浴客で溢れかえります。私たちは二人で帰るとき少しだけ遠回りして海沿いの道を歩きました。入学当初は一人で帰るときも海を見て歩きました。でもそれもしばらくすると飽きてきて一番早く帰れる海を通らない道を歩くようになっていきました。
私はその日、海へ出る道に繋がる十字路でしゃがみこみ、タカシを待っていました。タカシがどちらの道を選ぶか分からなかったからです。もうすぐそこを曲がったら空が広がって潮風が感じられる場所です。私はアスファルトの上で風に運ばれてきた砂を弄りながらタカシのことを考えていました。
私は今もそうですが人を待つのは好きではありません。待たされると、私の方はその相手のためだけに時間を割いているのに、相手の方は私のことなんか気にせずに自分の好きなことをやっているのだという気がして、自分は何て惨めなんだろうと感じてしまいます。
ただその人のために空いた時間。
あいつはまったく何をやっているんだろうと、約束をしたわけでないのにタカシに腹を立てていました。何度も帰ろうかと立ち上がりました。
でも不思議なのですが、私は一人でじっとしていること自体は決して嫌いではないんです。むしろ頼まれもしないのにただボーっと二時間も三時間もぼんやりしてしまったりするんです。ただ人を待つとなるとやたらにいらいらしてしまって。ごめんなさい、あなたが今日遅れたことを文句言っているわけじゃないんです。いや、本当は少しだけそれもあるかもしれないですけれど。
タカシは遠くからいつものようにゆっくりとガニ股で歩いていました。私を見ても急ぐ様子もありません。時間を見ると二十分くらいしか待っていなかったんですが、私はもうAとの約束などどうでもよくなるくらい何だかとっても疲れてしまいました。
「何してんの」
タカシがのん気に話しかけてきました。本当に私は何をしているんだろうと思いました。タカシは私の正面に立ちました。
私も立ち上がりました。
「具合悪いのか?」
「別に」
「変なやつだな、帰らないのか?」
「帰る」
「じゃ早く帰ろうぜ」
「うん」
タカシの帰ろうぜは、まるで私たち二人が同じ家に住んでいるみたいな響きでした。それを聞いて私は何となく元気が出て海の方に歩き出しました。
「ちょっと待てよ、いきなり急ぐな」
タカシは私の後を追ってついてきました。Aの話を聞いた後だからでしょうか、タカシに対して奇妙な壁ができて緊張してしまっていました。それが腹立たしく、馬鹿馬鹿しく、気持ち悪く、私はタカシを気にせずにぐんぐん速く歩きました。
海岸沿いの車道になっている堤の縁を海風で髪を目茶苦茶にされながら歩いていきました。
「待てって。おい、今日子。三組って英語レッスン3もう終わったんだろ、訳持ってない?」
「そんなの自分でやりなさいよ。ためにならないわよ」
「別に俺外人と話したくねぇし」
車がすごいスピードで私たちの横を走っていきました。私は立ち止まってタカシの方を見ました。タカシも立ち止まってこちらを見ていました。
そのときふと気が付いたのです、彼が私の体を見ていると。私の顔を見ているのではなく、私全体を見ているのではなく、強い風でセーラー服が体に貼りついて浮き上がった私の体を。
確かにそれは昔のタカシは決してしなかった目つきでした。その頃にはいつもそんな目で私を見ていたのか、そのとき初めてそうしたのかは分かりませんでした。ただ人間同士の関係なんてどんどん変わっていってしまうものなんだろうなと思いました。
「どうした」
「いや、別に」
「今日何か変だぞ、何かあったのか?」
「知らないよ」
私はまた歩き出しました。後ろからついてくるタカシが制服のスカートから伸びる私の足を見ているのではないかという気がして歩調は早まっていきました。まだ強く海風が吹いていました。
タカシに対して怒ったり不潔だと思ったりといった感情はありませんでした。そうなっていくものだと思っただけです。でもそれはとても悲しい気持ちでもありました。私はそのままタカシを一度も振り返らずに別れ際はじゃあねと怒鳴るように言っただけで家に帰りました。家に帰ってもただいまも言わないで自分の部屋に入ってドアを閉めました。やっぱり私の知らないところで私の意志とは無関係に内側から私の体は変わっていくのです。それは仕方ないことなのです。私の体が変化していくことで、周りとの関係も変わっていくのでしょう。でもそれが恐かったのです。取り返しのつかない、戻れない場所へ、自分自身の変化によって連れていかれてしまうなんて。
何言ってるんだこの女は、って思ってるでしょう。そんな厚い化粧して男を誘っているお前がって。でももう当時の私には戻れるはずがないんですから、私はこうするしか仕方ないんです。今はもうかなり諦めがついてきているのでしょう。どんなものも変わっていくんです。それは辛いし恐いことだけど、年をとるにつれてどうでもよくなってくるんですね。確かに老けていくのは嬉しくはないですけど、もうそのことで悩んだりはしていません。すべてが変わってしまうのなら、私だけじゃなくて世の中に絶対とか最高とか完全とかはありえないですから。
でも中学の頃は知識では女性の体がどう変っていくか知っていても自分が実際にそうなっていくのはやっぱり嫌だったんです。あの頃の私は私なりに完結した子どものままの自分の世界があってそれを崩されたくなかったんでしょう。
しばらくベッドに突っ伏してから私は起き上がってタンスを開いてその扉の裏側の姿鏡に自分を映しました。随分久しぶりに自分の全体像を見た気がしました。
それは醜い少女でした。脂肪で二の腕はぶよぶよで顔は真ん丸、脚なんか今の倍くらいあったかもしれません。髪の毛はぼさぼさで、額にいくつもニキビができていました。すねにはうっすらと黒い体毛が生えていました。でも胸は確かに膨らんでいました。子どものように容姿に無頓着な様子とは裏腹に体は着実に熟れはじめていたんです。私は何て醜い体なんだろうか、よくもこんな体で毎日外を歩けたものだと絶望的な気持ちになりました。
タカシは何でこんな体を見ていたんでしょう。男の人は女の体を見てどこが楽しいんでしょう。考えてみると今でもそれは不思議ですね。そういうものだと納得していたけど。素朴に十代の頃みたいに考えるとやっぱり女には男の性欲って分からないのかな。
とにかく私が自分を醜いとはっきり自覚したのはそのときでした。その感覚は自分の肉体が変化していく悲しみと比べると、悔しさや憎悪といった気持ちに近かったと思います。何かひどく悔しいのです。自分が美しくないことが理不尽に感じられたのです。
「あぁ、今日子帰ってんじゃん」
いきなりうるさく廊下を歩く音がしたかと思うとドアが開いて弟が入ってきました。
「あ、なに鏡なんて見てんだ今日子。気持ち悪いなあ」
「何が今日子よ、お姉ちゃんって呼びなさい、お姉ちゃんって。勝手に人の部屋入ってこないでよね」
私は入ってこようとする弟の頭を抑えて廊下へ突き返しました。
「いったいなぁもう。ねぇ、今日子、じゃなくてお姉ちゃん。かき氷つくんだけど食べない?」
「かき氷ってアンタまだ五月でしょ。今からそんなもの食べてたら夏どうするのよ」
「手伝ってよ」
「分かったわよ。先行ってて。冷蔵庫から氷出していなさい」
弟はまた大きな音をたてながら廊下を駆けていきます。何も変ってはいないではないか、ずっとこんな感じで暮らしてきたじゃないか、ふとそういう気もしました。でも、それは自分を慰めるための嘘だと分かっていたのですけれど。
次の日重い足取りで学校に行きました。Aにもタカシにも会いたくありませんでした。それでも学校に行きました。あなたは結構自由にやりたいように生きてきたのでしょう。行きたくなければ学校に行かなかったのでしょう。でも私は行くんです。行きたくなくても行くんです。行ってずっと保健室で寝ていたとしても行くのです。最後の最後で現状を維持しようと守りに入ってしまうのでしょう。よく真面目だよねと言われていました。そう言われるといつも好きでやっているんじゃないんだよって心の中で思いました。
今? 確かに昔と比べると好きなことをしているかもしれません。昔ほど守るものが無くなったんでしょうか。始めからそんなものなかったということにやっと気付いたということでしょうか。自分のことに前ほど関心が無くなったのかもしれません。だからあなたなんかにつけ込まれるんですね。愚痴が多いですか。話を続けましょう。
私の思いとは裏腹にAは一時間目の後の休み時間にすぐに話しかけてきました。それも当然ですよね。彼女もまた恋で心を掻き乱されていても立ってもいられない気持ちだったのでしょうから。でもそのときの私は少しもそうは思えずにうんざりした気持ちになりました。
彼女はまた私をトイレまで引っ張って行きました。今度は面と向かって聞いてきます。
「ねぇ、坂口くんどうだって?」
「ごめん、まだ聞いてない」
「え、だって昨日帰りに聞くって言っていたじゃない」
Aは呆れたような失望したような顔をしました。そして不機嫌そうに私から目を逸らし鏡に向かって髪を手櫛で撫で付けました。
「タカシと会ったんだけどこういうの言い出しにくいじゃないやっぱり。だってタカシとそんな話したことないし」
「あなたは恋する苦しみが分からないから、私が毎日どんなに苦しいか分からないからそんな暢気なこと言ってるんだわ」
じゃあ自分でタカシに言えばいいと喉まで出て言えませんでした。何で私はこの人と友達なんだろうと思いました。私から望んだわけではないし、Aが私と友達になったのは彼女は自分の言うことに黙って従う人を欲していて、そのときたまたま近くにいたのが私だったからというだけじゃないかと思いました。何で私はそんなことをAに言われなければならないんだろう。私だって恋愛くらい。
「ただ私のことをどう思うかって聞くだけなのよ。いきなり私から告白したら驚くでしょ。ただ気持ちを聞くだけ。お願い、今日子、こんなこと頼めるのはあなたしかいないんだから。私、信用出来る人少ないから」
またそういう甘い言葉で私を騙す。ひょっとするとAが私と友達になったのは私がタカシと知り合いだったからかもしれないとさえ思えてきました。早く一人になりたかったです。Aとこれ以上一緒にいたくありませんでした。だからまた頷いたんです。馬鹿だと思うでしょう。嫌なら断ればいいのに。
「分かったよ。聞いてみるけど」
「本当、本当に今日聞いてくれる?」
「もし帰りにタカシに会えたら」
「お願い、私最近全然眠れないの、彼のことばかり考えちゃって、馬鹿みたいね」
Aは少し淋しそうに笑ってトイレから出ていきました。私は去っていく彼女の白いソックスを履いた細く締まった足首を見ました。彼女は白くほっそりとした美しい脚をしていました。それに改めて気が付きました。そして自分の太い脚を見下ろしました。
あなたには恋する苦しみが分からないから。
確かにあのときの私には分かっていなかったのかもしれません。でもそんな風に言われたことがトイレに一人残されてとても腹立たしく思えてくるのです。なに偉そうに自分だけ大人ぶって分かったような顔して。本当に今考えてもAと友達でいたことが不思議ですね。でも狭い教室の中で友達を一人失うということは当時の私にとってはとてつもない恐怖だったんだと思います。
恋愛の苦しみ、そんなものはその後嫌というほど味わうんです。楽しみの方はほんの少しだけ。みんなそうなのかな。そんなことないですか。私が暗い恋愛しかしていないからですか。でも楽しみはほんの少しだったけれど大切な思い出も幾つかあるからそれでもかまわないんです。
少し遅れて教室に戻るとみんな着替えを始めています。次は体育でした。そう、ブルマですよ。なに嬉しそうに笑って。あんなもののどこがいいんですか。男子は教室で女子は更衣室で着替えることになっていました。だから少し遅れていった私は男子の着替え中に教室に入ってしまい冷やかされました。
「誰もアンタの裸なんか見たくないわよ」
などと男子に言いながら慌てて自分の体育着をロッカーから出して廊下に出ました。男子だけの教室は何か甘ったるい気持ちの悪い臭いがしました。
急いで着替えて校庭に出るとどんと後ろからぶつかられ、胸をつかまれました。
「今日子、胸大きい。うわぁふかふか」
活発な明るい女の子でした。確か松田さんか松山さんという名前だったような気がします。彼女を含めた数人で誰が一番胸が大きいか話していたらしいんです。
「いや、私太ってるだけだから」
「そんなことないよ」
手を離した後も松田さんは私の前に回って私の胸を覗き込みました。
何か申し訳ないような、何で私だけこんななんだろうって恥ずかしいような気持ちでした。確かにもっとずっと大人になってからはこの胸のおかげで男性が寄ってきたことはありましたよ。ひょっとするとあなたもそうですか。別にそれでもいいですけど。周りの女子たちに胸が大きい大きいと言われて、私はただ黙って笑っていました。そうするしかなかったんです。
その日の体育は周りのクラスメイトたちの体が気になって仕方ありませんでした。彼女たちの肩、腰、太股、足首、髪、頭の大きさ、肉体の一つ一つが目に付いてしまうのです。気が付いてみれば人間は何て様々な体を持っているのでしょう。誰一人同じ体形の人はいないのです。みんなまったく別々に凸凹の体でそれでも一緒の体育着を着て動いているんです。
中には驚くほど均整のとれた、すらりと伸びた白い手足、つややかな髪、引き締まった腰、何の欠点もないような肉体を持った少女たちもいました。それから逆にどう見ても極端に醜くボテッとお腹まで出た少女もいました。
美、というものは時代によって変わると言いますよね。私はそれをあまり実感出来ないんです。やっぱりいつの時代も美しい人は美しく醜い人は醜いとしか思えません。どうしてこんなにも肉体の美しさに差があるのでしょうか。私の体は他の人と比べてどのくらい価値があるのだろうかと考えたりしました。
もちろん授業には上の空だったので、幅跳びだったんですけど全然飛べなかったです。
松田さんはとても美しい少女だったんです。彼女と並んだとき、校舎の理科室の窓ガラスに二人の姿が映っているのが見えました。それはまるで別の生き物みたいでどうしてこんなに違うのか可笑しいほどでした。私は自分がこんなに肥えた体で変な髪形をして背中を丸めてずっと学校に通っていたのかと思うと、一人で鏡を見たときよりももっと惨めな気持ちにさせられました。どうして私はこんなに余分な脂肪を貯える必要があったのだろう。こんなんじゃなかったはずだと、生まれたままの私はこんなにべっとりとした贅肉を体にへばりつけてはいなかったはずだととても惨めな気持ちでした。
「ねぇ、どのくらい飛べた?」
いつの間にかAが笑顔で近づいてきました。そうです、彼女は私の友人だったんです。
「いや、全然だめ。全然飛べないよ」
更衣室で着替えて、それまで少しも気にしなかった髪形を気にしながら私は他の女子たちと教室に戻りました。まだ男子は半分ほどしか帰っていませんでした。みんな汗をかいて教室中がむっとする熱気で包まれていました。
「ちょっとアンタたち暑苦しいわね」
Aは誰に言うでもなく吐き捨てるようにつぶやいて席につきました。私も彼女に続いて下敷きをバタバタ扇ぐ男子たちの間を抜けて自分の席につきました。
そのとき、半裸の男子生徒が汗で濡れた長い髪を掻き上げながら入ってくるのが見えました。中谷くんでした。彼は体育着のシャツを肩にかけて、健康的に焼けた小麦色の肌を露にしていました。痩せて骨張った体に少年期特有の僅かな丸みを持っていて、その肩から腰へのラインの美しさが私の目を虜にしました。余分な肉をつけた女の体よりも、本当に美しいのは無駄の無い男性の体なのではないだろうかと思いました。彼の席は私の右側の列の三つか四つ前だったと思います。私はただ中谷くんの体を喰い入るように見つめていました。肩の付け根から僅かに丘のように盛り上がった彼の胸の先に、小さな乳首が日焼けのためか微かに黒ずんでくっついていて、それが完璧とさえ言える彼の体の中で可愛らしかったのです。彼の首から肩にかけては半ば大人の男性のような強靱さを持ち、半ば少女のように華奢であり、小作りの顔とさらさらの髪と調和して眼が眩むほどに美しかったのです。私は近づくことも目を逸らすこともできず蛇に睨まれた蛙のようにじっと彼を見ていました。タオルで体を拭く彼の肉体の動き一つ一つが奇跡のようでした。私は自分が今どこにいるのかすら忘れました。
「ちょっと今日子、なに中谷くんの体じろじろ見てんの」
松田さんが言いました。皆が一斉に私を見ました。
「いや、そうじゃなくて」
恥ずかしくて言い訳も出ませんでした。どうしていいか分からなくなり下を向きました。中谷くんは戸惑った顔でこちらを見ました。早くチャイムが鳴って授業が始まればいいのにと思いました。それでも彼の体を見ていたときの恍惚感は消えずに俯く私の体の奥で仄かに燃えていました。
私はしばらく意地悪な女生徒たちにからかわれていました。私は反論出来ずに黙っていました。Aはちょっと気まずそうな顔をして、それでも黙って机に座って自分の手を眺めていました。中谷くんは中谷くんで男子生徒にからかわれていました。彼には本当に悪いことをしたと思います。ただそれも先生が教室に来るまでの間でした。そこから何事もなかったように次の授業が始まります。ただ、私の出席の返事は僅かに裏返っていました。
その日の帰り道、私はまたタカシにAのことを聞かなければいけないのかと重い気持ちになりました。足を引き摺るように前の日待っていた交差点まで来ると、タカシがいたのです。
「よぉ、今日は俺が待っててやったぜ」
「いいわよ。別に待っててくれなくて」
「何だよ、嬉しいくせに」
「はぁ? 何言ってんのアンタ」
「またすぐ怒る。何か最近今日子変だぞ。それで今日待ってたんだ。昨日さよならも言わないでどんどん帰っちゃったからさ」
「別に何でもないよ」
「本当? ならいいんだけど何かな。俺のこと怒ってる? 」
「何で」
「何か不機嫌だよな」
私たちは並んで歩き始めていました。私がこうして不機嫌な対応を出来る相手といったら、弟以外にはタカシしかいませんでした。二人はいつもの海岸通りを歩きました。そうしてタカシと二人で私は何度この道を歩いたでしょう。あるときはタカシの影を踏んで、あるときはタカシの足音を聞いて、そしてあるときはこうして肩を並べて。
「なぁ、お前、今日、中谷の裸をじっとすごい目で見てたんだって」
その話が出てくるとは思いませんでした。
「その話、ウチのクラスまで回ってきたよ」
「なに馬鹿なこと言ってんのよ。ちょっと考えごとしててボーッとしててたまたま中谷くんを見てたからからかわれただけよ」
タカシの前だとすんなり言い訳が出るのです。
「男の体に興味あんのか」
急にタカシの声が低くなった気がしました。
「俺の体見せてやろうか」
それは変声期を過ぎた男の声でした。
「そのかわり、お前のも」
何かいつもと違う空気が流れていました。私は慌ててその空気を払拭するように、
「何言ってんの、いやらしいわねぇ」
と言ってタカシを両手で突き飛ばしました。タカシは笑いながらそれでも本当によろけて倒れて海岸の砂浜の方に転げていきました。私は慌てて後を追いかけました。途中でタカシがわざと転がっていることに気が付きました。波の間近まできてタカシは止まりました。
「何やってんのもう。少しも成長しないんだから」
寝転ぶタカシを見下ろしていいました。
「こうして下から見るとさ、今日子は随分成長したな。いつの間にそんな胸大きくなったんだ?」
「また、最近アンタずっとそんなことしか考えてないの」
私はタカシの脇腹を蹴飛ばしました。
「痛いな、冗談だよ冗談」
「もう私帰るからね」
タカシをおいて、私は海岸を歩き始めました。
「待てよ、怒んな、怒んな」
タカシは慌てて追いかけてきました。堤の歩道には戻らず砂浜の上を波打ち際に沿って歩いていきました。
私の体は日に日に変わっていってしまうのに、海は私が子どもの頃に遊んだときのまま少しも変わらないように見えることが悲しかったです。大きくなって着られなくなった大好きだった服のように、海はもう私が無邪気に遊べるようなものではなくなってしまうんじゃないか、タカシとも昔のようには遊べないんじゃないかという気がして、過去はどんどん私から離れていくのに未来は何も分からずただ真っ暗で恐ろしい気がして、ひたすら早足に海岸を歩いていきました。もう一度タカシと海で遊びたかったのです。何もかも忘れて自分なんかいなくなってただ空と海に包まれて遊んでいたかったのです。でも知らない間に私は欲しくもない沢山の荷物を抱えてしまっているように感じていたんです。だからもう両手がふさがっていてボールも取れず、体が重くて足下がふらついて岩場を飛び回ることもできないみたいでした。そう感じていたんです。かってに考え込んで気持ちが老けこんでいたんですね。今の私から見ればまだまだ羨ましいくらい若かったのに。
その日もそのままタカシと二人で海を通って帰りました。でもその日はしっかり笑って「さよなら」と言えました。人と一緒に帰ると別れて一人になったとき、始めから一人で帰るときよりずっと淋しいから嫌です。タカシと別れると私はすぐに駆け出してそのまま家まで走り続けました。
その日家に帰るといつもと違い弟が寄ってきません。母に聞くと友達の家に遊びに行っていると言います。珍しいこともあるものだと自分の部屋に戻りました。
ベッドに仰向けになると中谷くんのことが浮かんできました。それまで彼のことをそれ程特別に考えたことはありませんでした。でも、不思議なことに、彼の顔が頭から離れないのです。こんなはずではありませんでした。いくら頭から振り払おうとしても消えません。
私はベッドから上体を起こし自分の頭を掻きむしりました。何だか泣きたくなりました。中谷くんと話した今までの数少ない記憶が脳裏に浮かんできました。彼の言葉の一つ一つが思い出されました。彼がどんな顔で笑うのか、どんな横顔をしていたのか、どんな後ろ姿をしていたのか、中谷くんのイメージが私の意志とは無関係にとめどなく湧いてきました。何も考えられなくなりそうでした。早くテレビでも見てこんなこと忘れてしまおうと私は立ち上がり自分の部屋を出ていきました。
中谷くんは私のクラスの多くの女子から慕われていました。足が速くて運動神経がよかったと思います。小、中学校ってスポーツの出来る子がかっこよくなかったですか? 運動神経の鈍い男子は大体野暮ったかったと思います。あなたは運動が出来なかったでしょう。女の子に好かれるようになったのは二十歳過ぎてからじゃないですか。そんな感じしますよ、そうでしょう。
中谷くんはかっこよくて運動神経が抜群で、彼がバスケをやっていると女子がみんなずらりと見に行くといったような人でした。性格もいたってさわやかな好人物だったと思います。捻くれきったあなたの中学生の頃とは違って。怒らないでくださいよ、きっと本当のことでしょう。中谷くんはちょっと不良っぽい仲間と付き合っていたんですが、田舎の町ですし、そんなに悪いことをしてたわけじゃなくて、活動的で社交的なタイプの男子でした。
女子ともよく話す人でした。中学ぐらいになるともう女子に全然話しかけなくなる男子とかもいましたから。でも彼は気楽にくったくなく女子と話します。さっき出てきた松田さんなんかのグループと仲が良かったです。やっぱりかっこいい人が多い男子のグループは綺麗な子の多い女子のグループと付き合うものですよね。あの頃からみんな分相応ってことを何となく理解しているんでしょう。
でも中谷くんは彼に釣り合う子からも釣り合わない子からも慕われていました。ちょっとしたアイドルですよね。それでいて少しも嫌味なところのない人でした。あなたの中学時代の方がきっとずっと嫌なやつでしたよ。
それまで私はそんなクラスのアイドルなんて少しも関心がなかったんです。なに騒いでいるの馬鹿みたい、と言っている方だったんです。騒ぐのを恐がっていたのかもしれません。自分に相応しくないって思っていたのかもしれません。そして自分に釣り合わないかっこいい男子に憧れる女子たちを軽蔑してたのかもしれません。
例えばテレビでアイドルのコンサート映像とかが流れることがありますよね。その時一瞬映る狂気のように叫ぶファンの女の子たちのあまりの醜さに驚いたことってないですか。その後また嘘みたいに美しいアイドルたちの笑顔に画面が戻ったとき、この人はあんなに狂った醜い化物みたいな人たちに騒がれて何やってるんだろうとひどく歪な構図に思えてくるのです。
中谷くんを取り囲む少女たちにも私はそんな醜さを感じていたのかもしれないです。あんな風に自分の欲望を身の程をわきまえずに他人に曝したくはなかったのです。でも彼女たちも本当に心から中谷くんのことが好きなのかどうかは疑問でした。手に入らないものだからこそ安心して望めるということがあるでしょう。中谷くんは決して彼女たちのものにはならないから、好きでいられるのかもしれないです。本当の恋愛をするにはまだ準備期間中だったんですね。でもいつの間にか私もそんな醜い少女たちの仲間入りをしたのです。それは耐え難いことでした。それでも頭の中の中谷くんは消えてくれないのです。
テレビは私を他の世界に連れていってはくれませんでした。少しも内容に集中できずにチャンネルを何度も変えました。いらいらとした気持ちが募っていきました。じっと座っていることさえ辛い気がしました。大袈裟に言えば、中谷くんがどうだというだけの問題ではなく、私の存在そのものの苦しみのような気がしました。孤独とか言えばひどくチープに図々しく聞こえるかもしれませんが、私というこの肉体は何て独りなんだろうと思いました。テレビの音よりも、時計や切れかけた蛍光灯の泣き声、外を走る車の響きが耳に伝わってきました。母は買い物にでも行ったのか見えません。見下ろす私の手足は太っていてパンパンでカサカサでした。耐え切れずに立ち上がって洗面所に行き顔をむやみに何度も洗いました。顔を上げると濡れた髪がしなしなに顔にへばりついて目を赤く腫らした下膨れの女の顔が目の前にありました。
こんなはずじゃなかったのに、こんなはずじゃなかったのにと呟きました。
私の人生ってなんだろうと感じました。私は生きていて、この先も生きていく、でもそれはどういうことなのだろう。
昔、大きくなればいつか自分も美しくなると漠然と思っていました。しかしいつの間にか私の周りの少女たちはみな美しくなっていたのです。Aだって私よりずっと綺麗な少女でした。私は惨めな姿のままでした。自然に美しくなるのではなく、自らを美しくしなければならないことに気が付きました。私のような女は、年頃になればどんな男も振り向くような美しさを神から与えられるというわけではなく、自らを美しくしなければならない義務、あるいは罰を与えられているのでした。私に与えられたものはごく僅かで、それでも美しくならなければ皆に馬鹿にされ蔑まれ男の人からも相手にされない。ずっと先のことだと思っていたのに、もうすでに私は女になる年を迎え始めていたのです。こんな顔では中谷くんに会えない、こんな顔では誰からも愛されない。ぐちゃぐちゃと髪をかき、また顔を何度も何度も洗いました。
その日は夕食をとりませんでした。母に呼ばれてもお腹が空いていないといって断りました。母は心配して体の具合が悪いのかと尋ねてきました。私は昼間お菓子を食べ過ぎたのだと嘘をつきました。夕食中、ずっと二階の自分の部屋で机に向かっていました。下で弟の笑い声がしていました。
夜中、お腹が空いて耐えられなくなり下におりて冷蔵庫からチョコレートを出して食べてしまいました。その後激しい罪悪感が私を襲いました。しかし暗い台所の中、冷蔵庫の明かりのもとで食べるチョコレートの甘さはいつまでも口の中に残って消えませんでした。
朝、遅刻しそうだといって食事を取らずに家を出ました。髪はやっぱりあんまり上手く整えられてはいませんでした。いつも以上に憂鬱な気分でした。私の太った体のことも中谷くんのこともAのこともタカシのことも何もかも嫌だと思いました。それでも学校に行ったんです。我慢強かったんですね。そんな状態になったら今の私だったら絶対行かないですよ。でも落ち込んでいるときにはいつもと同じ生活をするのは重要だという気がします。一人でいると本当にどんどん絶望的な気持ちになってしまいます。一人で部屋にいると自分の存在自体がとてつもなく恥ずかしくなって、じっとしていられないけれど動きたくない、考えたくないけれど頭が勝手に動いてしまうような、どうしようもない状態になってしまいます。だから外に出て何かしたり誰かと話したりする必要があるんです。一人にならないために。
学校に着くと早速Aに捕まりました。またトイレに連れていかれました。Aは前より強い口調で私の目を見て脅すように聞いてきます。
「ねぇ、聞いてくれてた?」
私は目を逸らせます。鏡に自分の顔が映りました。昨日の夜、散々見つめた自分の顔。何度見ても美しくはなってくれなかった自分の顔。
「どうだったの、今日子」
Aは私の顔を覗き込むようにつめよって来ました。視線を下げると視界の下に自分の大きな胸が入ってきます。
「ちょっとどうだったの、聞いてないの?」
なぜこんな目にあわなくてはいけないんだろう、というやりきれない気持ちを抑えて私は口を開きました。まるで自分が話しているんじゃないみたいでした。
「あんまりよく知らないから分かんないって。そんなに印象ないからって。無関心そうに話してたよ。でもまるっきりダメって感じでもなかったかな。今、別に好きな子とかいないみたいだし、でもどうかなぁ、『Aって人知ってる?』って、さり気なく聞いただけだから。そんなに深く追求したわけじゃないし。やっぱりタカシのどこがいいのかな。そんなに面白いやつじゃないよ。別に文句をいうわけじゃないけど」
途中からもうAは私の話を聞いていないみたいでした。私を見るのをもう止めていました。私は次から次へと口を動かしていました。喋りやめるのがなにか恐いようでした。ほんの少しの安心と後味の悪さが残りました。
授業中、中谷くんが気になって仕方ありませんでした。いくら我慢してもいつの間にか彼の方に目を向けてしまうのです。彼の後ろ姿を眺めてしまうのです。
彼がちょっと横を向いたときのその横顔は、神に感謝したくなるような、なんて不信心の私が言っても何の重みもありませんが、どうして自然はこんなに美しいバランスのとれた生き物を創りえたのかと信じられないような感動がありました。多分、一時間でも二時間でも、いや一日でも一週間でも見続けていられるに違いないと思いました。
でもまた周りの人たちに気が付かれたらいけないので必死の思いで彼から目を背けるのです。目を背けても頭の中は彼のことでいっぱいになってしまい、Aに嘘をついたことも私が醜いこともすべて頭から消えて甘く切ない恍惚感だけが体中に込み上げてきます。ずっと彼を眺めていたい、ずっと彼の見える場所にいたいと願いました。授業をとても短く感じました。
何だか初恋の話みたいな感じになってきましたね。何ですかその顔は。やきもちを妬いているんですか、ずっと前の話なのに。男の人ってどうしてそうなんでしょう。違うって? 何か不機嫌そうな顔ですよ。隠さないでください。タバコ吸って誤魔化さないで。
でもあのときのような誰かに対する強い気持ちはもう持てないでしょう。いや、持たなくてもすむと言ったほうがいいでしょうか。打算がありますね。気持ちも打算に影響されるようになってしまいましたから。それにその人の全体をもっと見るようになって。男の人の悪いところを随分見せられてきましたから。あなたからもね。別に男の人が嫌いになったわけじゃないんですよ。ただそんなに真剣に相手も信じられないし自分の思いも信じられないと言うことです。つまらない女になったかもしれませんね。楽にはなったのかもしれませんけれど。
家に帰りました。その日はタカシとは会いませんでした。あの十字路でタカシが待っているかといつの間にか期待していました。誰もいなくてぽっかりと心に穴が出来て広がりそのときに突然の嵐のように再び中谷くんのイメージが流れ込んできて、私は帰り道の土手でしゃがみこんでしまいました。淋しさ、空しさを埋めるために中谷くんへの気持ちが私をとらえるのでしょうか。眩暈がするくらいの激しい感情が私を締め付けて立ち上がれませんでした。それは激しさを増すにつれ、中谷くんへの思いかどうかも分からないようなただ恐ろしいエネルギーの塊になって圧迫してきました。このまま私はどうなるんだろう、このまま私はどこに行くのだろう。とめどなく湧き起ってくる激しい気持ちに支配されるままに心の中で叫んでいました。
部屋に入ると引き出しを開けお金を探しました。私は友人たちとそれ程頻繁に遊びに行くわけではありませんでしたし、そのときまでファッションにも気を使いませんでしたので、お金はあんまり使っていませんでした。でもあまり沢山はありませんでした。親からのお小遣いが少なかったからですね。少なくても使わないのでやっていけるから増やしてくれと頼まなかったのです。その少ないお金をつかみ出しました。それを数えて、お財布にしまって、急いで服を着替えてまた階段を駆け降りました。
「あ、今日子、どこ行くの?」
後の弟の声を無視して家を出ていきました。
私の最寄りの駅から一番近い大きな地方都市のターミナル駅まではだいたい一時間かもう少しくらいです。私は電車に乗りました。普段はほとんどそこまでは行きません。クラスメイトのごく少数の人たちはわざわざ一時間以上かけて遊びに行ったりしているようですけど私にはそんな行動力はありませんでした。でもその日私は電車に乗りました。普段乗らない電車の中はただでさえざわついていた私の心を揺さぶりました。無理矢理何も考えないように、周りを意識しないように駅で買った少女マンガを読みました。でも絵と字を追っているだけで少しも内容が頭に入って来ませんでした。それでも必死に話を追っていきました。一時間はとても長かったです。
街は当然のことですが人でいっぱいでした。今まで全然気にしていなかったのに擦れ違う人たちの容姿や服装がむやみに目に付きました。みんな感心するほど上手に着こなしているのです。自分はこんなみすぼらしい格好で歩いていいのかと恐ろしくなり、通りの隅に隠れるように進んでいきました。私の田舎町に比べて街には鏡がとても多いことにも驚きました。みんなそれだけ自分の容姿を気にしているのでしょうか。どこのお店も鏡や反射するガラスが貼られ私の惨めな姿を映し出します。私はそんな自分の姿を他の人たちと見比べてしまい、また残酷な悲しみに打ちひしがれるのでした。
行く先は決まっていました。以前ローカルテレビで紹介されていた美容室でした。その店の美容師は以前東京の有名なヘアサロンに勤めていたらしくこの辺りの中では一番の人気店でした。恥ずかしいですけれど私はそのときまで家のすぐ近くの床屋に行っていたのです。子どものとき、休みの日父親に連れられて行っていた床屋にずっと通っていたのでした。
何度か道に迷って絶望的な気持ちになりながらもやっとその美容室に辿り着きました。私は床屋と美容室の区別もつかなくて、三色ポールを目当てに探していて、それでなかなか見つからなかったみたいでした。
そこは私なんかが入るにはかなり勇気がいるようなお洒落な店でした。三十分近く店の前を行ったり来たりしてどうするか悩んだと思います。そのためにわざわざ来たのに。清水の舞台から飛び降りるつもりになってやっと中に入っていくと、カラーのYシャツにネクタイを締めたスマートなお兄さんが私の相手に出てきました。三十分ぐらい待つことになると言われました。もっと早く入れば良かったと思いました。
待っている人のための椅子に腰掛けると私の他に女性が二人順番を待っていました。一人はOLらしくスーツでタバコを吸っていてひどく疲れた顔をしていました。考えてみると、当時はまだ禁煙じゃない美容室があったのですね。あまり綺麗な女性ではありませんでした。お化粧が肌から浮き上がっているようでした。ときどきタバコをくわえるときに見える不健康な歯茎と口紅でべっとりぬられた唇の色の極端な違いが私をゾッとさせました。もう一人は学生のようでした。高校生か大学生かは分かりませんでした。とても派手な色の服を着ていました。どこで売っているのか分からないような変な形の靴を履いていました。彼女の髪は青でした。奇抜なメイクのために彼女が美人なのかそうではないのか私には分からなかったです。彼女は貧乏揺すりをしながらファッション雑誌を読んでいました。私は二人の間で緊張で泣きそうな気持ちで待っていました。
私の番が来ます。お兄さんは私を鏡の前の椅子に座らせると、軽く私の髪を触り、
「どうなさいますか」
と聞きました。当然ですね。美容院というのはそういうところです。でも私はそれで動揺してしまいました。何て言えばいいのか、ヘアスタイルの名前なんて全然知らないし、そもそも具体的にどうしてもらおうかなんて考えてこなかったんですから。あのときの私には「お任せします」ぐらいのことも思いつかなかったのです。私の怯えた様子を見て取ったのかお兄さんは優しく笑って今度は強くくしゃくしゃと私の髪を触りながら言いました。
「そうですねぇ、ちょっと重い感じがするかな。全体にボリュームを落として前髪を揃えて、あと軽く染めてみたらどうでしょうか」
帰り道は街の鏡やショーウィンドウを見るのが嬉しかったです。鏡を見つけるとわざわざ立ち止まったりしました。ありきたりな表現だけど私じゃないみたいでした。ただ髪型と比べ服はあまりに野暮ったくて嫌でした。家に帰ったらもっとマシな服がないかタンスを引っ繰り返してみようと思いました。
親? もちろん怒りました。そう特に母親なんかカンカンでした。そんなに凄く、金髪にしたとかそんなわけじゃないんですよ。ちょっと明るくしたくらいなんです。でも私が中学の頃ですからね。今の親とは少し感覚が違うのかもしれないです。
「何この娘は一人前に色気づいて」とまで言われました。これはひどい言葉です。母親は意識していなかったでしょうけれど、とてもひどい言葉です。色気づいちゃいけない、異性を求めてはいけない、自分を美しくしようと思ってはいけない、一体誰が他人にそんなことを言っていいんでしょうか。でも一番悲しいのはそう言われた私がその通りだと思ってしまうことです。一時間もかけて街まで行っていつもの床屋の三倍も出してわざわざ髪形を変えたことが、ひどく恥ずかしい身の程をわきまえないことに思えてきて、自分は何をやってるんだろうと思ってしまうことです。
弟は「不良だ、不良だ」と私の周りを走り回り髪に触ろうとしました。父親はただ無口に不機嫌でした。この家では私は髪形を変える必要はないのです。そして親たちは家の中の私のことしか考えてくれないのです。でも外に出た私は自分の醜さに気がついてしまったんです。母親に怒鳴られて私は二階に駆け上がりました。蒲団に頭を突っ込んで泣こうとしましたが、せっかくの髪が崩れてしまうのがもったいなくて床の上にヘタンと座り込みました。こんなときにもそんなことを考えてしまう自分が惨めでした。床は冷たくて、下の階の静寂が不気味でした。その夜は結局夕食を食べませんでした。
どんどん話が暗くなっちゃいましたね。ごめんなさい。でも懐かしいです。昔の悩みって不思議ですよね。今思えば全然大したことない気がするのに当時はあんなに苦しんでいたんですから。言ってあげたいですよね。別に悩む必要なんてないんだよって。なるようにしかならないんだから。でも今の悩みも十年後の私からみたら他愛のないことなんでしょう。そうやってどんどん色んな悩みが大したことなくなって最後には死んじゃうのかな、それだったら悩んでいたほうがいいのかな。すいません、そんなことはあなたには別にどうでもいいですね。
次の日、洗面台で髪を梳かしているとき、母親が後から睨んでいるような気がして少し恐かったです。通学路を歩きながら不安と期待でドキドキしていました。やっぱり私も綺麗になりたかったんですね。そして綺麗だねって言われたかったんですね。途中で私に話しかけてきたのは松田さんでした。大きな声で指さして駆け寄ってきました。
「ちょっと、今日子じゃない、誰かと思った。もうびっくりしたぁ」
「似合うかな」
私は少し照れて髪を触りました。
「うん、いい、いいよ。前までより全然可愛い。でも急にどうしたの、もう」
「ちょっと気分変えようかなって」
松田さんは私の前を後歩きしながら私を覗き込んでいました。嬉しかったです。本当は笑われるんじゃないかと不安があったのです。
「あ、ねぇタカコ、見てよ。今日子ヘアスタイル変えたのよ。全然イメージ変わったよね」
松田さんは会う人会う人に言いました。悪く言う人はいませんでした。みんなが誉めてくれました。でもだんだん気付いてきました。よっぽど変な髪形にしないかぎり髪を変えた知り合いを会ったそばからけなす人っていないですよね。
ただAは無関心でした。私の髪型のことは一言も触れずに相変わらず自分のことを話していました。そんなAを見て、私にとっては大きいことでも彼女にとってはどうでもいいことなんだなと思うと、他の人たちが色々と褒めてくれるのもただの社交辞令で別に関心があるわけじゃないに違いないんだと、浮かれていた自分から我に返ったような気がしました。
中谷くんがどう思うか知りたかったですけれど、結局彼とはその日も次の日も話せませんでした。私はもともと中谷くんと数えるほどしか話したことはなかったので、私が髪形を変えたところで彼がそれを指摘してこなくても当然なんです。でも髪型を変えたこと自体は満足でした。もっと頑張ろうと思いました。中谷くんが私を見てくれるように頑張ろうと思いました。
その日から私はダイエットを始めました。近所の本屋で人目を気にしてキョロキョロしながらダイエットの本を買いました。それからかなり頑張ったと思います。その月に5キロくらい落としました。もともと懲りはじめると止まらないんですね。昼食はまったくとらなかったですし、夕食も親に怒られながらほとんど食べませんでした。
自分が太っていることを意識しはじめると、まるで自分の体の表面に脂ぎった膜が張られていて、外の世界に直接触れられず息苦しくてたまらないような気持ちの悪さを感じるようになりました。何で私はこんな不自由な姿をしているんだろう、早くこの息苦しい膜を破って外に出たいと思ったのです。それはもう一時も我慢出来ない強い感情になって、私が自分の食欲や私を食べさせようとする親たちと戦う原動力になりました。それにしても親たちは一体どうして私を食べさせようとするのでしょう。彼らは私がたとえどんなに醜くて太って周りから馬鹿にされても一向にかまわないのでしょうか。彼らの望みは私が生きていることだけで、美しく生きてほしいとは思っていないんでしょうか。でも振り返ってみれば、確かにあの時は本当に一日中何も食べない日もあったので少しくらいは心配するのも仕方ないのかもしれませんけれど。
体重が減っていても鏡を覗き込むと顔はあまり変わっていない気がしました。まだまだ私は薄汚かったのです。次第に私は食べるということそのものにも嫌悪を感じるようになっていました。何かを口にすること、その行為にもうひどく醜い、豚になったようなおぞましいイメージを持ちました。なぜ食べなければいけないのか。人間が食欲というものを持っていること自体もとても恐ろしく感じました。クラスメイトたちが美味しいお菓子やレストランの話をしているのを聞いただけで嫌な気がしました。
でももちろん食欲がまったくなくなるわけではありません。お腹は空きます。食べたくなくても勝手にお腹は空くのです。お腹が空くといらいらし、ある一線を越えるともう食事をとることが醜いとか太るのが嫌だとかなんてまったく分からなくなってしまって午後や夜中に大量のお菓子をバリバリと食べてしまいます。ひとしきり食事を満たした後、耐え難い嫌悪感に襲われます。私は何しているんだろうといたたまれない気持ちになるのです。
そして心底美しくなりたいと願うのです。
もう食べまいと誓うのです。ただ単に体の美しさだけはなく、空腹のときは心まで清潔な気がしてきます。頭も冴えて世界を淀みのない目で見られる気がします。食べてしまうともう駄目です。その日一日汚れた私でした。そんな無駄な、今思うと無駄な戦いを繰り返していたのです。家族とはギクシャクしてきました。私が家に帰ると弟が美味しそうにタコ焼きを食べているのを見て無性に腹が立ってそれを取り上げて捨ててしまったりしました。弟は狂ったように怒りました。母親も父親も怒りました。私はまた自分の部屋に籠もりました。私は次第に痩せていきました。でも美しくなっていったのかは分かりません。
中谷くんのことはずっと見続けていました。彼が他の女の子たちと楽しそうに話しているのを見ると身を裂かれるような気持ちでした。彼はとても楽しそうな顔をするのです。その美しい顔をくしゃくしゃにして笑うのです。そして相手の女の子たちはあどけない顔で笑っているけれど、本当は中谷くんに好かれようと計算高く楽しそうにしているのが分ってしまうんです。中谷くんを求めているという点では、その子たちと私は少しも変わらないですが、とにかく私は彼女たちを許せないと思っていました。
どうすれば中谷くんと話せるのか私は知らず知らずに考えていました。登校時、下校時、図書館、駅、私は様々な状況で彼と会話をかわすシミュレーションに夢中になりました。もし駅であったら彼は私に話しかけてくれるだろうか。いや、私から声をかけなくてはいけない。「あ、中谷くん、偶然だねぇ、どこ行くの」出来るだけ笑っていつもよく話す友達同士のように話しかけよう、そうすれば明るい社交的な中谷くんだから笑って応えてくれるだろう。「あれ、本当だ、こんなところで会うなんてね」そのとき彼はどこに行くのだろうか。多分お洒落な彼のことだから服やアクセサリーを買いに街に行くのだろう。「うん、ちょっと服買いに。この商店街じゃロクなのないからね」「私もカーディガン買おうと思って。ねぇ、中谷くんはどこの店とかいつも行ってるの」「ええと、ねぇ」彼は説明してくれるだろう。若者たちのよく行く流行りの店を。「私もついて行っていい?」彼は頷いてくれるだろうか、笑っていいよと言ってくれるだろうか。中谷くんと二人で買い物に。中谷くんは私の選ぶものに文句を言ってくるかもしれない。「その色はちょっと他の服と合わせるのが大変だよ」とか「髪形と合ってないじゃない」とか。彼の言う通りにしよう。そうしたら最後に彼は誉めてくれるだろうか、「似合うよ」って言ってくれるだろうか。私の妄想はとめどなく広がっていきます。
この癖は今だって変わっていないですね。好きな人ができればいつだってその人との幸福な未来を夢想してそのくせ実際に相手を前にすればカチンカチンにあがって全然話せなくなってしまって、ちっともこの頃と変わらない。馬鹿みたいですよね。あなたはどうですか。好きな人ができたときに。え、誰も好きになったりしない? 分かりました。そういうことにしておきましょう。あなたは誰も好きにならない人です。そんなこと言って気取っているのってあなたがまだ気持ちが若い証拠ですね。
私は授業中ずっとそんな空想にふけることに夢中でした。中谷くんのことを考えていると時間は恐ろしいくらい早く流れていきました。そんなときは空腹も気になりませんでした。そして彼の後ろ姿を喰い入るように見ていました。私は醜い自分に対しての激しい嫌悪感と、中谷くんと同じ教室にいられる幸福や彼との未来の空想の甘い恍惚感の間を目まぐるしく行ったり来たりしていました。そして精神を激しく磨り減らしていきました。何もしていないのに気持ちは休む暇なんてありませんでした。
夜は眠れませんでした。暗くなればなるほど頭がさえ、頭がさえれば苦しみも強くなり、空腹も追い討ちをかけて、眠ろう眠ろうといくら思っても眠れませんでした。私は学校で居眠りをするようになっていきました。中谷くんが外に遊びにいってしまった昼休みなど私は机に突っ伏してノートに涎の染みをつけながら眠りました。時には起きるといつの間にか授業が始まっていることさえありました。
「今日子、最近いつも寝ているよね、どうしたの? 具合悪いの?」
Aに言われました。Aも私のことを心配してくれたのかと少し意外でした。でもとにかく眠かったんです。
「何か夜眠れなくて」
そう言って私はまた机に倒れ込みます。
中谷くんの夢を見ていました。そして気がつくとそれが夢で自分が教室で寝ていたのだと分かりました。でも私の体には暖かい、優しい中谷くんのぬくもりが残っていました。そのまま私は目を閉じていました。この中谷くんが側にいてくれるという感覚が消えないうちにまた眠りにつこうと思いました。周りは休み時間のようでクラスメイトたちのはしゃぐ声が聞こえていました。どんな夢だったのかは思い出せません。ただ優しい感覚というか、感触といったものだけが私を包み込んでいました。残り香の中にいるという感じでしょうか。ぼんやりとしている私の耳にすぐ側で話している女の子たちの声が聞こえてきました。
「この頃、今日子変わったよね」
「何か寝てばっかりじゃん」
「髪の毛染めたときから? 何かボケッとしてたり反応が異常に神経質だったりしない?」
「勘違いしてるのよね」
「聞こえるって」
「聞こえないよ、ぐっすり寝てるじゃん」
「だって」
「アンタそう思わないの。何があったか知らないけど、調子にのってるよね」
「そう思うけどさぁ」
「でしょ、でも無理があるじゃない。今日子がいくらお洒落したって化粧したって何か違うじゃない。どういうつもりなんだろうね」
「相変らずキツイこというわね。中谷くんのこと好きってのは本当なのかな」
「それで変わったの? あぁ気持ち悪い。中谷くんも可哀想」
「確かにね、今日子がいくら頑張ったって中谷くんが振り向いてくれるわけないに決まってるけど。無駄な足掻きをするところが可愛いじゃない」
「全然可愛くない、何かムカツク」
「ねぇ、起きてんじゃないの? 今ちょっと動いたよ」
「平気、平気。寝惚けてるだけ」
私はずっと顔を上げられませんでした。彼女たちの声が聞こえなくなってもそれでも顔を上げられませんでした。顔を上げてはいけないような気がしました。このままずっと顔を上げないで人生が終わればいいと思いました。そんなときなのに、私の背中に窓から射し込んでくる午後の太陽の光がとても暖かく感じられました。
ふらふらでした。ふらふらと一人家路を歩いていました。でも家に着くことなど少しも想像出来ないような、ただやっと歩いている、そんな感じでした。どうすればいいのか分かりませんでした。どうにかしなきゃいけないのかどうかも分かりませんでした。どうにかすることで自分がどうしたいのかも分かりませんでした。結局何がなんだか全然分かりませんでした。頭はぐるぐると高速で回転しているのに、まったく考えることは要領を得ないのです。道はいつもの道じゃないみたいにやけに生々しく視界に迫ってきて、アスファルトの文字、古びたブロック塀、電信柱、住所の標識、トタン屋根、下水の溝、塀から飛び出た木々、洗濯物、石、空、私の足……。
私一人だけの細い住宅街の道で、周りのすべてが私の神経に直接触れてくるような、私の神経が体を突き破り外気に露出してしまったような抑えがたい気持ちの高ぶりが襲ってきました。一歩一歩が重く伸し掛かり呼吸がどんどん早くなりました。首を動かすごとにズームのように目の前のものが急激に視界に飛び込み世界が縮小と拡大を繰り返しているみたいでした。どうにかしなければ、やっぱりどうにかしなければと思おうとするのですが頭はちっともいうことを聞いてくれないで、こんな時に役に立たないのならなんでこんな重いものをいつものっつけているんだろうなんてつまらないことを考えたりして、空がいつもよりもずっと高くて、中谷くんなんて私に全然関係なくて、私の体は私のものじゃない気がして、空気が澄んでいていつもよりずっと新鮮で、何だか分からない雑音が耳に入り込んで煩くて、目を瞑ると前が見えなくて、見えないけど真っ暗じゃなくぼんやりと光だけが分かって、やっぱり煩くて煩くて、何の音だか分からなくて、しゃがみこもうとしてもしゃがみこんでいる自分と立っている自分がどう違うのかも分からなくて、今自分がどこにいるのかさえ分からなくなって、それでも煩くて鬱陶しくて、子どもの頃は私は足が遅くて、父は優しくて、海の匂いが懐かしくて、煩くて、煩くて、辛くて、悲しくて、分からなくて、とにかく煩くて...
「おい、何してんだよ、呼んでんだろ」
背中に電流のような悪寒が走り私は前に飛んで倒れました。倒れてもビクビクと神経が痙攣しました。
「お前どうした? 大丈夫かよ」
タカシの顔が見えました。私は喘息の小学生のように大きな息を何度もついて気を静めていました。タカシが私の肩に手を触れました。温かい熱が伝わってきました。タカシに触れられている部分から安心がじんわりと広がってきました。ゆっくりとゆっくりと呼吸が和らいできました。
「具合悪いのか。誰か呼ぼうか」
私は正気を取り戻していました。静かに立ち上がってみました。タカシはそっと、少し名残り惜しそうに私の肩から手を退けました。
「お前、痩せたな」
タカシはまるで昔私と肉体関係があったみたいな、私の体のことはすべて知っていたみたいな大人びた口調でつぶやきました。
「大丈夫よ、アンタ大袈裟なんだから。ちょっと立ち眩みしただけじゃない」
喋ると体に力が蘇ってきました。私は歩き出しました。タカシにお礼の一つも言いませんでした。
「本当に大丈夫なのか、もう少し休んでった方がよくないのか」
タカシは私の後に続きます。
「大丈夫って言ってるでしょ」
海に続く十字路を私は曲がりました。海へ向かわない道を選びました。何の変哲もない田舎の住宅街でした。
「今日子、最近変だよな。前と違うよ」
「当たり前でしょ、同じわけないじゃない」
「何か、知らない人みたいだよ」
「よけいなお世話よ。私がどうなろうが関係ないじゃない」
「あんまり無理に痩せないほうがいいぞ。体に悪いよ」
「アンタ、私の親にでもなったつもり?」
タカシは私たちがずっと変わらないでいられると思っていたのでしょうか。もしそんなふうに思えたらどんなによかったでしょう。でもそのとき私は一人になりたかったのです。タカシとはやっぱりもとのままでいることが出来ないと思ったのです。こんな私をタカシに見られたくないと思ったのです。
家に帰りました。弟がいるといいなと思いました。弟をからかって気を紛らわして何も考えないでいられればいいなと思いました。こんな日にかぎって弟はいないのです。部屋の時計を見るとまだ五時でした。早く終わればいいのにと思いましたが、でも一体何が終わればいいのかよく分からなくて、とにかく時間が早く過ぎ去ればいい、目を瞑っている間に何もかも終わってしまえとベッドの蒲団の中に潜り込んで眠りました。
湯槽の中で自分の体を触ると、痩せたのを実感しました。自分の体ではないみたいです。その華奢な腰はこれで生きていけるのかと思えるくらい細くなっていました。子どもの体のようでした。リビングからテレビの音が聞こえてきました。
水の中にいると少しずつ落ちついてきます。そう言うとあなたは母胎にいた記憶とか体の何割が水であるとかいうかもしれません。そんなことは私にはよく分からないですけれども、水の中にいると安心するんです。出たくなくなります。今でもそれは変わっていないです。温泉とかに行くと一時間も二時間も入っていて逆上せて倒れたりしてしまいます。
湯槽から出て体を洗ったときでした。私の手が何の気なしに股間に触れました。じっとりとしめった外陰部の膨らみが、また急に大きくなっていたことに気付きました。恐ろしくなってシャワーで泡を落として、ビクビクしながら覗き込みました。この数ヶ月中谷くんや体重や髪形や服装のことが気になって自分の性器の形が変わっていっていることを忘れていたのです。それは着実に大きく醜くなっているようでした。色も濃くなってきているみたいでした。こんなおぞましいものはもう見たくない、自分の体がこんな不気味に変化していくなんて耐えられないと思いながら、私は目が離せませんでした。私は何かに憑りつかれたかのように、お前の体はこんなに気持ち悪く邪悪なものなんだ、これがお前の正体なんだ、現実を認めて直視しろ、もう戻れないことを知れ、醜さを受け入れろ、どうしようもないことを受け入れろとただずっと性器を見つめていました。まるで睨みあっているみたいに自分の股間を見ていたのです。なかなか上がってこない私を心配した母が声をかけてきたとき、私の体はすっかり冷えて悴んでいました。とたんに気恥ずかしくなり自分が馬鹿みたいに思えて逃げるように浴室を出ました。
「あれ、この鞄、誰のかな」
私が教室に入っていくと中谷くんが皮鞄を持って周りを見回していました。その鞄は私のものでした。信じられない喜びが私の心の中に広がりました。どうしてそんなことが起こったんでしょうか。多分掃除の時に邪魔だったので誰かが教室の隅に退けておいたのでしょう。中谷くんは近くの人に話しかけます。
「ねぇ、知らない? 女子のだよね。見覚えないかな。名前とか書いていないし」
まるで私自身が彼に抱きかかえられているようでした。彼が鞄を触る手つきが直接私の皮膚に迫ってくるようでした。
「開けちゃまずいよね。女子のだし。アクセサリーとか全然つけてないしな」
私の鞄だとは言えませんでした。言えば彼は私の鞄を手放してしまいます。もっと彼に触れていてほしかったのです。もっと彼の温もりを感じていたかったのです。
私は教室を出ました。まるで中谷くんに抱かれているという幸福感を感じながら、中谷くんが中を開けてくれることを夢想しながら。それはまるで私自身の体を見られるような羞恥と恍惚。彼は少し怯えながら、恐る恐る、でも大胆に私の鞄の中身を調べるのだろう、その優しい手つきに私は、って、もうほとんど馬鹿ですよね。そんな中学生だったんです。
話しかければいいのに。「それ私の」といって話しかければいいのに。恐かったんでしょうか。自分なんかが中谷くんと話す資格はないと思っていたのでしょうか。空想の中の快楽なんかよりも彼と直接話せる機会をものにすればいいのに。でもそんなに割り切って、合理的に行動なんて出来ないですよね。今だってそうなのに中学の私にはなおさら無理な話です。
しばらくして戻ると鞄は教室の隅で寝転がっていました。愛されて捨てられた恋人のようだなんて思いながら、私はしばらくその鞄を見つめていました。
そして結局中谷くんと仲良くなんてなれない自分の無力さに気付いたのです。
午後の授業で私は静かに寝ていました。机に伏せて、周りの生徒たちのひそひそしたお喋りを聞きながら。とても穏やかな、ゆったりとした淋しさの中にいました。それは決して不快でも辛くもない、むしろ心地良い淋しさでした。自分の無力を知るということは、束縛からの解放でした。やらされていた仕事を、この先もずっと続くと思われていた仕事をふいにやめていいと言われたような、なんだもう終わりなのかというような拍子抜けした解放でした。何やってんだろ、私は。眠気はやんわりと私を包んでみんな忘れさせてくれるみたいです。私はどうせ彼を遠くから見ていることしか出来ない人間だったのです。彼とは別の種類の人間だったんです。その日も暖かくて、窓からは強い西日がさして、英語の老教師のまったりとした口調が私を深い眠りへと導いてくれました。
眠い目を擦って荷物を鞄にしまい、家に帰る支度をしていました。他の生徒たちはみんなとっくにそれぞれの相手と教室を後にし始めていました。寝惚けた私は帰り支度をしていなかったのです。でもいつもと違い焦る気持ちは少しもありませんでした。Aのために、ちゃんとタカシに聞いてあげればよかったとなぜかそんなことが頭に浮かんできました。自分がとても意地悪で頑固だったように思いました。そのとき誰かが私の机に近づいてきました。私は顔をあげました。
「何だ、その鞄田村のだったんだ」
「え、あ、はい、私のです」
「掃除のとき床に落っこちててさ、誰のか分からなかったから教室の脇に寄せておいたんだけと」
「ごめんなさい」
「別に謝らなくったっていいよ。何かビクビクしてるよなぁ、田村は。僕って恐そう?」
「いや、そんな」
「ま、いいや。鞄汚れてたらゴメンね。でもさぁ、何か最近田村さぁ」
「はい?」
「何か田村って、最近、綺麗になったよな。こっちが話しててドキドキしちゃうよな」
「え」
中谷くんは軽く手を上げ別れの挨拶をして彼の鞄を肩にかけ友人の待つ方へ去っていきました。私は腹の底から空気が抜けていくような変な笑いがこみあげてきて立ち尽くしていました。本当に一体何なんだろう。変なの。私の空気が抜けていくような笑いはいつまでも続きました。喜びでも悲しみでも、希望でも、絶望でもなく、ただ不思議な気持ちでした。何かがもう駄目だと思いました。それでもその駄目な何かがこれからもずっとずっと続いていくのだと思いました。気がつくと教室の電気は消され私一人でした。私は机の上に登って、クラスメイトの机の上を次から次へと因幡の白兎みたいに飛び移っていきました。何でそんなことしたんでしょう。結局最後に机ごと倒れて足を痛めて片足を引きずって帰りました。
具体的な問題があって悩むのはまだいいんです。それは対処する手立てを考えるために悩むのです。でもそのときの私はそもそも何が問題なのか、自分がどうしたいのか、さっぱり分からないで気持ちが落ち込んでいって、ただただ深い深い淵にゆっくりと沈んでいるみたいで、周りの空気がどんよりと重くて、体の感覚はいつもと違うみたいで不安定で、なんだか分からない表現のしようがない感情だけが積もっていきました。自分が何でそんな状態になっているのか少しも分からなかったんです。眠れませんでした。ベッドの上で横になっていることさえ耐えられませんでした。また夜が始まるのです。長い夜です。今夜はいつも以上に眠れないだろうと思いました。
私はこっそりと家を抜け出しました。一時は過ぎていたと思います。家族はみんなの寝ている家の中を忍び足で通り抜けて外に出ました。別に行くところなんてないです。東京とは違って当時の私の町には深夜営業をしている店なんてほとんどなかったですから。あの頃の私の家の近くのコンビエンスストアはしっかり十一時に閉まっていました。行くところもなくただ夜道を歩きました。街灯も整備されていない本当に暗い道です。そして沈んでいった私の心はいつしかくっきりと磨ぎ澄まされて、通り過ぎる家や壁、電柱の黒い影がいやにはっきりとして、そこに暮す人々、暮していた人々、それを作った人たち、その土地に染みついた人々の生活、色々な気持ちが私を捕らえて、ひどく美しくて、そして今のここを歩いている私の一歩一歩がかけがえのない二度と歩むことのない一歩のようで、恐ろしくなるほどすべてを愛しく思ったのです。
そう言えばずっと幼い頃、私はいつもこんな感覚の中で生きていたんだと思い出しました。どうして今まで忘れていたんだろうと不思議でした。子どもの頃、世界はこんなに美しく貴重なものだったのに。私が生まれる前も、そして死んでしまっても続いていくこの世界の素晴らしさと美しさと恐ろしさを私はすっかり忘れて目の前のことしか目に入らなくて、鈍い淀んだ世界に埋もれていたんだと思いました。私は歩き続けました。この黒い空気を切り裂いていくような鋭い感覚で歩き続けました。
まだこの頃の私はそんな子どもの頃の感覚に返ることが出来たのです。だからどんなに打ちのめされても、今とは違い、孤独でも一人ではなかったのです。まだ私を取り巻いてくれる世界と一体になることが出来たのです。
海に出ました。堤を登って海岸まで下りていきました。こんなとき海に行くなんて、単純? あなたはそう思うでしょう。人は単純なものなんですよ。どうして小難しく考えるのですか。あなたは自分が複雑で高尚な人間だと思っているんでしょう。多分自分がごく単純な、分かりやすい人間だと知ったらショックを受けるのでしょう。私は単純です。海まで下りていったのです。夜の海は波音が響き、真っ黒で、沖では大きな波がうねるように立ち上り、どこまでも広がって夜空との境界が曖昧になっていき、まるで現実ではないみたいでした。
小学校二年くらいの頃でした。家族旅行をしたとき、少し酔った父親に連れられて夜の海を見に行ったことがありました。巨大で暗く、物凄い音を立てて何でも飲み込んで無限に永遠に続いていきそうな海を前にして私は泣き出してしまいました。無限や永遠、絶対といったことを感じさせるものは幼い私にとっていつも恐怖の対象でした。帰れなくなる。戻れなくなる。取り返しがつかなくなる。変わってしまうことを恐れていたのです。今の私よりずっと周りの環境と強い感覚で必死に結びついていたのかもしれません。そして、ゆく河の流れは絶えないけれど、でももうもとの水ではないということを知っていたのでしょう。だからすべてこのまま、自分の周りも時間もすべてこのままで移ろわないでいて欲しいという絶望的な願いを抱いていたのです。
でも、海に向き合った中学の私には、その黒く果てのない海は恐怖の対象だけではありませんでした。安らぎでもありました。際限の無い、色彩の区別の無い、ただ波音だけが近くから遠くから響いている海に自らを投げ出せばどんなに気持ちがいいだろう。私はそこで目を瞑り本当に水と一体になる、水に還っていく。
私はゆっくりと波打ち際に沿って平行に歩き出しました。すでに私は歩いている自分を現実感を持って感じることが出来ない状態でした。海岸の果ては見えませんでした。どこまでこの波打ち際が続いているのか分かりませんでした。海岸に面していた車道が陸側に反れていき、後は本当に真っ暗で足下すらよく見えなくなりました。何度も転びそうになって、波に片足を濡らされ、それでも歩いていきました。真っ暗でただ遠くに海と空と陸の三つの境界がぼんやりとしていました。これがこの世の景色だとはとても思えませんでした。いや、むしろ逆にこうして闇の中に躓きながら歩いている私こそ本当で、家で弟とふざけたり学校に行ったり親に怒られたり中谷くんを好きだったりする私が全部嘘のようにも思えました。全部夢で、本当の私はずっと昔からこうしてただ暗闇を歩いている、永遠に孤独に歩き続けているのではないか。波の水飛沫が服を湿らせ空気が刺すように冷たくなり、体が牛のように重たくなっていきました。でも引き返すなんて考えもつきませんでした。前に進んでいくことだけが私の人生なのです。ただ一つ私に与えられた人生なのです。
どうやって家に帰ったのか、今はどうしても思い出せません。海岸線が終わったのか、ふと我にかえったのか、とにかく朝は家の蒲団の中で迎えました。その日は大きく遅刻してしまいました。寝不足で体中だるく、急がなくてはいけないのに走ることも出来ませんでした。足も筋肉痛がすでに出始めていました。始業時間を過ぎ、誰もいない通学路を私は足を引き摺りながらとぼとぼと登校していきました。遅刻に皮肉をいう教師の声も私には少しも気にならないくらい疲れて眠かったんです。その日も多分一日ずっと居眠りをしていたのでしょう。やけに日の光の眩しい日だったことだけを記憶しています。
その日は中谷くんやAと話したのかどうか覚えていません。ただ再び足を引き摺って家に帰るときに、あの十字路でタカシが待っていました、いつかの私のようにしゃがみこんでアスファルトの上に散った海の砂を片手でいじりながら。彼は眩しそうな顔で私を見上げました。慣れ親しんだ、何度も何度も見てきた顔でした。その成長をともに歩んだタカシの顔でした。
「なぁ、体大丈夫か?」
「心配して待っててくれたの?」
「違うよ、英語のノート借りるためだよ」
「そうだよね」
「あ、心配もしてるって」
「いいよ。ノート貸すよ。でも今無いから、今日私の家に寄る?」
「ラッキー。ありがとう。やっぱりなんだかんだいって貸してくれると思ったよ」
タカシはひょいっと飛び跳ねるように立ち上がりました。そして少し笑ってそのまま海の方へ歩きながら話しかけてきました。私はそれに答えたいのになぜかいつものように気軽にふざけて話すことが出来ないのです。心の奥がしいんと静まり返っているようで、少しも騒げないですましているのです。夜風に晒されて心の中まで冷えてしまったのかもしれないです。堤に登って昨日歩いた海岸を見下ろしました。普通のいつもの海でした。子どもの頃から見慣れている海でした。あの地獄のように真っ暗な世界とはまるで違って見えました。
「どうした?」
立ち止まった私に先に行きかけたタカシが尋ねました。
「ねぇ、また下りてみようよ」
「下りるって海岸にかよ」
「いいでしょ、そのくらい」
私は駆け降りていきました。砂浜の中ほどに私はしゃがみこんで、海や海岸線を眺めました。砂の上に昨日の私の足跡を探してみても見つかりませんでした。後から私を追って駆けてきたタカシは私を追い越して波打ち際までいきましたが、大きな波に脅かされて変な叫び声を上て私のところまで戻ってきて、海を背にして私の方を向いて座りこみました。
「タカシさあ」
「何」
「タカシ、Aって知ってる?」
「ん?」
「Aだよ、ウチのクラスの」
「あ、知ってるよ。ちょっと痩せてて気の強そうな顔した子だよね」
「うん、そう。彼女のことどう思う?」
「どうって言われても」
そのときまた私はタカシの視線に気がつきました。タカシの目は、だらしなく砂の上にしゃがみこんだ私のスカートの中に注がれていたのです。
「そうだよね、あんまりよく知らないよね。同じクラスになったことないし」
「その子がどうしたの?」
タカシは視線を逸らさずに聞いてきました。まるで私の体を射抜くような鋭い目でした。
「別に」
「別にって何だよ」
私もまたタカシの股間に目をやりました。ズボンが奇妙な形で膨れていました。そんな状態なのにタカシが普通に私と話しているのがとても奇妙なことに感じました。
「私の友達なの。一番仲良かったんだけど」
服の上からとはいえ男性の性器が勃起しているのを見るのは初めてでした。彼は私を見て欲情した初めての男性だったかもしれません。それは何とも言えない気持ちでした。
「一番仲良かったんだけど、今は違うのか?」
私はゆっくりとゆっくりと足を広げていきました。さも無意識のように。
「そんなことないよ、今も友達だよ、でも友達って何なのかなぁ」
タカシはますます喰い入るように私の股間に魅入りました。私は私の体の力を感じました。
「何だよそれは」
私もタカシの股間を見つめていました。海風が冷たく私の下半身に吹き込みました。
「馬鹿みたい」
私はそのまま足を伸ばすと後に倒れて仰向けになりました。何やってるんだろ。
その日も空は真っ青で馬鹿みたいに広く広く広がっていました。こんなに天気がいいのに私は何やってるんだろう。
眺めていると雲一つない空がまるでテーブルクロスが皺を作るみたいにクシャクシャと伸び縮みを始めて見えて、それが私の心臓の音と共鳴してドックンドックンと動いていました。
そんなあの頃のことでした。
終
* 本作品は法政大学文芸研究会「白拍子」第44号に掲載した作品を加筆訂正したものです。また、塚田遼小説サイト「ぼくは毎日本を書く」に同時掲載しております。