推理がさえわたる名探偵×暢気な助手
モリヤ・ケンジ氏の遺体が発見されたのは、某日の朝だった。
大雨が上がり、自宅の敷地内にある工房で倒れているのが発見された。第一発見者は、朝食を届けに行ったお手伝いさんである。
工房はちゃんとした邸宅であって、一般市民であればはなれだの工房だのと呼ぶには違和感を持つようなものだ。しかし、ファンから「マンダラ・アート」と呼ばれるごく細かい筆致の、異常なまでの執念を感じさせる抽象画で莫大な財産を築いているモリヤ氏には、それくらいの邸はたいしたものではないのだろう。
「これ、なににつかうんですかねえ」
わたしは溜め息を吐きながら、山と積まれた紙を示す。
紙と云っても、洋紙ではない。和紙……とも云えないだろう。鑑識がざっと見たところ、中国の古い書らしく、美術的な価値はともかく現在ではほとんどつくられていない紙だという。製法は残っているが、あまりにもコストがかかるのでそれが売値に反映されてしまい、唸るほど金があるアーティストくらいしか買わないものだとか。
書かれている字はなかなかに美麗で、おそらく美術的な価値も高い。千字文が多かったので、もしかしたら千数百年前の人間が文字の練習をしていたものかもしれない。
ただ、かび臭いのはいただけなかった。古いものなので当然といえば当然だが、モリヤ氏も案外それがいやで、こんなふうに部屋の隅に積み上げていたのではなかろうか。
顔をしかめるわたしに、先輩が近付いてきた。「創作資料だろう」
「資料?」
「モリヤの作品には、こういうもんもある」
先輩はそう云って、端末をとりだし、画像を見せてくれた。全体的に黒く塗られた画布だ。といっても、まっくろになってはいない。かなりむらがある。これが作品なのか。わたしにでもかけそうだ。
先輩を見上げる。「これがなんですか」
「よく見ろよ、ほら」
先輩が画像を拡大すると、意味がわかった。
それは黒く塗りつぶそうとして失敗した画布ではなくて、漢字をひたすら書いている画布だった。
上から上から漢字を書いていくので、どんどん余白がなくなっていき、最後はこの状態になった、ということらしい。白が残っている部分の傍に、漢字の残骸のようなものが見てとれる。
思わず感嘆の声をもらした。先輩が端末をひっこめる。
「こんなもんに何億も払う人間の気が知れん」
「いやでも、すごいっすよ。千字文」
「センジモン?」
「ここに書いてあるやつと同じです。さっきのは草書体でまとめてました」
「はあ。お前、学があるな」
「ばあちゃんが書道教室してたっす」
先輩は、あーあ、と、感心したのかなんなのかよくわからない声を出して、わたしの肩をぱたぱた叩いた。
わたしは〈首都〉の警察勤めの、しがない公務員だ。
先輩とはスクール時代に出会い、十年近く付き合っている。友人という意味ではなく、恋人として。
同性での結婚は3000年に正式に可能になったのだが、未だに「遺伝的に関係のある子どもを迎えること」が条件のひとつになっている為、わたし達は婚約状態が続いているだけである。このクソ忙しい警察をどちらかが辞めないと、子どもを迎えることは到底不可能だからだ。
更に云えば、公務員待遇改善運動が実った結果、クソ忙しいかわりに公務員のお手当は大変宜しいので、わたしとしてはあと数年は勤めたい。
同性カップルが子どもを迎えるには、親戚の子どもを養子にするか、自分達の遺伝情報をもとに〈子どもの街〉でどうにかしてもらうかしかないが、祖母を失ったわたしはいまや天涯孤独だし、先輩はわたしと付き合った所為で勘当されてしまったのだ。
〈子どもの街〉には子作りに協力してくれる男も女も居るけれど、彼ら彼女らはお仕事としてそれをやっているから、当然お金がないとなにもしてくれない。
という訳で、わたしと先輩は、正式に結婚する為に貯金しているところである。
もうひと階級上だったらもっといい給料をもらえて、退職もはやくできるのだろうが、生憎わたしは警察官としてはぎりぎり平均点くらい。給料が上がって人気になった公務員という職業は、今や倍率が凄まじい狭き門で、有能な人間はごろごろ居る。なので、わたしは落ちこぼれないぎりぎりで踏みとどまっているのだった。
わたしに比べ、先輩は優秀で、今までもいろんな事件を解決してきた。といっても、当人はそれをあまり誇らない。というか、終わった事件のことを話そうとすると物理的に口を塞がれる。なにかしら、先輩にとってはつらい記憶になってしまうらしい。
そりゃあ、ひとが殺されたり殺したりするのだ。しかも事件の裏には哀しい出来事が横たわっていることも多い。先輩は、繊細で感受性の強い人間だから、そういうものを思い出したくないのだろう。わたしみたいに鈍感でぼーっとした人間が傍に居るのが丁度いいと、周囲からも太鼓判をおされている。
彼の家族はわたしを認めなかったが、先輩を勘当した以上先輩のやることにはもう口をはさめない。先輩から家族を奪ってしまったことは申し訳ないという気持ちがありつつ、邪魔されないのだと思うと気分がいいのも事実である。
おそらくわたしの年収をひとつの作品どころかその四分の一で簡単に手にいれていただろうモリヤ氏は、工房の居間で大きな剣に刺し貫かれ、倒れている。あの剣も、モリヤ氏の創作資料のひとつだ。
モリヤ氏は所謂アート作品だけでなく、ゲームのキャラクターデザインなどもこなしていたのだが、大剣を担いだ女性主人公が大活躍するゲームは彼の代表作である。わたしだって知っているくらいだ。
居間からは二階の廊下が見えるのだが、その下辺りは甲冑や武器の陳列スペースになっていて、西洋のものから東洋のものまでありとあらゆる甲冑や武器が展示されていた。ちょっとした博物館並みだ。
フル装備で太刀をかまえた大鎧の武者が居るかと思えば、ランスの柄を脇にはさんだ騎兵が馬にまたがっている。どうやら、馬は剥製らしい。甲冑の中身がはりぼてであることを祈ろう。
その向かいの壁際には、「ばけものコーナー」とでも冠するべきものがあった。キメラやマンティコア、バジリコック、ワイバーンなどのはりぼてがあるのだ。もしかしたらこいつらを飾る為に天井を高くしたのだろうかと思うくらい、そいつらはそれなりのサイズをしている。よなかにこれを見たら、驚いて悲鳴をあげる自信がある。
わたしはおどろおどろしいばけもの達から目を逸らし、きらきらした甲冑をもう一度見た。防具は身につけているものの、立ちすくんだような奇妙な格好の西洋甲冑が居る。おそらくは、あいつが持っていた大剣が、モリヤ氏殺害に用いられたのだろう。
「あれえ」
「なんだよ」
「こいつ、肩当てが反対になってる。変な格好の甲冑でも描こうとしてたんですかね」
ほかにも工房内には、「どうしてこんなものが?」と首を傾げたくなるようなものが沢山置かれていた。
中国の古い陶磁器はわからなくもないが、その辺でうっているチープな樹脂製の食器が山積みにされているのはなんなのだろう。
小品だが美麗な油絵が放り出されているかと思えば、印刷が雑なカレンダーが恭しく飾られているし、「毒殺百科」なんていう物騒なタイトルの本から、「め!」という子ども向けの絵本まで、本棚にはおよそとりとめのない雑多なジャンルの本がごった煮状態で詰め込まれている。
大画面の端末を鑑識さんが操作して、調べているのだが、そちらには古い実写映画から最新のアニメーション映画まで、やはりとりとめないラインナップのリストが存在した。要するにモリヤ氏は、あらゆるジャンルのことに手を出して、そこからなにかしらのものを抽出し、自分の作品にいかしていたのだろう。
居間で創作活動をしているのかと思ったが、二階にも、屋上にも、画材が置いてあったそうだ。モリヤ氏はこの建物内のいろいろなところで創作していたらしい。
先輩が遺体のほうへ向かったので、わたしもついていった。いつもこの調子なので、同僚からはカルガモとからかわれる。
遺体は血だまりに倒れている。殺される前に殴られたのだろうか? 鼻から血が垂れた形跡があった。
血は鑑識さんが採取していったし、写真も撮って、うすい保護フィルムが全体にかけられていた。この後、シートで覆って、下の絨毯ごと検死院まで運ばれるのだ。
「死因は?」
「ショック死だそうです。主要な臓器や血管を傷めていて、おそらく痛みですぐに気を失い、後は血が流れ出て」
「失血か……」
「被害者は少し呑んでいたみたいですね」
「ふうん」
先輩は、すでにざっと検視の終わった遺体の傍にかがみこんだ。フィルムがあると云え、血を踏まないようにしている。あ、白髪増えてる。「先輩、今朝きちんと補助食」
「食べた」
「白髪増えてますよ」
「煩い、古女房」
結婚してくれないくせに。
先輩は立ち上がって遺体のまわりをうろうろしたり、別の場所でかがみこんだり、うーんと唸ったりしていた。わたしはそれについてまわり、先輩のネクタイがゆがんでいるのを直したり、上着の襟を調えたり、ポケットからはみだした汚れた手巾を回収したりする。
「先輩、汚れものは洗濯かごへいれておいてくださいっていっつも云ってるでしょ」
「そんなもの持ってたっけ」
「一枚足りないと思ってたんだ……」
「よう、夫婦漫才」
鑑識さんが笑いながらやってきた。このひとはわたし達に夫婦漫才というあだなをつけたひとだ。付き合っているのがばれたと思ってどうしてわかったんですかあと云ってしまったので、わたしと先輩が付き合っているのがばれた。おかげで今は先輩と同居できているので、よしとする。
同性だろうとなんだろうと、婚約状態なのはたしかなので、大丈夫なのだ。ほんの少し前まではそういうことはふしだらとされたそうで、だからわたし達はいい時代にうまれたのである。
先輩が顔をしかめる。
「なんですか」
「なんですかはないだろ。指紋」
「ああ」先輩の目がかがやいた。わたしはそういう真剣な顔の先輩が好きだ。「なにか出ました?」
「前科持ちは居ないな。おそらくモリヤ氏のものと、後は彼の子どもや、同居している妹夫婦や孫のものだろう。ああ、二階のベッドと、洗面台に、微量だが血液が残ってた。すぐにDNA鑑定が終わる。無理に侵入したり、反対にどこかを壊して出ていった様子もなかったよ」
わたしと先輩は頷いた。モリヤ氏はそろそろ老齢といっても差し支えない年齢で、孫も居るのだが、十年程前に〈子どもの街〉で子どもをつくっている。乳母などもつけているようだが、それをきっかけに年の離れた妹夫婦と同居状態にあり、近所へのききこみに拠ればモリヤ氏と妹とで云い争いが絶えなかったらしい。
鑑識さんは、モリヤ氏の遺体を親指で示す。「ついてないひとだね。なにも、あんな格好でなあ」
モリヤ氏の遺体は、下着一枚しか身につけていないのだ。
遺体はシートで覆われ、捜査の指揮を執っている先輩が、とりあえずの報告を求めた。情報があがってくる。
モリヤ氏の死亡推定時刻はおよそ三時間前、午前五時頃。前後しても三十分程度であろうとのこと。
遺体が発見されたのは一時間程前で、毎朝七時に朝食をとるモリヤ氏がおもやに来ないので、お手伝いさんが朝食をトレイにのせて運び、キッチンにトレイを置いて、ついでに居間の掃除でもと居間を覗いたらあの状態だった。
「モリヤがここで朝食をとるのは、普通なのか」
「よくあることみたいです。モリヤは創作に没頭すると、食事もとらず眠りもせずにずっとイーゼルに向かっているようなタイプだそうです。周囲が見えなくなるみたいで、裸で踊りながら絵を描いたりもしていたそうですよ。食事の時間は自分できっちり決めているくせに、おもやへ来ないことが多く、なのでモリヤから特別に要望がない限りは運びやすい料理をつくっていたそうです。今朝もこちらに来てから湯を沸かし、缶詰のスープをあたためて器にいれたと」
写真が渡され、先輩とわたしはそれを見る。成程、缶切りと、フルオープンエンド缶がうつっている。
お握り、フルーツサラダ、チーズ、カフェラテらしいもののはいったマグに、湯気を立てているトマトスープ。
「サンドウィッチじゃないのか」
先輩がぽつりと云う。たしかに、お握りではなんとなくそぐわない取り合わせだ。
お手伝いさんは遺体発見後、腰をぬかしてしばらく動けなかったが、我に返って端末でおもやに急を報せた。
「どうして直に警察を呼ばなかった」
「あの端末はおもやにしかつながらないんです」
刑事のひとりが、居間の隅にある端末を示す。タッチパネル式で、厚さが1㎝近くもある旧型のものだ。しかし、外へ電話をかけないのなら、機能としては充分である。
立ち上げてみると、充電が切れていた。
「モリヤは創作活動の邪魔をされるのがいやで、ここに通信機器を持ちこむことはありませんでした。個人用の端末もおもやにあります。あの端末も、電源を落としていることも多かったようです」
「どうして端末がある」
「モリヤはコーヒーが好きで、四六時中飲んでいました。二時間に一回ほど、あたらしいものを持ってこいとお手伝いのおばあさんに命じる為ですよ」
「成程」
先輩が頷いた。
「君達が到着したのが、三十分前だな」
「はい。モリヤの妹夫婦と、次男、長女、乳母、お手伝いさんが工房の外に居ました。お手伝いさんは怯えてまともに口もきけない様子で、それを見ていたらおそろしくてなかへは這入れないと」
「ちょっと、待て。次男?」
先輩の目が光る。「次男は別居しているのでは?」
「モリヤ氏になにか相談があったそうです。くわしい内容に関しては供述を拒否されました」
先輩が顎を撫で、うーむ、と唸った。同僚達の目がきらきらしはじめる。先輩がこのポーズをする時は、推理力が発揮される時なのだ。
先輩のアシストをしたいのか、別の刑事が勇んで云った。
「それと、主任、この動画ですが」
「ああ」
「妹夫婦は、自分達が疑われないようにと、まずこの工房の周囲の様子を、小型ドローンで撮影してから、現場まで来ています」
「昨夜は雨だったな。足跡は?」
先輩が鋭く云う。刑事が答えた。
「お手伝いさんのものだけでした」
「皆さん、お越し戴いてありがとうございます。ほんの少し、お時間を頂戴します」
先輩が疲れたような調子で云う。いよいよ、名推理の披露の場だ。同僚達はわくわくした様子で先輩を見ている。
先輩はただただ疲れているように見えた。もしかしたら、これからおそろしかったり哀しかったりする真実を暴くことに、抵抗があるのかもしれない。先輩は繊細で傷付きやすくて、事件を解決するとわたしがなぐさめてあげないといけないような優しい心の持ち主なのだ。
一方、遺体が運び出されたと云え、殺人現場に呼び出されたこの家に居たひと達は、ほとんどが不快感を表情で示していた。怯えきっているお手伝いさんと、情況がいまいちわかっていないらしいモリヤ氏の長女以外は、不快そうに先輩を見ている。
ここは、工房の二階だ。モリヤ氏は自分ひとりで工房をつかっていたのに、どういう訳だか応接室が存在したので、そこをつかわせてもらっている。わたしの推測だが、氏はこの建物自体も創作資料にしていたのだろう。応接室を描きたい瞬間が彼にはあったのだ。
二階の部屋はほとんどがそういう目的のようで、つかわれた形跡のない寝室や、女性物の化粧品が並んだ洗面台や浴室、教室のような場所まであるらしい。
先輩は立っていた。わたしはその前にある、ふたり掛けのソファに腰掛けている。先輩が座る為のスペースはあけてあるので、都合がいい時に座ってくれるだろう。
「あなた達を呼んだのはほかでもない。事件の解明の為です。ご協力を」
「あんた達が勝手にやればいいでしょ」
わたしの向かいに座る被害者の妹が、金切り声を出した。「その為に警察って云うのは存在するんじゃなかったのかしら」
「ご説もっともですな」
先輩が丁寧かつ失礼な調子で云う。
「しかし、情報がないのではどうしようもありません。それで、あなたがたに話をききたい」
「もう話したじゃないの……」
被害者の妹は不満そうである。が、その夫が腕を掴んで軽くひいた。「まあまあ、仕方ないよ」
「でもあなた……」
「あのう」
お手伝いさんが軽く手をあげた。「仕事があるので、わたしは失礼しても?」
「申し訳ありませんが、あなたも関係者ですので」
「父さんは死んでからも僕達に迷惑をかけるのか」
被害者の次男が陰鬱な調子で云った。彼は窓辺に立って、頭を抱えている。「どうせなら外で死んでくれたらいいのに、床が血まみれじゃあ建物の価値も下がる。刺されるなんて」
「今、なんとおっしゃいました?」
きた!
先輩が鷹のような目で次男を睨んでいる。次男は顔を上げ、先輩の目を見て怯んだ。刑事達が緊張したのがわかる。
先輩が低い声を出す。
「刺されるなんて……? 被害者が刺殺されたことは、あなたがたには報せていませんが……?」
わたしはにっこりして先輩を仰いだ。やった、このモードになったら、後は真相まで一直線だ。
次男はもっと怯んだらしかった。先輩がつめたくそれを睨んでいる。「理由をおきかせ願えますか?」
「は?」
次男は口をぱくぱくさせる。こいつですか、先輩? こいつが父親を殺した犯人なんですか?
「あなたは父親であるモリヤ氏に、金を借りに来たそうですね。彼にそれを断られ、かっとなって刺してしまった。もともと、十年前に突然娘をつくった氏に対してもいい感情を抱いては」
「え?」
次男はきょとんとした。
「いや、父は昨日、僕の会社に二億融資してくれると、請け負ってくれました」
先輩が口を噤む。
次男は懐から、書類をとりだした。偽造防止加工がしてある、弁護士事務所の印が押されたものだ。
「昨日のうちに書類をつくってしまって、もう帰るって云ったんですけど、妹が僕になついているもので」
「……ええと」
「僕達きょうだいは、見事に男ばかりだったので、父があたらしい子どもをつくるときいてえっと思ったんですが、妹ができたんでみんな喜んだんです」
次男はぽやーっとした笑顔だ。彼の妹にあたる、被害者の遅くできた長女が、自分の話題だとわかったようでにこっとした。「お兄さま達、大好き」
先輩が持ち直す。
「あ、あの、じゃあどうして、刺されたって?」
「え? だって、殺されたってきいたから、なんとなく、刺殺かなあと」
「……は?」
「ほら、映画なんかでも、そういうシーンっていっぱいあるし……」
次男は子どもみたいな顔でそう云い、それから彼にとっては叔母にあたる被害者の妹や、その夫、お手伝いさんや乳母などに呆れたように見詰められていると気付いて、顔を伏せた。耳が赤い。「すみません。ほんとにそれだけです。父は刺されて殺されたんですね」
「なによ、ひとさわがせね……」
「お坊ちゃま、不用意なことは口になさらないでください」
被害者の次男ははじいった様子で、ごめんなさいと首をすくめた。
先輩がくたびれた様子で溜め息を吐く。腹部をさすっていた。また、胃痛だろうか。
「では……ええと……この写真についてです」
先輩がそう云ったので、わたしがテーブルに写真を置いた。お手伝いさんが持ってきた朝食である。
こちらのキッチンであたためた、缶入りスープもうつっている。先輩はおなかをさすりながら云う。
「ああ。その缶は缶切りがなくても開くタイプのものですね。しかし何故か、缶切りが置いてあります。よく見ればわかりますが、缶の縁に缶切りをつかおうとした形跡もある。これは、缶切りとばけもののはりぼてをつかってある種の時限装置をつくった証拠です。サンドウィッチではなくお握りを持ちこんだのもその為で」
「申し訳ありません」
今度は、お手伝いさんがはずかしそうにした。肩をすくめている。先輩が唸った。
「なんでしょうか?」
「あのう。わたし、うっかりしてしまっていて、缶切りが要らないことを忘れていて」
「はあ」先輩はよほどおなかが痛いのか、歯を食いしばって喋っている。「しかし、見たらわかるでしょう。どうして缶切りをつかおうとして形跡が?」
「あの、最近缶切りがなくても開くようになったんです。ほんの何日か前まで、缶切りで開けていたものですから、習慣で」
ふむ、企業努力でお手軽な缶にかわったのか。
先輩が唸るように云った。
「では何故、お握りを?」
「先生は朝はお米を食べたいとおっしゃって、でもフルーツサラダも好物でらっしゃるし、明日の朝はカフェラテがいいとおっしゃって」
「兄さんは粕漬けと餃子とロクムを一緒に食べるような人間なのよ。あのひとは取り合わせとかじゃなくて食べたいものを食べるひとなの」
被害者の妹が喚き、先輩は顔をしかめていた。お手伝いさんが縮こまる。「紛らわしいことをしてしまいまして……」
「そうだよ、カズエさん」
うっかり刺殺と断定したことで疑われた次男が呆れたみたいに云ったので、周囲の人間がそれを睨んだ。次男はまた顔を伏せる。彼は迂闊にいろんなことを口に出すタイプの人間らしい。
先輩がぐぐっと呻いた。
「それでは……ああ……しかし、ぬかるみには足跡が。彼女のものしか残っていなかった。それは、彼女以外が犯行時刻に工房に近寄っていない、もしくは、犯行がすんでから工房に隠れていた証拠で……あなたは、警察が到着した時に、すぐには姿を見せませんでしたね?」
先輩が被害者の孫を示す。胃痛がかなり高じてきたみたいで、先輩はかすかに前屈みになっていた。
被害者の孫がそれを睨む。
「だからなんですか」
「失礼ですが、ごしょくぎょうは」
胃痛が先輩の言葉を辿々しくさせた。被害者の孫はふんと鼻を鳴らす。「調べてるんでしょ。手品師です」
「手品師というのは、脱出マジックなどをやりますね? あのはりぼてのなかに隠れていて、わたし達の隙を突いて」
「不可能じゃないですけど、僕は脱出マジックはしません」
「……ええと」
「医者の診断書があります。僕は閉所恐怖症です」
先輩が小さく歯ぎしりした。
「それは……」
「小さい頃に、あのはりぼてのなかに這入って、出られなくなったんですよ。脱出マジックもしたことはありません。理屈は知ってますがね」
先輩は唸る。
「では何故、警察が到着した時に現場に居なかったのですか」
「僕はおじいちゃん似で、朝に弱いんです。おじいちゃんは朝まで起きてて、いつもなら朝ご飯食べてから寝るんですよ。僕も昨夜は三時に寝たんで、まだ眠たいんですけど」
被害者の孫はそう云って大欠伸をした。
「失礼ですが」
先輩は両腕でおなかをおさえている。被害者の妹へ話しかけていた。「被害者と、あなたが、度々云い争っていたと、ご近所の証言があるのですが、なにでもめていたのか」
「なにって、その子のことですよ!」
妹が、被害者の長女をゆびさした。被害者の長女は乳母にしがみつく。
「そうですか。歳をとってから子どもをつくった被害者を、あなたははじていた。それで」
「はあ?」妹が大きな声を出した。「なにを云ってるのかしら。そんなのは兄さんの自由ですよ」
先輩が口を噤む。妹は尚更大きな声を出す。
「兄さんにはお金もあることだしね。でも、自由ったって、限度があります。あのひとはね、この子達の時だって」
妹は甥にあたる、被害者の次男をゆびさした。次男がびくつく。「まるで無責任で、子育てをしようともしない。母親と乳母が居れば大丈夫だ、昔から女の役割はそういうものなんだなんて、本気で思ってるんだから困るわ。それでも、正式に結婚してつくった子どもだったからよかったけど、今度は〈子どもの街〉でつくってもらった子ですからね。父親としての義務を果たしていないと判断されたら、とりあげられてしまうじゃないの、あんなに可愛い子が」
ああ、そういえば、〈子どもの街〉でつくった子どもにはルールがあるのだ。遺伝的な親がしっかり世話をしていない場合、国が強制的に子どもをとりあげ、〈子ども達の街〉できちんとした教育をうけさせる。
被害者の長女が、彼女にとっては叔母にあたる、被害者の妹へと近寄っていった。おばさま、と云って、その膝にのる。被害者の妹は破顔した。かなりきつい印象の女性だが、子煩悩らしい。
被害者の孫が喚いた。
「それにしても、なんなんですか、あんた? さっきから訳のわからないことばかり。真面目に捜査してるんですか」
「してます」
さすがにむっとしたので、わたしが云い返した。「先輩は大真面目です」
「おい……」
「真面目に推理を外してるのか」
先輩の目が光った。涙でうるうるしている。ああ、可哀相に。あとでよしよししてあげなくちゃ。
「殺されかたはどうでもいいのよ」妹が、眠ってしまった被害者の長女を乳母へ預けた。「兄さんは殺されたの。その点だけは、芸術家らしい最後よね」
「そうかもしれないですね」
「叔母さん、僕、あの甲冑コレクションもらってもいいかな」
「いいんじゃない」
「成程」
「なによ?」
先輩が疲れたふうに息を吐いて、よろよろ歩いてくると、わたしの隣に座った。
「わかりました。これは事故死です」
多くのひとがきょとんとした。
先輩は背凭れに体を預ける。「お嬢さんを外へ」
乳母が怪訝そうにしつつ、出ていく。先輩は扉が閉まるのを確認してから云った。
「あなた達は彼女に、父親がうっかり死んだと思わせたくなかったんですね」
「ちょっと……」
先程までとは、場の空気が違う。誰も怪訝そうではないし、寧ろ真剣に、先輩を見ていた。
「それも、二階から落ちて、創作資料の剣に突き刺さって死ぬなんて」
「あんた、また的外れな推理ですか」
次男が云ったが、声が震えていた。
先輩は端末をとりだし、操作する。連絡をとったのは、遺体が運び込まれた検死院と、微物の検査をしている鑑識さんだ。
先輩は通話を終え、低声で云った。もうしっかりした声を出せないのだろう。
「被害者はお酒を呑んでいた。寝室のベッドと、二階の洗面台の血は、被害者のものです。位置や量から、おそらく鼻血だ」
鼻血。
「被害者は昨夜も創作活動にいそしみ、お酒を呑んでベッドにはいった。仮眠をとろうとしたのか、創作に必要な行為だったのかは、今となっては不明ですが。仮眠をして鼻血が出て目を覚ましたのか、目を覚ましたら鼻血が出たのか、ベッドで遊んでいて鼻をぶつけでもしたのか、とにかく彼はベッドのなかで鼻血を出してしまい、あわてて洗面所へ行く。しかし、そこは彼にとって創作資料でしかない場所で、化粧品がところせましと並んでいるがティッシュはなかった」
化粧にはティッシュが必要な気がするが、子育てを妻に任せきりにするような昔気質の男性で、化粧に縁がなかった被害者には、それがわからなかったのだろう。だから、洗面台にティッシュは置かれていない。
「そこで被害者は、生活スペースにしている一階へ降りようとする。まだ酒が残っていたのか、鼻血で動揺していたのか、寝起きで頭がぼーっとしていたのか、彼は二階の廊下から落ちた。手摺は、大した高さではありませんでしたから、勢いよくぶつかれば落ちるでしょう」
誰も反論しない。
先輩は唸る。
「それで、下には運悪く、剣をかまえた西洋甲冑が立っていた。被害者は串刺しになり、甲冑と一緒に絨毯の上に転がった」
「甲冑は転がってなかったんじゃないの」
妹が苦しい反論をする。先輩は呻くように云う。「甲冑は回収しました。血液反応が出るでしょう。あなた達がしたことはこうだ」
先輩は指を立てた。
「ひとつ。お手伝いさんから急を知らされたあなた達は現場の状況を説明させ、甲冑を組み立てて戻すように命令した」
もう一本。
「ふたつ。お手伝いさんはそれに従って甲冑の血を拭い、もとに戻した。しかし、あなたか誰かは知りませんが、甲冑の構造にくわしく、どのように組み立てればいいかわかっているひとが説明している最中に充電が切れた」
もう一本。
「みっつ。通話記録が残るのは当然なので、お手伝いさんがおもやに連絡してから通報までの時間にあまりに差があるとおかしいと思われると、仕方ないのですぐに通報した」
もう一本。
「よっつ、足跡を撮影してから現場へ行った。お手伝いさんが疑われる可能性があるが、あの大剣は年配の女性がひとりで動かせるものではない。反対に、甲冑はパーツに分ければ年配の女性でも簡単に動かせる。男性陣に嫌疑がかからないようにと配慮したつもりだったんでしょう」
先輩は、かすかに震える手でわたしを示した。
「こいつが甲冑にくわしかったようで、肩当てが逆になってると教えてくれました。まあ、創作資料なので、わざと変な格好にしてると云えばそれで通ったかもしれませんがね」
誰もなにも云わない。
先輩は喘ぐみたいな呼吸をした。「いてて……ああ、まあ、だから、あなた達は軽微な罪を犯したことになります。もし工作がうまくいっていたら、わたし達は居もしない殺人犯を捜して大変な手間をかけることになったでしょう。父親が酒を呑んで半裸で事故死したなんて娘に報せたくなかったという気持ちはわからないでもないですが、反省してくださいね」
「警察辞めたい」
「まあまあ」
「事件」があっさり「事故」だったとわかり、先輩とわたしは家に戻った。わたしの膝に頭を預け、先輩はまるまっている。
わたしは先輩の頭を撫で、なだめていた。「冤罪をうまなくてよかったって、長官から誉めてもらえたじゃないですか。偉大な芸術家のことですから、報道各社も大騒ぎする寸前でしたし、警察の面子が保たれてよかったですよね」
「僕の胃腸が限界だ」
先輩は唸る。わたしは先輩のせなかを優しく撫でた。「お薬服みましょうね」
「もう服んだ」
「じゃあ、あったかくてやわらかいもの食べて、寝ましょう」
「胃が痛くて眠れない」
「睡眠薬もらいます?」
先輩はちょっとだけ泣いている。可哀相なので、目許を拭いてあげた。
先輩は数々の事件を解決してきたし、推理力は相当なものだ。今まで何度も表彰されてるし、特別手当なんかも(世間にはないしょなことだが)沢山もらっている。
しかし、先輩の推理にはまだるっこい手順が必要になる。間違った推理が必要なのだ。
周りの人間がそれをできればいいのだが、先輩みたいに洞察力の高い人間は別の捜査の主任になっていたりして、うまく調整できない。なので、先輩は間違った推理も自分でする。そうすると、被疑者達からやいのやいの責められるので、繊細な先輩は傷付いてしまうのだ。最終的には推理がうまくいくのだから、誇っていいと思うのだが。
わたしが先輩くらい鋭い考察ができればいいのだが、ない袖は振れない。
先輩は白髪が随分増えたし、かなり痩せた。胃腸をやられているからだ。かわりに、確実に事件を解決すると云うことで、みんなからは尊敬されている。
「もう少しですから、ね」
「……あと五千万だもんな」
「そうそう。あともうちょっとだけ我慢しましょう」
それもこれも、結婚の為である。わたし達が正式に結婚するには、子どもをつくる必要がある。そして、子どもというのはその辺に放って置いていいものではない。育てるにはお金は必要だ。
すでに、学園都市である〈子ども達の街〉の物件はおさえてある。そちらと、〈首都〉にある物件の家賃収入があるので、資金は徐々に増えている情況だ。後、数年で、わたし達に必要なお金がたまる。
お金が貯まったらすぐに離職して、〈子どもの街〉で子どもをつくってもらい、その子をつれて〈子ども達の街〉へ行く。わたしはともかく、細かい配慮のできる先輩なら、いい親になるだろう。わたしだって、体力はあるほうなので、子どもの遊び相手になれる。
先輩が仰向けになった。膝を立て、両手をおなかにのせている。
「……あのお邸、どうなるんだろうな。家族は出ていくと云っていたが」
「持ち主が亡くなってますからねえ。それも、剣でぐさり」
「あれくらいの物件、手放すのもなんでもないんだろう。モリヤの遺産が唸る程ある」
頷く。それに、彼の家族にはまともな感性の持ち主が多いらしかった。彼の長女はなんの心配もなく、氏の遺産をうけつぎ、しあわせに暮らすことだろう。
「心理的瑕疵ありだ。安く売り出されるかもしれない」
先輩は腕で目を覆う。「安かったら買おう。あれだけの物件なら、貸し出せばもとはとれる」
「ひとが死んでますよ」
「事故死だろ。殺しよりはましだ」
「それはそうかもしれないっすけど」
「あーあ。もっと昔だったらな。海外で結婚できたのに」
「仕方ないでしょ」
五百年だか六百年だか前に大きな戦争があったので、それから我が国は外国とは没交渉なのだ。
先輩が起き上がって、わたしの頬に口付ける。
「なあ、お前のお粥なら食べられるかもしれない」
「じゃあ、つくりますよ」
「もうちょっとしてからな」
先輩はそう云って、わたしの体を強めにおした。わたしはソファに倒れながら笑う。元気が出たならよしとしようか。