向かい席に座る少女
ホラーは初めてなので、あまり期待しないでおいてください。
あまり怖くないと思いますので、気軽にお読みください。
※一万字以上と長いので、予めご了承ください。
ふと気が付くと、今日も私の向かいには……その少女が座っていた。
いつの間に来たのか、私が少し目を逸らしている間に、そこに座っていたのだ。
彼女はいつも同じように私の向かい席に座る。
見た感じ、まだ十代かそこらだろうか。そんな年頃の少女がこの終電の電車で、車内がガラガラで席を選び放題にもかかわらず私の向かいに座るのだから、少し気味が悪い。そんな風にも思っていた。
だがその心境は一変し、今では彼女の姿を見るのが楽しみになっている。
私が彼女と初めて出会ったのは、数日前のことだった。
私はとある中流企業で働くサラリーマンで、仕事が終わるといつも終電で帰るのがお決まりになっていた。
そうなったのはいつからだろう。少なくとも今の会社に入って半年も経った頃には、もうそうなっていたと思う。
私の働く会社は、誰もが一度くらいその社名を聞いたことがあるほどの企業ではあった。
だがその実態を紐解いてみれば、世間一般では所謂ブラック企業と呼ばれる類いであり、こうして深夜に帰宅するのもうちの会社ではごく普通のことだ。
特に私の場合、自宅から十六駅も離れた職場だから、乗り遅れると安いホテルを探すか会社に泊まるしかなくなる。色々と家庭の事情もあり、実家から電車で通勤するのはもう暫くやめられそうにないのだ。
だから絶対終電を逃さないように、なるべく仕事も余裕をもって終わるよう心掛けていた。そもそも定時に帰れという話なのだが、そこは我が社が誇るブラックな体質が許してなどくれない。
私も、どうせやることがあるわけでもないし……と自分を騙してその状況に納得してしまっていた。それこそ何時からそうなったのかなど、もう覚えていないが。
そんな会社なら辞めてしまえばいいんだと考えもしたが、いつからかそれが「いつでも辞められるのだからもう少しだけ続けよう」に変わり、年齢が三十を越えた頃には転職に踏み出す踏ん切りがつかなくなって辞められないようになってしまっていた。なんだかんだ言ってもそれなりの企業ではあるから、給料の額もそれなりに魅力的ではあったわけで。
特別優れたスキルがあるわけでも無いから、再就職が上手くいくか不安だったことも理由である。
そんなわけで、私は今や立派な黒い社畜に育ったわけだが、そんな私に奇妙な出来事が起こり始めたのは数日前のこと。
残業終わりでいつものように終電に乗った私が目を閉じてひと息ついていると、不意に誰かの気配を感じたのだ。
自宅があるのが地方なのもあって、終電ともなれば空席だらけで車内はガラガラ。大きな祭りやイベントがある時期でもなければほとんど乗客のいない……はずの終電の車内で、私はその日、いつもとは違う妙な気配と胸騒ぎを感じてスッと目を開いた。
するとそこに、一人の少女が座っていた。
終電には凡そ似つかわしくない年頃の女の子が、たった一人で座っていたのだ。
「……えっ?」
私は思わず声をあげてしまったが、彼女はこちらには見向きもせずただ静かに座っていた。
最初は眠っているのかと思ったが、時々目を開いてまたすぐに閉じるのを繰り返しているから、ずっと起きてはいるようだった。
最近の流行りとは少し違う短めのスカートに、垢抜けていない単調な色合いの服を着て、小さな鞄を肩から下げている。その様相がなおさら違和感を助長していた。
彼女がスーツや流行りの格好なら「幼く見えるが、私と同じように仕事帰りの新人のOLなのか」と思うこともできたのだが、むしろその格好は田舎の小中学生が着るようなものであり、仕事帰りのOLとはとても思えなかった。
それがどうしてか、空席だらけの車両でわざわざ私の正面の席を選んで座るのだから、新手の痴女か何かなのかとさえ思ったほどである。
気味が悪くなった私は席を移動することにし、同じ車両の別の席へと腰を下ろす。
チラリとその少女を見てみるが、彼女は私が移動したことに反応することも無く、そのまま少し俯き加減で変わらず目を閉じていた。そして、時々開けてはまた閉じるのを繰り返す。
自宅の最寄駅まではまだまだ遠く、発車してから二駅と経っていない。無人駅も含めての数ではあるが、あと十四駅もあると思うと残業の疲れを忘れるほどにウンザリする状況だった。
いつもなら目を閉じて眠りこけてしまうところだが、流石に気味悪さで目を閉じるのも躊躇われる。かといって車両を移るのは、流石に大袈裟過ぎるだろう。
だから、その日は結局チラチラと彼女を観察しながら気を張ったまま、十四駅の間を過ごすことになってしまった。もし同じ駅で彼女が降りて来たらどうしようとハラハラしたが、どうやら彼女は終点となる先の駅まで向かうようで、電車の扉が閉まって彼女の背中を目に映したまま発車した時は心底ホッとしたのを覚えている。
それが数日前の出来事なのだが、その翌日にも彼女は同じように私の向かい席に座っていた。
その姿を見た瞬間、ゾッと鳥肌が立ったのを覚えている。私はすぐさま別の車両に移動し、なるべく車掌さんの近くにいられるような席を選んだ。
ただ事ではない気配を感じてはいたが、相手はただ座っただけなので車掌さんに声をかけるほどではないかと自分の中で一線を引き、とりあえずそのまま最寄り駅までの時間を過ごすことにした。
彼女が痴女か、あるいは物盗りであったなら訴えようもあったが、実際の被害は今のところはまだ皆無なのだから。
そしてその日も同じように、私は何事もなく最寄り駅まで到着し、彼女の背中を見送ることになった。
……だが、人間というものはそんな異常な状況にも段々と慣れてしまう生き物らしく、三度目ともなると気持ちに少し余裕が出て来るもので。
さらにその翌日のこと、再びその少女が乗り込んでくるだろうと予想していた私は、いつも通り終電に乗り込むと、しっかり目を開いたままで警戒を解かずに、周囲をキョロキョロと見回していた。
すると、最寄り駅から数えて十四番目の駅で、彼女はまた乗り込んで来た。
「……」
その姿を捉えたことで、心が大きくざわついたのが分かった。
だが、冷静を装い彼女の一挙手一投足を見逃すまいと私は目を凝らして彼女を見続けた。
もし今日も私の正面に座るようなら、これはいよいよ痴女の可能性が高まるというもの。
そんな気持ちで彼女を見ていると、乗り込んだ彼女はキョロキョロと辺りを見回し、そして私の姿をその目に捉えた。
すると案の定、彼女は真っ直ぐにこちらへと向かって来たのだ。
「……」
無言で彼女を見つめる私を怪しむでもなく、その少女は当たり前のように私の向かい席へとやって来て腰を下ろす。するとすぐに目を閉じてしまい、前と同じように時々開けては閉じることを繰り返しはじめた。
それは眠気でうつらうつらとしているのとは違うようで、目を閉じている間は考え事でもしているのか、微動だにせず真っ直ぐの佇まいを崩さない。そして目を開いた時もまたすぐに閉じてしまうため、彼女が何をしたいのか私にはよく分からなかった。
だがしかし、この日は前日までとは少し変わったことがあった。
それは私の心情だ。よく見れば彼女がとても可愛らしい顔をしていることに気付き、気味の悪さと警戒心しか無かった私の心に少しだけ変化が生まれたのだ。
下心があったわけでも無いのだが、痴女かとばかり思い込んでいた彼女のことが、その容姿と実害の無さから段々と普通の乗客に思えてきたのである。
微かに生まれた安心感にも似た警戒の薄れは、三度目という慣れも手伝って、私に彼女への興味を齎し始めていた。
それは得体の知れないものに対する恐怖の反転でもあり、少女がただ大人しく座っているだけという事実が続けば続くほど、彼女への私の興味は強まって行く。
年齢的な違和感などは未だあれど、痴女だとか気味悪いというのも私が勝手に思い込んでいるだけのこと。実際はその見た目で二十歳を越えているかもしれないし、ならばOLの線も現実味が増して来る。
仮に見た目通りの少女だったとしても、この世の中には様々な事情を抱えた人が暮らしているのだから。自分が知らないだけで、世間ではよくあることなのかもしれない。
そう思うと、さっきまであった緊張感は霧散し始め、私は彼女の事情までも妄想し始めていた。
彼女は見た目が若々しいだけで、実際は二十一歳か二十二歳くらいの入社して間もないOL。あるいは所謂フリーターというやつで、様々な事情から遠く離れた地で深夜までバイトをしていたのかもしれない。
未成年か学生だとしたら、唯一の家族である父か母が大きな病院に入院してしまったため、その見舞いや世話のためにこうして遅くまで通っていたのかもしれない。
そう考えると一定の理解が示せると、私は自分を納得させていた。
未だに痴女や物盗りの可能性も捨て切れてはいなかったが、その可愛らしい容姿も手伝い、私の心情は彼女に好意的な方向へと傾き始めていた。なんなら、彼女が痴女でも別にいいか……とすら思い始めるほどに。
男とは単純なもので、未だ話したことすらない相手でも、可愛らしい異性というだけでそんな妄想をできるのだから救いようがない。
自分の心の有り様を情けなくも思ったが、結局その日は席を移動しないまま彼女の様子を観察し続けて最寄り駅までを過ごし、また彼女の背中を見送って帰路へと着くことになった。
昨日までは見送ることで安堵していたはずの心が、その日は少しだけ残念な気持ちを抱えていたことには、本当に我ながら呆れるしかない。
そして数日後の今、その少女が正面の席に座るのも最早日課のようになってしまっていた。
未だに気味悪さが完全に消えたわけではなかったが、今や私の心の中は少女への不信感と興味とが半々くらいにまで推移しており、むしろ彼女が私の正面を選んで座る意図を妄想することが仕事終わりの楽しみにさえなり始めていた。
真相は、深夜の心細さから誰かの近くにいたいとか、そんな感じの理由なのだろう。だが、妄想の中では自分に都合のいい理由を付け加えても誰に文句を言われるわけでも無い。
今では私の中で、彼女は私に惚れていて、わざと狙って終電に乗り込んでいるのだ……ということになってしまっていた。
その趣味の在り様といい妄想の中身といい、ただただ気持ち悪いものになっている自覚はもちろんある。だが、それこそ誰に文句を言われるわけでも無いのだからと、私は無秩序にそれを楽しむことをすっかり日課に定めてしまう。
こう毎日のことならば、彼女も私に声をかけるなど配慮してもいいものなのだから、そのくらいは許されていいのではないか。そう心の中で言い訳をし、私は残りの移動時間を表情は変えないままで妄想を滾らせ、楽しく過ごしていった。
やがてそんな楽しい時間も終わりを迎え、最寄り駅でホームに降りた私の前から、いつも通りに電車が去って行く。
だが、その日の私は何を思ったか、不意にスマートフォンのカメラを彼女に向けてしまっていた。咄嗟の行動だったから、盗撮だの隠し撮りだのという倫理的なものは後から思いついてしまい、結局私の携帯には彼女の写った写真のデータが残されることとなった。
その日の帰り道は、罪悪感と妙な喜びが私の心を支配していて、仕事の疲れも相まっていつも以上に疲労感を感じたことを覚えている。
帰宅した私はそのままベッドに倒れ込むように眠ってしまい、結果として目覚ましをかけ忘れたことで翌日は盛大に遅刻することとなった。
盗撮のバチが当たったのだと自分を戒めもしたのだが、結局その写真は消さないままで持ち続けている。
そして、私はまた彼女のいる終電に乗る日々を繰り返すのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「……あの、ちょっとお尋ねしてもいいですか?」
そんな毎日に変化が生まれたのは、彼女を初めて見てから一週間が過ぎた頃のこと。
ふと、彼女が乗り込んでくる駅が毎回違うことに気付き、不審に思った私は思い切って彼女に話しかけてみることにしたのだ。
「……はい? 何でしょう?」
私の耳に届いた彼女の声は、予想以上に透き通っていて可愛らしく感じられるものだった。
それを聞いて暫く惚けてしまっていたが、私はハッと我に返ると彼女に質問の続きを投げかけた。
「失礼ですが、毎日のように私の正面にお座りになりますよね? その理由をお聞きしたいのですが、よろしいですか?」
今現在、この車両には私と彼女以外の客の姿は無く、そんな二人きりの状況で話しかけるのは女性にとっては恐怖でしかないのかもしれない。そうも思ったのだが、そもそも毎日のように私を見つけて近付いてくるのは彼女の方であり、そこで私が話しかけたところで気味悪がられたりはしないように思えた。
この日に話しかけたのは何かきっかけがあったから……というわけではなかったが、乗車駅が毎回違うことに気付いてしまったのが強いて言えばきっかけとなってはいた。
それ以前に、初見から三日後くらいには話しかけても良かったくらいなのだが、情けないことにそこは下心が勝ってしまったのだろう。どういうことかというと、単に話しかけることで彼女が嫌がって離れてしまうのが怖かったのだ。
その翌日から席を変えられたり、あるいは同じ車両に乗って来なくなるのではと危惧し、私は現状維持という日和見な選択肢を選んでいたというわけである。
「……ああ、ごめんなさい。毎回だと気味悪かったですよね?」
「い、いえ、そんなことは。ただちょっと気になっただけでして、ご気分を害されたらすみません」
「そうですか? それなら良かったです。理由は……こんな時間帯ですので、酔っ払いとか変なお客さんが近付いて来た時に備えて、誰か男性の近くがいいなって思ってのことでした」
「ああ、やっぱりそうでしたか。見た感じお若いですし、女性一人だと不安にもなりますよね」
そんな会話を繰り広げながら、私は内心でガッツポーズを取るほどに喜んでいた。
それは、彼女が私を私だと認識してくれていたからである。その口ぶりから毎回私の前に座っていると認識してくれているようで、そのことが心底嬉しくなったのだ。
だが、それは表に出さないように気を付けて、私は彼女との会話を続けていった。
「でも、それなら車掌さんの傍が一番安心なんじゃないですか?」
「えー? 今はそういう人の方が、隠し撮りとかセクハラとか怖いものですよ。車内を見回って把握している分、助けが来ないと計算した上で接触して来たりしそうじゃないですか?」
「えっ? あはは、そういうものなんですか?」
「それに、凄く失礼な言い方かもしれませんけど、もしあなたが変なことをして来る人だった場合は車掌さんに助けを求めるって選択肢が残っているじゃないですか? でも、車掌さんが変なことをして来た場合、他の乗客がいなかったら助けを求めようがないんですよ。実際のところは別として、ただでさえ不安な時間帯なのでそういう心理的な安心感と言いますか……そう思い込むことで心を守っていると言いますか……もちろん、あなたが変なことをしてくるとは思ってませんよ?」
「え? あ、分かってますよ、仮定の話ですよね」
そう答えながらも、私は少しだけ残念な気持ちになっていた。
彼女の中に、私がそういう人間である可能性があったことがショックでないと言えば嘘になる。それが女性としてはごく普通の防衛本能だとしてもだ。
だが一方で、そういえば以前に深夜の車両で乗務員が客の荷物を盗んだり、女性を隠し撮りしていたというニュースを聞いたことを思い出していた。
それならば彼女の話も分かる気がするし、私に彼女を非難したり怒る道理など無いだろう。
「……それに、見た感じでもお人好しそうっていうか、そういうことしなさそうだと思えまして。さっきから失礼なことばかり言ってますよね?」
「は? いや、別に。そう思っていただけたなら、むしろ嬉しいくらいですよ」
「そうですか? なら良かったです」
そう言われ、私は胸中複雑であった。
それは彼女に軽く見られているとも取れる発言であり、場合によっては怒ってもいいくらいだったからだ。なにせ、見た目だけでのお人好し扱いなのだから。
まあ、彼女を心の中で痴女扱いしていた私が言えることでは無いのだが。
「でも、どうしてあなたみたいな若い方がこんな終電の時間に?」
「あ、えっと……それは……」
「あっ! ごめんなさい、ズケズケと。答えたくなかったら答えなくていいですよ、みんな色々と事情はありますもんね? あはは……」
「……すみません。仕事のためとは答えられるんですけど、それ以上はちょっと」
「いいです、いいです。そこまで知りたいってわけでもありませんし、今のは忘れてください。見ず知らずの他人同士なのに、デリカシー不足でした。申し訳ない」
「いえ、こちらこそ。でも、こうして話しかけてもらえた方が安心ではありますから。もし良かったら……ご迷惑でなければ、もっとお話ししていてもいいですか?」
「え? あ、はい、もちろんです。私もその方が楽しいですし、まだ時間もありますから是非とも」
そんな彼女の提案に、私の心は再び舞い上がっていた。
一瞬生まれかけた微妙な空気に、話題の選択を間違ったかとヒヤリともしたのだが、彼女が上手い具合に軌道修正してくれたおかげで話し続ける理由までできたのだから。
この流れならば私の最寄り駅まではもちろんのこと、明日以降も気兼ねなく話しかけられそうである。
それも彼女の不安感を無くすためとなれば、私は大手を振って彼女と話ができるのだから。正直仕事で疲れ切っていて今にも倒れてもおかしくないのだが、いつまで続くか分からない彼女との時間を楽しむ意味で、少しの間だけ頑張ればいいだけの話だ。
そうして結局、彼女との会話は途切れることなく降車するその時まで続き、私は先日隠し撮りした彼女に手を振って別れることとなった。
それは恋愛感情には程遠い、父性愛か友情に近いものではあったのだが。それでも新たな出会いの喜びも相まって、その日の私はルンルンと上機嫌で帰路に就いたのであった。
彼女がどうしていつも違う駅で乗り込むのか、それを聞き出すことなどすっかり忘れて。
そして……彼女にお別れのために手を振る私を、どうしてか車掌さんが不思議そうな目で見ていたことも大して気にかけることなく。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「へえ? それじゃあ例の芸能人、結局結婚しないまま一緒に暮らしてるんだ?」
「そうらしいですよ。事実婚っていうんですか、そんな感じだって聞きました」
「そういう話に疎くてさ、詳しい人に聞くことができて良かったよ。地味に気にはなってたんだ」
「あはは、私もそんなに詳しくないんですけどね? たまたま聞きかじった程度で……」
それからさらに数日後、私と彼女は他愛もない話で笑い合う間柄になっていた。
相変わらず彼女は私の向かいの席に座り、それが私の隣になることは無かったが。
彼女が乗り込む駅は毎日変わっており、どうやら段々と私の最寄り駅の方に近付いているようではあった。最初は十六駅離れていたものも、十五、十四、十三となっていたようで、その法則に気付いたのもついこの間のこと。
だから今ではたった数駅しか一緒に居られなくなってはいたが、それでも楽しい時間に変わりはなく、むしろ彼女が乗り込んでくる駅が分かるようになったから、待つ時間すら楽しいくらいである。
彼女がどうしてそんな法則で乗車駅を変えているのか気にはなっていたが、それを聞くと気分を害さないとも限らなかったし、この間のように彼女との楽しい時間に水を差すのもどうかと思ったのだ。
このまま行けば彼女は三日後には私の最寄り駅で乗り込むことになり、その次の駅は終点だ。それから再び別の駅で乗ることになるのか、あるいはこれまでと逆で最寄り駅から遠ざかる形で私の会社側にずれていくのか、また最初のように十六駅先で乗り込むのか……といった事情は全く分からない。
だが、どうなるにせよ人と人との出会いは一期一会とも言うし、彼女との関係が続くも別れるも神のみぞ知る運命なのだから。
私はただ与えられた時間を楽しむだけであり、彼女の名前すら知らない間柄であっても現状で充分に満足できているのだ。
だから、私は余計なことは一切聞かず、本当に他愛もない話題だけを振るようにしていた。
最近は私たちの声が煩いのか、同じ車両に座ろうとする客はいなくなってしまったのだが、それはむしろ私にとっては好都合であった。他の乗客とて終電まで働いて疲れているだろうから仕方のないことではあるが、その状態に気付いた上で声のトーンを下げなかったのは、そこまで非難されるようなことでもなかろう。
車掌さんも隣の車両からチラチラと覗く機会が増えた気がしていたが、特に話しかけても来ないので、向こうから来るまでは私もあまり気にせずおくことにしていた。
最近は仕事の疲れに加えて、慣れない若者との長時間の会話で疲労感がマズいことになっている気もしていたが、人間はそう簡単に死にはしないのだ。
連勤もかなり続いてはいたが、もうすぐ休みの日がやってくる。だから私は自制するよりも今の時間を楽しむことを心に決めていた。それによって彼女の不安感だって安らいでいるのだから、ある意味で社会貢献にすらなっていると言えよう。
そうしてその日も彼女と別れ、私は最寄り駅で改札を通って帰路に就く。
去り際に改札のところにいた駅員さんが何か言いたそうにしていた気もしたが、覗いていた車掌さんと同じで向こうから何か言って来ないのなら、あまり気にしないようにした。
その日は帰宅してから偏頭痛に襲われ、そのまますぐに眠ることになった。
折角楽しい気分だったというのに、空気を読まない頭痛である。だが朝にはそれも消え、私はいつものように出勤することにした。
そして、その日の夜。
「……大丈夫ですか? 顔色が悪いようですけど」
「ああ、心配させてごめんね? 昨日帰ってから偏頭痛もあったし、仕事の疲れが溜まってるんだと思う」
「そんなにお疲れなんですか? じゃあ、こうして話すのは負担に……」
「いや、むしろこうして話ができているおかげで休みなしでも頑張れてるんだよ? だから気にしないで?」
私は今日も彼女と話をしながら、再び襲って来た偏頭痛を堪えていた。
正直頭が割れそうに痛かったのだが、こういうのは前にもあった。だから大丈夫だと自分に言い聞かせ、彼女の気遣いにもフォローを入れて会話を続ける。
「それに、もうすぐ休日だから。そこまで我慢すれば大丈夫」
「……大人って大変なんですね? そこまで頑張らないといけないものですか?」
「まあ、休めたらいいんだけどね? うちの会社はブラックだから、仕方ないって諦めてるよ」
「……休んだらいいじゃないですか。そんなに疲れているなら、お願いして休めばいいと思います」
「それがそうもいかなくてさ? 色々とあるんだよ、大人の世界は」
「……そういうものなんですか。大変なんですねえ?」
その日の彼女は、いつもと少し違う雰囲気のように感じた。
だが、私は楽しい時間を過ごしたい一心で詮索することなく、またいつものように他愛もない話に準じることにする。
もしかしたら彼女にも悩みがあったりするのかもしれなかったが、私が深入りしてそれを聞き出す必要も無かろう。
ゆえに、私はまた彼女に手を振って別れるまで余計な話題は降らずに終わる。
――――そんな私に、この日は彼女以外に話しかけてくる人がいた。
「……お、お客様? 余計なお世話かもしれませんけど、大丈夫ですか?」
「……え?」
「いや、どう見ても大丈夫じゃない顔色をしておりますので、つい声をかけてしまいました」
そう言ってきたのは、私の自宅の最寄り駅でいつも改札口に立っている駅員さんであった。
運休やなんかのことで話しかけたことは前にあった気がするが、彼の方から話しかけられたのは今日が初めてである。
「ああ、大丈夫ですよ。ご心配いただいてありがとうございます」
「で、ですが、とてもそうは……。今すぐにでも病院に行かれた方がいいのでは?」
「こんな時間ですし、病院も閉まってますよ。確かに疲れて偏頭痛はありますし顔色も悪いかもしれませんけど、そこまで大袈裟なものじゃ……」
心配してもらっているとはいえ、少しばかり鬱陶しくもあり、私は彼をあしらってさっさと帰路に就くことばかり考えていた。
そんな時、彼の口から意味不明な話が聞こえて来る。
「ですが、乗務員や係の者からも噂が聞こえてきておりますし。気を悪くされるかもしれませんが、ずっと一人で喋り続けていたり、先ほども無人の車両に向かって手を振っていたりと、やはり普通には思えず……」
「……は? それ、どういう意味です?」
「す、すみません。出過ぎたことを……」
「いや、謝らなくてもいいんですけど、一人で喋ってるって何です? 無人の車両って……?」
その話の意味が理解できずに、私は彼を問い詰めるようにして一歩前に出た。
すると彼も怖かったのか、一歩後退って私との距離を保とうとする。それは彼の目線で自分を見れば当然のことだったのだろうが、その時の私にそんな心の余裕は無かった。
理解できないと言ったが、正確には私はその話の意味を理解したくなかったのである。
彼の言っている意味は、その時点でもなんとなく分かってしまっていたから。
「で、ですから、いつも一人で何か喋っていて不気味だと他のお客様から訴えもありましてですね? 車掌も声をかけるべきか悩んでいたようなのですが、ほぼ無人の最終電車なので害が無いならと様子見しておりまして。ただ、私の目には異常なほど疲れ切っているように見えたので、それで心配で声を……」
「……い、いや、同じ車両に女の子がいたでしょう? さっきだって、その子に手を振って……」
「はい? いえ、さきほどの車両にはお客様以外には誰も乗っておりませんでしたよ? ここで降りられたのも、あなた一人です」
その言葉に、目の前が真っ暗になっていく気がした。
これがドッキリや質の悪い悪戯じゃなければ、彼の方がおかしくなっているのでなければ、それは到底受け止められる事実では無かったからだ。
それでも、私は苦し紛れに彼を質問攻めにする。
「いや、確かにここでは降りませんでしたけど、次の駅で降りるでしょう? いつもそうじゃないですか、あの子。変なことを言わないでくださいよ、まったく」
「……いえ、あの……」
「なんです? まさか図星を突かれてドッキリが失敗したとか言いませんよね? なんなら証拠の写真でも見せましょうか? 彼女の後ろ姿が写ったやつが……」
「……ご存知ないようですが、この先の無人駅は利用者がいないため先々月から使われなくなっておりまして、今はこの駅が終点となっております。一応、各駅でお知らせの張り紙や、毎日車内アナウンスも行っていたのですが。なので先ほどの最終の電車は、次の駅は素通りする形で車両基地に泊まっており……」
そう言ってさらに私から遠ざかる彼を見ながら、私は全身の血の気が引く感覚で吐き気すら催していた。
そういえば最近は寝ていたか、彼女との会話に夢中だったため聞き流していたが、車内アナウンスで何か言っていた気がしないでもない。
いったい何が起こっているのか理解できないまま、私は惰性でスマートフォンの写真を表示する作業だけを続け、それ以上彼には何も言えなくなる。
私の主観では、どう考えても彼がおかしなことを言っているようにしか聞こえないのだが、一方で彼はどう見ても巫山戯ているようには見えなかったのだ。
そんな現実から逃避するように必死にスマートフォンを操作した私の目に、追い打ちをかける出来事が起こる。
そこに表示された例の彼女を隠し撮った写真を見て、私は自分の正気を疑うことになったのだ。
「……あ、あはは、あはははは」
「ひい!? だ、大丈夫ですか、お客様!?」
「だ、大丈夫じゃないみたいです。どうして、なんで……」
そう言って、私は彼の前で気味の悪い笑い声を上げ、駅舎から飛び出すようにしてその場から逃げ出した。
ポカンとして私を見つめる彼の視線からも逃げるように、私は必死に自宅までの道のりを走って行った。
道中で、手に持ったスマートフォンから誰も写っていないその写真を消去するのに必死になり、自分が奇声を上げていたことにも気付かないままで走り続けていた。
実家には両親も健在のため、いつもなら深夜ということで気を遣ってそーっと開ける玄関も、力いっぱいに大きな音を立てて開く。
とにかくその恐怖から逃げたい一心で、私はそのまま玄関に飛び込むと、さっさと布団に包まって眠ろうと思っていた。
そうして全て忘れてしまい、全てが夢だったのだと思い込もうとしていたのだ。けたたましい物音で両親が起きてしまっても、近所の人に迷惑がかかろうとも、気にすることも無く。
そうして、玄関から家の中に踏み込んだ瞬間――――
『……惜しかったなあ。あと一つだったのになあ?』
――――耳に飛び込んで来たのは、聞き慣れた彼女の声。
だが、それは女の子のものなどではなく、それどころか人間のものとは到底思えない代物だった。
明確に彼女の声だと認識はできるのだが、最近毎日のように聞いていた少女の声質とは似ても似つかない、まるで地の底から響くような静かな声。
その声が、玄関に飛び込んだ私の背後から聞こえて来たのだ。
咄嗟に振り返って確認したい気持ちと、絶対に振り返っては駄目だという理性がその一瞬でせめぎ合い、そして――――
――――私は意識を手放した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
次に目覚めた時、私は病院のベッドにいた。
傍には両親が心配そうに付き添ってくれていたが、何が起こったのか分からない私は大いに混乱することになる。
だが、自分に繋がっている点滴の管と、不意に襲って来た少しの頭痛が、大体の事情を察する手助けとなってくれた。
――――その後、両親と病院関係者から事情を聞いたところ、私は所謂「過労」というやつで倒れ、救急搬送されたということらしい。
今はこうしてケロッとしていられるが、搬送されて来た時は命すらかなり危ういほどの状態だったと説明される。その理由は言わずもがな、ブラックな働き方による働き過ぎが原因である。
少なくとも、あともう一日終電で帰宅しようとしていたら、恐らくは助からなかった可能性もあると聞かされ、私は背中に薄ら寒いものを感じていた。
最後の瞬間に聞こえて来たあの声は、確か「あと一つ」と言っていたのを覚えている。あの日、私の最寄り駅から二つ先の駅で乗り込んで来た彼女は、翌日には一つ先の駅で乗り込んでいたのだろう。
そして、きっとそれが最後だったのだ。それは私の命が終わるカウントダウンであり、私の自宅の最寄り駅で彼女が待つその日、私は終わりを迎えていたのだと思う。
彼女が果たして死神だったのか、はたまたあの世から迎えに来た使いの者だったのかは分からないが。
それでも、私は彼女のことがあったから……あの日の駅員の言葉で心労を受け、その結果として一日早く倒れたおかげでこうして命を取り留めることとなった。
そう考えれば考えるほど、実は彼女は天邪鬼な性格の天使だったのではないかと思えてならない。本当は、私を救うために使わされた存在だったのではないのかとすら。
まあそんなわけはないし、実際今となってはどちらでもいいことなのだが。
ともかく、私はその後会社を退職し、あまり残業の無い会社に再就職することとなる。
電車には流石に怖くてそれ以来乗っていないが、今の会社は実家からすぐのところにあるため、その必要も無い。
給料は依然と比べると断然低いし、会社の規模も比べようも無いほど小さいのだが、やはり労働は命あっての物種なのだ。
あの一件以来、私の考えもだいぶ変わり、そのおかげか今の生活にはとても満足している。定時でキッチリとはいかないまでも、夜には自由に使える時間も充分過ぎるほどにできたのだから。
あの可愛らしい少女と次に再会するのは、少なくとも歳を取って人生を全うしてからでいい。
それまで、私は無理をせず健康に生きたいと思えるようになったし、もう終電に乗るのは懲り懲りだ。
今度電車に乗る時は、何処かへ楽しい旅をする時にしよう。
周りにも人がたくさんいる時間帯で、若い女の子がいてもおかしくない日中に。
~おしまい~
如何でしたでしょうか?
初めてホラーを書いてみたわけですが、原案とキャラのモチーフは(小説書きとは無縁の)友人が提供してくれたものです。そのおかげで「書いてみよう」と思えました。
実際に終電に乗ったことや、そもそもほとんど電車に乗る機会がないため、「ここはおかしい」「こういう流れはありえない」「こうした方がリアリティが増す」「こうすればもっと怖くなる」といったプラスの方向のアドバイスがいただけたら嬉しいです。
また、「怖かった」という感想がいただけると励みになります。「怖くなかった」も、感想をいただけただけでも嬉しいですけども。
それでは、長々とお付き合いいただきありがとうございました。
皆さんも働き過ぎにはご注意くださいませ。それではまた。