カンバスとカンツォーネ
イタリア人の父と日本人の母を持つ彼は、たいていのハーフがそうであるように、非常に魅力的な外見をしていた。たいていの人をわずかに見下ろす背丈、すらっと伸びた手足、がっしりとしていながらスマートな体格。黒髪は柔らかくカールし、口元はふつうにしていてもほほ笑んでいるように見える。
髪と同色の大きな目は吸いこまれてしまいそうなほど深い。
彼の本名を、わたしは知らない。だからわたしは、彼をアンジェロと呼んだ。出会ったころに読んでいた漫画に、そういう名のキャラクターがいるのだ。オドオドとした雰囲気がよく似ていた。
外見とは裏腹に、アンジェロはいまいちさえない。いつもうつむいて覇気がなく、話すときもボソボソと小さな声でしゃべるから聞き取りづらい。とってもきれいな瞳なのに、わたしは真正面から見たためしがない。コミュ症ってやつなんだと思う。
なにをそんなに臆するのか。
少し。ちょっとだけ、わかるような気はする。だけどもったいない。ううん、悔しい。だってアンジェロの目は、本当にきれいなのだ。黒曜石のような瞳、なんて言い回しがあるけれど、きっとこういう目のことをいうのだろう。それでいてマットで、ふしぎと光を反さない。ブラックホールのほうがイメージが近いかもね。
その目でわたしを見てほしい。もっと。もっと。
* * *
アンジェロとは声楽の先生の紹介で出会った。画家がモデルを探している、やってみないか、と。
「歌っている姿を描きたいんだって。どう?」
「そりなら、赤戸さんや村岡さんのほうがふさわしんじゃないでしょうか。美人だし、スタイルだって、‥‥」
歌だって、と続けようとして、遮られる。
「美人ならいいってものじゃないのよ――ああ、あなたが不美人って意味ではないのよ。ただね、あなたは、なんというか所作がきれいだし、身持ちが堅いし――とにかく、彼と合うと思うの」
いい経験だからぜひ、と言われては断れない。先生にはお世話になっている、親すら見放したわたしにこれほど根気よく教えてくれるのは先生のほかにいない、その先生の頼みとあれば、モデルくらいなんてことはない。謝礼は出ないとのことだけど、どうせひまだ、たまには人の役に立つのも悪くないと、引き受けることにした。
顔合わせは先生の教室近くの喫茶店でした。こぢんまりとした、雰囲気のいいお店だ。
コーヒーの香りが充満する店内には見慣れた顔がちらほらある。先生はミルクティーを、わたしはカプチーノを注文した。少し待つ。
いつものジャズ。豆を挽く音。食器を重ねる音、ウェイトレスの足音、そしてお待ちかねのカランカラン。ドアベルを聞いて振り返った先生が、こっち、と手を挙げた。
わたしが彼をアンジェロと名付けたのはこの瞬間。漫画から抜け出してきたかのような男が立っていた。
ちょっと身構えた。わたしは日本語しかわからない。挨拶はなんて言えばいい? ハロー? ボンジュール? それとも。テンパッた末に、こんにちは、初めまして、と言うと、彼は「どうも」と呟いた。
「ああ、彼、日本生まれの日本育ち、日本語オンリーよ」
「そうなんですか」
心底ホッとした。反対に彼は、しゅんとうなだれた。ううん、最初からほとんどうなだれているようなものだったけれど。
せっかく上背があるのに体を丸めて、せっかくかっこいいのに伸びた髪が顔を隠している。服はしわくちゃで絵の具があちこちに飛んでいて、なんとまあ、ぶしょったい。
あと、ちょっと、ううん、かなり臭う。コーヒーの芳香をすっかり台無しにするくらいには。
「コーヒー、頼みましょうか」
「いいえ、ぼくは、水で」
「だめだめ。おねえさん、追加、いい?」
先生がウェイトレスを呼ぶ。彼の好みは把握しているらしかった、勝手にカプチーノを注文する。
ウェイトレスはいったん引っこむも、すぐにミルクティーとカプチーノを運んできた。彼が、ずいぶん早いなあ、なんて手を伸ばしたけれど、それは先に注文したぶんだ。違うわ、と先生が指摘する。
「先、どうぞ。わたし、あとでゆっくりいただくますから」
「でも」
今日のところは早く切り上げて帰ってほしかった、が本音。本人は気づいていないようだけど、ウェイトレスの笑顔がひきつるくらいの臭気は、わたしだって耐えがたかった。とはいえまさかそんなことは言えない。
「お仕事、お忙しんじゃないですか? ごめんなさいね、わたし、ふだんはひまなんですけど、今週は今日しか休みがなかったのだから、無理に合わせていただえちゃって」
「あ、いえ、仕事と呼べるほどのものには、その‥‥」
なっていなくて。消え入るような語尾に耳を傾ける。
先生によると、先生の友人の息子さんで、見所はあるが目立つことが苦手で売りこみもできない。いわゆるへたれ。匿名の批評ならばいくらでも受けるが、知っている人からはどんな評価もされたくないのだという。だから名前は教えられない、と説明された。
「同じ空間に作品を置く以上、作品を見てしまうことはあると思います。でも、ぜったいに、いいとも悪いとも言わないでください」
「わかりました」
なるほどね。どうして赤戸さんや村岡さんではだめなのか、わかった気がした。あの二人はその美貌ゆえか、人なつこく物怖じしない。思ったことはなんでもすぐに口にする。もし今ここにいたら、臭い、と、ストレートに言ったに違いない。
司会進行は終始先生が務めた。わたしのレッスンは毎週火曜午後三時からの一時間、それを無償で一時間延長する代わり、アンジェロが同席する。時間に余裕があればアトリエでの作業にも来てほしい、もし用事ができて付き合えないときは前日までに連絡のこと。連絡先はここ。
このあいだ、アンジェロは黙ってカプチーノをすすっていた。そして最後に、よろしくお願いします、とボソボソと添えたのだった。
次のレッスンから、アンジェロが見学するようになった。最初はドキドキした、わたしの歌声をほとんど初対面の人に聞かせるなんて、恥ずかしくて死にそうだった。
だけど彼はふしぎなくらい気配を消した。いつも背後に陣取るからわたしの視界に入ることもなく、つい存在を忘れてしまう。曲が終わって、不意に静かになったときに、スケッチブックに鉛筆を滑らせる音がかすかに聞こえるくらいだ。
なんだ、たいしたことはないな、と安堵した。同時に不満にも思った。歌っているときの表情に、わたしの顔に、彼は興味がないのだろうか?
失礼しちゃう。赤戸さんたちほどきれいじゃないけど、わたしだってまあまあ、それなりに見られる顔だと思う。むしろ才能がないと言い切れる歌声より、ずっと自信がある――ああ、だからだめなのかしら。声だけで人を振り向かせられるような魅力は、ないってこと。
そんなことはわかっている。だからレッスンを始めた。
コンプレックスとの戦いには早々に飽きて、わたしはただ歌う。今やっているのは「Time to Say Good Bye」、タイトルは英語だけどもとはイタリアの歌で、歌詞もほぼイタリア語だ。
先生はこう解説した。
「カンツォーネの一つよ。カンツォーネっていうのは、イタリアの、そうね、歌謡曲ってところかしら。音楽の授業で習わなかった? 『帰れソレントへ』とか『フニクリ・フニクラ』とかもそう。『オー・ソレ・ミオ』なんて有名ね」
先生が鼻歌を歌う。鼻歌ですら先生はうまい、だんだん気持ちが乗って、盛り上がるところでぷつりと終わる。気を取り直し、「Time to Say Good Bye」は音域も合っているし、たっぷり歌えるから声を出しやすい、ついでに覚えておいたら、いつか結婚式の余興を頼まれたときにも役立つわよ、と勧められた。それがモデルの話を持ちかけられる一ヶ月前。
もしかして狙っていたのではないかしら。もう、そのころから。
レッスンを終えたあとはアンジェロのアトリエへ同行する。正直、ひまなのだ。顔合わせの喫茶店では、あたかも今だけ忙しいふうを装ったけど、でまかせだ。アンジェロにではなくって、喫茶店に居合わせたほかの人たちへの言い訳だった。
彼は悪くないのよ、っていう――とっさにそんなことをしてしまう自分が、いやだ。
気を取り直して。レッスン中はスケッチブックにラフを描くだけのアンジェロが、アトリエではカンバスに向かう。わたしは意識的に描きかけのそれを見ないようにして過ごした。
肝心のモデル業はというと、構えていたよりずいぶん楽をした。レッスン中と同じポーズを取ったほうがいいか、歌ったほうがいいかと訊ねたが、アンジェロは首を振る。覚えていますから、好きにしていてください、と。だからインスタントのカフェラテを持ち込んで、のんびりくつろいだ。
アトリエはふしぎと居心地がよかった。たぶん八畳くらいの部屋に、カンバスや画材が所狭しと並んでいる。五階建てのビルの最上階で、大きく取られた窓は開放的で気持ちがいい。わたしがアトリエに着くのはいつももうすぐ日が沈む時分で、差し込む西日が部屋を茜に染める。
絵の具とアンジェロの臭いには、慣れた。アンジェロも気を遣っているのか、初対面のときみたいな悪臭を纏うことはもうなかった。それどころか身だしなみが少しずつ改善されている。三回に二回は見るからにべっとりしていた髪が、だんだんサラサラになっていった。レッスンに現れるとき、真っ白いシャツを着てくるようになった。これはアトリエに戻ったら着替えてしまうのだけど――わたしのことはちっとも見てくれないけれど、意識はしてくれているのが、アトリエに来るとわかる。それがうれしかった。
ただ、別に、アンジェロとどうにかなりたいわけではなかった。
ん、と思ったのは、五回目にアトリエを訪れたときだ。
「ぼくのママは、歌手だった」
その日は急に冷えこんだ。にもかかわらずアンジェロは薄着で、見ていて寒々しかったから、どうせたくさんあるしとカフェラテを勧めてみた。彼はちょっと驚きつつも、遠慮がちに、いただきますと受け取った。
でも熱かったみたい、すぐには口をつけられなくて、フウフウと息を吹きかける。もちろん、そんなのですぐに冷めるわけがない。両手がふさがっては作業も中断、手持ちぶさただったのか、おもむろに切り出した。
「プロにこそなれなかったけど、いいところまではいったらしい。プロを諦めてからも歌はずっと好きで、あるとき本場の歌を聞こうと、ヨーロッパを回った。旅行だけれどね。それで、通りすがったヴェネツィアでゴンドラに乗ったんだ。おもしろそうだったのと、歌が聞こえたから、と。
選んだのが、パパがゴンドリエ――ええと、ゴンドラを漕ぐ人のことなんだけど、ああ、先に言っちゃった、つまり、パパのゴンドラでさ。パパは、ママを乗せているあいだ、ずっと恋の歌を歌い続けたんだ。ママは日本人だし、イタリア語はほとんどわからないけれど、歌は知っていたから、ほかにもあるだろうに、なんでこんな歌ばかりなんだろうって思ったって。
もうわかると思うけど、パパは、ママに一目惚れしたんだよね。それでそのあと、ママを追って日本にやって来たんだ。そうして結婚して、生まれたのが、ぼく」
「すてきね」
「うん」
彼の視線は窓の外。まるで一人言のように、だけど確実にわたしに向けて、いつになく饒舌に語った。
「自慢のご両親なんね」
「まあね」
ふふ、とほほ笑む。珍しい、アンジェロの笑顔。
「きみが今練習している歌、ぼくも知っているよ。あの歌が流行ったとき、パパが、『ぼくたちにぴったりの歌だ』ってママにCDをプレゼントしたんだ」
「そう」
カフェラテをようやく飲み始める。でもまだ熱いようだ、ずず、と、すするように、ちびちびと飲む。わたしのほうは、そろそろ飲み終えそうだった。
「‥‥パパもママも、ぼくには歌を歌ってほしいみたいだった。でも、ぼくは日本語しかしゃべれないからさ、だからぼく、絵を描くことにしたんだ」
「‥‥そう」
それきりアンジェロは黙って、残りのカフェラテを一気に飲み干すと、また作業に戻った。
変なの、と思った。日本語しかしゃべれないことと、絵を描くこと。その二つを、どうして彼は「だから」と繋げたんだろう。
でも問いはしなかった。訊いたら、わたしのことも話さなくてはいけない気がした。
* * *
おしまいは唐突だった。その日は雨が降っていた。
いつものようにレッスンへ行ったらアンジェロはいない、なのに先生が始めましょうと言うので、彼はと訊ねたら、こうだ。
「もうモデルはいいってことだったんだけど――やだ、あの子、あなたにはなにも言わなかったの?」
目をまん丸にして驚く。続けて、ごめんなさい、わたしも言えばよかった、レッスンの時間だって変わるのに、ごめんなさいね、と眉尻と頭を下げる。
がつんと頭を殴られたような気分だった。アンジェロとはうまくやれていたと思ったのに、またやってしまった。きっとそうだ。なにか、やらかしたんだ。心臓がぎゅううとしぼむ。
いいえ、わたしが聞き逃したんだと思います。やっとそう答えたけれど、先生の眉尻は垂れ下がったまま、レッスンが終わるまで戻らなかった。それで、なんとか安心させたくて、思いつきで宣言した。
「あとで行ってみます。その、挨拶もできてませんし」
逃げ出したかった。モデルにと請われて舞い上がっていた。ご両親のなれそめを打ち明けられて、どうやら仲良くなれたと思いこんだ。たまたま声をかけられただけ、場つなぎの世間話をしただけだったのに、勝手にいいほうに捉えていた。
あー、あ。
とはいうものの、宣言しておいて行かない手はない。レッスンを終え、先生に見送られて、アンジェロのアトリエへ向かう。
傘を叩く雨の音がうるさかった。こういう音は聞こえるのに、はっきり聞こえるのに。
通い慣れた道をたどり、アトリエに着く。ベルを鳴らすも返事はない。ドアに耳をぴたりとつけると足音が聞こえる。アンジェロは、いる。
ドアノブに手をかける。鍵は開いている。不用心、でもこのビルの五階まで昇ってくる人なんてめったにいない、ひょいと盗めて価値のあるものもない。そっと開けて、おそるおそる、侵入する。
いつもより早い時間、いつもより明るい室内。目の前にあったから、わたしは初めて、彼のカンバスを見た。
背後から足音。
「これ、わたしだね?」
振り返って訊ねる。立っていたのは、もちろんアンジェロだ。相変わらずうつむき加減で、オドオドと、自信なさげにこちらを伺う。
「がっかり、した?」
「どうしてそんなこと、訊くの?」
「だって‥‥」
消え入る声。耳を傾けると、アンジェロはハッとして、大きな声で言い直す。
「だって、人物画じゃない」
「うん」
カンバスに描かれているのは、主張の強い、けれど曖昧な輪郭の、茶色い丸や線たち――抽象画だ。
びっくりはした。同時に、すべてが胃の腑に落ちた。彼は、わたしを見ていなかった。見る必要がなかった。わたしの声を描いていた。
申し訳なくなった。先生もさすがにこれは予想していなかったろうな。そうでなきゃ、わたしを推しはしまい。
わたしじゃなくてもよかった。ううん、むしろ。
「あなたこそ、がっかりしたじゃない? モデルがこんなで」
わたしじゃなければ、もっときれいな絵が描けたかもしれない。
アンジェロは考えながら、たぶん言葉を選びながら、ゆっくりと話す。わたしの問いへの答えでは、ない。
「‥‥耳のこと、先生に聞きました。さっき、電話で。ごめんなさい、ぜんぜん知らなかった」
「言わなかったもの」
わたしの耳のこと。わたしは、人の声を聞き取ることが苦手。
音は聞こえる。だけど人の声は注意していないと聞こえなかったり、ぼやけたりする。自分の声もそうだ。ちゃんと言えているのか、発音できているのか、自分ではわからない。会話すら事欠くのに、歌なんか不得手中の不得手だ。
だけどそれを、知られたくはなかった。知られることが怖かった。情けなくって、知らず、涙がこぼれる。
アンジェロが驚いて手を伸べる。指先は絵の具で汚れていた。赤い。茶色い。白い。
「わたしのママは、シンガーだったの。とっても人気あったの。ママはわたしも、シンガーにしたかったの。
でもわたし、歌えなかった。ぜんぜん、ぜんぜん――‥‥」
ママは、わたしを見捨てた。
アンジェロの手がわたしのほおをなでる。
「ごめんなさい」
どちらのセリフだったんだろう。ただ、次の言葉は、間違いなく彼のものだった。
「ぼくも、同じ」
ブラックホールみたいな目が、わたしに優しくほほ笑みかける。
「ぼくはしゃべるのが怖かった。こんな見た目だからね、みんなぼくに期待するんだよ。英語でしゃべってみて、英語がだめならフランス語、ドイツ語、ロシア語? でも、ぼく、日本語しかしゃべれないからさ。
そのうち口を開くのが怖くなっちゃってさ。あるとき、声が出なくなった。歌を歌うどころか、おしゃべりもできない。
そのときにね――ねえ、きみの先生は、すばらしい人だよ。なにも音楽だけが芸術じゃないでしょって、絵を勧めてくれたんだ。これが性に合っていてね。
だから、その、つまり‥‥」
相変わらず、彼の「だから」は繋がらない。でもその目でまっすぐに見つめられたら、わたし、なにもかもにうなずいてしまう。
「もう一度、モデルになってくれませんか」