第一章 【 ピアノと天使 】
ピアノの中からこちらの世界へ。背に羽のついた天使が現れた。
ここはグレンが17の頃に住んでいた孤島の洋館で、彼に与えられた広い部屋だった。「こんにちは」
可愛らしい天使。しかしグレンは驚かなかった。一心にピアノを弾き続ける……天使はグレンの端整な顔立ちを見つめた。
「無関心な方ね。あなたが人を好きになるなんて事があるのかしら」
と、余計な事をぺらぺらと話す天使だった。
ふと、無関心、無感情という連想で思いついた事を口にした。
「知ってる? サイコロの話なんだけれど。出る目の確率は6分の1だと思い込んでいたのに、残念。実はそうじゃないって話」
一人で勝手に話を展開させる。
「一面ごとに彫られた数のおかげで微妙にサイコロの確率バランスは崩れていたの。人は知らずにサイを振るう。6分の1じゃないのに。何も知らずに自然任せだと……何も知らずに」
あはは、と愉快そうに天使は笑った。
「自分のこれからの行動を全てダイスに任せようなんてお医者もいたわ。人生の選択を。古い本のお話よ。懐かしいけれど」
ひとしきり笑い終えてグレンを見つめる。黒く艶光りしたグランドピアノの上で片膝を曲げて、鍵盤にしか気にかけてない彼をジッと見ている。「ねえ、あなたのお名前は? 私はツバサ」
ツバサ。翼、ウイング、羽。その羽は、何の為に……?
「私が天使だという事の証明」――天使は好き勝手に話をしている。
――じゃあ、もぎとってやろうか? ……
グレンは心の中で呟いた。「怖い方ね」天使はクスリと微笑う。
「早くあなたの中のそれに気がついてくれるといいわね。誰かが……無理かしら? あなた、『隠す』のが 上 手 す ぎ て 」
――まあね。誰にも気がつかせるつもりは、ない。
「詐欺師みたい」
微笑は無表情、嘲笑に。「あなた自身がサイコロのよう」羽は休めて。正直と書き皮肉る。小綺麗な鏡を盾にお飾り言葉は撥ね返される。
――皆、騙されるがいい。どうせ喜ぶだろう……
「ふふ」また微笑みに。暫く天使はグレンの指から奏でられる幽玄で美しい伴奏を心地よく聴いていたが、やがて……息苦しくなってくる。
はあはあと、呼吸は乱れた。苦しくてたまらない。
天使はピアノの壇上から――バタリと落ちた。「どうして……?」
疑問を投げかける。青の逆光にグレンは晒されて。踊り動く手は休める事はなく、曲はフィナーレを迎えている。
グレンは言った――。
「空気の成分が、君の住んでいた所と違うんだろう。早く帰ればいい」
天使はため息をついた……とても疲れたような吐息を。
「空気が……」天使は冷笑の床で嘆き大窓からの月を見上げた。
「どちらとも汚れている訳でも澄んでいる訳でもないのにね……」
グレンは言った。鏡の盾を使う。
「君とは住む世界が違うんだよ……だけど君は君、僕は僕」
アナザーワールド。
別世界。開けるとすぐだ。
誰でも、その扉とは出会う機会には恵まれよう――