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ティー×シュガー

作者: 黒野素人

 千恵は厨房に入ると、我慢の糸を切らして艶っぽく息をついた。いつのまにか顔がほころんでしまっていたが、喫茶スペースと厨房はドアで隔たれているので、客にこちらの姿が見られることはない。

 もう見た瞬間に運命的なものを感じてしまった。床から天井近くまである冷蔵庫に背を預け、そっと目を閉じ、さっき焼き付けた光景を頭の中で花びらを一枚ずつ開くように思い出す。

 さらさらとした長い髪に、おっとりとした大きな目。極めつけはティーカップを持つときに見えた白くて繊細そうな指だった。カップを持つと言うよりは触れるといった方が近いかもしれなかった。遠慮がちに口をつける様はまるで小鳥が木の実をついばむようだった。

 まるでファンタジーの絵本の世界だ。不思議の国のアリスをモチーフにしたこの洋菓子店の雰囲気とあいまって、木漏れ日の中、葉っぱがそよ風に揺られるのを聞きながらお茶でもしているような風情だ。

 千恵がここで仕事を始めてから、最高の出会いの内の一つに入るだろうと直感した。

「どうしたんですか、千恵さん」

 ここの制服であるエプロンドレスに身を包んで、厨房の掃除をしていたあゆが言った。黒のワンピースに白のフリル付きエプロン。装飾過多のメイド服と比べればオーソドックスながら、ゴシックやロリータに染まりきらず英国風にまとめている。制服を発注したオーナーはなかなか分かっている方のようだ。千恵個人としてはミニスカートとニーソックスの組み合わせは最強武器だろうと思っていたのだが、風俗とか法律といった理由でロングスカートになっているらしい。しかし逆に、ツッコミ屋で優等生っぽい雰囲気なあゆにはミニよりも断然似合っているのもまた事実である。

「いい子がいたのよ。これはもう運命的なものを感じるわ」

「また興奮しすぎて鼻血出さないでくださいよ。掃除係は私なんですから」

 厨房の扉の隙間から、何気なくあゆが喫茶スペースを覗く。客は二人だったから千恵が誰のことを言っているのかはすぐに分かる。一人は三十後半くらいの爽やかな男性。そしてその対面に座っていたのが、彼の娘のようだった。小学校高学年か中学生だろう。男性の話を聞きながら、こくこくと相槌を打っている。

「なるほど。千恵さんの好きそうなタイプですね」

「でしょ? お人形さんみたいで可愛い。毎日一緒に遊びたい……これ、運命の恋かも」

「……千恵さん。本当に大学生ですか? 恋というものは一般的には殿方にするものでは?」

「だって男子に興味もてないんだもの。それに運命の愛に性別は関係ないわ」

「いつの間にかレベルアップしてるし……。だったら合コンとか行けばいいんですよ」

「嫌よ。そんなの美しくないじゃない。その点、洋菓子店で紅茶を傾ける少女とパティシエールの出会い……とってもロマンチックじゃない?」

「確かにロマンチックですが……何で『少女』限定なんですか」

「紅茶好きな女の子に悪い子はいないわ。コーヒー派だとドライな感じがしない?」

「そこじゃありません」

 ふう、とあゆは肩を落とす。ここでのバイトと千恵の扱いに慣れてきたらしい。何かを諦めたように遠くを見る。「私は

千恵さんがどんなタイプが好みでも構いませんけどね」

 突き放すようにあゆが言うと、千恵はわざとらしく口を尖らせた。

「えー。もっと二人で恋バナしようよー。ねぇ、あゆはどんな女の子が好み?」

「だから何で『女の子』限定なんですかっ!」

 洋菓子店の午後は意外に暇である。もちろんオーナーが金に任せて調達したハイテクな調理設備も原因のひとつだが、朝から昼まででその日の菓子を作り、夜に翌日の仕込をするというスケジュールのせいだ。昼過ぎから夕方までは接客くらいしかやることがない。その客も一人に何十分もかかるわけでもなく、注文された紅茶などをゆったりと淹れて出すくらいであり、暇なときは厨房から千恵が少女を物色するのが常であった。

 何故そんな横暴が許されているのかと言えば、オーナーが店の経営をする気がなく、バイトのパティシエールであるはずの千恵にほぼ全権を譲ってしまっているからだ。そんな風で店の経営が成り立つのか甚だ疑問だが、オーナーはどこかの大企業の社長の息子らしく、彼にとって洋菓子店を持つのは趣味の一つらしい。まるで貴族の道楽だ。

「よし、決めた。あの子は私のものよ」

 千恵は不意に立ち上がると、高らかに宣言する。

「何を言ってるんですか」あゆは頭を抱えるジェスチャーをしてみせる。「どういうことですか、それって?」

 質問しても、千恵は立ち上がったまま不動だ。宣言はしてしまったものの、どう行動するか考えあぐねているようだった。

「え……と、どうしようね?」

 頭の上に、はてなマークが浮かんでいた。

「どうしよう、はこっちですよ」あゆは呆れを通り越した境地に達していた。「ここで働かせるとか言い出すんじゃないかって心配でしたよ」

「それだ!」目を輝かせた千恵が叫ぶ。はてなマークが豆電球に変わる幻をあゆは見たに違いない。そして、自分が超大型地雷の上を重戦車で踏み潰してしまったことにも気づいただろう。

 千恵は怪しげに目を光らせ、ヴラド公も驚く不気味さで口元を三日月型に吊り上げた。

「彼女に奉仕してもらいましょう」


               ※


「それじゃあ、パパは仕事があるから。お金は払っておくね」

 そう言って、お父さんは席を立った。両親は泉が小さい頃に離婚しているから、正確にはお父さんではない。お母さんとお父さんの間でどういう話があって、どういう決着を迎えたのか、泉は多くを聞かされていない。ただ泉の知る決着のひとつして、お母さんと一緒に住んでいる泉が三ヶ月に一度、お父さんと会うことになっていた。

 お父さんの姿が見えなくなると、手を振るのを止めた。

 顔の笑みが溶けていく。まるで電池の切れかけた人形のように。

 泉は息をついて、紅茶を一口含んだ。話している間に冷めてしまったらしい。知らないうちに長く話していたようだ。いったい何を話したんだろう。疑問に思ったが、答えは出ない。

 三ヶ月に一度お父さんと会う。お父さんはプレゼントを持ってきてくれるし、このお洒落な洋菓子店もお父さんが予め選んでくれた。買い物に行きたいといえば連れて行ってくれるだろう。しかし、そこにお母さんはいない。お父さんとお母さんが仲良く微笑む家庭はない。家族愛なんてテレビドラマでしか見ないようなものに憧れているつもりはないけれど、胸からぽっかりと電池を抜き取られてしまったような感覚がある。

 両親の離婚の原因は、お父さんの浮気だった。毒々しくそう吐き捨てたお母さんの憎悪の顔は、未だに泉の目に焼きついている。人間の黒いところを凝縮したような表情は、一番好きな人を一番怖い人に変えた。お母さんがそんな憎悪を隠しながら微笑んでいるのだと思うと、身体の中心を冷たさが伝わっていく。

 ティーカップの紅茶を眺めた。息を吹きかけると、褐色の表面がさざなみ立つ。そこでまだカップの中にレモンが残っていることに気づき、スプーンで取り出して、残りを飲み干した。長い間レモンが沈められていたせいで、酸っぱくて苦い。

「少し考え事していきたいから」と言って用事があるお父さんには先に帰ってもらったけれど、もう止めることにした。自分も紅茶も一緒なのだ、と泉は思う。

 きっともう冷め切ってしまったのだ。

「こちら、お下げしてもよろしいですか?」

 お店の人がお父さんの分のケーキ皿とティーカップを片付けようとしていた。真っ白で清潔感のあるコック服をベースに、前ボタンや袖に意匠がこらされている。まさに菓子職人という感じだ。鼻の穴に詰め込んだ血に染まったティッシュは見ないことにした。

「はい。でも私もう帰りますから」

 泉は席を立ってコートを着る。冷たい風に吹かれて、外の樹についた枯れ葉が揺れていた。寒そうだなと思いながら店を後にしようとすると、「お客様」と呼び止められた。

「えっと……なんですか?」

 微笑みながら菓子職人は答える。

「ティーカップを」

 何のことを言っているんだろう。一度泉は考えて、手に握り締めたままのカップに気づく。

 顔から火が出るというのはこのことを言うのだろう。一気に顔が熱くなるのが自分でも分かった。店内はセンスがあって、お菓子は可愛くて、それなのにこんな馬鹿な失敗をしてしまう自分が恥ずかしい……。

「ご、ごめんなさいっ!」

 慌ててティーカップを返して、店から出て行こうとする。

 しかし、悪いことは重なる。菓子職人に渡したとはずのカップはするりと手を抜けて落下し――

 ぱりん、とはかない音をたてて割れた。

「ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!」泉はすぐに頭を下げる。「ぼーっとしててごめんなさい。――チリトリとかありますか? すぐ私が片付けますから」

 しかし、菓子職人の方は立ち尽くしたままだ。驚きに口と目を開いている。

「あの、チリトリとか……」もう一度泉が話しかけて、初めてウェイトレスはこちらに気づく。

「いえいえ。後片付けはこちらでやっておきますので大丈夫です。しかしお客様――」

 祈るように胸の前で手を組み、ウェイトレスは言いづらそうに泉を見た。

「なんですか?」恐る恐る、泉は先を促す。

「実は当店、食器は全てイギリスのロイヤルディトラム製のものを使用しておりまして、お客様が破損してしまった場合、相当額を頂くことになっているんです」

 泉は頷く。壊してしまったのは自分なのだから仕方がない。いかにも高級そうな名前が気がかりだが、勇気を出して聞いてみる。

「そのカップ、いくらぐらいなんですか?」

「五万円です」

 真っ暗な谷底に突き落とされた気分だった。泉は言葉を失う。高級食器としては安いのかもしれないが、高校生である泉にとっては大金である。カップが割れたとき菓子職人がひどく驚いていたが、こういう理由だったのだ。

「そんな……五万円なんてお金すぐには用意できないです。一人暮らしの高校生ですし」

 もし冷静な判断の出来る人間がここにいたのなら、菓子職人の頬が僅かにつり上がったのを見逃さなかっただろう。泉は申し訳なさから目をそむけていたために気づけなかった。

「こちらとしても残念なのですが規則ですので。お金を頂かないわけにはいかないんです。何とか工面していただく他にはありません」

「そうですよね」

 菓子職人の言っていることは正しい。非がこちらにあるのなら、謝るべきなのはこちらなのだ。でもいったい誰に頼めばいいのだろう。学校の友達に頼んでも簡単に貸してもらえる金額ではない。かといってお母さんに頼むのも申し訳ない。お父さんなら連絡すれば貸すどころかお金をくれるかもしれないが、頼ってはいけないような気がしていた。

 そのとき、菓子職人が何かを考え付いたように両手を打ち、明るい声を上げる。

「そうだ。どうしても出来ないというなら、ここで働いてみてはいかがですか? 当店はただいまアルバイトを募集中で、その賃金をカップに充てていただくというのは?」

 菓子職人は続ける。

「ちなみに、制服と交通費は別途支給します。休日は応相談。その辺のハンバーガー屋なんかよりはずっと時給もいいですから、五万なんてすぐですよ」

 確かにいい話かもしれない。でも自分に出来るのか、と泉が逡巡するのも構わずウェイトレスは詰め寄ってくる。

「――ね? いい考えでしょう?」

「じゃあお言葉に甘えさせて頂きます」

 勢いに押されて泉はついにそう言ってしまった。


               ※


「嫌な方向にも天才ですね。千恵さんは」

 諸々の連絡事項を伝えて泉が店を出て行ってから、あゆは呆れた様子で言った。

「千恵さんがあの子の食器を下げてくると言うから何かと思ってみれば、あれだけの嘘八百を並べるんですからね」

 午後のティータイムは過ぎたらしく、店内に人はいない。かすかに流れる弦楽曲が聞きながら、やっぱり割れたカップを片付ける羽目になっている。

「いい子よね。あそこまですんなりいくと思わなかったわ。見事に接点獲得よ。これであのかわいい子と一緒に共同作業ができるわねー」

 一方の菓子職人――千恵は何かをやり遂げたような達成感に満足げな様子だ。今後の妄想でもしているのだろう。時々顔がにやけている。

「大体、こっちは冗談でやってるんだと思いましたよ。何ですか、『ロイヤルディトラム製』のカップが五万円だなんて。うちはそんな高級なもの使ってないはずです。五万なんて法外な値段、下手したら詐欺ですよ」

「あなたも最初の方はよく割ったわね。あの時も冗談で五万って言ったら青い顔してたっけ」

 懐かしげに千恵は振り返る。頭の中の光景は変わっているのだろうが、にやけ顔はそのままだった。あゆにとっては苦々しい記憶だ。

「そんな過去のことはどうでもいいんですっ」

「まあどうでもいいことね」妄想をしていた千恵の目が、あゆを見る。「今も昔もあなたは可愛いんだもの」

 不意討ちだ。飾らずナチュラルに言われた言葉は、あゆに真っ直ぐに届く。普段そういうことを言われ慣れていないせいか――というか言われ慣れている人がいたら驚くが――あゆは目を逸らす。千恵に向かっていたはずの勢いが一瞬失せる。

「いいじゃない。あの子は信じきってるんだから」

 きっぱりと千恵は言う。狡猾なこの狐に騙された哀れなウサギさんに同情した。

 カップの破片を集めて、手際よくあゆはゴミ箱に捨てた。今度は雑巾とペンを持って、店を入ってすぐのところにあるブラックボードを書き直す。もともとは季節のおすすめメニューが書かれていたはずだが、ついさっき『誰か』によって改ざんされていた。

「『食器を破損した場合相当額を頂きます』――いつからこんな規則が出来たんですか?」

「んーと、つい三分前かな」笑顔で千恵が返す。

「もう言葉もないですね」

 言うまでもなく、ブラックボードに書かれていたのは千恵の千恵による千恵のための規則である。もしカップを割った彼女が金を払わないと言ったら、入り口に書いてあったはずだと主張するつもりだったのだろう。この調子だと千恵が何重に罠を張っていたのか想像が付かない。戦国時代の中国の武将もびっくりの策士だ。店に入った時点で彼女の手の中とでも言うのか。

「でたらめです」

 確かに、ロイヤルな――王室御用達レベルのでたらめさだ。



「おはようございます」

 翌朝あゆは制服に着替えてフロアに出て行ったが、千恵の姿はない。

 人のいない部屋は寒い。身体を震わせて、暖房のスイッチを入れる。

「ミニスカートだったら死んでるわね」

 一応この店にも冬服は存在するが、やはり基本のメイド服は変わらなかった。着膨れするとみっともないから、とのオーナーの発言は確かに正しいと思うが、冬の朝の格好としては寒すぎる。この制服のモチーフとなったヴィクトリア朝時代のメイドたちは、地位によっては暖房もない屋外で水仕事をやっていたこともあったという。恐ろしい話だ。

 しかしオーナーの影響が及ぶのは服の規則くらいだ。オーナーは店の経営状況よりも、メイド服に身を包んだ従業員とその服の蒐集に興味があるらしい。有り余る財産の浪費と趣味で成り立っているこの店は、ほぼ千恵を始めとする従業員の独壇場だ。店内のコーディネートもやれば、新しいメニューの開発も勝手にする。

 四季折々の花を飾ったり、七人の小人の置物が並んでいたり、汚くない程度に緑もある。努力の甲斐あって、一歩店に踏み入れれば不思議の国のお茶会のような風情だ。

 基本的に立案は千恵で、実際に動くのはあゆであるのが、不満と言えば不満だが。

 厨房に向かうと、真剣な表情で千恵はオーブンからクッキーを取り出していた。

「あら、おはよう」

 工夫を凝らしたと一目で分かるきつね色の焼き菓子を、千恵はひょいと口に入れる。いかにも職人らしい難しげな顔をした後、一転して笑顔に変わる。

「クッキー焼いてみたの。あゆもどう?」

 言動に奇妙な点が多々見受けられる千恵だが、パティシエールとしての腕前は間違いなく本物だ。その辺の主婦が趣味で作るのとは話が違う。修行と天性の才能が生み出す芸術品だ。超甘党のあゆが誘いを断るわけがない。

「もちろん頂きます」

 瞬間移動を思わせる速さで近づき、目標を確保。

 さく。

 軽い食感の後、舌に乗せた瞬間にラングドシャ生地がとろける。中に挟んでいるのは無糖チョコレートか。生クリームを少し混ぜ、独特の風味を損なうことなく苦味だけを和らげる。生地とチョコレートの全てを知り尽くしていないと出来ない芸当だ。

「どう?」

 千恵に感想を求められたので、「美味です」とあえて堅苦しい言葉を選んで返しておいた。何十分もかけてこの神の創造力の結晶を褒め称える言葉を並べてもいいが、この素晴らしさの前にそんなことは愚行だ。それにバイトの身であるあゆが評するのも無礼のような気がした。

「それにしても、何でいきなりクッキーなんですか? 予約も受けていないと思いますけど」

 洋菓子店として、ケーキのほかにも一応焼き菓子を置いている。しかしそれも申し訳程度のものだ。大体の注文は予約でくるし、クッキーはあまり売れないから作っておかない。マドレーヌなどの方が高級感があっていいようだ。

「恋人に贈るのよー」

 そう言ってまるで恋する少女のように千恵は微笑む。

「ああ、昨日の女の子ですか。――でも、来るんでしょうか?」

「さあね」

 さらっ、と千恵は言う。

「さあね、って……来なかったらどうするんですか?」

「その時はその時よ」

「連絡先とかは?」

「聞いてないわ」

「……」

 やはり千恵は奇人の類だ。あゆは再認識した。

 この天才パティシエールはそういうところがあった。何がこれほどまでにあゆを惑わせるのか。前に考えたことがある。

 それは彼女の中の矛盾なのだ。

 昨日はあれほどあの子を引き込もうとしていたのに、連絡先も聞かない。ずっと押し続けて、最後だけすっと引いてしまうような、一貫性のなさ。抜けているというのは少し違う。驚くべきは彼女は迷うことなく両極端であるということだ。つまり、その間がない。右に走るか左に走るかどちらかしかなく、止まることがない。天才と馬鹿は紙一重だとよく言うが、彼女こそは必ずどちらかに分けられるのだろう。決してその間にある凡人に含まれる人間ではない。

「食べる人がいなかったら私が食べますから」

 あゆは目を逸らして言った。誰にも食べられないお菓子は悲しい。作られたお菓子も、作った人も。

「うん。ありがとう。そう言ってくれると助かるわ」

 千恵は笑う。笑みの裏には暗い影があるような、不意にそんな気がした。正体は分からないけれど、他人に見せないのは千恵の優しさゆえだろう。あゆは知らないふりをすることにした。

「材料がもったいないからです。それ以上の感情はないですから」

 ちょっと言い方がきつかったかも知れない、あゆが思っていると、

「『それ以上の感情』だなんて。あゆも意識しているのかしら? 言葉にされると私もあなたに心を奪われてしまいそうよ?」

「は?」

「やっぱりあゆは優しいのねー。日頃冷静にツッコミを入れてくるくせに、時たま優しさを見せるから怖いわ。ギャップってのは人間の心を深く揺り動かすらしいよ?」

 哀れなことに、開店前から早々にネジが飛んでしまっていたらしい。変人スイッチが一度オンになるとなかなか切れてくれないのもあゆは知っている。こうなると放置するのが一番だ。

「開店の準備してきます!」

 そう言って厨房を出る。奇行に付き合うのは事業内容に関係はないはずだ。

「心を奪ってどこかへ行ってしまうなんてタチの悪いひとー」

 背中に演技がかった声がかけられるが、無視して朝のうちにやるべきことを頭の中に列挙した。今日の分のブラックボードを書き、喫茶テーブルを拭いて――

「こ、こんにちわっ!」

 カランカラン、と入り口のドアを開けて入ってきた小柄なお客さん。変に力んでいるのか声が多少上ずっている。何を勘違いしたのか、セーラー服を着ていた。

「昨日お世話になっつ……」

 噛んだ。

「お世話になったものですがっ!」

 気をつけの姿勢で、斜め三十度上を向きながら少女は言った。あゆは運動会の選手宣誓を連想した。――小学校の。

「はいはい。いらっしゃいませー」

 満面の笑みで出てくる千恵。フィギュアスケーターのようにくるくると回りながら現れると、先ほどのクッキーを乗せた天板を少女の前に差し出た。

「どうぞ。クッキーは好き?」

 昨日はお客様としてだったが、今日は気分が違うらしい。柔らかな笑みでお手製のクッキーを振舞う様子は、久しぶりに孫に対面した英国婦人のようだった。

「はいっ。大好きです」

 元気よく返事をするが、いきなりの出来事に戸惑っているらしい。目をしばたかせ、しきりにうろうろと視線を動かす。それを見かねた千恵は、自信作を一つつまむ。

「あーんして?」

「千恵さんそれはさすがに……」

 ついあゆは横槍を入れてしまった。少女がいくつかは分からないが、少なくとも小学校高学年以上だろう。そんなことをしては気分を損ねるのではないか――。

 さく。

 あゆの予想に反し、少女はすんなりとクッキーを頬張った。彼女の小さな口が一口で食べるには大きかったらしい。まるでハムスターのように味わっていた。

 さくさくさくさく……ごっくん。

「どう?」

「美味しいです。とっても」

 うるさく騒ぎ立てるでもなく、静かに、そしてきっと心から少女は感想を告げた。恐らく千恵にとって、万の言葉を尽くされれるよりも嬉しい褒め言葉だっただろう。

「そう言ってもらえると嬉しいわ。ところで、あなたのお名前は?」

「藤村泉です」

「泉ちゃん……可愛い名前ね。私は藤沢千恵。あなた、おいくつ?」

 千恵は二つ目のクッキーを薦めながら言った。

「高校二年です」

 あゆはブラックボード用のペンを取り落としてしまいそうになった。

 てっきり小学生ないし中学生だと思っていたのだが、まさか高校生とは。しかも高二と言えばあゆと同い年ではないか。今年の春に高校に入ると言っていた知り合いの子の方がよっぽど大人に見える。

 さすがの千恵もこの展開は予想外らしい。思考回路が停止してしまった千恵を見ながら泉が首をかしげているので、あゆがこの場を牽引することにした。

「じゃあとりあえず、制服から合わせるよ。まさかセーラー服で店に出るわけにもいかないでしょ。私についてきて」

「はい」

「高校二年でその姿は反則よぉっ! 泉ちゃん!」

 千恵の時間停止が解けたらしい。我慢の限界なのか熊の如く抱きつこうとした千恵を、あゆは額へのチョップで受け止める。

「あああー。私と彼女の間を阻まないでぇ」

 手足をばたばたさせる千恵。

「今から制服合わせてきますから。千恵さんは仕事しててください」

「制服。着替え……」千恵の表情が輝く。「私も見るーっ!」

「変に冴えてますね。でも駄目です」

「そんなーっ!」

 千恵の悲鳴をよそに、戸惑いながら立ち尽くしていた泉の手を引いて、あゆは言う。

「見ないほうがいい。精神衛生上よくない」

 泉はこくこく、と頷いた。超弩級の変人の奇行に、ウサギのような目が怯えていた。


 厨房を抜け、ロッカールームを過ぎるとそこには倉庫がある。

 あゆは鍵を回し、幅が五メートルはあろうかというクローゼットを開ける。

 ガラガラガラ、とまるで迷宮の宝箱のように大げさに開いたそれは、その持ち主である洋菓子店のオーナーにとっては確かに秘宝には違いなかった。

 ここの店の制服――つまりはメイド服が数十着。SSからLサイズの分類だけではなく、個人の体型に合わせられるよう、それぞれについてさらに細かくサイズを分けてあるらしい。オーナー曰く、この倉庫にあるものと自分が個人で所有しているものを合わせれば、オーダーメイド並みにピッタリのサイズのメイド服が見つかるらしい。

 ちなみにオーナーの好みにより、Lより大きいサイズは用意されていない。

 あゆは泉のための制服を探し始める。まずは一番小さなサイズから合わせてみるか。

「驚くよね。こんなたくさんの服が揃ってるなんて」

「そ、そうですね。服屋さんみたい。制服ってこんなに用意しておくものなんですか?」

「いいや。他のお店ではそうじゃないと思うよ。少なくとも、私が前いたところはそうじゃなかった」

「経験豊富なんですね」

 泉は感心したように言った。同い年にしてはどこか距離をとったような言い方だが、無理に距離を詰めるのはよくないだろうとあゆは思った。

「遊ぶ金ほしさにね。将来のことを考えたのはここに入ってからだけど。とすると、バイトの経験は?」

「ないんです。友達から話を聞いて、やろうかな、って思ったんですけど。その友達に、まだ早いって言われて」

「そうなんだ」 あゆはつい笑ってしまった。

 こんなか弱い子を社会の荒波に引き入れるのはかなりの勇気がいる。なんらかの強い意志があれば、非常識な千恵のようなことも出来るのかもしれない。少なくともその友達は常識人らしい。全く関係はないけれど、顔も知らないその友達に心の中でお礼を言いたい気分になった。

「でもそんなに心配しないで。始めなんて何にも出来ないのが当たり前だから。……あったあった。これでどうだろ?」

 泉の身体に当ててみる。大きかったらどうしようと思ったが、

「やっぱ一番小さいサイズで大丈夫かな。じゃあ――」

「あのっ」

「何?」

 小さな身体から搾り出したかのような、大きな声に一瞬あゆは戸惑う。

「私、こういう服ダメなんです」

「ダメ?」

「なんていうか、女の子っぽい服装ってあんまり好きじゃないって言うか、出来れば違う服があれば……」

「でも、これが制服だしね」

「もし許していただけるなら、自分で服を用意させて下さい。雇ってもらっているのに失礼なのは分かります。仕事もどんな仕事だってします」

 そんなことを言われてもあゆは困ってしまう。もしこれが他の女の子だったら即座に却下していただろう。しかし泉の場合は単なるわがままではないような気がした。本当に言いづらそうで、自分の気持ちと他人への迷惑が乗った天秤がぐらついているのが分かる。

「どうしてもダメなの?」

 もう一度尋ねてみる。

 少し間をおいて、泉は首を縦に振った。前に流れた髪がベールのように顔を覆い、頭を上げるのと平行して後ろへと返っていく。再び現れた二つの瞳は上目遣いにあゆを見ていた。

 ――理由ありってことね。

 気づいてしまったらもうあゆの負けだ。こんなに精一杯に言われると断れるはずがない。

「わかった。私が何とかする」


「で、泉ちゃんはまだなの?」

 一通り制服選びが終わり、泉が着替えるからとあゆがロッカールームの外に出ると、千恵が待ち受けていた。

「今は着替え中」

「なるほど。レッツ覗きタイム」

「何がなるほど、ですか」

 千恵のやっていることはもうオヤジである。一度変人スイッチが入るとなかなか戻らないのを失念していた。正気なのか狂気なのか分からないのでとりあえずチョップを食らわせておく。疑わしきは罰するのが千恵に対するスタンスである。

「いいじゃない別に。女の子同士でしょ。私とあゆも一緒の部屋で着替えてるじゃないー。見せ合いっこしましょー」

 チョップ。「それとこれとは話が違います」

 清く正しく正義の鉄槌を下すと、不意に千恵は目を逸らした。冗談っぽい顔が一転、どこか憂いを帯びたような表情になる。

「ちゃんと泉ちゃんのことを考えていて、あゆは優しいのね」

 どうしてだろう。千恵にそういわれると反発したくなる。理由は分からない。そんなことはないと否定しなければいけないような気がした。それを千恵も望んでいるような。

「出て行って欲しそうな顔をしていたんで、出て行っただけです」

 言い慣れないことを言うのは難しい。上手く言えるほど器用ではない。

「反論になってないよ、それ」

「……反論する気もないです」

「可愛いなあ、もう」

 満足げに千恵は笑みを浮かべた。天才的に頭の回転が速いために口論にも強いのだろう。ひとりで悦に入っているなら入っていればいいとあゆは思う。願わくば、千恵の全ての奇怪な言動を千恵の妄想にとどめんことを。それで世界は安泰だ。無病息災、家内安全である。

「あのー」

 扉の向こうから声が聞こえた。

「着れました。開けてもいいですか?」

「どうぞ」あゆと千恵が答える。そもそもロッカールームにいるのは泉なのだから、泉が聞くのは違う気がする。

 遠慮がちに泉は扉を開けた。

 あゆが一つ頷き、千恵は感嘆の息を漏らした。

「変じゃない、ですか?」

 上目遣いに聞かれて、変だと嘘をつける人間がこの世に何人いるだろう。誰がどう見ても、可愛い以外のなにものでもない。

「似合ってるよ。とっても」

 あゆは言った後に、泉にとってその言葉は適切だったかと思ったが、泉が喜んだようなので気にしないでおいた。

「とってもとってもいい感じよ泉ちゃぁん」

 チョップ。

「痛いじゃない、あゆ。まだ私何もしていないのに!」

「『まだ』ってことは何か変なことするつもりだったんでしょ」

「もちろん」

 グーの形から親指を突き出し爽やかに笑う。もう奇人病は末期だ。

「――ところで、そんな服よくあったわね。執事服……っていうの?」

 胸の位置でボタンを留めた黒のロングジャケットに、真っ白なシャツ、硬質な靴と幼さの残る顔とのギャップがたまらない逸品である。

「倉庫を探したらあったんですよ。オーナーの趣味でしょうか」

「よく考えると、執事服があるのは不思議ね。ギャルソン用の制服と考えればいいけど、何で、かなり小柄な泉ちゃんにピッタリのサイズがあるのかしら」

「男の人なら到底着れないサイズですよね」

 ふと、何かに気づいたように千恵は顔を上げる。

「オーナーは小柄な少女がギャルソンをやると予想――あるいは期待していた……?」

 千恵の推理に、あゆも泉も苦笑するしかなかった。

 確かにあのオーナーならやりかねない。

「でも、使っちゃってもいいんですか?」

 控えめに聞いたのは泉だ。やりたい放題の千恵たちに罪悪感でも感じたのだろうか。不安げにしている小さな執事というのも新鮮で、あゆは少しだけ焦った。

「もちろんよ」

 千恵は立派な胸を張り、力強く頷く。

「こんなに可愛いんだもの。これ以上の正義はないわ」

「意味が分かりません」

 あゆが即座に突っ込みを入れる。ちらりと見ると、泉は可愛いと褒められて照れているのか、意味不明の展開についていけていないのか困惑しているようだった。

 この奇人に毒された酸素を吸うには、泉は幼すぎる。泉の健全な発育のためにも、即刻隔離しなければならないとあゆは心に誓った。

「可愛い女の子がコレクションの服を着ていればオーナーも満足でしょ。店の金庫から一人分のバイト料が捻出しても問題なし。そもそも泉ちゃんを雇ったのも私の独断だしね」

 ぴくっ、と泉は身体を振るわせる。それは驚きを表すリアクションなのだろうか。確かに常識的な観点から見ればこの店の多くの事柄は常識外れではある。非常識のこの場所に慣れていない泉ならば驚いても不思議ではない思い、とりあえずあゆは捕捉しておくことにした。

「そういえばそうでしたね。泉は別に気にすることはないよ。オーナーは金持ちの御曹司で、一人分のバイト料くらい痛くも痒くもないんだから。まあ趣味みたいなものだし」

 千恵が後を引き継ぐ。

「それで、オーナーにここを任されているのがこの私。パティシエールの藤沢千恵。よろしくね」

「よろしくお願いしますっ!」

 泉は律儀に返した。

 転じて千恵の手があゆへと向けられる。

「こっちがパティシエール見習いの佐藤あゆ」

 千恵と同じくあゆが挨拶をしようとすると、

「――特技は人の急所を抉るツッコミ」

 びくっ、と千恵の追加説明によって一際大きく震える泉。

「なんてこと言うんですかっ」

「いいんじゃない事実なんだから」

「事実でも言っていいことと悪いことがありますっ!」

「特技については否定しないのね」

「……」

「とまぁ、こういう人だけど基本的にはいい人だから」

 千恵が話をまとめて主導権をさらっていく。はからずも人物を的確に表した自己紹介になってしまったようだ。

「人手が足りないときは別だけど、基本的に私は厨房の中であゆがフロア担当ね。泉ちゃんには接客をやってもらいたいんだけど、いい?」

 バイトのために店に来て、制服まで合わせてしまった今、許可も何もないだろう。あゆはそう思ったが言わないでおいた。千恵は相当気に入ったらしい。そんな素っ頓狂な質問をしてしまうのは、泉の容姿というよりは千恵自身が原因なのだろう。

 ――そういうのは、千恵の癖なのかもしれない。いや、傷痕か。

「はい。がんばりますっ!」

 やはり妙に力んでいるのか、声は上ずっていた。



 いくらか時が過ぎたある朝、泉はブラックボードと格闘していた。喫茶用の椅子に腰掛け、神妙な面持ちでペンを滑らせる。一旦筆を止め、深呼吸してから最後の仕上げにかかった。

「――書けた」

 大きな息をつき、泉はこれまでの苦難の道のりに思いを馳せる。

「出来た?」仕事もせず、厨房の陰からこっそりと覗いていたらしい千恵が真っ先に声をかける。「どれどれ……うん。いい出来じゃない」

「これで私の仕事が一つ減ります」

 千恵の後ろから覗き込んでいたあゆが言った。

 この洋菓子店の入り口には、本日のお勧め品や、季節の挨拶、店員による一言コメントなどが毎日更新されるブラックボードが置いてあった。チョークではなくペンで書くタイプのため、ミスをすると部分的には直すことが出来なかったり、直せても汚くなってしまうので、一度消すとなると全部消す以外に選択肢はない。開店前の仕事のうち最も緊張する瞬間である。

「ありがとうございます。やっと『シェエラザード』が仏語で上手く書けるようになりました」

 にこっと泉が笑う。さらさらの頭を、千恵が撫でた。

 シェエラザードとはこの洋菓子店の名前である。字体に装飾を施したフランス語で書かれているのは、「カタカナで書くよりも雰囲気がいいから」という泉の案だった。泉は意外に凝り性らしい。

「偉い偉い。たくさん練習したもんね」

 仮にも高校生にその扱いはどうだろうとあゆは傍から見ていて思ったが、たくさん練習したのは確かだし、泉も困っている様子はないので黙っていた。

「ロッカールームでも空で練習してたもんねぇ」

 泉が真っ白に石化する。「み、見てたんですかっ?」

「ええ、もちろん」

 頬に手を当て、目を閉じながら恐らく不埒な妄想をしているであろう千恵。

 目線を落とす泉。きれいな髪の間から見えた白い肌は、羞恥で真赤に染まっていた。

「もう本当に健気で真面目でそういうところがとても私――」

「性的迷惑行為です」

 あゆが突っ込みに入ろうとしたとき、

「千恵さん止めてくださいよー」

 泉は安物のおもちゃみたいな勢いでぺしぺしと連続張り手を食らわせた。

「うぐぅ。痛い痛い痛い――」

 形勢が逆転し、千恵が防御に回った。腕を前に伸ばし、張り手からボディをガードしようとしているらしい。口ではああいっているが、千恵も楽しんでいるのは明らかだ。一方の泉も楽しそうなのでスルーしておこう。

 朱に交わればなんとやら。見事に交わってしまった純白が、せめて奇人の色に染まらないことをあゆは祈った。

「千恵さん、遊ぶのはそこまでにして、そろそろ仕事してくださいよ」

「はいっ。ショーケース見てきます」

 千恵に言ったつもりだったのに、返事をしたのは相変わらず律儀な泉だった。軽快な足音を響かせて厨房に入っていく。

「ああいう真面目なところが可愛いわよね」

 そうには違いないのだが、言ってしまうと千恵の思う壺のような気がしてあゆは無視した。

「そろそろ開店時間です。お客さんが来るかも知れませんよ?」

 からんからん。言っているそばから、入り口にあったベルが来客を告げた。

「ほうら、言ったとおりでしょう。千恵さん」あゆは小声で言って、「いらっしゃいませ」と客を出迎えた。

 すらっとした男だった。決して若くはないが、オヤジ臭い雰囲気とは無縁のようだ。仕事も遊びも出来る男なのだろう。黒のジャケットを着こなし、高そうな腕時計をし、片手は傍らの若くて綺麗な女性の手を握っていた。

「もう僕らが入ってもいいかな?」

 深みのある声が耳に心地よかった。

 男に対する疑問を向ける意味で、あゆは千恵を見た。

「もちろんです。ケースの方へどうぞ」

 すぐさま店を任された者の姿になり、千恵は男女を先導する。

「こういうときは途端に変貌するのね」あゆは呟いた。

 客二人がどのメニューを頼むか迷っている間、隅に控えていたあゆは、この二人がどういう関係なのかを考えていた。

 ともすればあゆの父親で通じてしまうくらいの年齢の男と、二十の半ばくらいの女性。格好いい男の人と年下の美人だった。ファッション雑誌に二人で写っていても遜色はないだろう。

 その裏に何かを想像してしまうのは、ドラマの見すぎなのかもしれなかった。

 彼らの注文が決まったらしい。シェエラザードは前払い性だ。あゆが会計を済ませ、千恵が二人分のケーキを運んでいく。

「あゆ、厨房見てきてちょうだい」

「分かりました」

 指示に従ってあゆは動く。他の客もいないしこの場は千恵に任せろということだろう。

 最近は年の差があるカップルも増えているという話だ。ただ普通に恋愛をしているだけなのかもしれない。むしろその確率の方が多いのかもしれない。

 しかし、僅かな可能性があゆの心を締め付けて離さない。

「不倫……とか?」

 誰にも聞こえないように言った。

 例えば、父親が母親以外の女性と深い仲になったり、とか。

 例えば、その話をめぐって両親が口論したり、とか。

 例えば、父親とその女性が蒸発してしまったり、とか。

 あゆは嫌な幻想を払おうと首を振った。

 それはきっとあゆと千恵の境遇のせいだ。ここで働く二人はどちらとも、不自由のない家庭があるとは言い難かった。だから人一倍幸せな家庭というものに憧れているのかもしれない。

 きっとそのせいだ。こういう事柄に関しては自分は正しく判断が出来ないだけなのだ。あゆは厨房の扉を開く。

 厨房の隅で、泉がうずくまって泣いていた。


               ※


 それは少し前のこと。洋菓子店でのバイトも慣れてきた日の夜だった。

 泉は自宅に戻り、溜まった疲労によっておぼつかない足取りでベッドに倒れこんだ。商品を運んだり高い食器に神経をすり減らしたりと、洋菓子店の仕事は意外とハードである。当然のことながら学校にも行かねばならないわけで、そうすればやはり宿題というものもある。

「ああ、そうだ――」

 確か今日は数学と英語の宿題があったんだっけ。宿題である以上はサボるわけにはいかない。友達に見せてもらう選択肢もあるが、ずるい気がして嫌だった。勉強のために親元を離れて一人暮らしをしているのだから、中途半端なのはよくないと思っていた。

 一念発起だ。せーの、で起き上がろう。

 頭の中でカウントダウンしていたとき、泉の携帯電話が着信を告げた。

 ポケットから取り出して見る。着信は――。

「もしもし、泉? パパだよ」

 電話越しでも、聞き違えようのない声だった。

 胸の奥の方が固まったような感覚。ずっしりと重くて、柔らかな体のなかに埋もれている大きな塊に、その声はよく響いてくる。

「お父さん? うん。泉です」

 何故かけてきたのだろう。そんな思いがよぎる。確か離婚の時に、泉に連絡をするときはお母さんを介する約束になっていたと聞いていた。

「今ちょっと時間いいかな?」

 泉は部屋の時計を見る。八時過ぎ。夕食も終わって一息ついているところだ。

「うん。大丈夫」

「あのさ、そろそろ泉の誕生日だろ?」

「うん」

「それで、泉と、パパとでパーティでもしないか?」

「パーティ?」

「そうだ。泉のためのパーティ。何でも好きなこといってごらん? どこでもいい。泉が行きたいところで、したいことをしよう」

 楽しげな口調でお父さんは言った。

 ――泉と、パパとで。そこにお母さんの名前はない。

「お母さんは……?」

「お母さんにはちゃんと了解を取ってあるよ。もともとは三ヶ月に一度の約束だったんだけど、今回だけは特別だから、って」

 喉が詰まりそうになる。電話機を握る手に力がこもる。

 目に力を入れて見開いていないと、泣いてしまいそうだった。

「違うよ、お父さん」

「何が違うんだい? パパ、何か変なことしたかな?」

「違うよ。私が言ったのは、お母さんはいないの、ってこと」

 電話機の向こうで沈黙が流れた。

 カチ、カチ、カチ、と壁にかけた時計の秒針が音を立てる。

「お母さんとパパはね、もうどうしようもないんだ」

 声はあくまで静かだった。

「泉はまだ知らないかもしれないけど……いや、知らずにすんだらそれに越したことはないんだけど、どうしようもないことがあるんだ。割れてしまったお皿が元に戻らないようにね」

 それが、お父さんとお母さんだと言うのか。

「分かってくれ、泉」

 分かったら、何だというのだろう。

 お父さんとお母さんが仲直りをするのだろうか。親子で笑えるのだろうか。

 ――たったそれだけのこと。望むのは、わがままなんだろうか。

 返事はしない。沈黙をどう受け取るかはお父さん次第だった。

 娘の心境を自分勝手に解釈するような父親ではないと、信じた。

「泉」

 名前を呼ばれる。電話越しに声が柔らかくなった。

 背中に冷たさを感じた。直感が不吉を告げていた。

「パパの子供にならないか?」

 電話を取り落とさなかったのは、なんとなくそんなことを言われるのかと思っていたからかもしれない。

 人は残酷なことを言うとき、優しくなる。

「どういうこと?」

 声を搾り出した。

「法律的な意味で親子になるってことだ。パパと泉は名実ともに親子になれるんだ。綾乃さんにも話せばきっと分かってくれる。それにパパの方がお金はあるから、これからのことも安心だ。大人の話になってしまうけど、泉がやりたいように自分らしく生きるためには、そういうことも大事だ」

「大事なの?」

 ゆっくりと、泉は尋ねる。

「ああ。大事だ」

「お母さんよりも?」

 泉がお父さんの子供になる。つまり、今のお母さんの子供ではなくなる。

 それはお母さんに――今まで育ててくれた人に対する裏切りではないのか。

 急に、お父さんを口汚く罵るお母さんの表情が脳裏に浮かんだ。

 だがそれも一瞬。努めて打ち消した。

 ――そんなお母さん、知らない。

 お母さんは微笑の似合う人のはずだ。そんな人があんな恐い表情をするはずがない。 

 しばらくの間があって、お父さんは答えた。

「お母さんよりも大事だよ。泉のためなら――」

「聞きたくない」

 気づくと通話を切断していた。

 泉はそのまま動けずにいた。

 手から電話が滑って、床に落ちて転がる。

 泉のためなら、何なのか。お母さんを蔑ろに出来るのか。

「違う」

 泉は顔を手で押さえた。

 家族とは優劣をつけるものじゃない。家族が全員で笑いあうべきであるはずなのだ。

 誰かが欠ければ痛みを感じる。誰かのためなら誰かがいなくなってもいいとか、そういうものではないのだ。そもそも欠けるということ自体があってはならないことのはずなのに。

 何よりも悲しかったのは「パパの子供にならないか」と言われたことだった。

 それはつまり、今までは――

「私はあなたの子供ですらなかったんですか、お父さん」

 携帯電話の画面が発光して、真っ暗な部屋に薄明かりが浮かんでいた。

 目を閉じてしまえば視界には本当に何もなくなってしまう。いっそそのまま全部なくなってほしかった。それで解決できる問題でないのはわかっていたけれども。

 逃げてしまえれば楽なのかもしれない。それでもどこへ逃げるというのだろう。問題の先送りを逃げと呼ぶのなら、逃げれば逃げるほど悪くなる一方だ。狭いところへ逃げ込んでいけばいくほど、段々と自分に許される逃げ道は減り、手足の自由すらきかなくなっていく。それで、行き着く先はどこなのか。

 泉はそこで考えるのをやめた。このままでは泥沼だ。そしていつか分からなくなって寝ているに違いない。それではいけないのだと思う。

 まずはバスルームへ行くことにした。電気はつけないまま服を脱ぐ。真っ暗闇の中で自分を曝け出すのは、何だか不思議な高揚感があった。

 泉の体を包むのは布一枚になった。胸にきつく巻いたさらし。ベッドの薄いシーツのようなもので、時代劇にでも出てきそうだ。しゅるしゅる、とそれも解いていく。こうしていると自分が包帯を巻かれてミイラにでもなったかのよう。

 全部とき終わると、慣れた手つきで衣服を畳んでそばにおいておく。

 バスルームに入ると、壁にかかった鏡が全身を映していた。

 泉は鏡像の胸を見て、そして自分の胸を見る。毎日のさらしのせいで血行が悪くなっているのだろう、巻いている部分は他の部分と比べて白っぽく、人目で不健康だと分かる。割ときつく巻いているから当然だろう。

 それなのに努力の甲斐も空しく、泉の胸部は地面から花の種が芽生えるように盛り上がっている。他の同級生と比べれば遥かに遅い身体の変化であり、また二つの小山も申し訳程度のものではあったが、否応なしに紛れもない女性であることを泉に意識させる。それだけで、泉を落胆させるには十分だった。

 泉が蛇口を捻ると、シャワーが無音のバスルームの床を叩く。

 大人の女性というものへと日々近づいていく自分は、泉をお父さんから奪った女性というものに近づくようで嫌だった。そのことを考えるたび、そういうものへの変化を自覚するたび、言いようのない吐き気に襲われる。大人の女性に近づいていくことは、自分もいつか自分のような少女から父親を奪うことになるのだろうか。疑問が浮かび、しかし否定できない。そうなるのは怖い。だから少しでも時を止めようと足掻いたのだ。

 お父さんを奪われた悲しみは、女性という存在への恐れとなって泉に圧し掛かってくる。

 奪わなければ奪われないわけではないのは頭では理解していた。大人の女性に近づかなければお父さんが帰ってくるわけではないのも分かっている。それでも嫌悪感は拭えなかった。他人はどうだって構わないが、自分だけは誰かの父親をさらっていくような可愛さや綺麗さとは無縁でいたかった。

 泉はシャワーを頭から浴びる。清潔な水が身体を伝って床を流れ、排水溝へと吸い込まれていくのを見るのが心地よかった。



「泉」

 名前を呼ばれて、泉は長い髪を前に流したまま、声の主を見た。

 あゆが心配げな表情で覗き込んでいる。

「どうしたの? いや……」

 しばらく間があった。

「話したくないんだったらいいけど」

「ごめんなさい」

「泉に謝罪の必要はないよ」

 いつもより堅苦しい言葉だった。言ってしまってから慌てたようにあゆは付け足す。

「必要はないって言うか、別に謝らなくてもいいよ、って意味ね」

「はい」小さく泉は返す。「ありがとうございます」

「何ていうか……」

 まだ言うことがあるらしい。困ったようにあゆは視線を空中にさまよわせる。

「厨房にいられると邪魔――いや、泉の分の仕事は私がやっておくから――いや別に迷惑じゃないんだけど、いやむしろ誰だってそういうことはあるんだけど」

 何を言ってるんだろ私、とあゆは自分をぽかっと叩く。

 泉はそれをぼんやりと見つめていた。言葉の端々にはとげのある言葉があるのだが、あゆ自身に悪意はないような気がした。

「もし必要なら、ロッカールームにいたら? 今日は使う人も私たちだけだから」

 あゆはこちらを疑問の目で見る。

 つい泉は顔をほころばせてしまった。

 笑った拍子に、涙が落ちる。

「どうしたの?」

 深刻とも陽気ともとれない表情であゆは尋ねた。泣いたと思ったら笑ったり、変な奴だと思っているのかもしれない。

「平気です。ただ――」

「ただ?」

「あゆさんって、優しいのに冷たいふりするんですね」

 泣き笑いのような顔で泉は言った。もう一度涙が落ちる。それで涙は落ちなくなった。

「別に特別優しいわけでもないし冷たいふりもしてない」

「そういうところですよ」

「だから違――」

「お父さんと逆だ」泉は言い直す。「元お父さんですけどね」

 泉は力いっぱい軽く言ったつもりだったが、不穏な響きに、あゆは反論を止めた。

「元……ああ、そうか。初めて泉が来たときの……」

 神妙な顔つきであゆは呟く。そして、深刻の色を強めた。

「いや、いい。軽々しく触れていい話でもない。でもそういう話は軽々しく言わない方がいいと思う。無理しているのはきっと自分だ。意地は張らないほうが楽だから」

 やはりあゆの話の内容と態度はあべこべだった。しかしそれが泉には心地良かった。初めから優しい人は、実は怖い人かもしれない。裏で他人を陥れようと画策しているかもしれない。疑いは尽きず、疑い始めればきりがない。

「私も同じようなものだから、何となく分かる」

「あゆさんも?」

「そう」あゆは頷く。「軽々しくは言えないけれど」

 彼女にとっては、それが最大限の譲歩だったのだろう。

 でも嘘ではないような気がした。はっきりとした説明は出来ないけれど、これが人を信じるということなのかもしれない、とぼんやりと思った。

 頬に流れた涙を手で拭って、泉は立ち上がる。

「もし必要なら、ロッカールームで休んでいてもいいよ?」

「もう平気です」

「本当に?」

「はいっ」

 泉は笑顔を作ってみせる。固まった顔の筋肉が、一気に活気を取り戻す。

「上出来ね。だったら――」

 あゆが泉に仕事の指示を下そうとしたとき、厨房の扉が開いた。

「ディンブラを出して頂戴。あとティーコジーも」

 客の注文を聞いて、千恵が帰ってきたのだった。二人を見るや、「なんだか二人の距離が近いわね」との感想を漏らしたが、 

「幻覚です」

 あゆは一刀両断し、てきぱきと紅茶の用意を始める。予め適度に暖められたポットに測り取った茶葉と熱湯を注ぎ、カップと砂時計と一緒にトレイに置く。

 厨房から出て行こうとしたとき、あゆの前を泉が遮っていた。

「泉?」

「あゆさん、私が行きます」

 決意を持った目で、泉はあゆを見る。

「だけど泉……」

 あゆは逡巡しているようだった。きっと分かっているに違いなかった。泉の言う元お父さんが今紅茶を注文した男の人であることも、そして泉の心境も。だから千恵の要求に対して、何も言うことなく自分から率先して動いたのだ。泉が何もしなければ、泉が何にも触れずに済むように。

 それでもあゆ全てを理解したようだった。折れそうにない泉を見て、「分かった」と呟いた。

 二人分の紅茶セットがのったトレイが泉に手渡される。

「じゃあ、いってきます」

 軽々しくもなく、重々しくもなく、泉は言った。

「いってらっしゃい」

 どこか間の抜けた挨拶だ。たかが厨房と喫茶スペース程度の距離しかない。シェエラザードの店内が比較的広いことを考慮しても、わずか十数歩だ。でもその距離は泉にとって十万歩よりも遠い。

 泉がフロアに消え、厨房の扉がゆっくりと閉まる。

 横で見ていた千恵が言った。

「あなたたち、どうしたの?」

「秘密です」

 冷たい返答はどこか嬉しそうで、千恵は眉をひそめた。


 カタカタとトレイが揺れる。一歩踏み出すたびに、乗っているものが全てひっくり返ってしまうのではないか、そんな怖さと戦いながら、バランスを取って泉は歩いていく。

 テーブルには二人の男女が座っていた。一人はお父さんだ。これは疑いようがない。もう一人の女性はまだ泉が会ったことのない綾乃さんだろうと推測した。

 お父さんの恋人の綾乃さんは綺麗だった。お母さんなんかよりもずっと若くて、アイメイクで目がぱっちりしていて、ふっくらした唇にラメの入った口紅を塗っていた。どう控えめに見ても、美女であるのは変わりないし、それに劣らないくらいお父さんも格好いい。年はそれなりだけど、その容姿からすればさぞかし若い女の人にもてるのだろう。

 二人の前に立つ。会話は弾んでいるらしく、店員を見るよりも二人ともお互いを見ていた。

 一つ深呼吸して、平静を装って泉は言う。

「お待たせしました」

 声に聞き覚えがあったのだろう。お父さんが泉を見た。執事服に身を包んでいたが、人を間違えるわけはない。お父さんが目を見開いた。

「いず――」

「こちらディンブラになります」

 お父さんが何か言おうとするのを遮って、泉は言った。綾乃さんが気づいた様子はない。

「ティーポットにお茶の葉が入れてあります。こちらの砂時計が終わる頃に召し上がるとよろしいかと思います」

「へぇー。いい雰囲気ね」感嘆の声を漏らしたのは綾乃さんだ。イギリス製のカップを眺め、「綺麗なバラね。それに、ギャルソンさんも素敵」

 綾乃さんは泉へと視線を投げる。泉は微笑んで見せた。自然にできたかどうかは分からない。

「ねえ、あなたもそう思わない?」

 綾乃さんはお父さんに意見を求めた。輝いた綾乃さんの目が、二人の関係を如実に物語っていた。

 二人は家族になるに違いないとも泉は思った。子供が生まれたとしたら、幸せで欠けのない生活を送るに違いない、とも。それほどに彼女の目は綺麗だった。

 もう二度と手に入らないであろうそれを望む気持ちがないわけではない。けれど、そんな自分を遠くから見ているもう一人の自分もいるような気がした。

「そうだね……」

 お父さんは泉を見る。そして目が合った。泉はその視線を受け止める。

 逃げず、逸らさず、娘でなく、シェエラザードの給仕として。

「うん。僕もそう思う」

「今度は泉ちゃんと一緒に来たいわね」

 不意打ちのように呟かれた綾乃さんの言葉のために、泉は自制心の限りを尽くして無反応を貫いた。綾乃さんと泉は面識がない。目の前にいるのが泉であろうとは夢にも思っていないだろう。

 背の後ろに組んだ泉の手が、二人に見えないところで紙のように白くなる。

 甘い幻想が泉にささやいた。目の前にいるのがあなたの言う泉ですと、そう言ってしまえたらどれほど楽だろうと。お父さんは泉の後押しをしてくれると言っていた。二人が構わないと言ってくれるなら、どうして二人の胸に飛び込んではいけないのか。

 誘惑は優しく、そしてとても軽薄だ。

 きっとそれは求めているものとは違うとの直感もあった。

 お父さんが口を開こうとする。泉は給仕であろうと務めたが、つい唇を目で追ってしまう。

「ああ。とってもいいお店だから、大切な人と来たいと僕は思うよ。いつか――」

 そこで一度止まる。見れば、お父さんの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

 彼の胸に去来したものは何だろう。泉には想像もつかない。想像すること自体、意味がないような気がした。

「いつか――僕が許してもらえる日が来るとしたらね」

 彼がかっと目を見開いて、涙を溢さなかったのは意地だろうか。あるいは、彼の優しさだろうか。泉は考えるのをやめた。それはただの願望になっていきそうだったから。

「話に付き合わせて悪かったね。……ありがとう。『ギャルソン』さん」

 それで、終わる。

 泉は一礼をして、二人に背を向けた。

 冷たさも、いつかは溶けていくのだろうか。溶けたら何が残るのだろうか。



 ごぉーん、ごぉーんと落ち着いた音が八度。柱時計が午後八時を告げる。

 泉が窓のシェードを下ろしていき、シェエラザードは営業を終了する。

「疲れたあ」息を大きくついて、手近な椅子に腰掛ける。

 朝から昼の休憩を交代で挟んで閉店時刻までずっと仕事という超ハードなスケジュールである。おかげで終盤になってくると疲れでくたくただ。

 椅子に座りながら、あゆは厨房に向かって文句も吐く。

「もう。労働基準法とかどうなってですか? この店は!」

「いーじゃない。フロアにお客さんの来る時間帯ってのは大体分かるんだから。一日中洋菓子を作り続ける身にもなってみなさい」

 厨房の方から千恵の声が聞こえた。

「千恵さんのは半分趣味みたいなものじゃないですか。私知ってるんですからね。千恵さんがお店の機材と材料使って自分のお菓子作ってるの」

「いーじゃない。私が作ってんのは試作品だからお店にちゃんと貢献してるの」

「いいえそれは職権乱用です」

 エプロンドレスの紐を緩めながら、あゆは方向を転じて泉に声をかける。

「お疲れ様」

「はい。あゆさんもお疲れ様です」

 あゆと同じように泉もタイを緩めようとした。こういう時はきちんとした格好をした方がいい、と思い直して止めた。

「今日はありがとうございました」

「うん?」泉が何に対して礼を言ったのかが最初は分からなかったのだろう。何のこと、と聞きかけて、途中で思い至る。「気にしないで」

「でも、私のせいで迷惑をかけてしまいましたし」

「いーのよ、そんなこと」

 お気楽な声が厨房の方からかかる。コック帽を外し、前ボタン全開の千恵だ。束縛から解放された胸部が、本来の豊かさを取り戻している。

「セクハラです。まずボタンをして下さい」

「いーじゃない。もうお店は閉めちゃったんだから、女の子だけでしょ」

「最低限の礼儀です」

「なんだかあゆ、冷たくない? さては私の豊満な胸を羨んで……」

 千恵がさっと両手で胸を隠すジェスチャーをする。

「そんなんじゃないです! 大体乳の出ない脂肪の塊なんてホルスタイン以下ですっ!」

 びしっ、と音を立てて人差し指を向けて怒鳴るあゆ。確かに、その胸は控えめではあるが。

「私を牛と同列とは……なかなか鋭いわね」

 アイスピックで抉るようなツッコミによろめきながら、千恵は不承不承ボタンを閉めていく。口を尖らせてはいたが、別に怒っているわけではないのは明らかだ。あゆの方も、半ば漫才に付き合うような気分なのだろう。わざわざ口にするまでもない。

 泉の口から、笑い声がこぼれる。大笑いではなく、コップの水が静かに溢れるような笑い。

「泉?」「泉ちゃん?」

 二人が何が起こったのか分からないという風に声をかけた。答えようと泉は思ったが、声が止まらなかった。何故だろうと思ってみても分からない。説明のしようがないのに、声だけは溢れてくる。

 千恵が泉に歩み寄る。白くて柔らかそうな手を伸ばし、泉の頬に触れた。

「泉ちゃん」千恵の顔が近くに来る。整った眉、長いまつげ、ほんのりとした甘い洋菓子の香りはどんな香水よりもいい匂い。自分にはないものをたくさん持っている。

「泉ちゃん――泣いてるのね」

「え?」

 言われて初めて気づく。そういえば鼻がつんとするし、目の奥も熱い。何故泣いているのか。泉の混乱は深まるばかりだった。何故笑ったのか、何故泣いたのか、何もかもが分からない。まるで自分が知らない人の意思で動くロボットになってしまったかのようだ。

「目を閉じて」

 諭すように千恵が言う。もう記憶にはないが、昔はお母さんも同じように言ったに違いない。

「千恵……さん?」

 泉が尋ねると、千恵は答えを返さずにただ微笑んだ。人の心を操る魔法にかけられたように、泉は目を閉じる。

 バニラビーンズの甘い匂いがした。

 千恵は唇で泉のまぶたに触れる。右と左で一回ずつ。

 撫でるように、泉自身も涙も全部を慈しむような口づけ。

「目を開いてもいいわよ」

 泉は目を開く。ゆりかごの中でまどろむような暗闇の世界から、洋菓子店へと帰る。まるで以前のお母さんのような雰囲気をまとった千恵は、どこか恥ずかしげに笑っていた。

「もう泣かないでとは言わないわ。泣いてもいい。私が涙を拭いてあげる。何事も考えなきゃ解決しない。でも、私も一緒に考えてあげる」

 千恵は泉を抱きしめる。

 甘い匂いがした。それでなんとなく泉は分かった。

 ――千恵さんはお母さんに似ているけど、お母さんじゃない。

 洋菓子の匂いは千恵さんだけのものだ。ならば欲しいのは何の匂いなのか。

 遠い昔の思い出は、気づけばかすんでしまっていた。ぼんやりと形が残っているのみだ。徐々に消えていく記憶を前に、しかし焦りは感じなかった。今までは焦って、もがいて来たのだ。もがいて、でも手に入れられなかった大事なもの。

「はい。答えが出るまで、ここで雇ってもらえませんか」

 皆が幸せな家族なんてものは幻なのかもしれない。絶対に手に入らないものを妄想しているのかもしれない。そんな予感がぼんやりとしていた。

「まだ考えてみようかと思います。ここにいれば、考えていられる気がします。お母さんのことも……お父さんのことも」

「それでいいよ。無理にドライになる必要はないの。泣いてる泉ちゃんも可愛いしね」

 千恵は腕を解き、茶化すように言った。

「千恵さ――」

「な、何やってるんですか千恵さんっ!」

 千年の眠りを妨げられた竜の如き怒号が響く。もちろんあゆだ。

「あらあゆ、随分とリカバリーに時間がかかったのね。そんなにダメージが大きかった?」

「当たり前ですっ! そんな目の前でキ、キ、キスみたいなことするんですからっ!」

「みたいな、じゃなくて純然たるキスよ」

「キ、キス?」

 ぼん、と泉は自分の顔が赤くなるのを感じた。よくよく考えてみればそういうものなのかもしれない。男の子とだってまだなのに女性と先にしてしまうとは。かといって男の子となら歓迎と言うわけではないのだけれど。一人頭の中で悶々とする泉を差し置き、あゆが叫ぶ。

「不潔です! 女性同士でキスなんて不純異性交遊で厳罰に――」

 まるで法廷で声を荒げる検事である。あるいは学校での地が出たのかも知れない。

「それを言うなら同性交遊よ。不純ではないと主張するけどね」

 烈火の如き追求を揚げ足取りで千恵はかわし、厨房へと逃げ込んでいく。

「どちらにせよ不純ですーっ!」

 あゆの必死の主張も、もういない千恵には聞き入れらない。

 もうっ、とガス抜きをするように一言言い、あゆは泉を見た。

「千恵さんが、私に……」

 泉はまだ目を回しているようだ。

「泉。嫌なことをされそうになったら嫌って言うこと。あの変態には油断は禁物よ」

 あゆが宿敵への決着を決意したときだった。

 厨房の扉が開く。

「例の試作品なんだけど、味見しない?」

 千恵が持っているものを見とめ、あゆと泉が目を輝かせる。

 厨房へ行ったのは、これを取ってくるためだったようだ。

 職権乱用により生み出された試作品らしいのケーキが、右手のトレイに三人分。ついでに左手のトレイには紅茶も三人分用意されていた。

「随分と用意のいい味見ですね」

 一応あゆがツッコミを入れるが、視線はパティシエールのケーキへと注がれていた。

 見ただけで食欲をそそるような逸品だ。糖分は疲れを癒すというのはよく言われるが、極上の糖分は見ただけで疲れを癒す。そんな間の抜けたことを言ってしまいそうな出来だ。

「それで? 食べるの? 食べないの?」

 千恵は悪戯っぽく聞いた。

「はいっ」「試作品なら仕方ないです」

 天才パティシエールは笑顔で頷き、三人分の試食の準備を始める。

 カップに注がれた琥珀色は花のような香りを匂わせた。

 もう新茶の季節だ――それは新しい春の始まりの季節。

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