旅の終点
青い大空の下、視界いっぱいに広がる石で積み上げた重い灰色の重厚な壁がそそり立っていた。これまで見たどんな壁よりも高く、そして近くで見れば山脈のような威風が漂っている。その壁の上では哨戒兵らしき人影が歩いていたり、談笑したりしていた。
それを眺めながらぽつりと声が漏れる。
「ようやく着いたか・・・」
ボロボロの外套をまとった一人の青年が城壁を見上げて放心したように立っていた。目的地についた巡礼者のように達成感の籠もった声だ。ずいぶんと長い距離を歩いてきたのか靴さえも摩耗しきって底木がすり減っている。
青年は目の覚めるような赤毛に、すす汚れてはいるものの生命力に満ちた顔で城壁を見上げている。体つきはそれこそ傭兵のように鍛えられていた。
彼の名はルーク・アシュラム。
アシュラムの姓を名乗って良いと言われたのはつい半年前なので、彼自身も自分の名前をフルネームで口にするときはまだ馴染めない。苦労の代償、褒美という形がこの名前であることに彼は喜びを感じている。何を隠そう天涯孤独の身に家族ができたのだ。血はつながっていなくともそれは彼にとって非常に大きな意味をもつ。
ただし、その養母から姓をもらったその日に家から追い出され、こうして彼女の伝を辿るために慣れない旅に出た苦労は数知れない。
「師匠ももうちょっと色々と教えてくれりゃあ、こんなに苦労はしなくてすんだのだけど・・・。ほんと、魔物よりも人間の方が怖いな」
はぁとため息をついてルークは自分が辿ってきた旅路を思い返していた。
家を出てからというもの、順風満帆に旅が進んだのはたった一週間だった。
それは彼が町に入ってから不運続きだということを意味している。彼自身もそれが身から出た錆びで、世の中が実に汚れていると嘆くよりも、自分が甘すぎるのだと痛感していた。
簡単に言えば、旅の間中、彼は騙されっぱなしだったということだ。うまい話をちらつかせ、あるいは同情を引き、十年来の知己のように気軽に話しかけてくる詐欺師という者達を身を以て理解した。
奴らはいきなり襲ってくる魔物よりも質が悪いと。
普通の旅人なら騙され有り金を全部なくし、人間不信に陥りそうなことが立て続けに起こったとしても、いまだに純粋な田舎者を保ち続けているだけでも奇跡のようだった。
「まぁそれよりも大事なことを教えて貰ったからいいけどな」
ルークは不満がありそうな顔で口をとがらせて独りごちる。
旅の間中、彼はことあるごとに育ての母の愚痴をこぼしていた。不満はいくらでも沸いて出てくる。十二年住んだ家を追い出され、世界を見て来いだなんて乱暴な口で言われたのだ。彼ももちろん外の世界に興味がないわけではない。眠れぬ夜などは家にあった本を読み、広い世界を歩いてみたいと思っていた。もし、前もって言ってくれたら二つ返事で旅にでたかもしれない。
しかし、旅に出ろと言われるその日に養母の姓を与えられ、養子になった。それは彼にとって感動の言葉だ。その名に慣れるまで噛みしめるように母と一緒に過ごし、少しでも恩返しをしたいと願うのは孤児である彼には当たり前のことだった。
それにも関わらず養母は一秒でもルークが家にいることが我慢ならないと手荒に彼を追い出した。
「不器用すぎる」
また愚痴が出た。
ルークが育ての母を形容するなら不器用の一言に尽きる。
彼だからこそ不器用の一言で済ませるが、普通は全く異なる。いわゆる無茶苦茶な人が彼の養母であり師匠だ。
子が旅をするというのに、そのときに何が起こるなど一切注意せず。ただ生き残る術だけを教える。ルークが騙されることなど百も承知で、騙されないコツは体験しなければわからないという豪快な哲学を持っている。死なないならいくらでも傷つき学べ。旅の間彼が騙されたと顔をしかめたときにはいつも養母の笑った顔を思い出した。彼が失敗をすればするほど彼女は喜ぶのだ。
だが、彼も理解している。
それが彼女の愛情の表現方法で、自分を追い出したときは完全に照れていたことも。旅立たせるのを決め、その日に追いだして自分の照れを隠している。
それが不器用と言わずになんと表現するのか彼には思い当たらない。
だからこそ、彼の愚痴もそんな不器用な養母に対する愛情の裏返しだった。
「とりあえず検問に行くか」
ひとしきり彼が育ての母へ目的地にたどり着いた感謝を愚痴にしてひとりごち、彼は肩に提げた旅の鞄を抱え直して門の方へと足を向ける。
彼の見上げていた市壁の門へと順番待ちをしている馬車をつれた行商人や野菜をふんだんに運ぶ農家、巡礼者らしき集団に紛れて彼は行列の最後尾についた。
初夏の気持ち風がすり切れた外套をたなびかせて、彼の新たな世界の幕開けを祝福するように吹く。
◆◆
エボリニア大陸の中央を皿の原と人は呼んでいる。
巨大な平野地帯を皿に見立ててそう呼ばれていることもあるが、それだけではない。
大陸には特徴的な地形が四つある。北に永遠の凍土に閉ざされた水晶湖、南には活火山地帯の火竜山脈と砂漠、西には地の底までつづくといわれた奈落谷、東には大樹海。水、火、風、地のマナが強すぎて人が容易に住めるような環境ではない場所からちょうど真ん中に位置しているのが皿の原だ。この場所だけが大自然の驚異を引き起こす四大属性のマナに土地が左右されず、魔物の襲撃にもあまり怯えなくてもいい安全地帯。
ゆえに、弱い人が乗る皿と揶揄されて皿の原と言われている。実際にその揶揄通りに、大国は皿の原の中にしか存在しない。小国や辺境の領土といった小規模な集落や都市が皿の縁に僅かにはみ出しているのが現状だ。
そんな皿の原でも常に人の楽園であったわけではない。
2000年より前は様々な種族、妖魔、精霊、魔獣が跋扈し、その生存権を賭けて争いを行っていた《書片争いの時代》。人族はその中でも劣勢であった。
が、それを終わらせたのが古代王国リクドール。かの国は創造神が作り、邪神の手によって砕け散ったとされる《万物の書》の《始まりの書片》を発見しあらゆる者を従えて繁栄を築いた。
皿の原を越え、あまねく大地にまでその枝葉を伸ばし、人の栄華を誇った時代だ。
しかし、それも千年と持たず《書片使いの時代》は終わりを告げる。古代王国は崩壊し、虐げられていた者達は反旗をひるがえした。
《混沌の時代》の幕が開ける。しかし今度の人間達には古代王国が残した書片を使う術と《遺産》があった。
200年の後、《混沌の時代》は皿の原を支配した人間の手にふただび戻り、《剣の時代》へと時を変える。数々の小国が群雄割拠し、さらにそれが片手で数えられる大国へとまとまっていくのに800年以上。移ろいゆく中、幾たびの平和と騒乱に喘ぐも人々は屈強に生き残り、いまもなお《剣の時代》は終わりを告げていなかった。
そして、ルークがまさに入ろうとしている街はそんな大国の狭間。クシャーナ王国とロアン帝国の緩衝地域の自治都市アズマ。大陸の南側に位置し、温暖で過ごしやすい気候、都市国家として自由な気風を愛し、共和制をとっているこの自治都市は皿の原でにらみ合う両国の架け橋となり、様々な貿易品で潤う新興国だ。
ただし、その地は《邪神の墓》と呼ばれる呪わしき名を忘れるならば。
◆◆
「お前は《書片使い》か?」
まだ若い体の大きな門番がルークの身分証片手に、彼の腰に下げてある分厚い本に目を向けて尋ねる。その一言に反応した同年代の門番達は槍を携えて、ルークの背後に回った。
ルークは町や村に入る際に、こういった問答には慣れているが、やはり不愉快になる。《書片使い》だというだけで後ろ暗いところがないのに相手はその後ろをやたらと気にして、自分の呼吸でさえ数えているのではないかという気味の悪さがあった。監視の目が四方に張り巡らされ、息を吸うのも許してもらえない息苦しさというのだろうか。
そういう風に縛られると、それを蹴散らして吠えたくなる衝動がルークにはある。むくむくと苛立ちが呻き始め、苛立たしげに口の中だけで舌打ちをした。
だが、自分は喧嘩をしに来ているのではない。せっかくたどり着いた場所でいきなり暴れたら幸先が悪すぎる。それにいくら後ろ盾があろうとも町の中に入らなければ無理な話だ。
ルークは自分を落ち着かせるように小さく嘆息し、説明する。
「そうだ。アズマの《書片神殿》で《書片使い》の登録をしにきている。その書類には母とアズマのマシス神殿祭司長さまの筆名があるはずだ」
憮然というルークに、目の前の門番の眉が険しくなった。
「貴様・・・《書片使い》だからといってつけあがるなよ? それを取り上げれば貴様らなんぞただの案山子だ」
高圧的な門番はルークの《書片束》を指さして睨むように言う。
《書片束》とは《書片》を保存する道具で、《書片使い》の力の源だ。《書片使い》たちは一般の兵士の数十人分以上の力がある。
門番や兵士という者たちは《書片束》を見せびらかして力を誇示する《書片使い》をあらゆる職業の中で最も嫌っている。そして、その使い手達は《書片束》を取り上げられると途端に弱くなり、逃げ腰になる。
道具に頼り切る腰抜け。
なんども検問や街でいざこざを起こす世間知らずの《書片使い》へ自分たちの国を舐めるな、と脅しを含めて職務上のちょっとした注意をした。
が、目の前の男は彼らの予想外の行動に出た。
ルークは外套を脱ぎ、腰にぶら下げていた《書片束》を包むと地面に置く。
その行動に驚いていた門番達を尻目に、ルークは顎を突き上げて目の前の門番に言い捨てる。
「《書片束》なんていらねぇよ。てめぇらなんぞ拳ひとつで黙らせてやる」
ペッと包帯を巻いた手のひらに唾を吹き付けて、握り拳をその門番の鼻先に突きだした。
何が起こるかは火を見るよりも明らかだった。
門番とルークの喧嘩は四半刻に及ぶ大げんかへと発展した。