見知らぬ紙
この小説に登場する団体は全て架空の組織です。よって実際の企業。組織とは一切関係ありません。
「こんにちはー!」
「お!?」
突如横から聞こえた声に純香は思わず腰を浮かせ、弾かれた様な動きで入り口を見る。
「ん? おお?」
「あ……。どうも。赤坂さん」
純香は今日何度も聞いたその声の方向を見やる。そこには彼女を見つけて怪訝そうに小首を傾げる赤髪の個体が居た。赤髪は純香の顔を見た後、すっと視線を下にずらす。純香もそれに追随する。膝の上に置かれた入部届があった。
油性のボールペンで清書していた筈の名前欄に、素っ頓狂な方向へ伸びた線が描かれた。余白と文字の間も考えて、綺麗に見える様に丹念に描かれたその純白を汚す一本の黒線。
丁寧な仕事をこよなく愛する主義である純香の十分間の努力は、たった一言の挨拶で無駄になったのだ。
「ああ……」
思わず純香は声を漏らす。嫌な奴の不快な言葉に対応しながらの作業である。彼女は家で書いた方が良いんじゃないかとも思っていた。それでもなんとなく帰ってはいけない雰囲気が出来上がっていた。それに従って部室に残って書いた努力の結晶がただの紙に成り下がったのだ。材質が硬いため、鼻紙にもなりはしない。
「純香ちゃん……もしかして入部したいの!? 新入部員!? やりましたよ先輩! 賑やかになりますよ! ん? 純香ちゃん。魔法少女だ――」
「赤坂さん。声が大きすぎ。あと純香ちゃん知ってたんだ?」
再度戸棚の方へ移動している渚は、顔を歪ませて言った。彼女は自身の耳を軽く押さえている。うるさかったのだろう。
「あう……。ごめんなさい。えーと。純香ちゃんとは同じクラスなんです。今日まであまり喋ったこと無かったけど。あと純香ちゃん。なんかごめんね。驚かせちゃって。あと名前で呼んでよ。朱莉って」
赤坂は喜びに満ち溢れた態度から一転、しょげて小さくなる。頬を人差し指で掻きながら二人に謝る。視線は宙を彷徨い動き、最後には純香と渚の中央の空間。その先にある窓から見える外の海に腰を落ち着けた。綺麗に晴れ、空と海の性質が違う青が美しい光景である。
「いや。謝るほどの事じゃないよ。名前で呼ぶのは……ごめん。まだ無理。私、人付き合い苦手な性質だし。もう少し時期を……ね?」
「はい。純香ちゃん。代わりの」
渚は棚から再度引き出してきた入部届を純香に渡す。
その時だった。彼女のスカートの前部。丁度チャックの辺りが細かく震えたのは。
彼女ら訝し気にポケットに空いた右手を突っ込む。どこか引っかかって取り出せないのだろう。一見股をまさぐっている様に見える。
しばしの格闘後、ようやくそこから携帯を取り出す事に成功する。彼女は端末の起動ボタンを押し、画面を表示。狐のジト目が笑いを誘う待ち受け画面が表示される。そこに暗証番号を入力しロックを解除。SNSアプリを起動する。
「加見野先生。職員会議が長引いて遅れるみたい。今日の活動は無し。ごめんね純香ちゃん。待ってもらってたのに」
「えー。そんなあ」
顔をしかめる渚。落胆する朱莉。朱莉の反応は純香が予想した通りの物だった。しかし、意外なのは渚の反応だ。ただ中止を伝えられたにしては随分と不機嫌な様子だったからだ。
疑問に思った純香は彼女に許可を取って画面を覗く。業務連絡と思わんばかりに最低限な遣り取りしかしない渚とは対照的に、顧問の教師の発言には大量の顔文字やイラスト。はたまた絵文字が乱舞していた。
純香とて年頃の女の端くれ。男性と比べてそれらには耐性がある。しかし、その彼女の眼から見ても、これは明らかにやり過ぎだった。
「これは、なんと言うか、その」
何度も何度も瞬きを繰り返す純香は言いよどむ。彼女の脳裏には、いかにも出来る女といった顧問教師の顔が浮かんでいた。
普段のあの糞真面目な態度は一体何なのだろうか。何かの間違いではないのだろうか。彼女の脳内には疑問符が渦巻く。
「言いたいことは分かるよ。私もまだ慣れてないから。あの人ね、駄目人間なの。あの扉の向こうの部屋」
純香は渚が指さす方を見る。何故か朱莉も一緒に見る。女三人が一緒に一つの扉に視線を注ぐ。純香は疑問を、渚は疲労を。そして何故か朱莉は期待に満ち溢れた目で。三者三様の色をそれぞれの眼に浮かべて。
「あれね、先生の部屋。寮に帰るの面倒って言って、あそこで暮らしてるの。煎餅布団で、たまにビールの空き缶転がってる。掃除するのは勿論部員。彼女掃除一切できないから」
渚は疲れ切った様子で呟く。純香の中で、顧問教師のイメージが完全に打ち砕かれた瞬間だった。そして別種の後悔が彼女の胸に沸き上がる。なぜか自分がこき使われる映像が浮かんだからだ。
きっとその映像は、遠くないうちに現実の物になるのだろうと彼女は確信した。
その二人の態度に、朱莉は笑い転げる。腹部を押さえ、息も絶え絶えで。そうして満足いくまで笑い転げた彼女は、目頭に浮かんだ涙をぬぐい、一言だけ言った。
「……すみません」
純香が彼女に対して引いたのは、言うまでもないだろう。
「もう一人からも、今日は参加できないって連絡が来たし、純香ちゃんが入部したいってメッセージも送っておいた。入部届は明日の朝十時くらいならここに居るから来て。今日はもうお開きで良い?」
渚のその提案に、色々と疲れ切った純香は首を縦に振る。部室は完全に帰る雰囲気に包まれていた。純香も自宅に直帰する気で居たし、渚も同じであった。
その時、どこからか低い音が響いた。その響き、まるで雷鳴の様だったと、純香は後に述懐する。
純香は黙って渚を見つめる。渚も小首を傾げながら純香を見つめる。二人とも合図も無しに同時に首を横に降った。
そして二人は視線をすっと横に移す。そこには真っ赤な少女がいた。髪の毛が赤いのは言うまでもない。頬も耳の先も、羞恥で顔全体が真っ赤に染め上げられた、赤坂朱莉がそこに居た。
「いやー。あのー。……お腹空きましたねえ」
照れ笑いを浮かべながら彼女は言う。癖だろうか。しきりに頭を左手で掻いている。これには純香も笑わざるをえない。笑うといっても引きつった笑みではあるが。
「そうね。純香ちゃんって、この後暇?」
「え? まあ、暇ですけど」
純香は渚の方を見る。すると渚は何故か得意そうな表情で自身のリュックを漁っていた。パンパンにはち切れそうになるまで物が詰められた鞄である。純香は片付けられない点では顧問教師と良い勝負なのではないかと思う。
「あれ? ちょっと待っててね。今出すから」
渚は確かあれは、などと呟きながらリュックを逆さにひっくり返し、中の物品を床にぶちまけ始める。何に使うのか不明なビー玉がころころと転がりソファーの尻に当たって進路を変更。やがて止まる。
なあにこれと瞬きをする純香。彼女は酷く困惑していた。妙に頭がふわふわとしている。まるで別の世界に迷い込んでしまった様だった。
「水野先輩。手伝いますか?」
「え? ありがとう。紙探して。駅前の――」
朱莉がしゃがみ、渚のぶちまけた物品を漁り始める。渚はそんな彼女に何事か呟いているようだった。しかし純香はそれを聞かない。ただ黙って座ったままそれを眺めるだけである。
「純香ちゃん? 聞いてる?」
「へ? ああ……。すみません先輩。何でしょう?」
渚は純香を怪訝そうに見上げていた。左手でリュックを固定し、中に突っ込んだままの右腕はもぞもぞと動いている。
「いやだから、この後食べに行こうよって。無駄に待たせちゃったからそのお詫びに奢るよ?」
純香は一瞬断ろうとしたが、監視対象との関係を進展させるには、これは良い機会ではないかと考えた。
「あー。それではご馳走に――」
「有った! 有りましたよ!」
彼女の声に被せる様に朱莉の声が響く。満足そうに、かつ得意そうに頷く渚を尻目に純香は朱莉の方に視線を向ける。
そこにはカラフルな紙を嬉しそうに握りしめる少女の姿があった。携帯のアプリの登場により姿を消していった、彼女には見慣れぬ品。
それが彼女の目の前で掲げられていた。
「なにそれ? メニュー表?」
初めて見る純香は思わず質問してしまう。朱莉は左右に紙を激しく振っている。方向転換する度に紙が彼女の手にまとわり付く。そのうち破けてしまうのではないかと見る人に思わせる勢いだ。
故に彼女はろくに紙面に印刷されている文字を読むことが出来なかった。一瞬だけメニューが見えただけだ。
「ううん違うよ。クーポン券だって。私初めて見たよこれ」
ほら、と元気よく朱莉は純香にその紙を差し出す。純香は彼女に触れない様に気を付けながら受け取る。彼女がよく見る材質の紙だった。純香は親指で撫でる。ミシン目がたまに指に引っかかるプラスチックの様な触感の、しかしやはり紙であると確信できる感触だった。
「あーショッピングセンターの。そういえば先輩バイトしてるって言ってましたね」
渚がアルバイトしている駅前の店とは、世界規模で展開しているハンバーガーチェーンマドラクリス。通称マックである。当初はマッスと呼ばれていた時期もあったが、あまりの語感の悪さで廃れた。
純香も昔からお世話になっていた店だ。安くてそれなりに量がある。
しかし一か月前に店員が全て木偶人形に入れ替わってから一回も行っていなかった。
これは余談であるが、魔法少女の出現している地域におけるマドラクリスの進出率は八十五パーセントである。その関連性から一時期黒幕であるという疑惑が掛けられていた。しかし疎開していた上層部に対する取り調べで一切の関与が認められなかった為、現在は監視対象であるが優先度は低い。
また、経営陣は無事な地域の店舗を全て改名し別法人として独立させる。もしくは撤退といった対応を取っている。
以上余談終わり。
純香は興味深そうにとっくりと端から端まで舐める様に見る。クーポンは赤に近い橙を基調としたデザインである。そこかしこのカラフルな文字の数々が顧客にどれが重要な情報であるかを伝える。
そしてミシン目に区切られたメニュー表。品目の写真の横には通常価格と書かれた値段が斜線で消されており、その下に割引価格と印字された数字が誇張する様に描かれている。
それらを丹念に眺め、クーポンが意味するところを良く理解した彼女は口を開く。そして軽く目を見開き、と言っても通常より一ミリか二ミリ程度の誤差とも言える大きさであるが。
そして空気を吐き出すように、はっきりと勢いよく彼女は言う。
「たっか!?」
朱莉から紙を受け取って約八秒後の出来事である。彼女が言ったその台詞を聞いた渚は、やはり得意げな表情を見せている。
「今日から懐古キャンペーン始まるからね。かつての期間限定人気商品も復刻する。クーポンの割引が十円、二十円はざらよ。それも全メニュ―。ノスタルジーね」
純香は渚のいう事の意味が理解できなかった。アプリで配布しているクーポンは通常五十円引きからである。つまりいつもより高い金出さねば食べられないという事だ。学生の月々の活動予算には限度がある。十円二十円でも痛い出費なのだ。
その価値観から照らし合わせて考えた純香は、このキャンペーン考えた奴は馬鹿だと結論付けた。
その様子に気が付かずに相も変わらず得意げな渚は、今度は荷物を再度リュックに収めるという難題に取り掛かり始める。
ぐしゃりと、リュックの奥に押し込まれたプリントが潰れる音が小さく響いた。