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守り人

作者: 蒼原悠




──"翼も羽衣(はごろも)もないのに空に憧れて、

作り上げた大きな翼を上手く扱いきれずに何人もの人が命を落として、

それでもまだ、あの空を目指そうとする"──








 晴れた日の、夕方のことだった。


 時刻は午後五時半近く。とある大都市の一角に整備された、空港の敷地内。

 広大な第一旅客ターミナルの十二番固定スポットに駐機された大型の旅客機では、数分後の離陸に向けた準備が着々と行われていた。

 旅客機は延べ五百人以上は搭乗可能であろうという大型のものだ。屹立するその尾翼には、白抜きのアルファベットで大きく『AJA』と表記されている。

 夕陽をいっぱいに受け、銀色に輝く自慢の長い翼を広げて。足元を忙しなく走り回る車輌たちを眺めながら、旅客機は自分が空へと舞い上がる順番が回ってくるのを黙ってじっと待っているようであった。

 あと数分。片手の指で数えられてしまうほどの時間が経てば、いよいよ緊張の出発の時間がやって来る。






挿絵(By みてみん)







 同じ頃。

 貨物の積み込みや乗客案内のために奔走する空港職員や専用車両の間を、たったひとりで歩く、一人の少女の姿があった。

 巫女のような長く美しい和装束をまとったその少女は、航空会社の制服に身を包んだ人々や車両の中にあっては十分に目立っていたはずである。だが、空港職員の中で気付くものは誰一人としていなかった。誰かに引き留められることも、どうして部外者がそこにいるのかと咎められることもなく、少女は居並ぶ旅客機たちの間を歩いていた。

 その先には、離陸準備中のあの旅客機が留まっているスポットがある。


「────ねぇ」


 旅客機の足元までやって来た少女は、胴体前部から伸びる前脚の隣に立って、その脚柱(ストラット)にそっと触れた。そして、優しい口調で問いかけた。

 透き通った光を宿す両の瞳には、慈しみのような色が浮かんでいた。


「やっぱり、そうだった。久しぶりだね。前にここに来てくれたのは、もう三か月も前のことだったよね」


 当たり前だが機体は返事をしない。もちろん操縦士(コックピットクルー)にも、客室乗務員(キャビンクルー)にも、あまつさえ管制官や地上作業員にも、少女の声は聞こえていない。機内への乗客の荷物の搬入を終えたハイリフトローダーが、少女のすぐ真横を何事もなかったかのように通り過ぎていく。

 しかし少女は、誰にも相手にされないことには慣れっこのようであった。くすりと笑って、機体を見上げる。


「そっか、じゃあずっと西の方の航路に就航していたんだね。長いこと見かけていなかったから、私、心配してたんだよ? どこかで事故でも起こしたんじゃないかって──」


 気のせいだろうか。

 その時、旅客機の体躯を包み込む金属の光沢が、ほんの少しだけ薄れているように見えたのは。




 乗客、貨物、乗務員。すべてが機体の中へと格納され、いよいよ離陸の準備が整ったようだ。

 横長の空港ビルが旅客機を掴むようにしてつないでいた搭乗橋(ボーディングブリッジ)が、空港側の操作で切り離されてゆく。一人ぼっちになった機体の足元にはトーイングトラクターが現れ、前脚と車体との間に牽引用のトーバーを装着した。迫りくるトーバーをひらりと躱した少女は、ゆっくりと動き出した機体に歩調を合わせるようにして、旅客機の隣を歩き始めた。

 トーイングトラクターに押されてこの駐機場(エプロン)を出、誘導路に入り、許可が下りたらその先の滑走路に進入する。ターミナルビルを離れた航空機が離陸するまでのプロセスは長く、これはまだ最初の一歩に過ぎない。けれど、他所の機体と接触しないように細心の注意と緊張を伴う、重要な一歩なのであった。

 旅客機のエンジンが低く唸る音に呼応するように、足元からふわりと巻き起こった風のかたまりが機体の周りで踊っている。それはまるで、これからあの遥かな空へと旅立ってゆくこの機体を、傍らで励まそうとしているようでもあった。


「ううん、大丈夫。心配するのなんて慣れっこだもの。ここの空港に乗り入れている飛行機は、すっごくたくさんいるもんね。私にはみんな大事だし、私はみんなのことを平等に心配してるつもりだよ」


 手を後ろで結びながら、相変わらず少女は旅客機に向かって話しかけている。


「さっきあなたの運航計画を見たの。確か、あなたの今日の目的地は新千歳空港(CTS)で、その次は那覇空港(OKA)なんだよね。そうしたらそのまま、そっちの長距離路線に就航しちゃうんでしょ? そこから先はまたしばらく、この空港を離れちゃうことになるんだね。……寂しくなるなぁ、また」


 駐機していたスポットからバックで出た機体は、やがて駐機場(エプロン)内でその向きを90度転換したところで停止した。ここから先の移動ではトーイングトラクターは使われず、旅客機自らが自分の車輪と推進力で移動しなくてはならない。トーバーが外され、旅客機の進路上からトーイングトラクターと誘導員たちが退避してゆくのを、旅客機の銀色の鼻先はじっと沈黙したまま見つめているようだった。

 そんな旅客機を見て、大丈夫だよ、と少女は微笑んだ。


「私はここにいるよ。あなたがここの滑走路を飛び立ってゆくまで、ちゃんとそばで見届けてあげるからね」


 ほら、あの人たちも見送ってくれてる。退避を終えた誘導スタッフが帽子を掲げているのを、少女は指差してみせる。

 準備も終えた。トーイングトラクターによる方向転換も完了した。地上作業員との連絡に使うインターホン・ケーブルもすでに切り離されている。後はもう、空港側のスタッフに行えることは何もない。滑走路を離陸してゆく航空機の道中の無事を祈るだけなのである。

 この空港に立ち寄ってくれて、この空港を利用してくれて、ありがとう──。そんな意味も込めて誘導スタッフたちは立ち去ってゆく機体に帽子を振りかざし、次いで深々と身体を曲げてお辞儀をするのだ。

 それを目にして、安堵したのだろうか。それとも送り出される覚悟を決めたのだろうか。ジェットエンジンをアイドリング状態で維持していた旅客機は車輪のブレーキを解除、いよいよ誘導路上の走行(タクシング)を始めた。

 行こっか、とばかりに少女も歩き出した。


 今日は風が強い。その風向きの都合上、旅客機が今回の離陸において使用するのは、この空港の最南端に位置する洋上の第四滑走路だ。そこまでの数キロにわたる長い道のりの移動には、見かけ以上にかなりの時間がかかる。

 それを知ってか知らずか、少女も別に焦ったような素振りを見せることはない。ただ嬉しそうに、楽しそうに、旅客機の隣を先導するように歩く。


「懐かしいよね。初めてこの空港に来た時のこと、覚えてる? 誘導路はやたら複雑だし飛行機の数も多い、そもそもターミナルビルだって三つもあって分かりにくいしで、あなたったら半泣きで搭乗橋(ボーディングブリッジ)にたどり着いたんだよ。あれは五年前の、確か──350便のお仕事で福岡空港(FUK)から来た時だったよね。かわいかったなぁ」


 少女のささやかな声をかき消さんばかりの轟音が、不意に空港内に響き渡った。

 着陸機だ。旅客機の進む誘導路とちょうど平行に設置されている3000メートル級の第一滑走路に、今まさに大型の航空機が緑色の航空灯(ナビゲーションライト)を煌かせながら着陸したところだった。接地したタイヤがぼうんと白煙を巻き上げ、次いで凄まじいエンジンの逆噴射音が遠雷のように轟いた。そうでなくても様々な音に溢れている空港敷地内だが、この時ほど賑やかになることはない。

 気付けば、その音にまぎれて同時に旅客機も速度を上げていたようだ。少女の歩く速度も、それに従って早くなる。


「えへへ、照れてるんでしょー。──そうだ。せっかくだから今日のあなたのお仕事も当ててあげる。十七時三十分出発の新千歳空港(CTS)行き、全日本航空60便。広域航法(RNAV)を使用して若干の時間短縮を見込むから、現地までのフライト時間は一時間五分程度。今日のはユナイテッド空輸との共同運航(コードシェア)便だよね。どう? 当たってるでしょう?」


 この空港内で私の知らないことなんてないんだから、と少女は快さそうに続けた。


「あなたの前を走ってる機体がいるの、見えるかな。あの子はね、ここの新しい国際線ターミナルが完成した日に、初めてヨーロッパの方から飛んできた子なんだよ。外国の空港とか空からの景色のこと、いろいろ話してくれた。私は空を飛べないけど、もしもあなたの背中に乗ってどこかへ飛んでいけるのなら、フランスのシャルル・ド・ゴール(CDG)空港とか、アメリカのワシントン・ダレス(IAD)空港とかに行ってみたいなぁ。すっごくおしゃれで洗練されてるターミナルなんだって! ね、あなただって色んな空港に行ってきたんでしょ? 色んな思い出だって、きっとあるでしょ? そういうの一つでいいから、私に聞かせてよ」


 語りかける少女の表情は、活き活きとしている。まるでそれが生き甲斐であるかのように。


 だが、いくら少女が話しかけても、旅客機は何も答えない。

 管制塔の地上管制席(グラウンド・コントロール)から指示された経路に従って、誘導路を黙々と進んでゆくばかりだ。


 豪華客船のように巨大な二棟のターミナルビルの横を、回り込むように左折しながら通過したところで、旅客機は前方を進む飛行機とは別のルートへと移った。右折してゆく旅客機の客室の窓に、そのまま直進を続ける機体の影が映って、消えていった。あの機がどこから来て、これからどこへ向かうのか、旅客機に搭乗している人の中で知っている者はいないだろう。恐らくは少女だけが、それを知っている。

 今にも滑走路を飛び立とうとしている機。誘導路上で待機している機。視界にはたくさんの機体が目に入るのに、どの飛行機も外見以外からでは互いの情報をほとんど知り得ない。空港での航空機の出会いは、一期一会なのだ。

 夕闇が迫る空の下、前輪に取り付けられた地上滑走灯が照らす誘導路はどこまでも薄暗く、黒々とした存在感を遥か前方まで持続させている。誘導路の右手には使用しない機体の眠る駐機場や航空会社の設置した格納庫が建ち並び、そのさらに先には、宏漠とした青い海が広がっている。


 車輪の震動に従ってゆらゆらと大きく揺れる主翼の先端を、少女はその瞳でじっと見つめていた。少女ももう、さっきから何も口にしていない。今は同じように沈黙したまま、旅客機に寄り添って歩くばかりだ。

 左手に見える第三滑走路には、第一滑走路同様に先刻から次々と飛行機が着陸してきていた。逆推進に切り替えられたエンジンが放つ凄まじい爆音も、旅客機が誘導路を進むにつれて次第に聞こえなくなっていく。自らの持つエンジンの音を除けば、いつしか旅客機の周囲はターミナルにいた時よりもずっと静かで、穏やかな空気に満ちていた。不気味な孤独に包まれながら、それでも旅客機が速度を落とすことはない。

 びゅう、と後方から風が吹き抜けた。こっちにおいでよ、あの空が待っているよ──。まるで旅客機を誘導路の先へといざなうように、一陣の風はコックピットの横を爽やかにすり抜け、虚空に溶けていった。


 緊張してる? ……不意に少女が、小さな声で尋ねた。


「ごめんね。さっきから私、話しかけすぎたかな。緊張すると饒舌になる子もいてね、つい今しがた第四滑走路から離陸していった子もそうだったから、つい……ね」


 少女がそう言ったのとほぼ同時だったか。左斜め上の空へ向けて、一機の飛行機が舞い上がっていった。

 翼が切り裂いていった空気の(いなな)きを、少女も聞いていたのだろう。少女は目を閉じ、風に舞う髪をそっと撫で付ける。


「あなたはお仕事をしてるんだもの。たくさんの人間の命を預かっているんだもの。緊張しないはずがないよね。……でもね、こうやってあなたのそばを付いていくのが、ここにいる私の役目なの。あとちょっと、ちょっとだけでいいから、私に付き合ってくれたら嬉しいな」


 答える代わりに主翼後縁部のフラップが展開され、がくんと動いた。

 少女の顔に、あの優しい笑みが戻った。よかった、と呟いた少女の目は、また先刻のように頭上で揺れる主翼へと注がれた。


 もしも人々に少女の姿を見ることができるのならば、左翼の真下を歩く少女の姿はきっと、機内左側の窓際に座る乗客たちの視界に映っていたことだろう。現に少女の視点からは、窓の外を熱心に注視する乗客たちの顔が、表情が、容易に見て取れる。

 だが、乗客たちが見ていたのは少女ではなかった。旅客機の進む誘導路の両脇が海に変わったことに、彼らは驚いているのだ。

 第四滑走路。これからこの旅客機が離陸で使用するあの滑走路は、利用本数の増大に設備が追い付かなくなったこの空港が巨費を投じて整備を行った、人工島と桟橋から構成される長さ2500メートルのハイブリッド滑走路だ。付近を流れる河川を堰き止めることがないように、滑走路の端とそこへ至る誘導路は洋上の桟橋となっていて、すぐ下を見れば桟橋の下を漂う海の蒼を目にすることができるのである。

 夕陽が今にも西の山の端に沈もうとする時間。誘導路、そしてその奥に横たわる滑走路にはカラフルな誘導路灯や滑走路灯群が列をなして並び、洋上にその姿をくっきりと浮かび上がらせていた。陽炎のようにおぼろげに輝く光の矢印が、旅客機の行くべき道を確かに示している。

 

 人々の腕と知恵、そして工夫の結晶たるあの滑走路から。

 間もなく、この旅客機は空へと旅立つ時を迎える。

 されど旅客機は黙って滑走路に向かって走り続けている。その挙動には狼狽えも、迷いもない。


「ここにいると、いつも思うの。飛行機(あなたたち)は本当に強いんだなって」


 少女はうつむきながら、言った。


「人間に生み出されて、人間の手で動かされて、いつ墜ちるとも分からない恐怖との戦いを強いられながら、それでも自分を生み出した人間たちを運び続ける。私にも、そんな強さがほしい……」


 私だって、そうだもん。独り言のようにそう口にし、うつむいたままコンクリートを蹴った少女の横を、青色に輝く誘導路灯が過ぎ去っていった。

 瞳に一瞬だけ反射したその光が、かすかに潤んでいた。


「……うん、分かってるよ。義務感だけで空なんて飛べないよね。私もね、実は知ってるんだ。あの大きな大きな空を自由に飛ぶのが、どんなに楽しくて、どんなに快適で、どんなに素晴らしいか……。今はもう飛べないし、飛ばせてももらえないんだけどね」


 旅客機の巨体は、ようやく桟橋を渡り切った。複雑に絡み合った誘導路の向こうに第四滑走路が見える。滑走に必要十分な距離を確保するために、旅客機はいったん平行誘導路の端まで移動した後、滑走路に進む。

 曲がりくねった誘導路への進入のせいか、移動の速度が落ちた。はた目にはその様は、滑走路を前にした旅客機が怖気づいてしまったかのようにも見えただろう。

 けれど、旅客機が怖気づいているわけではないことを、少女は誰よりもよく分かっていたのに違いなかった。


「いいんだよ。私のことなんか、心配しないで。この空港があり続ける限り、この港から空へ向かって出航する飛行機(ふね)がある限り、私は何があってもここにいる。ここで息をして、ここに立って、あなたたちの往来を見守っているの。それが今の私の、たった一つの誇りなんだから」


 旅客機はまだ、速度を上げない。


「だから大丈夫。ほら、行っておいで。滑走路はもう、すぐそこだよ」


 励ますように少女は声のトーンを上げた。

 離陸の際、万が一にも滑走路上で航空機が衝突することがあってはならない。それらの事故を防ぐため、滑走路付近に達した機体のコックピットは管制塔の飛行場管制席(ローカル・コントロール)に連絡を取り、滑走路への進入と離陸の許可を申請しなくてはならない決まりがある。もちろん許可が出るまでは滑走路内に入れないため、許可が下りるまでの間はそこまでの誘導路を低速で走行するか、或いは退避用の取付誘導路内で停止して、時間を稼ぐことが必要になる。

 いま、少女が「行っておいで」と口にしたのとほぼ同時に、胴体下と主翼両端の衝突防止灯がストロボ発光を開始した。

 衝突防止灯の目的は、航空機同士が空中で互いの存在を認識することで衝突回避を目論むことにある。──いよいよ、離陸許可が下りたのだ。




 その時。

 風が、凪いだ。


 唐突に訪れた静寂の合間に、旅客機の双発エンジンの低い唸り声だけが轟々と響いている。

 誘導路の端が来た。機体はゆっくりとした動きで向きを変え、いよいよ滑走路に進入しようとしていた。

 少女は立ち止まって、少し離れた場所からその様子を眺めていた。

 風にあおられた訳でもないのに、旅客機の主翼は大きくしなっていた。つい今しがた点灯したばかりの翼端の衝突防止灯が、ぴかっ、ぴかっと地面に叩き付けるように白色のフラッシュを放っている。叩き付けられた光の環が、主翼が揺れるたびに大きくなり、小さくなる。


 まるで、生き物の鼓動のように。




 その時。

 少女はくすっと微笑を浮かべた。

 そして、何かを思いついたのか、囁くように言った。


「……ねぇ。ちょっと、停まってよ」


 機体が、静止した。

 少女は駆け足でその足元に向かう。少女の命令になど応じるはずはないし、そもそも少女の声など聞こえているはずはないのに、機体はじっと立ち止まったまま、駆けてくる少女のことを待っている。

 前脚のもとへとたどり着いた少女は、目を閉じた。そうして腕を伸ばし、前脚に触れた。


「あなたとまた、会えるように。あなたが無事でこの空港に帰って来られるように。あなたのこれからの(フライト)が、安全であるように」


 凛とした声が、誘導路上に広がった。


「あなたの身体を、清めるね」




 刹那、秒速数メートルほどの風が、機体の前方から吹き付けた。

 もし滑走路上にいればそれなりの横風と化していただろう。そのくらいの勢いのある風ではあったが、しかし正面から吹く分には何の問題も生じなかった。柔らかな空気の砲弾のようにコックピットのガラスを叩いた空気のかたまりは、胴体、主翼、垂直尾翼、水平尾翼の順に、機体を洗い流すようにして流れていく。主翼の揺れが大きくなった。今度は間違いなく、風の影響であった。

 時間にして三秒ほどで、再び風は止んだ。少女は満足げに前脚から手を離し、また駆け足で滑走路の脇へと走っていった。

 もし、前脚のあたりで胴体を見上げていれば、それまでよりも機体の金属光沢がはっきりしていることに気付いたかもしれない。だが少女はそうしなかった。そうなるであろうと、少女は知っていたからだった。




 エンジン音が急激に大きくなった。離陸時の高速走行のため、出力が引き上げられたのだ。

 旅客機はそれを待って、ついに滑走路上へと進入を開始した。一列に並んだ滑走路中心線灯の先に、旅客機の前脚が、次いで胴体下部の衝突防止灯が重なる。離陸滑走の準備は、もう整っている。

 少女はぽつり、小さな声でさよならと言った。旅客機自身のエンジン音が、それをも掻き消してしまう。それでも少女は、別れを告げる。


「元気で……ね」


 エンジン音がさらに大きくなった。まるで周囲の空気をすべて巻き込んで、音に変えて前方に発射しているようだった。

 地響きを上げながら、旅客機は滑走を開始した。

 二発の大型エンジンが起こす推進力は凄まじい。乗員乗客五百名以上、総重量二百トン以上に及ぶ長大な機体は、立ち塞がる空気を蹴り飛ばしながら少女の前を一瞬のうちに通過するや、エンジンの起こした噴流(ジェット)の圧力によってぐんぐん速度を上げ、第四滑走路の中間に至ってついに離陸決断速度を超えた。稼働した主翼後縁部のフラップは、正面からの風圧を下に受け流すことで強力な揚力を発生させた。

 前脚が滑走路を離れ、機首が持ち上がった。見る間にすべての車輪が地面から浮き上がり、切り裂いた空気を後方へ放り出しながら、旅客機は急角度で上昇していった。

 爆音と空気の震動だけが、後に残された。旅客機はぐんぐん高度を上げてゆく。橙に黒の絵の具を混ぜたような空の中へと翼が消え、胴体が消え、機体の灯すたくさんのライトだけが空の高みを駆け上がってゆくのが見えた。

 やがて、そのライトも左に向かって大きく旋回し、靄の中へと溶け込むようにして見えなくなった。


 旅客機──全日本航空(AJA)60便新千歳空港行きは、定刻通りに離陸を成功させ順調に高度を上げて、予定通り北海道方面への巡航に移行したのであった。

 今やその翼はしっかりと広げられ、不自然にぐらつくこともなく、目的地までの旅を支え始めていた。






「──私はね、本当は空にいるべき存在なの。あなたと同じ、あの空の仲間なの」




 旅客機の飛び立っていった方角を見つめながら、少女はそこに立ち尽くしていた。

 まるで何事もなかったように、滑走路上にはたくさんの照明が変わらぬ様子で点灯している。夕闇はいよいよ空を覆いにかかり、あたりは時を追うごとに暗くなっていっていた。


「だけど人間の都合で地面に降ろされて、人間の都合で地面を守る役割を与えられた……。元々は私、このあたり一帯を水害から守るために呼び寄せられて、ここにいるんだよ。その心配がなくなってからは、こうしてこの場所にできた空港を守るように言われた。今も昔も、この土地を守るのが私の役目なんだ」


 少女の目線が、少しずつ下がる。


「いつまでこうやって守っていれば、私は解放してもらえるのか。あの空に戻してもらえるのか。もうさっぱり、分からないの。初めは私をそんな目に遭わせた人間が、嫌いで嫌いで仕方なかった。人間を憎んだし、空を飛べる飛行機(あなたたち)のことを羨んで嫉妬したりもした」


 長い髪をさらりと指で梳きながら、だけどね、と呟く。


「どうしてだろうね。こうやって地面に立って、飛行機(あなたたち)や人々のことを眺めたり触れ合ったりしながら過ごしていたら、どうしても人間のことを嫌えなくなっちゃったよ。翼も羽衣(はごろも)もないのに空に憧れて、作り上げた大きな翼を上手く扱いきれずに何人もの人が命を落として、それでもまだ、あの空を目指そうとする。そんな人間も、それからそんな人間に作り出された飛行機(あなたたち)も、好きになっちゃった。海の向こうの世界の話をあなたたちから聞いたり、海を越えようとする人たちの姿を見るのが、楽しみで、楽しみで、仕方なくなっちゃった……」


 少女はいつしか、すすり泣いていた。

 航空機のいない第四滑走路には、穏やかな風が舞い戻ってきている。海の肌を撫でたそのままの風が滑走路上を駆け上ってきて、少女の身体にそっとまとわりついた。暖かい風だった。

 ぐいと腕で頬を拭った少女は、立ち上がった。航空機の低いエンジン音が、後方からぼんやりと響き始めていた。


「だから決めたんだ。ここは私の空港。世界一安全な、安心して空と触れ合える空港にするの。誰にも邪魔なんてさせない。この空港に降り立った限り、この空港から飛び立つ限り、飛行機(あなたたち)を危ない目に遭わせたりなんてしない。そのためなら、私にできることは何だってするんだ──ってね」


 もう昔のことだけどね。泣き笑いの表情を浮かべた少女の目は、空のように澄んだ色に透き通っていた。

 少女は手を伸ばした。届かない彼方の空へと、懸命に手を広げた。


「ねぇ、だから約束だよ。またいつか必ず、この空港に戻ってきてね。あなたの見てきた空の景色、街の景色……色んな話、聞かせてね」




 それきり、少女は第四滑走路に背を向けて、ターミナルビルの建っている方角へと歩き出したのだった。


 午後五時四十分。

 空港の夜はまだ、始まったばかりだ。

 夜が明ければまた、明日が、明後日が、空の向こうからやって来る。










 ◆






 東京都大田区羽田の臨海部に位置する、東京国際空港(HND)

 国内線主体の運営が行われていながら、その利用客数は全世界の空港中四位を誇る、日本国内でも最大のハブ空港である。

 一九一七年開設の日本飛行大学校羽田飛行場、そしてその滑走路を活用し一九三一年に完成した東京飛行場をルーツに持つこの空港は、先の大戦や米軍による接収、混雑緩和のための成田国際空港(NRT)への国際線移転、そして数度にわたる敷地拡張や沖合展開事業を経て、現在も肥大化・高機能化の真っただ中にある。新設された国際線ビルを含む三つの巨大ターミナルや、居並ぶ航空会社の拠点施設や複雑怪奇に張り巡らされた誘導路、そして多摩川沖に四本目の滑走路として建設されたD滑走路も、そうした流れの中でこの空港の中に生み出された者たちの一つと言えるだろう。

 さらなる人の流れの拠点へ、さらなる人々の夢の発進基地へ。無数の課題や展開案を抱え、たくさんの人々の手によって支えられながら、東京国際空港は今日も旅客機を空へと送り出している。


 その東京国際空港の敷地の端には、真っ赤な鳥居がぽつんと立っている。

 この大鳥居は、かつて空港敷地内にあった穴守稲荷神社のものだ。戦後、接収した米軍によって空港の拡張が行われた際、神社そのものは内陸部へ移転したものの大鳥居だけは動かすことができず、そのままこうして空港敷地内に取り残されたのだといわれている。現在は往時の場所から少し移され、空港のある島の端に鎮座している。

 現在、穴守稲荷神社そのものは大田区内の臨海地域に境内を構え、信仰や観光客を集める一大名所となっている。しかしそもそも稲荷神社が設置された理由は、もっと深刻なものであった。新田開発が行われた江戸時代、羽田の地では海が荒れ、堤防を破壊して村々に甚大な被害を与えており、それらを鎮めて陸の安全を確保するのが稲荷神社が勧進された所以だったのである。

 米軍によって強制退去されようとした際には地元の有志が移転先の土地を寄進し、また一九九九年に大鳥居の撤去が取り沙汰された折にも地元から反対の声が上がった末、撤去は取り止めになった。勧進から二百年、穴守稲荷神社は地域を守る力として今も強い信頼を得ているのだ。

 『大鳥居は空の安全を見守っているのだから』──大鳥居の移転が決まったことを喜んだ住民の中には、そんなことを口にする者もいたという。


 その穴守稲荷神社には、豊受媛命(トヨウケビメノミコト)と呼ばれる神が祀られている。

 稲荷大神でもあることから全国の稲荷神社に祀られ、かつ伊勢神宮外宮の豊受大神宮に奉祀されていることでも知られている彼女だが、古事記等への記述が少ないことから詳細な過去や正体は判別としていない。ただ、一説によれば、伊勢神宮内宮の祭神である天照大神の指名を受けて丹波国から伊勢へと遷宮したのだといわれる。

 丹波国風土記には、彼の地の天女伝説の存在をうかがわせる記述が存在する。人間に羽衣を奪われたことで天に帰れなくなった一人の天女が、一時期はその人間とともに地上で暮らすも追い出され、さまよった末にたどり着いた村でようやく安寧を得、後に神格化された。

 その名は、『豊宇賀能売神(トヨウケビメ)』。


 これは、偶然の巡り合わせなのか。それとも運命の引き合わせなのか──。


 大鳥居を米軍が撤去できなかったのは、多大な労力を費やしても鳥居が破壊できなかった上に関係者の中で多数の死傷者が出て、それが大鳥居の祟りだと恐れられたからなのだという。

 一九九九年の移転作業中にも、突然の降雨が発生している。

 だが、確かに地域の安定をもたらし続け、そして地域に愛され続けた穴守稲荷神社が、本当に『祟り』を生み出すのだろうか。

 もしも、それらが祟りではなく、何らかの『願い』の結果だったのだとしたら……。




 穴守稲荷神社の赤い大鳥居は、今日も羽田の一角にぽつんと佇みながら、忙しない東京国際空港の一日を眺めている。









本作は、作者としては初めて「妄想」的な作品の姿を追求して書いてみたものです。

残されている歴史的事実を基にして、「実はこうだったからこうなんじゃないか……」などと妄想を膨らませた結果がこの小説というわけですね。そのため、小説なんだかエッセイなんだかよく分からない文章構成になってしまっていますが、どうぞお許しください(m´・ω・`)m

ふとした勢いで書き殴ってしまった作品ではありますが、せっかくの機会なので文芸フリマに応募してみることにしようと思います! こんな作品でも評価してやってもいいよという方、いらっしゃると嬉しいのですが……。もちろん酷評大歓迎です、今後の参考と励みになります。

感想、レビュー等もお待ちしています!


なお、本作中で『少女』の言動に反応するように旅客機が動いたり止まったりしている描写がありますが、あれらは全て少女の存在抜きで説明することのできる挙動となっています。




空に夢を。

空を目指す道に、幸いを。



蒼旗悠

2016/6/20

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