四話:覚醒
《コラムその4》
ユキの好きな季節は春、苦手な季節は夏である。暑がりで体がヤられてしまうとか。
全力疾走で石段を駆け降りたユキは、今更ながらに肉体が変わった事を思い知らされた。
以前ならこんな程度では息一つ上がらなかったというのに、今や過呼吸に腹痛、ついでに両足まで吊って苦しみ悶える始末。
どうやら、この体の持ち主だったユキは、あまり運動が好きな方では無かったようだ。
ユキとて、運動が好きかと問われれば悩んでしまう。
体を動かすこと事態は嫌いじゃ無いけど激しいスポーツとしての運動は、出来れば避けたい。
よく意外と言われるのだが、どちらかと言えば、体より頭を使う方が好きなのだ。
しかし、以前は嫌でも体を鍛えなければならなかった。
そういう渦中に身を置いてしまったが為に、気が付けば基礎体力では同年代の比では無い程にまで鍛え上がってしまっていた。
山の一つ、余裕で駆け回れる程に。
それが階段を下った程度でこの有り様とは、いざと言うときに困るどころではない。
生死に関わる。
「ちょっと、鍛え直した方が良いかな……?」
というより、よくよく考えれば鍛え直すも何も、この体は元々は優季のものではない。
“鍛え直す”ではなく、“鍛え上げる”の方が正しいのではないか?
あれ? さっき別の体になった事を改めて自覚したような?
おやおや?
「体は別人、頭脳は同じ、その名も……」
そんな事を考えているうちに、足の痛みも腹痛も鳴りを静めてき、ようやく立ち上がる事が出来た。
「……その名も……ユキ……?」
言葉は呪縛のように心に蟠りを作り、ユキは視線を地面に落とした。
「ユキは、また逃げちゃったな……」
体は別人、頭脳は同じ。だから、いつものように不都合事から目を背け、こうして全力で逃げてしまった。
本当、この逃げ癖には嫌気が差す。
小さい頃からそうだ。自分にとって不都合な事、面倒な事を前にすると、体が勝手に逃げ出してしまう。
あの時もそうだ。
あの時、逃げなかったら、きっと……。
「だから、もう逃げない、って決めてたのに……」
どんな不都合な事があろうと、何があっても決して逃げない。
そんな決意を、こんなにもあっさりと簡単に裏切ってしまった。
腹の底から沸き起こる自己嫌悪。
噛み締めた下唇から、血が滲み出る。
空を仰いだ瞳から、涙が零れ落ちそうになる。
握り締めた拳から――が、ゆらゆらと立ち込める。
「…………え?」
今、何が起こったのか。
それを確かめようと両手に視線を移した瞬間、ゾッと肌が粟立つのを感じた。
はっきりと理解出来た。
石段の上から、ユキを見下ろす殺意。
真っ直ぐに突き付けられた、大剣の黒い刀身。
その切っ先が背中に突き刺さるまで、数センチも無い距離。
振り返った瞬間には、いや、それより数瞬も速く、背中から串刺しになる少女の細身。
事切れるまで、刹那の時間も無い。
生命どころか、魂ごと斬り裂くであろう残酷な一撃。
確定された、死。
「ひゃあッ!?」
それでも、事前に知ることで回避出来た必殺の一撃は、ユキの直ぐ傍を掠めて過ぎ、地面に大穴を穿った。
「ほう、この一撃をかわすとはな。中身が違えど、ユキはユキと言うことか」
立ち込める砂埃が開けると、地面に突き刺さった大剣の傍らに、一人の青年が姿を現した。
左目を隠す金髪のショートに右目の赤い瞳がギロリとユキを睨む。彫りの深い顔立ちは日本人離れしながらも、何処か東洋系の面影があり、間違いなくイケメンの類いだ。服装は黒い革製のジャケットに黒いズボンとシンプルだが、それ故に着飾らない魅力があった。
「避けなければ、楽に死ねたものを」
長身の青年は、自身より巨大な大剣を易々と片手で持ち上げる。いや、それは大剣というよりも、薙刀とも長刀とも呼べる柄の長い得物であった。
その得物を振り上げ構える姿はさながら、死神を連想させる。
「次は避けるな。その体、無意に傷付けたくは無い」
ゆっくり腰を落とし、刃を地面と水平にして右側に構える。刺突の姿勢、先程と同じ技が来る。
次は避けられない。
恐らく、先程より高速な一撃が繰り出される。
今度こそ、間違いなく死が確定している。そんな予測が脳裏に浮かんだ。
「お前、誰だ?」
しかし、そんな絶体絶命の状態に物怖じしないユキに、青年はほう、と関心の声を漏らした。
「度胸は認めよう。が、これから死ぬ奴に名乗ったところで、意味が無い」
「そんなケチ臭い。冥土の土産に、ちょっとくらい教えてよ?」
「この期に及んで、まだふざける余裕があるか」
ふざける余裕なんて、ある筈が無い。
忘れて久しい死の感覚に、足はガクガクに震え、背中には冷ややかな汗がじっとりと滲んでいる。今にも失禁して泣き出しそうな状況を、声を出す事で紛らわしているだけだ。むしろ、真っ当に声が出たことを誉めて欲しい。
「次の一撃で決める。避けると痛むぞ」
その一言を皮切りに、青年の姿が眼前から消え失せた。
次に視認した時には、もう刃が胸に届いた後であった。
神速の速さを超えた速度で繰り出された一撃必殺の刺突を、ただの少女としてその場に居た彼女にかわす術は無かった。
薙刀『アルギュロス・ケイ』の漆黒の刀身は、風を貫き空間を穿ち、少女のか弱き胸板へ寸分の狂い無くその切っ先を突き立てた。女性的な二つの乳房の間、心臓の真上を、的確に。
少女の死を確信した。
振り袖を破り皮膚を裂き、肉を穿ち肋骨を貫き、心臓を捉え背中から抉り出す。
青年はその様を夢想し、そのあまりにも呆気ない最後を悼みまでする光景を脳裏に浮かべていた。
「成る程、けっこう何とでもなるのね」
薙刀『アルギュロス・ケイ』を操る青年ソルジャーは、驚愕に自身の目を疑う。
確かに『アルギュロス・ケイ』の切っ先は、少女の心臓を穿つ軌道を取っていた。寸分の狂いも無く、針に糸を通す以上の正確さを以て。
しかし、それは少女の衣服を貫く事をしても、皮膚にまで届く事は無かった。
その前に、硬質な何かに阻まれたのだった。
「全力の一撃ならば、この装甲も貫けたでしょうに……ねッ!」
次の瞬間、少女の右手が十字に振るわれ、冷気を纏った斬撃が青年ソルジャーを襲った。それを紙一重にかわし、ユキと対峙する。
「手加減、どうも。よっぽど傷を付けたく無いらしいね」
「貴様、その姿は……!?」
青年ソルジャーは、少女・ユキの容貌の変化に愕然とした。
先程まで振り袖を大胆に気崩した和風の格好をしていたユキは、今ではまた一回りも二回りも風変わりな姿に“変身”していた。
焦げ茶色のマントを身に纏い、マントと同じく焦げ茶色のトンガリ帽子を被っている姿は、およそ万人が想像しうる『魔女』そのものだ。そこまでなら別段不自然な点は無いのだが、マントを広げた素肌に直に装着した鎧が変わっていた。
白銀に白い直線で描かれた文字の入ったビキニ状の鎧は、本当にビキニ同様、胸部と恥部の局部を隠す程度にしか面積が無く、後は白い素肌がヘソまで丸出しとなっている。腰には水色の腰巻きがあるが、それも太股すら隠すに至っていない。
ついでに、顔立ちも凛々しく見えるようメイクが施されている。アイラインが強調され、唇には若草色のルージュが引かれている。更に耳まで尖った“エルフ耳”となっていた。
この大胆不敵というか恥じらいが無いというか、何と言ってよいものやら難しい姿に、青年ソルジャーは何処か空恐ろしくすら感じた。
ある意味では、“名状し難き者”だ。
「『魔力放出』の『アビリティ』の応用で、姿形を変えたのか……。だが、その格好は何だ?」
「これぞ我が修練の集大成、戦闘形態、『ウィッカナイトフォーム(魔女騎士形態)』なのだ!」
「あぁ、えっと……そうか……」
右手に構える細身の剣“レイピア”を眼前に掲げ、左の手に備えた円形の盾を胸部に持ってきたユキは、声高に名乗りを挙げた。
その反応の難しさに、未だ嘗て無いほどに頭を悩ませる青年ソルジャーだった。
「さぁ、勝負はこれからだよ。……魔女の恐ろしさ、その身に嫌というほど思い知らせてあげるわ、坊や」
そして一変する雰囲気。
目付きは冷ややかに細められ、唇は不適に吊り上がる。妖艶で蠱惑的な魔性の笑み。
ここに来て、青年ソルジャーはユキの正体に感付いた。
彼女はお伽噺や童話の世界の中の、正真正銘の『魔女』なのだと。
《青年ソルジャー、心からのぼやき》
技を放った後、青年ソルジャーは思った。
「あれ? 一撃必殺なのに二回も殺し損ねちゃってる? これって、かなり恥ずかしい感じ?」
果たして一撃必殺で相手を殺す日が来るのだろうか。