二話:女史
《コラムその2》
ユキは“三倍返し”が信条である。
廊下を駆ける足音は、ユキの部屋の前で立ち止まると、まるで拳で殴り付けるようにドアをノックをする。
「起きなさい、ユキ! いい加減、傷も癒えたでしょうに!」
女の声がドア越しに響く。
それと共に、「不味いぞ、ユキ」と頑なに机の下から出てこなかった白いニャンコ、光風空が慌てた様子で顔を出す。ちょっと可愛い。
「不味いって、何が?」
無意識に声を潜めていた。
「あの声はお前の家庭教師、鈴峰弥生だ。この家では君の天敵に当たる」
何かよく分からないが、空の様子からして一大事のようだ。
天敵も何も、鈴峰弥生なる人物をユキは知らない。しかし、先程からバンバン音を立てドアを叩く様子から、とてつもなくお怒りであることと、面倒臭い人間でありそうな事は理解出来た。
「早く布団へ潜れ。そして怪我はまだ治り切っていない振りをしろ」
「何で?」
「今、君が別人であると知られるのは些か宜しくない。何とか誤魔化すんだ」
焦る空とは裏腹に、ユキはその場で腕を組み「ふむ、うむ、ふむ」と思案する。
これは、喧嘩を売られているととって良いのだろうか?
束の間の思考の末、意を決すると立ち上がって布団の元へと向かう。そして布団の上を歩いて過ぎるとドアの前に立つ。
「な、何をしている!?」空の言葉など聞こえぬと言わんばかりに、ユキはドアノブを捻って開放する。
するとその先には、眉間に皺を寄せた見るからに堅物そうなセル縁眼鏡にスーツ姿の女性が拳を振り上げ立っていた。
「ようやく出てきたわね! 一体、何日寝て――――」
「あんた、うっさい」
「なっ!?」
怒る鈴峰弥生なる女性の言葉を遮ったユキの態度に、弥生は言葉を詰まらせた。
それもそうだろう。ユキには知る由も無い事だが、弥生は今まで怒鳴り付ける事は散々あっても、反論された事はただの一度も無かったのだ。思いもよらぬ初めての反撃に、度肝を抜かれたのだ。
ついでに空の形相は、面白いものだった事も背を向けていた優季には知る由も無い。
「そんなバンバン、バンバン叩かなくても聞こえてるっての。んで、何の用?」
「貴女ね! 誰に向かってそんな口の聞き方を――――」
「用件。有るの、無いの? もし無いなら、流石にキレるよ?」
弥生はまた言葉に詰まった。
あまりに強気なユキに、気圧されたのだ。
「くっ――、さっさと着替えて指導室に来なさい」
それだけ言うと、弥生は去っていった。心無しか、その背中は小さく写った。
その背を最後まで睨み付けていたユキに、空が恐る恐る近寄ってきて「君は、何か凄いな……」と賛辞を送る。ユキは右手を握り締め親指を天に突き立て、空に見せた。
「売られた喧嘩は買う主義なのだ。――じゃ、お着替えお着替えっと。…………およ?」
今まで見知らぬ部屋やら喋るニャンコやら、突飛な出来事のせいで気を回せていなかったが、いざ着替えようとパジャマを脱ぎかけたユキは、自分の着ているものに驚いた。
何と、寝る前は水玉模様の薄桃色のパジャマだったはずなのだが、今着ているものは白い浴衣となっていた。裾には三枚の桜の花弁の模様がある。
「うわっ、ノーブラじゃん!? まぁ、サラシにふんどしよかマシか。パンツは履いてるし」
「ユキは常に和服を身に付けていて、その関係でブラジャーは着けて無かったんだ。その方が綺麗に着こなせるとかでな。そこに掛けてある振り袖が、ユキのお気に入りだ」
空に言われるがまま、ユキは部屋の端に掛けてある振り袖を手に取ってみた。
淡い紫の市松模様があしらわれた、見るからに高級そうな振り袖に紺色の袴だ。もしかして、このユキという少女は上流貴族的な家の産まれなのかも知れない。
さて、早速着替えようではないか、と帯締めに手を掛けた時、ちょこんと座る空が目に入った。そして、ある疑問が生じた。
「て言うかさ、クウちゃんってオスだよね?」
「クウ、ちゃん? オスというか、まぁ性別は男だ。それがどうかしたか?」
「うん、そっかそっか。じゃあ…………」
ユキは空の首根っこを引っ付かみ、部屋の外へ放り投げたのだった。
とにもかくにも着替え終えたユキは、空を連れたって自室を出た。
向かう場所は既に決まっている。
「……ユキ、その着方だが、やはり如何なものかと思うが?」
「ん? …………だって上手く着れないし」
「いや、それにしてもだな…………袴くらい履いたらどうなんだ?」
空に指摘されたユキは、「だって邪魔なんだもん」と常套句を言ってやる。
一応、振り袖は何年か前に着たことがあり、着付けの仕方は知っていた。だから着るだけなら、割りと簡単に出来る。が、それから先は話は別だ。私服が洋服の身には、袴がどうにも気持ち悪く、動きづらかったのだ。
というわけで、脱ぎ払った。
「良いの良いの。ノープロブレム、モーマンタイ」
「何が問題無い、だ。乱し過ぎだ」
着物はちゃんと帯締めで締めているから、はだける事は無い。けど、袴を取り払った分、膝から下が丸出しになってしまっている。
確かに、些か乱れた服装だろう。けど、畏まった服装なんてユキらしくない。
「そんな格好で鈴峰女史と対峙するなんて自殺行為だ。嫌みと叱咤のオンパレードを受けることになるぞ」
「大丈夫だよ。別にあの鉄面皮眼鏡に会いに行くわけじゃ無いし」
何気無く答えたユキの言葉に、空は「何?」と眉を潜める、声色をした。
猫だから表情が分かりづらいのだ。
「この家って、凄い広いね? 武家屋敷か何か?」
「そんなところだ。私も詳しくは知らないが、古くは室町の世から続く名家らしい。独自の古典剣術を代々継承しているとか」
宛もなく屋敷の中をフラフラ歩き回っているユキに、空は律儀にもはぐれずに着いて来てくれている。
目下、ユキはある場所を探しているのだが、どうにもこの屋敷は広すぎる。ユキの部屋なんて離の二階なのだが、その離を先程まで母屋と思っていたのだから、その土地の広大さたるやお察し願いたい。
「で、何処へ行くつもりだ? 鈴峰女史に会わないにせよ、こんなところでうろちょろしていればいずれ鉢合わせするぞ?」
そう言えば、闇雲に探すより空に聞いた方が早いか。
「うん、それは……」と問い掛けようとしたその時、「ユキ! こんなところでフラフラと!」と今は聞きたくない声が耳朶を打った。「言わんこっちゃない」と空が溜め息を吐く。
「む、出たな鉄火面」
「誰が鉄火面ですか! 着替えを終えたら直ぐに来るよう言ったでしょう!?」
空の危惧した通り、鈴峰弥生の叱咤の嵐が吹き荒ぶ。
「大体、何なのですか!? そのだらけきった格好は!? 貴女は陸瀬家長女の自覚が無いのですか!?」
「うん、無いよ」
それが何か、と小首を傾げるユキに、弥生は「なっ!?」と声を詰まらせた。これだけ言葉に詰まる彼女は、そう見れたものでは無いな、と空は改めて感心していた。
「だって、私はユキであってユキで無いのだ。だから陸瀬家なんて知らないし、興味もない」
「貴女、何を言って――?」
「分からない? 残念だけど、私も分からない」
あはは、と笑うユキに、弥生は呆然としてしまった。それも束の間、突如として顔色を変えた弥生が「貴女、まさか――」と何か確信を得たとばかりに口走った。
バレたか、と空は内心が冷えるのを感知する。が、それも杞憂であった。
「まさか、怪我のせいで頭でも可笑しくしたの!?」
「それは失礼だよ?」
「大変だわ! どうしましょう……。取り敢えず、御当主に報告をしなければ!」
弥生の弱点としては、思い込みの激しいところだ。一度信じてしまえば、余程の事が無い限り別の思考へ思い至る事は無い。
不幸中の幸い、とでも言うべきか。弥生は血相を変えてその場を立ち去って行った。
「何か、忙しい人だね?」
ユキの言葉に全くだ、と深々と溜め息を吐き同意する空なのであった。
《ユキちゃんとクウちゃん》
ユキは素朴な疑問を空へ投げ掛けていた。
「クウちゃんってさ、光りが苦手なんだよね?」
「そうだ。生身のままだと、蒸発して無くなってしまうだろう。だからこうして、依り代を使っている。因みにこれは、ネコの剥製だ」
「そうなんだ。でもさ、何か皮肉だよね?」
「何がだ?」
「光り苦手なのに、名前が光風なんて。風が光っちゃってるんだよ? しんどくない?」
「フッ、案ずるな。光風空はこっちの世界での名前、つまり偽名のようなものだ。本名は別にある。数年前、ある女が付けたのだが、気に入っているから今でも使っている」
「その女の人って、どういうつもりでそんな名前にしたんだろうね? 悪意しか感じないよ?」
「フム、確かこんなことを言っていた。『苦手は克服しないと』だったか? 全く、無理難題を押し付けられたモノだ」
何処か楽しそうな声音に、恋愛色を感じ取ったユキなのだった。
「言っておくが、彼女とは何も無いぞ。期待外れで申し訳無いがな」
「そうなんだぁ。フッフッフッ……」
「分かってないな? 君は?」