三話:忍び寄る影
《コラム23》
八阿木家の財布はシルヴィアが握っている。紐はかなりきつめ。
「くたびれたぁ……」と背筋を伸ばす怜心に、漆黒の長剣『ティソール』から人間体に戻ったクロエが「珍しく苦戦を強いられましたね」と左腕に寄り添いながら今回の戦闘を振り返った。
「それは仕方無いよ」と右腕に寄り添うのは、白銀の長剣『コラーダ』から人間体へ戻ったシルヴィアだ。
「尋常ならざる仔をあんな使い方するなんて、報告例も少ないし、初見で良くやった方じゃ無いかな?」
「それもそうね。流石はレイ。私の見込んだ男です」
より一層、強く腕に甘えるようにしがみつくバートリー姉妹に、怜心は「二人の女神のお陰かな」と正直な感想を述べた。
すると二人は頬を赤らめて、恥ずかしそうに笑むのだった。
「私も誉めて貰えないかしら?」
不意に木々の合間から人影がゆらりと現れ、あまりに気配を感じられなかった事に背筋に悪寒が走ると共に、流石は元暗殺者と苦笑を浮かべた。
その人影とは、海猫その人だった。
「海猫、こっちに駆け付けてくれたんだ? 帰ってても良かったのに」
「ふふ、優しいのね? けど、私は奴隷。主人が働き奴隷が怠けるなんて、本末転倒と思わない?」
淫らで妖艶な言葉遣いにどきりとする怜心。
そんな心境を密着しているが故に読み取れたのだろうクロエが、「我が主の気遣いを無駄にするとは、何事か」と鋭く非難の声を上げた。
「ふふ、本当は一秒でも速く、主に会いたかっただけなのよ。他はただの建前」
まるで空気の流れのような滑らかな動きで、一瞬の内に懐へ入った海猫は、首に両腕を回しながら「それで?」と問い掛ける。
クロエやシルヴィアには無いような大人の色気を孕んだ瞳で見詰められれば、思わずうっとりと見つめ返してしまう。胸板に当てられる豊満な二つの膨らみや、鼻腔をくすぐる女性の体臭が思考を蕩けさせる。
「私は合格かしら? わざわざ奴隷にしたのに、更に試験を与えるなんて、私って余程信用無いのね?」
「レイは慎重なんです。それに人間の中でも、貴女は裏切りやすい部類の職柄でしたし」
反論の声を上げたのはシルヴィアだった。
海猫の言動より、どちらかと言えば密着している行動の方が気に食わないらしく、襟首を掴んでは怜心から引き剥がした。
「そうかしらね? 私ほど従順な人間はいないと思うけど?」
「暗殺者だった人が、何を言ってらっしゃるのやら」
このままだと口論に発展しそうだったので、怜心は「二人ともそのくらいに」と言って諌めた。
「海猫、試すような真似をしてすまなかった。俺は人を信用していないんだ。いや、出来ないと言った方が適切かな。人は裏切り、傷付ける生き物だからね」
自分の心の内を明かす怜心に、海猫は何処か慈愛にも似た眼差しを向けていた。多分、そう言う思考に至った経緯を慮っての事だろう。
「疑う事は良いことだ。が、それは闇者も同じではないか?」
不意に響いた声は、木々をざわめかせ空気を震撼させるおぞましい響きがあった。
怜心は勿論、海猫とクロエは臨戦体制へ移った。その中で、シルヴィアだけが何かに怯えたように怜心へすがるように抱き付いていた。
「オブスクラム学園第五位。ロイヤル・ロードのアストレイ、か。噂に違わぬ実力者であったな」
声は影となって姿を現し、怜心と対峙した。
一目見ただけでは、その影が何者なのかは分からなかった。『闇石』の驚異的な情報処理能力をもってしても、そいつがどういう類いの人間なのか、いや、人間であるかどうかさえ解析出来なかった。
「今回の欠片は、ランクで表すなら“AA”と言ったところだったのだが。それを十分と掛からずほふるとは」
影の独白は続く。
怜心はどうしようもない恐怖と焦躁に駆られつつ、その言葉の意味するところを考えた。
表面上は明らかに怜心に対しての賛辞だが、その口調は厳しく言及するような色を窺い知れた。
「それで、あなたは誰ですか? こんな所に出て来るという事は、少なくとも味方ではありませんね?」
「フッ、その口調、なるほど人は信用しない、か。それも良いだろう」
影は両腕を上げ、ローブのような布地を翼のように広げた。するとその中から、二人の男が現れた。
二人とも目は虚ろで肌の色は土色に変化し、明らかに生ある者のようには見えなかった。
「リビングデッドかしら? けどたった二匹で私達を殺れると思って?」
「早合点は命取りだ、鳥の名を語る人間。こやつらは死人では無い」
影が二人の男の背に手を掲げると、突如もがき苦しみ始め、その痩身を大きく変質させた。
おぞましくも忌々しく、嫌悪しか抱かせぬ姿形に耳を塞ぎたくなる咆哮を上げるそれは、『闇舞蛇の欠片』に相違なかった。
「ほう、驚かぬか。肝が座っているな?」
「まぁ職業柄、ぶっ飛んだ奴や面白生物には馴れているもので。いやしかし、人間の精神を操ることで欠片を操るとは、これは一本取られましたね」
詳しい方法なんて分からない。
恐らくは『闇舞蛇の欠片』に憑依された人間の精神を操作し、恐怖心を取り除いて無害化していたのだろう。
そんな方法が、何年か前に何処かの大学で検証されたのだが、机上の空論に終わったと聞いている。精神操作自体はそれほど手間では無いそうだが、どうやって『闇舞蛇の欠片』に憑依された人間を割り出すか、その方法が見付からなかったが為に実証までこじつける事が出来なかったそうだ。
それを、あの影はやってのけている。
「そこそこ頭の切れるようだな。アスラ・エイプリルの評価も当てにはならんと言うことか」
「アスラ、光風空さんとお知り合いですか?」
「ただの協力者の関係だ。ただこれから死に行く者には関係の無い事だがね。――――む?」
不意に怜心から、その恐ろしい眼光を宿す視線をシルヴィアへ向けた。
「これはこれは、“母なるイヴ”に在らせられるか。少女の体故に気付く事が出来なかった。深くお詫び申し上げる」
嘲笑うような口調とは裏腹に仰々しく頭を垂れる影。
シルヴィアが恐怖を露に怜心の腕を掴む力を強くした。彼女は引っ込み思案で臆病だが、これほど怯える様子は初めてだ。
「それで、“運命の巫女”が現世の人間をたぶらかし、何を企んでおられる?」
「“運命の巫女”?」
「ほう、まだ主には何も語ってはおらぬか。良かろう、ならば私がその疑問に答えてやろう。その小娘は――――」
「やめて―――!」
今まで聞いたことの無い悲痛な叫びに、怜心はシルヴィアの顔を見詰めた。
怯えきった子供のような、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「そこまでだ。何者かは知らぬが、これ以上、私の妹を苦しめるならば容赦はしない」
威圧するように片刃の剣を構えて立つクロエ。
「妹? クカカッ、姉妹とな? 全く滑稽にも程がある」
「――ッ、貴様!」
「よせ、クロエ」
今にも飛び掛からんといきり立つクロエを片手で制止ながら、怜心はシルヴィアを見た。こちらを見返す瞳には、何かを訴えるような悲痛な色があった。
怜心にはそれで充分だった。
「お喋りはここまでです。その二体が欠片であるならば、闇石使いとしての本分を果たさせて頂きます」
「ほう、知りたくは無いのか? それが如何に罪深き忌まわしい娘か?」
「人間は息をする度、罪を犯しているという宗教もあるほどです。それに罪深き忌み子というなら、私もそれに当てはまると思いますし。何より――――」
怜心は一歩前に出て、静かに瞼を閉じた。そして開いた時、そのダークブラウンの瞳は怒りにたぎっていた。
「これ以上、俺の女を苦しめるってんなら、テメェ殺すぞ?」
影は一瞬だけたじろぐと、愉快げに笑う。
「それが本性か。なかなか良いプレッシャーを放つものだ。――良かろう、話しはこれまでだ。遊んでやろうぞ」
次の瞬間、影は影らしくゆらりと掻き消え、それを皮切りに二体の『闇舞蛇の欠片』が襲い来た。
怜心は海猫を下がらせ、右手に白銀、左手に漆黒の長剣を構えた。
海猫に背負われているのは、魔力を過剰に解放し体力の限界を迎えた怜心だった。
二体の『闇舞蛇の欠片』相手に、たった一人で撃滅した彼は、珍しくも戦闘終了後に倒れてしまったのだった。
善戦とは行かなかった。と言っても辛勝というわけでも無かった。
ただ怒り心頭に発した怜心が、力の使い方を誤り疲労困憊してしまったのだった。
「軽いわね、この子。ちゃんと食べてるのかしら? 育ち盛りに、体力付かないわよ?」
不意に口を開いた海猫は、誰にともなく問い掛けた。
それに答えたのは、姉のクロエだった。
「それは私も予てより危惧していた。レイは普段、驚くほど少食だ。間食もほとんどしない。戦闘の後はよく食べるのだが」
「貴女は自重すべきよ。食費が嵩むと嘆いているところを見たことがあるわ」
これにはクロエも反論の言葉は出てこなかったようで、そっぽを向いている。
怜心が少食なのは昔からだ。
食事中におかわりする様子は滅多に見ない。おやつが好きな癖に、晩御飯が食べられなくなると言って間食も少ない。けど、勿体無いからとご飯をきちんと食べきるところは、昔から変わらない。そこは好きだ。
代わりにクロエが沢山食べる。
驚くほど食べる。怜心の給料のほとんどは食費に消えて行くほど。
「シルヴィア、この子が目覚めたら、好きな物を食べさせてあげてね?」
「あ、はい……」
怜心の好きな物は決まっている。
お母さん直伝のアップルパイだ。それと苦いインスタントコーヒー。
彼の母から作り方を教わっていたシルヴィアだが、どうやっても味の再現が出来ない。何か物足りなさがいつもあった。
それでも彼は美味しいと言って、全部食べてくれる。それがとても嬉しい。
「あの、海猫さん。あの話しですが……」
おずおずと口を開いて見たが、次の言葉が浮かばなかった。
伝えたい事はある。けど、どう伝えたら良いのか分からない。
「それは我らが主に語るべき言葉では無くて?」
なかなか言葉を紡ぎ出せないシルヴィアに、海猫はいつもの色気付いた語調で諭した。シルヴィアは消え入りそうな声で謝辞を延べ、この話しはここまでとなった。
暫くすると、不意に前方から光が当てられた。今頃になって増援が到着したようだった。
《欠片の軍事利用》
理論上は可能だろう。
だが、そのケツを誰が拭くと思っている?
結局は『闇石使い』に頼る他に無いなら、欠片の利用なんて考えるな。まだ『闇石使い』を手懐けて利用する方が効率的だと思うが?
とにかく、早まった真似はするんじゃ無い。
――――『尋常ならざる仔』の射殺体から回収された粘液でふやけた手紙の断片