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終わらない夏

作者: ぷろふぃあ

   終わらない夏



『お願いですから、これにサインして下さい。もう、たくさん! いつ帰ってくるか分からない人の帰りを待つのは…』




「よし、休憩にしよう」


 そう言って撮影スタジオを出た鳴海は、用意されていた控え室に入り、置かれている少々高級感のある黒い皮製の椅子に力なく腰を下ろして肩を落とし、大きく溜息をつきます。


 離婚を境に写真への情熱は消え、仕事と割り切ってみても、ファインダーを覗く度、シャッターを切る度、最愛の妻に別れを告げられたあの時のことが鮮明によみがえり、気が乗らず、この有様です。


 自己嫌悪の中、しばらくうなだれていた鳴海、コンコンとノックの音とともに「失礼します」という若い男性の声がしてドアが開き、二十代後半くらい、ベージュのスーツ姿の誠実そうな男性が入室してきます。


「お疲れさまです、鳴海さん! これ、どうぞ」


 その男性から差し出された汗をかいたアイスコーヒーを受け取る鳴海。


「ありがとう。え~と…君は?」


「はいっ、申し遅れました、わたくし、今回の企画を担当しております加藤といいます。よろしくお願いします!」


 深々と頭を下げ、名刺を差し出す加藤。鳴海は、立ち上がってその名刺を受け取り「こちらこそお願いします」と同じく丁寧に頭を下げて見せます。


「そ、そんな俺、鳴海先生に頭を下げてもらえるような大層な奴じゃないっすからっ! す、すみませんっ! つい素が出てしまって…俺、鳴海先生の大ファンなんです。写真集も全部持ってるし、先生の撮った写真に感動して、写真と同じ場所にも何度か足を運んだこともあって…先生って風景写真が専門だと思ってたんで、ファッションモデルの撮影なんてって思ったんですけど、どうしても先生と一緒に仕事がしたくて、ダメ元でオファー取ってみたら、まさか引き受けてもらえるなんて、ホント感激です! すみません、握手いいですか?」


 加藤は、右手をスラックスのお尻のあたりでゴシゴシと拭い、鳴海に向け、腰を引き、遠慮がちに差出します。


「ああ、ありがとう、加藤君」


 差し出された加藤の手を、素直に喜べず複雑な心境のままギュッと握る鳴海。


「そんな、こちらこそありがとうございます。先生なら良い写真になるに決まってますもんね。残りも頑張って下さい。出来上がり楽しみにしてます!」


 そう言い残して嬉しそうに控え室を後にした加藤。鳴海は、椅子に腰を下ろし直し、自分の不甲斐無さに、もう一度大きな溜息をつきました。


 ファッション雑誌のモデル撮影をそれなりの仕事で無難に終えた鳴海は、現在所属している出版会社に戻り、自分のデスクにつくと、いつも携えている長年連れ添ってきたカメラを机の上に置き、寂しそうにそれを見つめました。


 鳴海は、このカメラと共に年がら年中、日本中を駆け回り、誰も見たことのないような美しい景色を求め続け、写真に収めては見る人々に感動を与えてきました。


 なのに、今は、そんな情熱も消え、生活の為にと屋内にこもり、モデルや芸能人の撮影など所属会社の持ってくる、やりたくもない仕事をしかたなくこなしている毎日。


 先ほど出会った加藤のように、自分のことをあんなに応援してくれる人がいる。きっと日本中には、他にもあんな人達がたくさんいる。


今の自分の写真を見て、そんな人達はどう思うのだろう………


 昔のような写真を撮れなくなった今、自分に残された道は一つしかない…カメラを見つめる鳴海の脳裏に『引退』の二文字が浮かびます。


「鳴海君っ、ちょっといいかい?」


 そう編集長に呼ばれ、席を立ち、編集長のデスクへ向かう鳴海。


「鳴海君。今回さ、ウチの雑誌の企画で『終わらない夏』ってのを秋口にやることになってさ、鳴海君には、四国の方にある、美那野洲島って所に行ってきてもらいたいんだ」


 五十代前半から半ばくらい、腕まくりした白いワイシャツにネクタイ、頭のてっぺんは少々薄くなってしまっていますが、それでも見た目より雰囲気が若々しい編集長。座っていた椅子から立ち上がり、正面に立った鳴海と目線を合わせ、穏やかな口調でそう言います。


「ミナヤスジマ? 聞いたこと無いですね」


「ああ、そうだろうな。何でも、普通の日本地図じゃ載ってない、人口二百人くらいの離島らしいからな。誰も知らないって所がこの企画のミソなんだ。どうだろう鳴海君、そこに行って、とにかく夏っぽい写真を撮ってきてくれないだろうか? なんせ誰も行ったことがないんで島の場所以外の情報は入ってきてないから、すべて鳴海君に任せるよ。鳴海君次第でこの企画はボツになることもある。まあ、ボツになってもそれほど困る企画でもないし、気負わないで行ってきてよ。ただ、そろそろ鳴海君らしい凄いヤツ頼むよ。じゃないとウチもさぁ、ほら…」


「クビ…ってことですか」


「いやっ、そこまでは言わないけどさ、みんな鳴海君に期待してるんだよ。なっ? 頼むよ」


 最後に大好きな風景写真を…写真への未練から引退を迷っていた鳴海は、この仕事を引き受け、この仕事の良し悪しで引退を決めようと決意し、後日、美那野洲島へと向かうことになりました。






 四国本土から朝夕に計四~六往復ほど運行される連絡船、定員二十名ほどの少々みすぼらしい客船。


 波に揺られること一時間半ほど、乗り始めは高い位置にあった太陽も、島を眼前にする頃には暮れ始め、島を、海を、空を、赤く染め上げていきます。


 昔の鳴海なら写真に収めずにはいられない、そんな美しい風景のハズなのに…鳴海が首から下がったカメラに触れることはありませんでした。


 連絡船は、小さな漁港にある船着場にてイカリを下ろし停泊、不安定に揺れる足元に気をつけながら船と岸壁との間に架けられた足場板を渡り、下船した鳴海は、一人の女の子に呼び止められます。


「ねえ、おじさんだよね。ウチに泊まる写真家の人って。私、迎えに来たの」


 見た感じ小学校の高学年くらい、白いノースリーブに白いロングスカート、頭にはピンクのリボンがついた麦わら帽子、長い黒髪で細身の女の子。


「ああ、ありがとう。助かるよ、お嬢ちゃん」


「よかったぁ~、いかにもって感じの格好してくれてて。私、慌てて出てきたから、名前聞いてくるの忘れちゃって」


 ふぅ~んと、まるで品定めのように鳴海の顔を覗き込む女の子。


「ん? どうかしたの?」


「うん、あのね、おじさんって有名な写真家さんなんでしょ? だから、こ~んな眉毛の吊り上がったムズカシイ感じの人を想像してたんだけど…よかった~、おじさんって優しそうな感じだし、思ったより若くて、ワリとカッコいいしねっ」


 そう言って無邪気に笑って見せる女の子。鳴海は、なんだか気恥ずかしくてポリポリと頭をかいています。


「ふふっ、照れちゃってカワイイんだ~」


「こらっ、大人をからかわないの」


「ヘイ、ヘイ、ごめんなさ~い。でも、ホント良かった。久しぶりのお客さんが、おじさんみたいな人で。イヤ~な奴だったらどうしよって思ってたんだ」


「あれ? お嬢ちゃんの家って旅館…だよね? 久しぶりって…」


「あっ、ごめ~ん。もしかして、つぶれそうとかって気い使っちゃった? 違う違う。ウチね、本業は漁師なの。この島って観光客なんて滅多に来ないから、泊まる所が無いの。だからお客さんが来る時だけウチが旅館の代わりをしてるんだよ」


 小型の漁船が十数隻停泊している小さな港から延びる緩い上り坂になった荒い舗装道路の両脇に建ち並ぶ数十件の少々古ぼけた民家、後はそれほど標高の高くない山が島の中央に一つ、島全体に緑が広がる、ほぼ全貌が見て取れるくらいの小さな島。


 とにかく明るくてよく喋る女の子に案内されたのは、舗装道路が登りきり途切れた先、旅館というより民家に数室ある二階建ての離れが繋がっているという感じのコンクリートがむき出しで壁の所々にひび割れがある、古い年期の入った建物。


「ほら、ここだよ。ガッカリしたでしょ?」


「いや、そんなことはないよ」


「ホントかなぁ~…ま、いっか。お母さ~ん、連れてきたよ~っ!」


 道路から数メートル敷かれたボコボコした石畳の先、木枠に曇りガラスの張られた玄関の引き戸をガラガラっと開けて中に入り、玄関でそう叫んだ女の子。


「は~い」という声とともにやってきた三十半ばくらいのキレイな女性に丁寧な挨拶を受け、遠慮がちに入り口に立っていた鳴海は中へと招き入れられ、靴を脱ぎ、差し出されたスリッパに履き替えます。


「ここが一番見晴らしがいいんだよ」


少々自慢げにそう言う女の子に案内されたのは、玄関から離れに向かう廊下、左には短い間隔で設置された窓から眩しいくらいに夕日が差し、右には客室入り口の襖が三つ、きしむ音の聞こえる木製の廊下の突き当たり、一段上るたびに聞こえるきしむ音が鳴海には心地ここちよく思え、手すりまで木で造られた階段を上がり、二階にある一番奥の客室、和室の六畳間。建物の外観、廊下の古さのワリには、意外とキレイな内装で、少し高台に建つその建物の客室の窓からは、町と港が一望できます。


「ご飯の時間になったら呼びにきますね」


 そう言って立ち去った女の子。沈みゆく夕日で真っ赤に染まるそんな風景を、窓際に座り、開けた窓から身を乗り出し眺めていた鳴海は、なんとなく手持ち無沙汰でカメラを手に取り、ファインダーを覗いてみますが、やっぱり気が乗らず、シャッターを切ることはありませんでした。


 夕食前に風呂でもと女の子に奨められ、浴室へ向かった鳴海。


 全面むき出しのコンクリート壁で天井には裸電球、二人くらい足を伸ばして入れそうなほどのタイル張りの浴槽。


 鳴海は、檜製の風呂椅子に座り、タオルと石鹸を手に取り、体を洗おうとしていると、突然、入口の引き戸が開き、Tシャツに短パン姿の女の子が浴室へと入ってきます。


「バカ、お前、何やってんだ」


 慌ててタオルを下半身にかけてそう言う鳴海。


「へへ~ん、背中流しにきてあげたよっ」


 そう言って無邪気に笑う女の子。


「あのな~、いくら小学生だからって男の裸をだな…」


「失礼な! 私は中一だぞっ。それに男の裸は見慣れてるんだよね。ウチのお父さん、いっつも風呂上がりは裸でブラブラさせてるもん」


「ブラブラさせてるって…お前なぁ~」


「まあ、いいから、いいから。特別サービスっ。こんなピチピチの女の子に背中流してもらえるんだからさ」


 女の子は、泡立てたタオルで鳴海の背中をゴシゴシと擦り始めます。


「そう言えば、お嬢ちゃん、名前なんて言うんだい?」


「私? 私はリン。鈴って書いてリンっていうの。みんな、お前はペチャクチャ、ペチャクチャ、リンリン、鈴みたいにうるさいから、その名前がピッタリだって言うの。おじさんはどう思う?」


 つい、含み笑いをしてしまう鳴海。


「あーっ、ひどいっ! おじさんもそう思うんだ。も~~っ!」


 口を尖らせ、膨れっ面のリンは、背中を擦っていた手にめいっぱい力を込めます。


「いててててっ、いや、ほら、でもさっ、それがリンちゃんの良い所なんだよ」


「ホントに?」と、少し不安そうに尋ねるリンに「ホントだよ」と返してあげる鳴海。


「う~ん…ねえ、おじさん? 私なんかに付きまとわれて、鬱陶しくない? 久しぶりのお客さんだったから、つい、はしゃいじゃって…私、嫌われてない?」


「ああ。リンちゃんのおかげで元気になれた気がするよ。大人になるとイヤな事が増えちゃってね…リンちゃんの元気が周りのみんなを元気にする、みんなリンちゃんの元気を分けてもらってるんだよ。それがリンちゃんの良い所なんだと思うよ」


 そう言って後ろを向き、微笑んだ鳴海。


「そうなのかな…へへっ、なんか恥ずかしいな」


 少し頬を赤くしたリンは、照れ隠しに笑って見せます。


 体を流し、湯船に浸かる鳴海。気持ち良さそうに声をあげた鳴海を「おじさんくさ~」と、リンがからかっていました。


「どう? 気持ちいい? ウチってさあ、ボロくてな~んにもないけどさ、密かにお風呂が温泉なのが自慢なんだよね」


 しゃがんで膝を抱え、鳴海に視線の高さを合わせてそう言ったリン。


「へぇ~、そうなんだ。なかなか気持ちいいよ。湯加減も熱過ぎずで調度いいし」


「でしょ? 源泉100%のアルカリイオン泉でございま~す。効能は知らないけどね。そういえば、おじさんの名前って、ナルミなんていうの?」


「おじさんの名前かい? ユウっていうんだ。優しいって書いてユウ」


「ユウさんかぁ…いい名前だね。おじさんにピッタリ。だって、おじさんってすっごく優しい人だよね。私、分かるよ。ねえ、おじさんって何を撮る写真家さん? 裸の女の人とか撮っちゃったりするの?」


「そういうのは撮らないかな…近いモノは撮ったりするんだけど…ね」


 そう言って少し表情を曇らせてしまう鳴海。


「それが大人の事情ってやつ? よく分からないけど大変なんだね………おじさんって、この島に何しにきたの? やっぱり写真撮りにきたの?」


「ん? ああ。何を撮るかは決めてないけどね。初めてきた所だし」


「そっか…おじさん、帰るのって三日後だったよね? それまでの間、私で力になれることがあったら何でも言ってね。そうだっ! 私、この島のキレイな場所いっぱい知ってるよ。明日、案内してあげるっ。それと、リンちゃんって呼ばれると、なんかくすぐったい。呼び捨てでいいよ、ねっ」


 そう言ってウインクをして、悪戯っぽく笑って見せたリンは、浴室を出ていきます。


 リンとの長話で、すっかりのぼせてしまった鳴海は、部屋に戻り、窓を開け、窓際で夜風にあたっていました。


 少し潮の香りがする心地の良い風を受けながら、視界に入ってくる満月に近い月、満天の星空、月明かりに照らされた穏やかな海、微かな町明かり…どれもこれもが美しい風景。


 なのに写真に収めたいという気になりさえしない、そんな自分に苛立たしさを覚えてしまう鳴海。


 気乗りはしないけれど、とりあえずカメラを構え、ファインダーを覗き込むと、ふと、ファインダーの向こうにリンの笑顔が浮かび、ついシャッターを切ってしまいます。


 ピント調節も、撮り位置さえ定まらない素人写真。


でもそれは、鳴海が撮った本当に久しぶりの風景写真でした。


 多分、現像してもロクなものが写っていないでしょう。


けれど鳴海は、カメラに目をやり、写っているハズのないリンの笑顔を思い浮かべて、つい笑みをこぼしていました。






 次の日の早朝、日の出前の薄暗い中、体を揺すられていることに気づき、目を覚ます鳴海。


「もうっ、やっと起きた。おじさん寝起き悪過ぎっ!」


「ああ…ん? どうしたんだ?」


 鳴海の枕元に立って腰に手を当て、口を尖らせているリン。


 鳴海は、上半身を起こして寝ぼけまなこを擦りながら、まだ半分寝ぼけた声でそうリンに尋ねます。


「ほらっ、早くしないと間に合わないんだからっ!」


 慌てた様子のリンは、そんな鳴海をお構いなし、リンに無理やり手を引かれ、立ち上がった鳴海は、「早く、早くっ!」とせがまれるまま、せっせと服に着替えます。


「なあ、どうしたんだ? いったい…」


「け・し・きっ。言ったでしょ? 案内してあげるって。すっごいキレイなんだから。早くしないと見逃しちゃうよ。ほら、早く~っ」


「お、おい、ちょっと待てって、おいっ」


 慌ててカメラを手に取る鳴海。鳴海は、リンに手を引かれ、無理やり外へと連れ出されてしまいました。




「ハァ…ハァ…おい、どこまで行くんだ?」


「あとチョットだよ。もう、おじさん、だらしないなぁ~」


 少しずつ東の空が明るくなっていく中、裏山にある未舗装の山道を駆け登っていくリンと、息を切らしながらその後を追いかける鳴海。


 登りきり、緩やかな下り勾配になった山道は次第に人が一人通れるほどの獣道に変わり、その獣道もなくなって、前が見えないほど覆い茂った草むらの中を二人は分け入っていきます。


「おい、大丈夫なのか?」


「大丈夫っ。もうすぐだから…ほら、ついたよ」


 草むらを抜けると、地面が岩で覆われた、ワリと平坦で開けた場所に出ました。


そこには幅が五十メートル、深さが五、六十メートルほどのそれほど大きくない渓谷があり、山から下ってきた浅く澄んだ流れの緩やかな川が海へと流れ込んでいます。


 駆け出したリンは、あと一歩踏み出せば下に落ちてしまうほどその渓谷に近寄り、足を止めます。


「こらっ! そんなとこに立ったら危ないだろ?」


「へーきだよ。それより早くおじさんもおいでよ。そろそろ始まるよ。ほら、早くっ!」


 おいでおいでと手招きするリンのもとに向かった鳴海は、リンよりも数歩退き気味に渓谷の前へと立ちます。


「よかった、間に合って…おじさん、もっと近寄って、あっち見てて。今、始まるところだよ…」


 リンの指差した方向、まるでこの島を二つに割るように山の中腹から海まで続く渓谷、その遠い先に見える渓谷の隙間からのぞく海と空。


 日の出とともに海と空は黄金色に変わり、それが渓谷に移って渓谷全体を光り輝かせていく…。


「ここからだとね、丁度昇ってくる太陽があの隙間を通って空に飛び出していくように見えるんだよ」


 そう言ってリンが指差した渓谷の隙間からは、顔を出した朝日が、少しずつ上昇しながら輝きを強め、渓谷を光の色に染め上げていきます。


 その光景は、鳴海がこれまでカメラに収めてきたどの風景と比べても見劣りしない美しいものでした。


 無意識のうちにカメラをかまえ、シャッターを切った鳴海。


 でもそれは、景色の美しさに心を動かされたからではなかったんです。


 鳴海が覗くファインダーの向こうにあったのは、その景色ではなく、リンの姿でした。


 渓谷から吹き上がる風に身を任せ、長い黒髪とスカートをなびかせ、風の心地よさに気持ち良さそうに目を細めるリン。


 朝日に照らされ、光輝くその姿は、まるで天使を想わせるほど美しく幻想的で…鳴海は、撮らずにはいられない衝動にかられたワケですが、あの頃、写真に傾けていた情熱とは違う感覚…多分、鳴海を動かしたものは、リンに対する個人的な感情なのでしょう。


 別に娘でもおかしくないほど歳の離れたリンに、異性としての好意を寄せていたワケではなかったのでしょうが、何か特別な感情が芽生えていることだけは確かなことでした。


「どう…かな? 私、写真のことってよく分からないから…」


 鳴海の覗くファインダーの向こうでリンがそう言って不安そうな表情を浮かべています。


「リンちゃ…リンは、キレイな景色を見つける天才だね。ありがとう。おじさん、リンのおかげで久しぶりにいい写真が撮れそうだよ」


 少しだけ名残惜しそうにリンへ向けていたカメラから手を離した鳴海は、リンに歩み寄り、優しく頭を撫でてあげました。


「ホント? よかったぁ~」


 嬉しそうに満面の笑顔を見せるリン、鳴海は、そんなリンが愛しくて、つい抱きしめたいとリンの背中に回してしまいそうになる手をカメラに掛け、その想いをカメラに込めてカメラを構えます。


 せっかくリンの見せてくれたこの美しい風景を無駄にはできない、最高のカタチで残したいと、真剣にファインダーを覗き込み、幾度となくシャッターを切り続ける鳴海。


 リンは、鳴海の邪魔にならないようにと、少し離れた場所でしゃがみ込んで頬杖をつき、頬を桜色に染め、ただ黙って鳴海の姿を見つめ続けていました。






「おじさ~ん、おまたせっ!」


 出かける支度を終え、玄関で靴を履き、腰を下ろしていた鳴海のもとに、少し遅れてやってきたリン。


「ははっ、まるでピクニックにでも行くみたいだな」


 いつもの麦わら帽子に白いシャツ、胸のところに大きなリボンのついた淡い黄色のノースリーブのワンピース、肩には大きなバスケットと水筒を下げています。そんなリンの姿を見て、そう言った鳴海。


「だってピクニックだもん。あっ…おじさんは仕事なのかな…」


「いや、いいんじゃないか? ピクニックで。仕事は次いでってことで、そっちの方が楽しそうだもんな。じゃ、行こっか」


そう言って優しく微笑む鳴海に「うん」と大きくうなずいて無邪気な笑顔を見せるリン。鳴海はリンに連れられ、浜辺へとやってきます。


「ほら、おじさん、あそこだよ」


 リンの指差したところには、波打ち際にある岩場の影に、波で削られて自然にできたのでしょう、人一人がやっと入れるくらいの大きさの洞窟のようなものがありました。


「おじさん、足元滑るから気をつけてね」


 先行してその洞窟の中へと入っていくリンの後について中へと入る鳴海。


 入口からの明かりでなんとか見える程度の薄暗い洞窟を、入り込む海水で滑り易くなっている足元に気をつけながら奥へ奥へと進む二人。


「はいっ、おじさん、つかまって」


 途中、一メートル弱ほど高さのある段差を軽々と越えたリンが、下にいる鳴海にそう言って手を差し伸べます。


「大丈夫か?」と、不安そうに尋ねる鳴海に「へーき、へーきっ」と元気いっぱい返すリン。


 鳴海は、差し出されたリンの手を掴み、段差を越えようとしますが、鳴海の重さを支えきれなかったリンが「きゃっ!」という声とともに下に落ちてしまいます。


「リンっ! 大丈夫か? ケガとかはないのか?」


 落ちてきたリンを慌てて抱き止め、腕の中のリンにそう声をかけた鳴海。


リンは、一瞬、気づかれないよう、鳴海に抱きつく両腕にギュッと力を込め、突き放して背を向けてしまいます。


「リン? どこか痛むのか? ごめん、おじさんのせいで…」


「おじさん…今、胸さわったでしょ?」


「…へ?」


「今、私の胸、さわったでしょ!」


「あ、いや、さわってないと思うんだが…」


「ううん、絶対さわった! ヒドイ…まだ誰にもさわられたことないのに…ヒドイよ…」


 今にも泣き出しそうな声でそう言うリン。


「リン…ごめん、さわったのかもしれないな。年頃の女の子に、ちょっと無神経だったよな」


「なぁ~んてねっ、へへ~ん、冗談だよ~」


 振り返ったリンは、悪戯っぽく笑い、舌を出して見せます。


「こらっ! リンっ!」


 一応、怒ってはみましたが、実際のところ、暗がりの中、微かに見えるリンのその表情に、怒りなんかよりも安心感をおぼえていた鳴海。


「へへっ、ごめ~ん。おじさん、優しいだけじゃ女の子にモテないぞっ。私は好きだけどね。そんなおじさん」


 少し照れながらそう言ったリンは、鳴海に抱きつきたくて…鳴海の自分に対する気持ちが知りたくて…ワザと悪戯してみたことが表情から気づかれてしまいそうな気がして、ヒョイっと段差を越え、先に行ってしまいました。




「おっじさ~ん、ここだよ、ここっ」


先に到着したリンが、鳴海を手招きしています。


 少々遅れてリンの所に辿り着いた鳴海は、背負っていた撮影用の機材が詰まった大きなリュックを足元に下ろし、額の汗を拭い、一息つきます。


「ふぅ~………へぇ~…こりゃスゴイな…」


 辺りを見回し、少しの間、言葉を失う鳴海。結構な広さの広間になっていた洞窟の最深部、天井の所々から光が漏れ、自然に削られた滑らかな岩肌が薄っすらと光を放ち、涌き水が溜まってできたのでしょう、小さな池があって、その池が光の加減で、まるでエメラルドのような淡い緑色に見える。


「リンにはキレイな景色を見つける才能があるんだね。きっとリンみたいな助手がいてくれたら、いい写真がたくさん撮れるんだろうな」


「そっかな…私、なってもいいよ。おじさんの助手なら」


「ははっ、ありがとう。でも残念だけど、おじさん、助手が雇えるような身分でもなくってね…そうだっ、リンのお言葉に甘えて、今日一日だけ助手をお願いして手伝ってもらおうかな」


 足元のリュックから数個の簡易照明(白熱灯タイプ、高性能の懐中電灯みたいなものです)を取り出した鳴海は、その中の一つに電源を入れ、リンに手渡します。


「ねえ、おじさん? これって何?」


「それはね、ほら、ここって暗いだろ? 鮮明な写真を撮るには、この場所を少し明るくしてやらないといけないんだけど、あまり明るくし過ぎたり直接光を当てたりしてしまうと、せっかくの景色が損なわれてしまう。だから、最低限の照明を、灯す位置、照らす角度を考えて、効率良く使う必要があるんだ。写真の良し悪しはリン次第ってことかな?」


「そ、そうなんだ…なんか緊張する…」


「そんなに難しく考えることはないよ。おじさんの言う通りにすればいいだけなんだからね。じゃあ、そこに立って、それを胸の辺りで持って…もう少し右に向けてくれるかな? そう、で、もう少し上かな? そうそう。うん、いいよ、そのまま…」


 リンに指示を出しながらカメラを構え、シャッターを切っていく鳴海。


「ごめんなリン。つまんないだろ?」


「ううん、そんなことないっ! すっごい楽しいよ。私、写真家さんの助手をしたってみんなに自慢しちゃうんだから」


 リンと共同作業をしていることが妙に嬉しくて…鳴海は夢中でシャッターを切り続けていました。


 洞窟を後にし、リンの自宅裏の山を登り、小高い丘で、そこに立つ木の木陰に腰を下ろした二人。


 見晴らしがよく、町全体が、港が、広大な海が、そして微かに本土の姿が見渡せる、そんな場所。


 そこから見える風景を数枚写真に収めた鳴海がカメラから手を離すと、「はい、どうぞっ」と、それを見計らっていたリンに、バスケットから取り出したおにぎりと水筒に入っていた麦茶を手渡されます。


 さっそくおにぎりを一口、口に頬張る鳴海。


「おっ、なかなか美味いな」


「ホント? 私が作ったんだよっ」


「へぇ~…これなら、いいお嫁さんになれそうだな」


 そう言われたリンは、恥ずかしそうに顔を真っ赤にしていました。


 昼食を終えた二人。その後、一面が、まるで絨毯のように白い花でいっぱいの草原、深い森の中、誰も見つけられないような場所にある小さな滝、根本から幹が二つに分かれた樹齢数百年になる双子の木、町のある辺りの反対側、島のちょうど真裏にある真っ青の海に映える真っ白な砂浜と、そこから見る緑豊な島の全様…リンの案内してくれるどれもこれもが美しい風景達を写真に収めていく鳴海。


 リンと共に過ごし、写真を撮ることが鳴海には本当に楽しいことに思えて、そんな楽しい時間はあっという間に過ぎていき、旅館へと戻る頃には夏の長い日も暮れようとしていました。


 その夜、客室側に備えられた洗面所を借り、暗室にした鳴海は、そこで今日撮った写真の現像を行なっていました。


「おじさ~ん…何してるの?」


「こらっ! 光を入れちゃダメだ!」


 暗幕の隙間から顔を出したリンを、つい怒ってしまった鳴海。「ごめんなさいっ!」とリンは慌てて顔を引っ込め、暗幕を閉めます。


「いや、いいんだ。こっちこそ突然怒って…中、入るかい?」


「うんっ! えっと…開けてもいい?」


「ああ、入っておいで」


 嬉しそうに暗室の中に入ってきたリンは、そそくさと開けた暗幕を閉めます。


「私、見ててもいい? 邪魔にならない?」


「ああ、大丈夫。ごめんな、怒って。写真って光にデリケートだからさ。でも、見ててもつまらないぞ?」


「いいの」


 リンは、邪魔にならないよう、隅の方でただ黙って膝を抱え、現像作業をする鳴海の姿を眺めていました。


 鳴海は、つい現像に夢中になり、時間はもうすぐ日付を越えそうという頃、ふと見たリンは、眠気に目をうつらうつらさせていました。


「リン? そろそろ寝ようか?」


 寝ぼけながら「うん」とうなずくリンを連れ、暗室を出た鳴海。


 寝ぼけまなこを擦るリンに鳴海は一枚の写真を手渡します。


「それ、リンにあげるよ」


「これって…私? キレイ…」


 寝ぼけていた目をパッチリと開け、マジマジと写真を見つめるリン。


 今朝、渓谷で写されたリンの写真。


「私ってこんなにキレイだったんだね~」


 悪戯な笑顔を見せ、冗談を言うリンに「おじさんの腕がいいからだよ」と冗談を返した鳴海。


「ありがとう、おじさん…一生大切にするねっ」


 もらった写真を胸に抱き、嬉しそうに目を細めてそう言ったリン。


そんなリンの頭を鳴海はそっと撫でてあげました。


「それじゃ、おやすみっ! また明日ね~」


 手を振りながら走り去っていくリンに手を振り返す鳴海。


「俺も…一生大切にするよ。その写真も、今日この島で撮った写真達も、リンと一緒に写真が撮れた思い出も…もし写真家をやめてしまっても…ね」


 リンの姿が見えなくなって…鳴海はそう呟いたんです。






 次の日、リンの家から借りた軽トラックの運転席でハンドルを握る鳴海。


 助手席にリンを乗せ、港から海沿いに続く砂利道の先にある神社へとやってきた鳴海は、境内へと続く二十段程の石段の前に車を停車させます。


 今夜から始まるこの町の夏祭り、リンにせがまれ、リンの家で出すことになっている出店の準備を手伝うことになった鳴海は、リンと一緒に荷台に積んであるたこ焼屋の出店道具をせっせと担いでは境内に運び、設置を終え、神社の境内に腰を下ろして他にも始まっている出店の設置風景を眺めながら一息ついていました。


「おじさ~ん、これ味見してみて」


 鳴海のもとにやってきたリンは、透明のパックに十二個入ったたこ焼をそう言って鳴海に手渡します。


「ん? たこ焼屋って…リンがやるのか?」


「うん、そうだよ。本当はお母さんがやってるんだけど、二年前から私も手伝ってるの。ねえ、食べてみてっ」


「あ、ああ。いただきます」


 揺ら揺らと湯気をあげる、できたてのたこ焼。


こんがりと焦げ目のついた表面にたっぷりのソースと青海苔に鰹節、辺りに香ばしい香りを漂わせています。


 刺さっていた爪楊枝で一つ口に頬張った鳴海。

「あつっ! ほっ、ほっ、はふっ…うん旨いな…」


「へへっ、なかなかでしょ? なんせお母さん直伝だもん。外はこんがり、中はトロっとってね。私も一つもらうねっ」


 一つと言いつつも二つ、三つと口に運んでいくリン。たこ焼は、あっという間に二人のお腹へと納まり、なくなってしまいました。


「それじゃおじさん、私、店番があるから。準備、手伝ってくれてありがとねーっ」


 そう言って手を振り、出店へと戻っていったリン。


 特にやることもなく、旅館に戻った鳴海は、部屋で一人ゴロゴロと横になっていましたが、ふと、仕事でこの島に来ていることを思い出し、カメラを首に掛け、外に出て、何を撮りたいと思うワケでもなく町並みや港の風景などを適当に撮りながら島中を歩き周り、気がつくと日が暮れ始めていました。


「おじさーん! はぁ…はぁ…やっと見つけた」


 リンの様子でも見に行こうと神社へやってきた鳴海は、後ろから走って追いかけてきたリンに声をかけられます。


「あれ? リン、店番は?」


「お母さんが代わってくれたんだよ。ねえ、おじさん、これどう?」


 ピンクと紫のアサガオがあしらわれた水色の浴衣姿のリンが、右手で右の袖、左手で左の袖を掴んで両袖を肩のくらいまで上げ、クルリと一回転して見せます。

「ほお…馬子にも衣装とはよく言ったもんで…」


「うっ…ひどーい! それってバカにしてるの?」


「冗談だよ。カワイイよ。すごい似合ってる」


「ホント? おじさん、一緒にお祭り見に行こっ!」


 リンに手を引かれ、祭りの会場へと連れてこられた鳴海。


 境内へと続く石畳の両側には、リンの家で出しているたこ焼屋をはじめ、やきそば屋に焼き鳥、いか焼き屋、わたあめ屋など町の人で出す出店の他に、射的や金魚すくい、くじ引きなどの島外から来た的屋も含めて十数件ほどの出店が並び、小規模ながらも結構な数の島民達や近隣の島や本土からの常連客などで中々の盛り上がりを見せています。


「おじさん、ねえ、金魚すくいしようよ」


「金魚すくいか…もう二十年以上やってないな。おじさん、こう見えても若い頃は結構得意だったんだよ」


 金魚すくいを始めた二人、リンは、一匹もすくえずに破れてしまい「もうっ」と悔しそうにしています。


「へぇ~…おじさん上手なんだね」


「はは、思ったよりすくえるもんだな…おっ、破れたっ。ほら、これリンにあげるよ」


 三匹すくったところで破けてしまった鳴海は、すくった金魚の入ったお椀のような容器をリンに手渡します。


「ありがとう…でも、いらない…かな。私なんかが飼って死んじゃったらかわいそうだもん…」


「そっか…そうだな。じゃ、おじさんも飼えないし、返そうか?」


「うん」とうなずき、持っていた容器から金魚を元いた場所にそっと流してあげたリン。


 次に行った射的で鳴海は、「なんかカメラかまえてるみたい」とリンに笑われていました。


 リンにせがまれ、わたあめを買ってあげた鳴海。その頃にはすっかり日も落ち、夜空には無数の星が輝き、神社の周りには人だかりが出来て、笛や太鼓の音が鳴り響き出します。


「これって、豊漁と無災害を祈願するお祭りで、千年くらい前から続いてて、このお祭りが始まって以来一度も、不漁も大きな災害もないんだって」


 そう説明してくれたリンへ「へぇ~…」と、うなずきながら数枚そのお祭りの光景を写真に収めた鳴海。


 神社正面で燃え盛る大きな漁火を囲む白い装束のような衣装に身を包んだ数十人の男達が、境内で同じく白い衣装に身を包んだ島民達により演奏される笛と太鼓の音に合わせて、踊りながら漁火の周りを回り続ける。


 人だかりに混じり、それを見物していた鳴海とリン。


 炎の勢いを増していく漁火と共に、踊りも勢いづいていき、島民達から大きな合いの手があがる。


 祭りが盛り上がっていく中、地元の人間ではない鳴海は、イマイチ盛り上がれないまま、ボーっと眺めていたのですが、リンに袖口を引かれ、鳥居の辺りまで連れて行かれます。


「どうした? リン」


「うん…その…ねえっ! 海見に行かない? 夜の海って、すごく静かでキレイなんだよ。あのお祭りね、あとはあの火が消えるまでず~っとあれが続くだけなんだよね。なんか飽きちゃって…ごめんね、おじさん、まだ見てたかった…かな」


「いや、おじさんも、いつ抜け出そうって困ってたとこだったからね。行こっか? 海に」


「うんっ」と大きくうなずいたリンが差し出した手を取る鳴海、二人は手を繋ぎ、海岸へと向かいました。


 微かに祭囃子の聞こえる浜辺。砂浜に腰を下ろした二人は、しばらくの間、ただ黙って静かな波の音を聞きながら海を、星空を眺めていました。


「…おじさん、明日帰っちゃうんだよね?」


「ああ………なぁリン、おじさんな…いや、やっぱりやめとくわ」


「え~っ、何それっ、そんな言い方されたら気になるっ! ね~何?」


「いや、いいんだ。忘れてくれ、なっ」


「もうっ…ねえおじさん? おじさんって結婚してるんだよね」


「ん? いや、なんで?」


「だって、指輪のあとがあるから…」


「はは…そっか、子供かと思ったらリンもしっかり女してるんだな。正確には結婚してた…かな。カミさんに愛想尽かされてね」


「そんな…どうして? おじさん、そんなにいい人なのに!」


「ありがと、リン…でもおじさん、いい人なんかじゃなかったんだろうな。写真に夢中になってアイツのこと、ほったらかしだったからな…」


「夢を追いかけるのは男の甲斐性だよ! おじさん悪くないもん。ねえ、好きだったの?その人のこと…」


「そうだな。愛してたよ…」


「そっか………私、代わりになってあげようか? おじさんの奥さんに」


「ははっ、ありがとう。考えとくよ」


「ひどーいっ、そのどうでもよさそうな感じ? 別に冗談なんだけどさっ」


 立ち上がってパンパンとおしりの砂を掃ったリンは、鳴海に背を向け、聞こえないようにボソっと呟いたんです。「なによっ…結構本気だったのになっ」…って。


「よいしょっと。そろそろ行こうか? おじさん明日の朝、早いし」


 立ち上がり、砂を掃いながらそう言った鳴海。


「うん、そうだね。朝イチの連絡船じゃ、寝坊したら大変だよ? おじさん、早く帰って寝なきゃっ」


 本当はもっと…少しでも長く鳴海と一緒にいたい…でも、そんな強がりを見せるリン。「行こう」と差し出してくれた鳴海の手をリンは少しだけキュっと強く握り、自分の気持ちをごまかし、帰路につきました。






 次の日の早朝、連絡船に乗る為に船着場へ向かう鳴海。


 見送りについてきたリンは、鳴海の半歩後ろを歩き、うつむいたまま終始無言で…船着場に着き、出航間際の連絡船を横目に黙ったまま立ち尽くしていた鳴海とリン。


『行かないでっ!』


…なんて、そんなワガママが言えるほどリンは子供じゃないんです。


 鳴海とは、ここでお別れするしかない、今度はいつ会えるか分からない、もしかしたらもう二度と会えないのかもしれない…リンは、泣いてしまいそうになる自分を押さえるのに精一杯で…鳴海もきっと、そんなリンと気持ちは一緒で『帰りたくない』と思う心は大人の事情によって、いとも容易くかき消され…。


 二人の別れを急かすようにボーっと出発合図の汽笛が鳴り響きます。


「あの…さ、リン? 昨日、浜辺で言いかけたことなんだけどな、実は俺、写真家やめようと思って、この仕事を最後にしようとそう思ってた。最後の最後まで悩んで悩んで…それで今やっと結論が出たよ。俺、やめようと思う」


「えっ? そんな…ダメだよ! やめないでよ! おじさんの写真撮ってるところ、すごくかっこいいんだよ? やめちゃダメ…だよ…」


 瞳にいっぱいの涙を溜め、鳴海を見つめるリン。


「違うんだ。やめようって、写真家をやめることをやめようって、そう決めたんだ。写真のせいで俺は、大切なものを失った。だから写真が嫌いになった。でも今、俺は写真のおかげでもっと大切でかけがえのないものを見つけられたから」


 そっとリンの頭に手をのせ、優しく撫でた鳴海。


「今は、前よりももっと写真が好きになれそうな気がする。全部リンのおかげだよ。リンに出会えたから…それに大切な目標もできたしね」


「ぐすっ…何? 目標って」


 少しだけ笑顔を見せ、鼻声でそう尋ねたリンに「内緒っ」と言って微笑んだ鳴海。


「もうっ、また気になる言い方するんだから…ねえ、おじさん? また会えるよね? またこの島に来てくれるよね?」


「ああ、また来るよ。リンに会いにね」


「ホント? ぜったいだよ?」


「ああ、ぜったいだ」


 もう一度優しくリンの頭を撫でた鳴海。リンは涙を拭い、満面の笑みを浮かべて見せました。


「おじさーん! 私、待ってるからねーっ! ぜったいなんだからねーーっ!!」


 船着場をゆっくりと離れていく連絡船。そう声を張り上げ、大きく手を振るリン。


 鳴海は、そっとカメラを構え、ファインダーを覗き込み、シャッターを切ります。


 目じりに涙を溜めたリンの無邪気な笑顔、フィルムに焼きついたベストショット。

きっと鳴海の大切な宝物になる、そんな一枚でした。


 こうして鳴海とリン、二人の短い夏は終わりを告げ、そして………。




   エピローグ




 結局『終わらない夏』という企画はボツになりました…が、代わりに美那野洲島の特集が組まれ、それが一部の写真愛好家達に大好評となり、美那野洲島を訪れる観光客が急増、

リンの家は、本業がおろそかになるほど旅館の仕事で大忙し。


 リンも、旅館の手伝いと島の観光案内とで遊ぶヒマもないくらい。


「もうっ! おじさんのバカーーーっ!!」


 なんてぼやいている毎日です…で、鳴海はというと…



「ハァ…ハァ…ふぅ~…う~ん、やっぱり負けるよ…な」

 山の山頂、眼下に広がる雲、そこから昇る朝日…胸のポケットから写真を一枚取り出し、写真とその風景を見比べる鳴海。


 写真に写っているのは、あの渓谷で撮ったリンの姿でした。


「とりあえず第一目標としては、この写真よりもいい写真撮れないとな…まったく、素材が良過ぎるもんな、素材が…」


 大事そうにそっと写真をもとのポケットにしまった鳴海は、「俺もまだまだだな…」なんて腰に手を当て、大きく溜息をつき、ファインダーを覗き込みました。


 あの島でリンが見せてくれた景色達よりも美しい景色を求めて、鳴海は元気に日本中を駆け回っています。


 そして季節はめぐり、再び夏がやってきます。




「もうっ、おそいっ! 一年も待ったんだぞっっ」


 連絡船を降りた鳴海を出迎えてくれたリンが、そう言って口を尖らせています。


 鳴海は、すかさずそんなリンを写真に収めました。


「やだっ、私、今ヘンな顔してたでしょ?」


 恥ずかしそうに頬を赤くするリン。走り出し、先に行ってしまったリンは、「早く、早くっ」と鳴海を手招きして見せます。


 一つ歳をとり、少しだけ大人びたリンの姿に、ほんの少し不安を抱いていた鳴海でしたが、一年前と何も変わらないリンに胸を撫で下ろし、自分のリンに対する想いを再確認し、胸を躍らせる。


 こうしてまた二人の夏は始まります。あの夏と変わらない二人のままで…。


 来年も再来年も変わらないまま、二人の夏は続いていく…二人のあの夏は終わらない。きっと続いていくのでしょう、いつまでもいつまでも…。



                                          おしまい


読んでくれてありがとうございますっ!

未完ですけど、一応続編もあったりなので、ご要望でもあった日には、それはもう喜んで掲載しちゃいます♪

ではでは、違う作品でまたお会いできれば嬉しいです

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― 新着の感想 ―
[良い点] こんにちは、拝読させていただきました。 風景や心理描写が巧みで、まるで故川端先生のような美しい仕上がり。 そして、あえて近代風に足早な恋愛を描かず、リンと鳴海の絆が深まってゆく様子がと…
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