序章
気が付けば、意識だけがそこにあった。
辺りは一面暗闇で光など全くなく、何も見ることは叶わない。ここがどこなのか、周りに何があるのか、自分がどんな姿なのか――何一つ知ることの出来ない暗闇の中で、自分という意識だけが存在していた。
その暗闇の中――声が響く。
「貴方様は忘れていらっしゃるのでしょう?」
どこか遠くから、微かに聞こえてきた声。この声は、一体誰の声だっただろう? どこかで聞き覚えのある声、どこか懐かしい声―――《…だ》
誰かの声は、語りかけてくる。
「嘗て、死者に祈りを捧げた事も。
嘗て、生者に思いを馳せた事も。
嘗て、全ての者に恐怖を植え付けた事も。
嘗て、全ての者に尊敬の念を抱かれた事も。
全て、貴方様は忘れていらっしゃるのでしょう?」
初めの一言と比べ、今度ははっきりと聞き取れた。でも駄目だ、誰の声だったか思い出せない。この声は誰の声だっただろう、確かに知っているはずだ――《……めだ》
「嘗て私は貴方様の為だけに生かされ、育てられ、自由の一切を奪われたので御座います。
貴方様だけの為に私は生きているので御座います。
この程よく鍛えられ、バランスの良い肢体も、無を知り全を知る脳も、尽くして止まない心も、全ては貴方様の為だけに存在致します」
徐々にはっきりと聞こえてくる声。この声を知っている、それなのに思い出せないのはどうしてだろう――《……だめだ》
「其れが、如何でしょうか?
過去は貴方様の傍に、世界最高の天才とその弟子がいらっしゃいます。
今は貴方様の傍に、普通に遊んで暮らせる仲間がいらっしゃいます。
そして未来は―――未来には、貴方様が好き好んで御気に為さる子供がいらっしゃいます。
では、私は如何すれば良いのでしょう?
貴方様の為だけに存在している私は、貴方様に必要とされなければ如何すれば良いのでしょうか?」
同じ部屋に居る誰かが話しかけて来るくらい、近くから聞こえる声。それでも未だに、この声が誰の声だったか思い出すことが出来ない。すぐそこにまで近づいて来ているというのに、返事を返さなければいけないと思うのに、この声の持ち主が誰なのかを思い出すことが出来ない――《……おい、駄目だと言っているじゃないか》
漸く気付く。話しかけてきているのは一人だけではないのだと。
しかし、この声は聞き覚えがない――《……キミは話しかけても大概オレを無視する》――この声は誰だ。全く聞き覚えがない。――《……とりあえず、そいつの声を聞かないでくれ》
「私に出来る事は、せめて貴方様に嘗ての栄光を与える事で御座います。
誰もが欲し、求め、探し合い、奪い合い、誰にも手にする事の出来なかった貴方様。
何も貴方様が外れている訳では御座いません。
貴方様は優れていらっしゃるのです。誰よりも何よりも。そんな貴方様が人に憧れるなど、可笑しな話なので御座います」
《……ふん》――聞き覚えのない声が、聞き覚えのある声を嫌悪した気がした――《何が可笑しいと言うんだ》――誰なのだろうか。全く聞き覚えがない、誰なのだろうか。
「貴方様は人より素晴らしい!
貴方様は誰よりも素晴らしい!
貴方様はこの上なく素晴らしい!
けれど。
過去も今も未来も――貴方様の傍には同じ人がいらっしゃいます」
ところで、自分は誰なのだろうか――《……○○○○、それがキミの名前だよ》――聞き慣れない声が言うが、ノイズの様なものが入り上手く聞き取れない。
「○○○○。其の人こそが、貴方様を縛り付ける鎖、忌むべき存在―――私は其の忌むべき存在である人を貴方様の為に殺しましょう。例え、どの様な手段を使っても、必ず殺して見せましょう! あは、あははは、あははあははははははは、きゃはははははははははははははは! きゃはははははははあははあははははははきゃははははははあははははははきゃははははあははははははははははあははははきゃははあははきゃはははははははは―――――耳元で聞こえる不愉快な笑い声に目を見開き、彼は飛び起きた。
キッチンも寝床もトイレもお風呂も生活に必要なすべてを一つの箱の中に詰め込んだような部屋。その部屋にあるベッドで体を休めていた彼は、酷く汗ばんだ額に手を当て、深く深呼吸をした。
某県オモテ通り裏一丁目一番地一騎マンション三〇六号室に住む彼――無色透明は、夢を見ていた。それも、飛び切り不愉快で嫌悪するような最悪で最低の夢。
「………あの声は」
無色は夢の中で聞こえた声を思い返していた。
「あの声は、アリスミツクモの声だ」
アリスミツクモ――その人名を思い出しただけで無色は胃が暴れ、吐き気が込み上げてきた。
無色は、夢のことを忘れるために目をぎゅっと瞑り、頭を何度も左右に振った。しかし、どれだけ頭を振っても忘れることが出来ず、それどころか徐々に覚醒した急速に物事を理解し始める。
「……まずい」
無色は唐突に呟いた。
「有墨九十九のやつ、オレを殺すつもりだ」
無色は「世界共通の敵」と呼ばれている組織「国際単位(通称SI)」のリーダーであり、世界最高の天才と呼ばれているグレイ・パラドックスの弟子でもある。そして、解いてはならない式「∞≠±一=0」の答え「モノクロームコントラディクション」である。
この「∞≠±一=0」と言う式は、解けば富も名誉も不死さえも全てを手にすることが出来るという。
その式を解いた無色は、文字通り全てを手にしていた。だが、いい事ばかりではない。全てと言うのは、文字通り良いも悪いも全て、と言う事であり、富や名誉はもちろん、貧困や飢餓、それから隣に座っている人の考えに地球の反対側に居る人の受けている苦痛、この世界だけでなく全ての世界の人間を含む生き物や植物、果ては鉱物などの意思、挙句の果てには死までも手にしてしまうのだ。
もちろん、何を手にしておくかは己の意思で選ぶことも出来、普段は普通の人間として生きている。しかし、結局は全てを手にしているわけなので、生きている人間が「自分の心臓は止まっている」と言っている様なものなのだ。
「……………諦めの悪い奴」
無色は立ち上がり、汗で濡れた身体を洗い流すために浴室へと足を運んだ。
服を脱ぎ棄て浴室の蛇口をひねると ぬるい湯が頭上から降り注ぐ――無色は、少し笑った。
「∞≠±一=0の答えであるモノクロームコントラディクションは、確かに全てを持ってはいる。しかし、誰かに得られるものではない。何故ならは、モノクロームコントラディクションは人名――つまり、式を解いても全てを手にした人物と対面することが出来るだけであり、その人から全てを手にする方法を聞くだけなのだ。しかもこの方法が何というか、まあ、あれだ、途方もない方法なんだ」
辺りは静かで、無色の声とシャワーから出る水の音しか聞こえない。
「キミが知りたいと言うならば喜んで教えるが、その方法は誰もが出来る方法であり、誰も出来ない方法である。今のところそれに近い人物は何名かいるが、………名を挙げるのは控えておこう。見事モノクロームコントラディクションへたどり着いたキミに、教えてあげよう」
無色は誰かに語りかけるように独り言をつぶやいていた。
「全てを手にするには、全てを知ればいい。そうさ、一つ一つ学ぶことが大事なのだ。全てが十なら一から十まで学び、全てが百なら一から百を学ぶ。そう、要するにどんなことでも出来るよう努力しろってことだ」
無色は蛇口をひねり、湯を止めた。浴室から脱衣所へと移り、清潔なタオルで身体を拭いた。
「十七年前にオレが得た《モノクロームコントラディクション》はそういうものだ。もっとも、ニュートンが提示した《モノクロームコントラディクション》は、オレ自身を指すんだけどね」