終章 父として
天音さんが逮捕されてから、三日が経ちました。私と啓介は、変わらない日々を過ごしていました。
鷹井さんから聞いた話によると、天音さんが捕まってからも京太さんはしばらくは自分が犯人だと主張し続けていたそうですが、彼が動機として語る金銭の問題がまったく見つからないことと天音さんの自白によって、偽証罪に問われるだけになったそうです。逃亡の恐れもないということで、仮釈放されたとのことでした。
そして今、京太さんは私たちの前にいました。ラフな私服を着て校門で待っていた彼は私たちを見ると、頭を下げてきました。
「どうも」
「ど、どうも」
私もおずおずと礼を返します。啓介は一見無表情のように見えますが、面倒なようでわずかに眉間にしわが寄っていました。
「なんの用ですか」
啓介がぶっきらぼうに尋ねました。声がいつも以上に平坦です。
「いえ、少しお話したいなと思ったので、鷹井さんという刑事さんから、こちらだと伺いました。お時間頂けますか」
啓介は今にも「帰ってくれますか」と言い出しそうだったので、私が代わりに返答します。
「いいですよ。行きましょう。こちらから訊きたいことも、いくつかありますし」
私の決定なので、啓介は何も文句を言いませんでした。不満も、収まったでしょう。
ただし、鷹井さんへの不満は消えていないと思います。悪い人ではないので、後でほどほどにぐらいは言っておくことにしました。
私たちは、駅前の喫茶店にいました。それぞれの前方には頼んだコーヒーがあります。私は甘めで、啓介はブラック。京太さんは普通くらいという感じです。ただ、私の前にはショートケーキも置かれていたりします。美味しそうだったので、つい頼んでしまいました。食べ出す前に、話を振ります。
「それで、私たちと話したいことっていうのは?」
「正直、しっかりと言葉をまとめてきたわけではないんです。ただ、話さないといけないと思っただけで」
どうやら、とにかく気持ちが先走ったようです。感情は、言葉の前を行ってしまうこともあります。啓介は、一層憮然とした感じになりましたが。隠そうとしているあたりが可愛らしいので、放っておきます。
「やっぱり、犯人は天音でしたか」
とりあえずという感じに、京太さんが口を開きました。
「はい。その言い方だと、犯人は天音さんだと感づいていたようですね」
「はっきりとした証拠は手に入れてませんでしたけどね。ただ、麻子が殺される前から危惧はしていましたから」
彼は、どこか遠くを見る目をしました。
「あなた方は、天音さんの感情に気づいていたんですね」
「同じ家で暮らしていましたから。最初のうちは本当にわずかな疑いでしたが、時間が経つにつれて、徐々に確信になっていきました。麻子がいないときに家で二人になったときなんかは怖かったですよ。明らかに女として私に迫ってきてましたから。日によっては、外に出かけて逃げたこともあります」
「だから、別居をしたわけですか」
私が確認すると、彼はうなずきました。
「天音に家の位置は知らせませんでした。待ち伏せや、押し入りが怖かったですから。それでもどうやって知ったのか、時たま姿を現すようになりました。麻子から、あの子が帰っていないという連絡を受けるたび、家の前にいないかどうか怯えながら帰っていましたよ。実の娘に怯えるなんて、変な話なんですけどね」
自嘲気味な言葉でした。ただ、うつむいたものの表情には変化が見られません。彼は啓介と似た性質を持っているようで、感情が見えにくい人でした。
「でも、仕方がなかった。私は麻子を心の底から愛していましたから、天音に押し切られて屈してしまうのが怖かったんです。それに娘としては愛しているのもありましたから、間違いを犯してしまったらと考えると、怯えざるをえませんでした」
それでも、ある程度の本質を知っていると、彼の心が少しは見えてきます。正直な言葉もあるので、何を思っているのかは多少掴めます。ただ、理解できるものかどうかは別ですが。
「だから、今回の行動も予測はしていました。最悪の場合はという前提だったので、あまり真剣には心配していなかったんですが。ただ……」
そこで彼は、目線を落としました。間が空きましたが、言葉を入れずに続きを待ちます。
「止めることはできたんじゃないかって思うんです。今思うと、麻子は自分が本当に殺されるかもしれないと、気づいていたような節があったんです」
彼の予想は正しいでしょう。寝室にそれを示唆するような文章の一端があったことを、思い出します。でも、彼が判断した理由は違っていました。
「事件の一週間前くらいに、麻子が私へ何かを伝えようとしたことがあったんです。そのときは結局、麻子がなんでもないって言って、私も追及しなかったんですが、あのとき天音が本気で自分を殺そうとしていることを言おうとしたんじゃないかと思うんですよ」
表情に大きな変化はありませんが、声には後悔と自分への怒りが見え隠れしていました。
「あのとき私が、無理にでも話を聞いていたら、麻子は死なず、天音も殺人犯にならないで済んだかもしれません。それが、悔やんでも悔やみ切れません」
今度は啓介に言われる前に気づきます。テーブルの上で握られている京太さんの拳が、震えていました。
「一番助けてやらなきゃいけなかったときに何もできなかったのに、何が夫でしょうね。私は、最低です。娘を拒みきる自信がないばかりか、そのせいで妻を失ったんですから」
静かに、激情を外に出します。抑えつけている心中ではどれほどの嵐が吹き荒れているのか、想像もつきません。
「事件の日は、天音の学費とかについて話すつもりでした。あまり天音には聞かれたくはなかったですが、彼女の感情についてのものよりははるかにマシでした。だから、特に天音の在宅などは気にせずに、仕事が一段落したら麻子のところへ行くことにしていたんです」
「そして家に着いたあなたは、鍵が閉まっていないのを不思議に思いながら、家の中へ入って、麻子さんの死体を発見したわけですか」
私が確認を入れると、彼はうなずきました。
「ええ。電話に出なかったので、不思議に思っていましたが、まさか死んでいるなんて想像もしていませんでした。正直、何がどうなっているのか最初はまったく理解できませんでしたよ。それでも、しばらくしてから自分の立場の危うさに気づいて、自分の痕跡を消しだしたんです。そのときはまだ、天音が犯人だという考えに達していませんでしたから」
それで、あの壊された電話と半端に消された指紋が現場に残ったわけです。ついでに言うなら、目撃証言も。本来なら姿を見られても問題がない用件だったために、あの状況が生まれたのです。おそらく、一番驚いたのは天音さんでしょう。覚えがないのに、電話が壊れていたのですから。
「でも、一度家から逃げるように離れて、冷静になればなるほど、実は天音がやったことなのではないかという疑いがどんどん増していきました。リビングしか見ていませんでしたが、家の中は荒れていませんでしたし、麻子を殺す理由を持っている人間は、思いつくかぎり、あの子ぐらいしかいませんでしたから」
彼の予想は、当たりでした。
「証拠はなくても、天音と会ったときにすべてを察しました。間違いなく、犯人はこの子だと。目がすべてを訴えてました。これで二人で生活できる、もう逃がさないという感じでしたよ」
京太さんと天音さんが会ったとき、私たちは直前にあった三山さんとのやり取りの方に気がいっていたとはいえ、啓介も気づかなかったことを考えると、本当に身近な人でないと分からない違いだったのでしょう。
「そこからが苦悩でした。麻子が殺されたことは悲しかったですし、犯人への怒りもあったのに、憎むべき相手が娘だったんですから。もう頭が真っ白でした。いっそ、麻子の後を追って死んでしまおうかと思いましたよ」
「でもあなたは、そうしなかった。娘さんを残して、死ぬ決心ができなかったから」
私の指摘に、彼は目を見開きました。ですが、さほどこの考えにたどり着くのは難しくありません。
「あなたが娘さんとして天音さんを愛していたのは、自己申告からして明らかです。もっとも麻子さんと会うのとは別に、一カ月に一度家族での食事をしていたことからも予測がつきます。また、間違いを犯したくないという考え方からもうかがえます。それほどに気にかけているのなら、彼女を残して自殺という選択肢は選ばないでしょう」
「まったくその通りです。娘が犯人だと分かってなお、私はあの子を残して死ぬということはできなかった。思い上がりかもしれませんが、私が死んだら天音まで命を絶つかもしれないという不安もありましたし」
恐らく、思い上がりではないでしょう。絶対にとは言えませんが、京太さんの存在は殺人を犯すほどに彼女の価値観を占めていますから、可能性は高いはずです。
「ですが、同じ家にいることのリスクもかなりの恐怖でした。ただでさえ、麻子という大きな存在を失ったばかりでしたから、天音を拒否しきる自信は以前に増してありませんでした。だから、警察が私に逮捕状を突きつけてきたとき、これだと思ったんです」
「自分は死ぬことなく、かつ娘さんを刑務所に入れずに離れて暮らせる手段だと思ったんですね」
「ええ。物証は指紋と留守電がありましたから、あとは動機をでっち上げるだけでした。天音はかなり取り乱していましたが、自殺まではいかないだろうという読みがありました」
おそらく、この世からはいなくならないからでしょう。天音さんも混乱する頭の中で、その考えには至ったはずです。それでも、目的の達成が不可能になったというのは、精神的にかなり響いたでしょうが。
「しかし、あなた方が犯人は私ではなく天音だと真相を明らかにした。どうせ絶望するのなら、暗い檻の中で一人きりがよかったんですがね」
彼は自嘲の笑みを浮かべました。結局、彼は家族を誰一人護れませんでした。麻子さんも、天音さんも。残ったのは、彼一人です。娘の暴走を止められず、奥さんの命を助けられず、果ては泥を被ることすらできませんでした。この事件の、一番の被害者であると言っていいでしょう。
「それで、あんたはどうするんだ」
彼に問いかけたのは、私ではなく啓介でした。
「俺たちにとっては意味のないことを話して、あんたはこれからどうするつもりなんだ。俺たちは、あんたのカウンセリングをする気はない」
冷たい言い方ですが、もっともな問いでした。私たちが彼の話をただ聞いたところで、どうすることもできません。
啓介の言葉を受け、京太さんは驚いたように少し目を開き、それから微笑しました。
「カウンセリングなんてしてもらうつもりはありませんよ。ただ、あなた方と話したかったんです。最初に言ったように、何を話すかは決めていませんでしたが、一方的な懺悔のようになってしまいましたね」
「私たちと話したかった、ですか」
「ええ。そのうち警察にはバレるかもしれないと思ってはいましたが、それよりも先に天音の想いに気づいたというあなた方に、興味があったんです」
彼の目的は、会話の内容よりも私たちと話すこと自体にあったようです。
「会ってみて納得しました。どうやらあなた方は、私の想像以上に聡明なようですね」
絶賛とも言える評価でした。恐縮します。啓介は元々、私への評価が高いので、当たり前だと言わんばかりに、表情を変えませんでした。京太さんが続けます。
「だからこそ、問いたいことがあります。あなた方が私と同じ立場だったら、どうしていましたか。そして、これからどうしますか」
切実さに溢れた質問でした。訊いたところでどうしようもなく、本当は自分でしか答えを見つけられないことは理解しているでしょうが、それでも訊かずにいられなかったようです。ですが、訊く相手が私たちでは参考にすらならないでしょう。
「私だったら、いいえ、私たちだったら、京太さんと同じ境遇になったとき、子供を切り捨てます。私たちの生活をもっと面白くしてくれるのならともかく、私たちの世界を侵すなら、子供であっても私たちの敵ですから」
「なっ……」
迷いない私の言葉に、彼は面食らった様子を見せました。気にせずに、話を進めます。
「仮定の話ですから、現実は無視しますが、もし啓介が殺されたら、たとえ犯人が血を分けた子供でも、私はその子に復讐を遂げてから、啓介の後を追って命を絶ちます。それが、私が啓介に誓っている愛情ですから」
私が微笑むと、彼は表情を変えました。今まで見た中で、一番感情の見えるものかもしれません。異常なものに理解が追いついていないゆえの、怪訝さがありました。私に反論をしてきます。
「それは、あなたがまだ子供を持ったことがないから言えることです。実際に子供を持ったら、同じことは絶対言えません。愛する子を手に掛けることは、絶対にできない」
静かな口調ながらも、確かな怒りが覗いています。異常である私の意見ですから、普通の感覚を持つ彼からしたら、それだけありえないことなのでしょう。ですが、それはあくまで彼のものさしで計った結果でしかありません。
「あなたならできないでしょう。いいえ、大半の普通の親なら、きっとできません。でも、私はできます。啓介が殺されるようなことがあったら、犯人が誰であろうと、たとえ肉親であっても、どんな手を使ってでも復讐します。今は子供がいませんから、あなたの反論を論破することはできません。でも、実際私の中で啓介は両親よりも誰よりも位置は高いです。他の追随を許さずに一位です。啓介以上に私が愛している人間は、いません」
断言します。それどころか、この先も啓介よりも愛を向ける人間は決してできたりしないでしょう。子供でも親でも、啓介よりは価値は低い。いなくなれば悲しいでしょうが、啓介がいれば私はいくらでも幸せに生きていけます。
「それは今だけです。子供が産まれ、あなたが人の親になったら、間違いなく同じことは言えなくなります」
京太さんが真正面から否定してきます。さっきも言ったように、今は親でない私に論破はできません。ただ、証明のできない確かな自信があるだけです。おそらく彼は、それを認めはしないでしょう。彼は愛する人を奪った娘も、亡くなった奥さんと同等に我が子として愛しているのですから。私と違い、明確な愛情の優劣がないのです。おそらく、種類が違うためについていないのでしょう。私は、啓介への愛情が絶対的な一番優先ですが。
「今はそういうことにしておきましょう。実際に子供がいないかぎり、勝ち目がありませんから」
仕方なく、この場は彼の意見に負けておきます。どれだけ訴えたところで、納得はしてもらえないでしょうし、そうしてもらう必要もないのです。
「……私も今はもう何も言いません。言っても、あなたは受け入れないでしょう」
私の敗北宣言を受け、釈然としない様子ながらも彼も矛を収めました。彼の今の問いに関しては、そもそも私に訊くこと自体が間違いなのです。
「あなたも、彼女と同じ意見ですか」
京太さんが、私の隣に座る啓介に顔を向けます。答えは、決まりきっていました。
「同じですね。俺があんたの立場だったら、まず沙夜を殺させない。危険性にも因るが、先手を打って子供を遠くに追いやるなりなんなりしますよ」
淀みない口調でした。自分になんの疑問も持っていません。啓介にとっての一番も私なのですから、当然です。
「そうですか。なら、もうあなた方へは訊きません。極端すぎる」
自覚しているかどうか分かりませんが、京太さんは嫌悪感を声に込めていました。ただ互いに子供よりも愛する人間がいるというだけのことなのですが、やはり私たちはズレているようです、今に始まったことではないので、気にはしませんが。
「失礼なことを言いますが、あなた方は思っていたよりも幼稚です。邪魔になったら殺すなんて、どうかしてる。もっと現実を見た方がいい。単純な感情だけで、世の中は生きていけませんよ」
さらに彼は苦言を呈してきました。私が口を開く前に、啓介が真顔で言い放ちます。
「でも、俺たちが言ったようなことをしてたら、あんたの奥さんは死ななかったな」
京太さんは、言葉を失いました。より正確に言うと、何か言おうとはしているのですが、返す言葉が見つからないようで、息ばかりが口から出ていっています。
「あんたが離れるんじゃなくて、娘を離してしまえばよかったんだよ。そうすれば、檻にはあんたの娘一人だった。同じ檻に奥さんを残して、あんたが逃げたから、猛獣に噛み殺された。世の中を知ったところで、大事な人間を護れなかったら、意味がない。違うか?」
京太さんより遥かに年下でありながら、背もたれに寄りかかってしゃべる啓介の方が、強い存在感を放っていました。
「沙夜がいない世界に、俺は価値を持てない。逆に言えば沙夜さえいれば、どんな状況だろうと生きていける。邪魔しないかぎりは世の中のルールを守ってもいいが、沙夜との世界を否定するなら、そんなもん守るのは願い下げだ。二人で世の中に否定されてくたばっても、沙夜と死ぬなら幸せだったと胸を張って言える。だから、危険なものは排除するにかぎるんだよ」
いつもと変わりない淡々とした話し方ですが、すべて本音でした。
「まあ、あんたみたいに、愛情に優劣のない人間には不可能だろう。切り捨てることができないからな」
「……っ。もう結構です。お代は私が持ちますから、帰らせていただきます」
攻める啓介に耐えかね、京太さんは伝票を乱暴にひっつかむと、席を立ちました。表情にはそれほど感情は出ていませんが、行動には顕著です。
「日橋さん」
「なんですか」
そんな彼の背に、啓介は呼びけます。無視されてもおかしくありませんでしたが、キチンと反応がありました。
「娘さんのことは、どうするか決まりましたか」
問いに対し、彼は間を取ってから、
「護りますよ、今度こそ。あくまで、娘として。殺されるかもしれないと思っていながら、あの子を愛した麻子のためにも」
吹っ切れたような感じで答えました。再び歩き出します。
「母親を殺した子供を“護る”っていうのも、けっこう酔狂なもんだと思うんだが」
啓介が今度は私の方を向いて言ってきました。肩をすくめてみせます。私は、微笑しました。
「そうだね。でも、それがあの人の愛情なんだよ」
「なるほどな」
啓介も私と同じような表情を浮かべます。二人で、決心をした父親の背へ目をやります。会計をしているなんでもない姿でしたが、どこか大きく見えました。
京太さんと話していた喫茶店を出て、駅へと向かいます。日が傾き始めていて、町並みがオレンジ色になっていました。
「それにしても、珍しい事件だったね」
「そうだな。親を好きになるなんて、想像もつかない。沙夜は、よく分かったな。さすがだよ」
私が話しかけると、啓介はすぐに言葉をくれました。褒められて、照れと謙遜を抱きます。
「別にたいしたことじゃないよ。気づけたのだって、きっとたまたまだし」
「またそんなこと言って……。沙夜はもっと自分に自信を持っていい。まあ今は、代わりに俺が沙夜の力を認めるけど」
「しばらくは、そうしてもらうと助かるかな」
目を細めた啓介に、私は苦笑を返しました。
夕日の光が降り注ぐ中を、二人で手を結んで歩みます。私たちは、永久に隣合って生きていくつもりです。いくつになっても。たとえ、天音さんのような子供ができようとも、決して変わりはしないでしょう。
天音さんは、檻の中に京太さんを捕らえることができませんでした。でも私と啓介は、既に一つの檻の中にいます。内側から鍵を閉じた、完璧な私たちだけの世界。誰も入り込むことはできません。強引に檻へ踏み込もうとすれば、全身を食いちぎられるでしょう。
私たちの檻もまた、獣の檻なのです。
私は一人で、そっと微笑みました。