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獣の檻  作者: ブナ
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六章 狩られる獣

 また次の日。私たちは今日も日橋さんの家へ来ていました。ただ、今回は目的が違います。手がかり探しではなく、すべてを話すために来たのです。必要な情報は、昨日のうちに鷹井さんからもらっています。

「啓介くん、沙夜ちゃん」

 曇天の下、門の前で呼吸を整えていると、私たちの名前を男性が呼びました。そちらを向くと、車から降りるところである鷹井さんがいました。反対側の助手席から、中村さんも出てきます。剣路さんはいないようです。

「事件の真相が分かったっていうのは、本当かい」

 昨日の電話で、散々啓介が言ったにも関わらず、彼はまずそう尋ねてきました。面倒臭そうに、啓介が答えます。

「本当ですよ。内容はこれからお聞かせすることになりますけど、間違いありません」

 迷いのない言葉に、鷹井さんは顔の筋肉を引きつらせました。隣の中村さんが、口を挟んできます。

「今更、あなた方の行動を咎めるのも馬鹿らしいのでしないでおきますが、どういうことですか。犯人は、自白した日橋京太さんなのでは」

 相変わらず冷静でした。訊き方が引っかかるところですが、きちんと答えます。

「いいえ。京太さんじゃありません。あの人は、刑務所という檻へ入ることで、別の檻に入れられることを避けようとしているんです」

「別の檻?」

 中村さんが、眉をひそめます。おそらく、取っかかりすら掴めていないでしょう。目の前にあるごく普通の一軒家の中では、あまりに普通ではないことが起きていたのです。

「はい。すべて説明しますから、もう行きましょう。話はそれからです」

「そうだな。入るとしよう」

 私の言葉に啓介も同調し、まず呼び鈴を鳴らします。しばらくして、『はい』という、女性の声がしました。昨日までのものと違うので、おそらく天音さんでしょう。

「西野です」

『西野さんですか? ちょっと待っててください』

 ブツッという音がし、数秒の後、玄関の扉が開きました。光のない目をした女性の姿が覗きます。天音さんでした。その後ろには、心配そうな表情の三山さんの姿もあります。二人とも家から出てきて、私たちの方へ来ます。

「西野さんたちに、警察の方も一緒でしたか。いったい、なんの用事で?」

 さっそく天音さんは、用件を尋ねてきました。私は胸を張って、堂々と答えます。

「今回の事件の、すべてを明らかにしに来ました。入れてもらえますか」

「事件のすべて?」

 若干ひっくり返った声を出したのは、三山さんでした。

「はい。先日お話したとおり、やっぱり京太さんは犯人じゃなかったんです」

「なっ……」

 三山さんは言葉を失い、天音さんも目と鼻が微かに動きました。

「詳しくは中でお話します。上がっても、いいですよね」

 彼女たちはどちらともなく目を合わせ、こちらに向かって首を縦に下ろしました。




 私たちは、例によってリビングにいました。三山さんと天音さん、それから二人と向かい合う位置に中村さんというように、三人はテーブルのイスに座っています。私と啓介は彼女たちを見渡すようにテーブルの前方に立ちました。鷹井さんは席に着かず、二人座っている側の後ろの長い窓へ身体を預けていました。

 探偵の舞台が整ったところで、

「では、始めましょう」

 緊張で激しくなる鼓動を抑え、私は宣言しました。

 哀れな獣を捕獲するための、舞台の開演を。

「まず最初にはっきりさせておきたいのは、京太さんは犯人ではないということです。彼はおそらく、どうやって殺したのかは分からずとも、誰が殺したのかを知っています。そのうえで、嘘の自白をして自ら逮捕されたんです」

「つまり、犯人を庇ったわけですね」

 さっそく、中村さんが口を挟みます。探偵の演目はこうでなくてはなりません。観客は、自分の疑問をどんどん探偵へぶつけていいのです。義務を果たすために、彼女の問いに回答します。

「半分正解です」

「半分?」

 彼女は眉間にシワを寄せました。

「はい。確かに、“庇った”というのもあるんですが、彼は“怖れ”から、留置場、果ては刑務所に入ってしまいたいと考えたんです」

「つまり、自分から檻に入ろうとしてるってのか? そんなバカな」

 鷹井さんが、横から反応してきました。中村さんと同じような表情になっています。

「それがありえるんです。そもそもこの事件の背景には、普通ならありえないことがバラバラに点在していました。そして彼の怖れの正体は、それらをすべて繋ぎます。言うなれば、一本の芯です。しかし、その芯すら、本来ならありえないこと、いえ、あってはならないことなんです」

「ありえないことが、ありえている原因ってこと? イマイチ、よく分からないのだけど」

 三山さんが首をひねります。確かに、聞いたかぎりではあまりに矛盾しています。ですが、今回の事件ではその矛盾が現実に起きているのです。さらに、ありえないという完全な否定では少しニュアンスが違ってきます。

「正確には、あってはならないことなんです。完全にありえなくはありません」

「あってはならないこと?」

 鷹井さんが首をひねりました。他の人もピンときていないようで、沈黙しています。

「そうです。そこに、日橋さんたち夫婦が別居までして不仲を装っていた理由があります」

 観客に向かってうなずき、堂々と彼らを見据えました。

「仲のいい夫婦が、なぜ不仲を演じたのか。ヒントは、麻子さんが亡くなることで起きる変化にあります」

「変化?」

「はい。考えてみてください。どんな変化があるのかを」

 私の言葉を繰り返した中村さんへ、思考を促します。他の人たちも、同様に考え込みました。

 数分しても、答える人は出ませんでした。ストップをかけます。

「そこまででいいです。私も皆さんと同じで、考えつきませんでしたから。気づいたのは啓介なんです」

 ちらっと啓介へ目をやります。ポケットに両手を突っ込んで、私に向かい微かに笑いました。エールなのですが、むしろドキドキが増します。自然と浮かんだ微笑を返し、前へ向き直りました。

「啓介自身はその発見の重要さを見いだせていなかったんですが、私の頭の中では、はっきりと繋がりました。皆さんも、一度聞いただけでは、意味が掴めないかもしれません」

 かなり長い前振りをしてから、啓介の見いだした変化を口にします。

「麻子さんが死んだら何が起きるか。実に単純なことです。“京太さんがこの家に帰ってきます”」

 予想どおり、全員が沈黙しました。それも、驚きからではなく、意味が分からないからです。考慮したうえで、話を続けます。

「これだけ聞いても、意味が分かりませんよね。これに、ある仮定を足すと、初めて意味のあるものに見えてくるんです」

 誰も口を挟みません。もう少し反応があるかとも思っていましたが、想像以上に、耳を傾けてくれていました。

「その仮定ですが、ヒントは京太さんが捕まったときの出来事にありました。皆さんも、思い当たることがあるはずです。あまりにも、いつもと違っていましたから」

「まさか、あなたが言ってるのは……」

 啓介を除いたメンバーの中で、一番察しのいい中村さんが反応を見せます。他の人も、はっとした表情を浮かべました。彼らの視線は私から離れ、たった一人に集まります。

「そうです。あのとき、いつもと違ったのは、あなたの様子です。お母さんである麻子さんが死んだときとも、あまりにも態度が違いました」

 隠し立てする必要もありません。まず、最初にはっきりさせておかないといけませんでした。

「そうですよね、天音さん」

 “獣”の、正体を。

 名前を挙げられた天音さんは、ゆっくりと顔を私に向けてきました。据わった目には、はっきりとした敵意があります。

「確かにあのときの私は、かなり取り乱していました。落ち着いてから考えてみて、自分でも、お母さんが死んだときとの差に驚きましたから。でも、理由は説明したはずです。私は、お父さんの方が好きだったから、あれだけ取り乱した。ただ、それだけのことですよ」

「そうでしょうね。あなたは、嘘はついていない。でも、表現を変えてあることを誤魔化しています」

 彼女の主張を認めつつも、私は隠されている感情に言及します。

「あなたの“好き”は、決して普通の親と子の間にあるものではないはずです」

 瞬間、舞台に戸惑いと驚愕の混じった、沈黙が流れました。口をポカンと開けていたり、目を開いていたりしています。今の発言で、彼らは“あってはならないこと”の意味を理解したからでした。

 三山さんが喉の奥から絞り出すように、おずおずと言葉を発します。

「それって、まさか……」

「三山さんの考えているとおりだと思いますよ。あのときの極端な態度が一番大きいですが、啓介の観察だと麻子さんの死を悲しんでいない節もありました」

 ここまで説明すれば、さすがに伝わったはずです。導き出される結論を口にします。

「天音さんの京太さんへ対する好意は、異性に対するそれだったんです」

 天音さんは眉間にシワを寄せた険しい表情を崩さず、他の面々は彼女へ目を向け、固まっていました。

「いつ頃からなのかは分かりませんが、日橋さん夫妻は彼女の感情に気づいていたと思います。間違いを犯したくないというのに加えて、夫婦仲が良好でしたから、京太さんと天音さんが禁断の関係になるのは、絶対にあってはならないことでした。でも、大切な一人娘ですから、二人共が遠ざけたり、避けることはできない。仕方なく、夫妻は別居という形を取って、京太さんが家を出たんです。そのうちに、彼女の感情が収まるのに期待して」

 普通ならありえないことは、こうして現実となったのです。

「ですが、思惑とは裏腹に、天音さんの感情はむしろ深まっていったと思います。それこそ、手段を選ばなくなるほど強く。麻子さんの寝室に残されていたノートの切れ端にも、その一端がうかがえます」

 私が言ったのに合わせ、啓介がテーブルに、寝室で発見した紙の切れ端を出します。

「『た。どうすればい』に『たら殺され』ですか。確かに、穏やかではない文面ですね。自分が殺されるかもしれないという内容だった可能性も、否定はできません」

 切れ端を覗き込みながら、中村さんが言いました。

「はい。可能性としてあります。それに、その予測が正しいとすれば、どうして麻子さんが、一度書いたものをわざわざ破ってしまったのかも説明がつくんです」

「そういえば、ずいぶんこだわってたわね。警察に犯人がバレないようにしたっていうのも、納得いくけど……」

 一度私に目を向け、また天音さんに戻します。おそらく、まだ彼女が犯人だと信じられないのでしょう。

「なぜ破ってしまったかというのは、どういうことですか」

 中村さんが疑問を口にしました。私と啓介、そして三山さんにしか分からない話題なので、他の人たちには伝わらないのです。

「私が疑問に思っていたことです。切れ端は寝室で見つけたんですが、殺されるかもしれないという予想を持っていたのに、わざわざ文章を書いた紙を破いたのはなぜなのかと思ったんです」

 犯人を逮捕するための重要なヒントにもなりうるものを、なぜ書いたのにわざわざ破ったのか。天音さんが犯人だと分かったとき、私が最初にした推理は、間違いではないという確信が持てました。

「答えとして浮かんだのは、文章を警察が見つけ、犯人がわれてしまうのを怖れたからではないかということでした。さっきも言いましたが、夫妻は天音さんの感情を知りながらも愛していましたから、たとえ殺されたとしても、麻子さんは子供に捕まってほしくなかったんです」

「殺されたとしても、家族は家族ってわけか。たいした母親だったんだな」

 鷹井さんが感心を示します。私も同意見でした。子を思う親というのは、時に驚愕に値します。三山さんは、「麻子らしいわ……」と一人つぶやきました。

「そして、麻子さんの予期していたとおり、京太さんへの愛情を大きくしていた天音さんは、本当に殺人を決意しました。京太さんは警察に捕まってまで回避しようとするほど、彼女と間違いを犯してしまうのを怖れていますから、別居後はおそらく、徹底的に避けていたはず。あなたは、それに耐えられなかったんです」

 最後は、天音さんへ向けて言いました。仕方ないことではあります。私も、啓介といられなくなったら、手段を選ばなくなるでしょうから。

「そしてあなたは、実行した。京太さんを半ば強制的に家へ戻し、加えて彼からの愛情を受ける麻子さんを消すために」

 動機についてはこんなところでしょう。彼女は、叶わぬ恋心を満たすために、邪魔なものを消す、目的を選ばない獣となったのです。

 と、ずっと黙って聞いていた天音さんが瞳孔を開き、私へ鋭い目を向けてきました。

「ずいぶん、好き勝手言ってくれるものですね」

 怒りに満ちた声でした。この手の舞台には必ず存在する、犯人の反論です。

「さも、私が犯人のように話してますけど、すべてあなたの憶測じゃないですか。何も具体的な証拠がない」

 これはジャブのようなものです。もっと強力な防御策を彼女は持っていました。

「そもそも、私に母を殺せるわけがないじゃないですか。母から電話がきたとき、私はあなた方と一緒にいた。その後も、死体を見つけるまでずっと行動を共にしていたんですよ」

 効果抜群の反論でした。そう、彼女はずっと私たちと一緒でした。事件当日この家にきたとき、中を確認しにいってから、私たちが上がり込むまでの数分ほど一人にはなりましたが、死亡推定時刻からして、そのときに殺したというのはありえません。

 さらに大きな壁は、麻子さんからの電話でした。主に会話していたのは、三山さんです。電話がかかってきていたフリということはありません。確実に電話は繋がっていて、三山さんは対話をしたのです。これさえなければ、死亡推定時刻に反することなく、天音さんが喫茶店へ来る前に麻子さんを殺害しているという可能性が上がるのですが、その考え方は封じられていました。

 ですが、私はその守りを崩す手段に、既に至っているのです。

「確かに、天音さんの言うとおりです。あの電話が、本当に“麻子さんからのものであれば”」

 私の発言に、観客全員が目を見開きました。数秒してから、天音さんが声を荒げます。

「何を言ってるのよ! あれは確かにお母さんからの電話だったわ! そうですよね、三山さん」

 母親の親友である中年の女性へ、目をやります。問われた彼女は、ひるみながらもうなずきました。

「え、ええ。あの電話は麻子からのものだったわ」

「ほら、見なさい。あれは、母からのもので間違いありません」

 勝ち誇ったように、天音さんは両手を開いて私に訴えてきました。

 しかし、私には通じません。

「それはどうでしょうか」

「なんですって?」

 私の一言に、彼女は顔を歪めました。無視して、三山さんへ尋ねます。

「三山さん。昨日、尋ねたことを覚えていますか」

「昨日尋ねたこと?」

「事件以前の麻子さんとの電話で、話した内容をまったく覚えていないことがあったかどうかです」

「ああ、それか」

 思い出したようでした。中村さんが反応します。

「その問いには、どんな意味が?」

「大きな意味があるんです。三山さん、昨日のお話をもう一度お願いできますか」

「え、ええ。分かったわ」

 三山さんがうなずき、昨日してくれた話を繰り返します。

「沙夜ちゃんに訊かれて思い出したことなんですけどね、先月辺りに電話で麻子とテレビドラマの話をしたんです。すごく盛り上がったから、次の週に電話したときも話題に出したんですけど、麻子は『そんな話したっけ』って言ってきて。前にした話、それも盛り上がった話なら忘れたことがなのに、なんにも覚えていなかったことがあったんです」

 お願いしたのは私ですが、主に鷹井さんたちに向けて話しているようで、敬語になっていました。話し終わったところで、天音さんが口を開きます。

「それがなんだっていうんですか? 単に母が忘れていただけでしょう。母の電話と関係ないじゃないですか」

 攻撃的な調子でした。ですが、すでに足首を掴まれているのは自覚しているはずです。ひるむことなく切り返します。

「関係あることは、あなたが一番理解しているはずです。三山さんと先月ドラマの話をしたのは、麻子さんではなく、“あなた”だったんですから」

 私の言葉に、天音さんが苦々しそうに唇を噛みました。その他は、また一様に動きを止めます。

「そりゃ、いったいどういう意味だ」

 ややあって、鷹井さんが尋ねてきました。すぐに答えます。

「簡単なことです。電話では顔が見えないことを利用して、天音さんは自分が麻子さんと勘違いされるかどうかを試したんです」

「はあ?」

 鷹井さんが、素っ頓狂な声を上げました。中村さんが冷静に、私へ疑問を投げかけてきます。

「確かに、同性の親子で声が似ることはありますが、勘違いなんてするでしょうか。めったに会話しない相手ならまだしも、三山さんは長い付き合いがある人です。そう簡単に間違えてしまうとは思えません」

 正しい意見でした。ですが、それは私の推理が“正しくない”証明にはなりえません。

「確かにおっしゃるとおりです。でも、ありえなくはありません。人間は本来、複数の感覚器官で物や他人を認識してます。でも、電話の場合は耳しか頼るものがない。わずかな違いでは、気づけないことが多々あります。それは、頻繁に連絡を取り合っている間であっても、例外じゃありません」

「ですが……」

 中村さんは納得しきれていないようでしたが、三山さんが決定的な証言をもたらしました。

「沙夜ちゃんの言うとおりだわ。今までに何回か、最初に電話を取ったのが天音ちゃんだったとき、言われるまで気づかなかったことが、何回かあった……」

 親友の娘を追い込んでしまう情報だからか、彼女はかなり表情を歪めていました。

「……だとさ。納得できなくても、現にあるなら反論の余地もない」

「分かってます。実例があるなら、疑念は解消です」

 警察官二人がそんなやり取りを交わします。もはや、天音さんの声は麻子さんのもの聞き違えることがあるというのは疑いようがありません。推理へ戻ります。

「おそらく天音さんは、その経験から今回の“トリック”を思いついたんでしょう。一ヶ月前に麻子さんになりすましたのは、それがうまくいくかどうかの下準備だった。そうですよね、天音さん」

 問いかけましたが、返答はありません。彼女は苦虫を噛み潰したような表情で、ただこちらを見るばかりでした。反撃しようにも、爪も牙も立てられないようでした。獣は既に、手足を捕らえられいるのです。

「つまりあなたは、こう言いたいわけですね。事件当日に日橋麻子から日橋天音にかけられた電話は……」

 と、中村さんが私に代わり、トリックの核心を口にしようとしていました。私個人は別にかまわなかったのですが、

「中村。今の主役は沙夜だ。脇役が推理を話す必要はない」

 それまでずっと黙っていた啓介が遮りました。普段、仏頂面の中村さんが、きょとんとした表情になります。私は私で、横目で啓介を見ながら苦笑しました。何も、そこまで徹底しなくてもいいと思うのですが。

「中村、今はお呼びじゃないってよ。沙夜ちゃんにこの場は預けとけ」

 鷹井さんが肩をすくめ、中村さんへそう言いました。彼女は釈然としないという感じで、鷹井さんへ顔を向けていましたが、しばらくしてあきらめたように息を吐くと、小さく「はい」と言って、私へ向き直りました。続きをどうぞということのようです。ありがたく受け取っておきます。

「えと、戻りますね。つまり私が何を言いたいかというと、事件当日に携帯越しに三山さんが話していた人物は、麻子さんを語った天音さんだったということです」

「あのとき電話で話してたのは、麻子じゃなくて天音ちゃんだった……」

 流れからさすがに察していたようで、驚きからではなく、信じたくないというように、三山さんは重々しくつぶやきました。

「そうです。あのとき、既に麻子さんは殺害された後だったんです。他でもない、天音さんによって。しかし、あなたは電話を使うことで、生存をでっち上げたんです」

 つまり私たちは、死体発見時ではなく、あの喫茶店で天音さんに会った瞬間、既に事件に巻き込まれていたのです。

「まず、頃合いを見計らい、私たちの視界に入らない場所、カバンの中かもしくは机の下で、あなたは持ってきておいた麻子さんの携帯から、自分の携帯へ電話をかけた。それからコール音で電話に気づいたふりをして、しばらくは一人芝居をしたんです。第一段階の刷り込みとでも言っておきましょう。事実、ここで私たちは、いもしない電話相手の存在を認識させられましたから」

 それだけ、彼女の芝居は自然でした。意識を向けてなかったからとはいえ、あの啓介の目すらかいくぐったのは、驚嘆に値します。

「実際はいない麻子さんと会話しておくことで、相手は彼女に違いないという意識を持たせてから、三山さんに電話を渡し、麻子さんの携帯を持ってお手洗いへ行った。麻子さんを演じて、三山さんと話すために。あのとき三山さんは、電話を受け取ってから、しばらく戸惑っていましたよね。どうしてですか」

「それは……、呼びかけたのに返事がなかなかなかったからよ。ちょっと待ってから、やっと声が聞こえたの」

 最後の方は消えてしまいそうな声でしたが、三山さんはしっかりと答えてくれました。

「その不自然な間が、あのとき電話の向こうにいたのは天音さんだったことを示しているんです。私たちの視界から出ないことには、麻子さんを演じることはできない。お手洗いにたどり着くまでの間は、どうしようもなかったんです。この、間があったことを思い出して、私は初めてあのときの電話を疑ったんです」

 普通に考えて、「代わるね」と言われたのに、一旦電話を離れるなどという行為はまずしません。となると、何か特別な事象があったとしか考えられないのです。

「そして最後に、『訪問者が来たから切る』と言って、電話を終わらせた。後は、何事もなかったかのように席へ戻り、私たちと一緒に家で麻子さんの死体を発見すればいい。それでアリバイは完成です。あなたは、生存を偽装したんです」

 リスクはかなり高いですが、三山さんのような自分が正しいと思い込みやすい人をうまく利用したトリックでした。以前、実際に麻子さんと天音さんを間違えたことがなければ、おそらく間違えるかもしれないというのを認めてくれなかったでしょう。居合わせたのが彼女だけであれば、電話にはなかなか目が向けられなかったかもしれません。京太さんの自首がなければ、そのうち捜査が及んでいたでしょうが。

「でも、だとしたら、携帯はどうしたっていうの? 麻子の携帯は、遺体のそばに落ちてたのよ」

 反論を口にしたのは、三山さんでした。なんとか、天音さんが犯人ではないのではという隙を作りたいようですが、冷静さに欠けています。

「忘れてるみたいですね、三山さん。私たちがこの家に着いたとき、天音さんだけ先に中へ入っていってます。そのときに遺体のそばに携帯を置いたんです。自分が使ったのがバレないように、わざわざ指紋を拭き取って。それから叫び声を上げて、私たちを中に来るようにしたんです」

 指摘されて、すぐに思い出したようで、彼女はまぶたを大きく持ち上げました。

 死体発見時、私たち四人は家へ同時に入っていません。天音さんだけ、先に上がったのです。麻子さんの携帯を置くために。

「台所にあった作りかけの料理も、天音さんが偽装工作のために用意したものでしょう。死亡推定時刻を踏まえると、殺害後に作る余裕はあまりなかったでしょうから、おそらくその前に途中まで料理を進め、麻子さんを殺害した。あなたは、あらゆる手を使って、彼女の死を誤魔化したんです」

 運も彼女に味方しました。死亡推定時刻は絶対とは言えないにしても、今の技術では相当に信頼が置けます。その予想時刻は、彼女の偽の連絡の後の時間も含んでいましたから。

「証拠は? あの電話が、お母さんからのじゃないっていう、明確な証拠はあるの?」

 隙を見つけたと言わんばかりに、天音さんは牙を剥いてきました。ただ、私に届きもしません。

「ありますよ。鷹井さん、今日の朝にも教えていただいたことを、もう一度お願いできますか」

「ん、ああ。紙を持ってきてあるから、それを見せる」

 呼びかけると、彼は平然とした様子で一枚の紙を机上へ出しました。

「こんなことを調べていたんですか。それも、上への報告もなしに」

 中村さんは、今初めて目にしたようで、睨みつけるように鷹井さんを見ました。ですが、彼はというと、

「始末書なら、何枚でも書いてやるさ。犯人さえ捕まえられれば。面倒だけどな」

 悪びれる様子もなく、

いけしゃあしゃあと言い放ちました。

「それで、これは?」

 脱線した話題を、三山さんがレールに戻します。無意識でしょうが、いいフォローでした。

「私が昨日頼んでもらった、麻子さんの携帯の発信記録です」

「発信記録?」

 三山さんが首をひねります。

「はい。重要なのは時間ではなく、住所です」

 手を伸ばして、指も真っ直ぐします。指し示したのは、電話番号や通話時間などではなく、経由したアンテナと大まかな電波の発信位置でした。街の名前が書かれています。

「これは、ここの周辺ではなく、駅前の区域の地名ですね」

 中村さんが、こともなげに言いました。もちろん、その重要さを理解したうえで。

「そうです。つまり、この家からの発信ではなかったということなんです。遺体を見つけたときの状況から見て、麻子さんが殺害されたのは間違いなく、ここから見えているキッチン。とすれば、死亡推定時刻の限度ギリギリまで会話していたはずの彼女が、ここ以外の住所の位置から発信できるわけがありません」

 彼女にとっては、致命的な情報でした。発信記録から言えば、麻子さんは電話を駅前でかけていたことになります。ですが、死亡推定時刻を考えると、そんなことはありえません。とすれば、あの電話は麻子さん以外の人間が、彼女の携帯を使ってかけたとしか考えられないのです。

 私は、全体を見渡していた目を天音さんへ向けました。

「電話越しでは、三山さんが麻子さんとあなたを間違えるというのは証明されています。あなたは、ありえない発信記録を説明できますか? そして、もし電話したのが自分だと認めるなら、どうしてそんなことをしたのか、納得できる理由を説明してみてください」

 一気にたたみかけます。彼女に説明できるはずがありません。

 そして何より、

「あなたが、自分の身を守る意味はないはずです。真犯人であるあなたが捕まるか、“親”としてあなたを怖れながらも、かばっている京太さんが捕まるかしかないんですから」

 彼女の目的は、もはや実現不可能でした。選択肢は、天音さんか京太さんのどちらかが捕まることしかないのです。京太さんが娘との間違いを怖れ、娘として愛していたために。

 長い沈黙が流れました。破ったのは、不気味な笑いでした。

「ふふふ……。あははははは!」

 天音さんが、座ったままで狂ったように笑いました。これくらいの狂気では動じない私と啓介を除き、全員が固まります。

「そうですね。そうなんですよね。こんな最悪な展開になるなんて、思ってもみなかったですよ。手に入れようとしていた人に庇われるなんてね」

 急に笑い声を上げるのを止め、彼女は高らかにしゃべりました。敬語ではあっても、タガがはずれたような様子でした。

「確かにそうでしょうね。でも、この展開はあることによって必然的なものになってました。なにしろ京太さんは、私たちよりも先に、麻子さんの遺体を発見してしまっていたはずですから」

「君たちより先に、京太さんが遺体を発見していた、か。確かに、現場に痕跡が残っていたことから、間違いないだろうな」

 私の言葉に、鷹井さんが食いつきました。私は首を縦に下ろします。

「はい。数々のものが、そのときの京太さんの動揺を示しています」

 ゆっくりと、私は話し出します。

「京太さんがこの家へ電話したのが、十七時すぎ。なんの用事だったのかは定かではないですけど、天音さんが出るかもしれない固定電話へかけたことと、電話した時間帯にこの周辺で目撃されていることから、おそらく元からここへ来るつもりだったんだと思います。でも、電話は繋がらなかった。そこで直接ここへ来たところ、麻子さんの遺体を発見した。こんなところでしょう」

 本人がいないので、確認のしようがありませんが、反論は出ませんでした。話を続けます。

「京太さんがどんな反応をしたかは、想像するしかありませんが、しばらくして彼は、今の状況は自分に疑いが向くということに気づいて、とにかく痕跡を消そうとしました。その結果が、あの壊されていた固定電話と、中途半端に消された指紋です。とりあえず自分が電話したことを隠して、指紋も消すことで、疑いから逃れようとしたんでしょう。動転と一刻も早く現場から離れたいという焦りのせいで、消しきれなかったみたいですが」

 京太さんが痕跡を消そうとした本当の理由は、犯人にされることそのものへの怖れではなく、それによって天音さんと一緒に住まなければいけなくなることだったのかもしれませんが、私はそこに触れませんでした。今や、分かり切っていることなのです。

「彼が、犯人はあなただと確信したタイミングは、正直分かりません。でも、間違いなく断定はしています。そうでなければ、愛していた人を殺害した犯人へ復讐を考えかねない彼が、自分から捕まったりはしないでしょう」

 そうしたのは、ひとえに犯人が彼女だったからに他なりません。

「彼が苦悩したであろうことは、容易に想像がつきます。愛する娘を警察に突き出すことも、ましてや手に掛けるなんてこともできない。かといって、三山さんが家に帰った後に訪れる二人での暮らしにある“間違いを犯してしまうかもしれない”状況も怖ろしかった。結果として、自分に向いた疑いを利用して、すべてを収めようとしたわけです」

「まったく、ついてないわ」

 私が解説を一段落させると、天音さんは吐き捨てるように言いました。

 私が話すべきことは、もうほとんど済んでいます。舞台のスポットは、然るべき人物に移さなければいけません。推理劇には必ず必要なものがあります。それを促すために彼女へ話を振りました。

「あなたは、どうしてお母さんを殺してしまうほどに、お父さんを愛したんですか」

 必要なのは、犯人からの言葉でした。今回の場合、動機は既に明かされていますが、本人から聞くというのが大事なのです。個人的な興味もありました。問われた天音さんは、私を見て目を細めます。

「愚問ですね。あなたは、藤山くんをなぜ愛しているのか、言葉にできるものだけで説明できますか?」

 声高らかに、答えてきました。見事な返しでした。私は、首を左右に振ります。彼女の本質は、私たちと変わりません。ただ、愛していたのです。他のものの価値がどうでもいいものになるほど、強く。私たちと違ったのは、愛したのが親であったのと、相思相愛ではなかったということでした。

「そうでしょう? 人によっては違うかもしれないですけど、愛情を抱くことに理由なんていらない。ただ、心で感じるだけなんですから」

 私の反応を見て、彼女は満足げに微笑みます。

「いつから、お父さんのことを異性として見ていたんですか」

 問いかけると、彼女はためらいなく話し出しました。むしろ、進んで話しているようにも感じます。

「小さい頃からですよ。昔からお父さんっ子で、お母さんも好きでしたけど、お父さんに対する感情の大きさは、比べものにならなかったです。物心着いた頃にはもう、お父さんを異性として見ていたくらいです」

 この部分も、私に似ていました。私も、気づいたときには異性として啓介に愛情を持っていました。

「でも、お父さんはお母さんのことを、とても愛してました。“娘”としての愛情は注いでもらえても、“女”としては、入る余地がなかったです」

 私と決定的に違うのは、ここです。啓介には、私しかいませんでした。また、私には啓介しかいませんでした。二人でいる以外の歩み方は、存在しなかったのです。彼女の場合、その道がありませんでした。

 だから彼女は、

「私にとっての唯一無二の人が、他の女のものになっているなら、奪い取るしか選択肢はないでしょう?」

 こんなにも、歪んでしまったのです。

「あなたも、もしそうなったら同じことをするでしょう?」

 行き過ぎた愛情を抱いた女の目が、私へ向きます。

「そうですね。もしそうなったら、私もあなたと同じことをすると思います」

「やっぱり。西野さんからは、同じ匂いがしたのよね」

 私の返答に、天音さんは同類を見つけたと言わんばかりに、口元に笑みを浮かべました。でも、すぐに引き締まります。

「ただ、簡単にはいきませんでした。さすがに、殺そうなんて最初からは考えてなかったですし、お父さんたちも早くから私の感情に気づいていて、警戒が強かったですから」

 時期を彼女ははっきりと言いませんでしたが、おそらくかなり前からでしょう。殺しを躊躇わせないほどになるまでは、時間が必要なはずです。

「私も、我慢強く粘りましたけど、両親は警戒を緩めませんでした。そればかりか、とうとう別居なんて手段に出てきたんです」

 京太さんたちからすれば、苦渋の決断だったでしょう。夫妻はかなり仲がよかったはずなのです。そうしなければならなかったというほど、二人にとって天音さんは脅威になっていたということになります。

「困りましたよ。そもそも、お父さんが家にいない状態になりましたから。お父さんだけが移り住んだアパートに押し寄せたりもしたんですけど、のらりくらりとかわされましたし」

 それでも、二人はどうにか彼女を“娘”で留めようと、手を尽くしたのでしょう、彼女を抑えることに成功していたようです。ただ、その抑止によって、彼女を暴走させてしまいました。

「私は、もう我慢が利きませんでした。お父さんを家に戻すにはどうしたらいいかを考え、私の方を向かせるにはどうしたらいいかを考え、結論として導き出したのが、お母さんを殺してしまうことでした。お母さんがいなくなれば、お父さんは確実にこの家へ戻ってきます。私のことを見てくれます」

 抑えつけていた分、彼女という獣は牙を鋭く研ぎすぎていたのです。その牙は、容赦なく敵へ、この場合は母親である麻子さんへと向けられました。

「この家を、私とお父さんの空間にできるはずだったんです」

 そうすることで彼女は、檻を作ろうとしました。家族であるがゆえに作ることができる、家という檻を。自らその中へ入り、さらに獲物である京太さんを入れ、閉じこもろうとしたのです。

 まさにそれは、獣の檻でした。

「それなのに、お父さんが犯人だと嘘の自白をして警察に捕まったことで、何もかもが意味をなくしてしまいました。私かお父さんが、この家からいなくなる展開しかなくなってしまった。絶望ですよ。あなたの言うとおり、もう、どうすることもできない」

 その企みは、他でもない愛していた京太さんによって、阻止されました。彼女の檻は、もはや作ることができないのです。

「本当に、バカみたいですよね。人殺しまでしたのに、得たかったものが手に入らなかったんですから」

「天音ちゃん……」

 三山さんが、弱い声を出します。天音さんが、殺人を後悔しているのかと思ったのでしょう。そうではないのに。

 事実、

「これなら、お父さんを殺した方がよかった」

 次に天音さんが放った言葉に、三山さんは顔を引きつらせました。

「そうじゃないですか? どうせ手に入らないなら、一緒に死んでしまった方が、まだ救われますよ。私以外を見ることはなくなりますから」

 若い彼女の狂気は、愛する人に対して直接的な歪みを持っていました。手に入らないのなら、他の人の手に渡らないように、命を取ってしまおうというものです。一番危険とは言えなくとも、かなりイカレているレベルでした。

 そんな彼女へ、問いかけます。

「一つだけ、訊かせてください」

「なんですか?」

「お母さんを殺したこと自体は、後悔していますか」

 天音さんは口元に微笑みを湛え、淀みなく答えます。

「いいえ、まったく」

「……そうですか」

 私が口にしたのは、それだけでした。何を言っても無駄でしょうし、綺麗事を言うつもりもありません。

「あなたなら、理解できるでしょう? 愛する人を手にするためなら、自分の母親を手に掛けられるほどの狂気を。あなたも同じはずだもの。独り占めしたいでしょう? 二人だけでいたいでしょう? 他に何も必要ないと思うでしょう?」

 反応が薄かった私へ、これでもかというほど、問いかけてきました。

「確かに、ところどころは合ってますけど、理解はできません」

「なんですって? どうして? あなたは私と同じはずじゃないですか」

 私が首を横に振ったことで、彼女の顔が訝しげなものに変わります。腰も浮かせて、身を乗り出してきました。

 自覚をしていないのでしょうか。彼女のした問いそのものが、私との違いを示していることに。

「いいえ、違います。現に、あなたは私ならしないことをしてます」

 その違いを、指摘します。

「どうして、私に同意を求めるんですか」

 瞬間、天音さんは息を呑みました。そうなのです。本当に他がどうでもよければ、私が同種かどうか、はたまた私が理解できるかどうかなんて、確認する必要がないのです。

「理解されない想いを、私に押しつけてこないでください。私と啓介は、あなたと決定的に違うんですから」

「どこが、違うんですか」

 こちらに挑むような目つきを向けてきます。

「簡単なことです」

 自然と、口角が上がりました。彼女へ向けて、言い放ちます。

「私たちはあなたと違って、互いに愛を手にしてますから」

 これこそがどうあがいても変えようのない、彼女と私たちの大きな違いでした。私たち二人の場合、他人からしたら意味の分からない考えも行動も、すべて私たちの中で完結します。わざわざ誰かに同意や理解を求める必要がないのです。世界が確立されているために。

「あなたのは、どれだけ狂ったところで略奪愛。お互いを縛り合ってる私たちの純愛とは交わりません。私は啓介に理解されれば、それでいいし、啓介は私だけが理解できればいい。他の誰のものも必要ありません。私たちに理解を求めた時点で、あなたの狂気なんてその程度なんですよ」

 さっきまで天音さんに向いていた関心は、すべて私にきていました。三山さんは目を見開いて完全に絶句していて、多少免疫のある警官さん二人も、真顔を繕っているものの、頬を引きつらせています。けれど、彼らがどう受け取っているのかに興味はありません。私はただ、訊かれたことに答えているだけなのです。

「あなた、おかしいわ」

 天音さんが、眼孔鋭くぼそりと口にしました。おかしな人からおかしいと言われるくらいですから、私たちは相当に普通の人からズレているようです。

「いったい、なんなのあなたたち」

 畏怖の念すら感じているのか、彼女は一歩後ずさりしました。同時に、私へ疑問を投げかけてきます。

 回答は、今までで一番簡単でした。

「ただの恋人同士です」

 たった、それだけでした。場の空気が急激に冷えたようにも感じましたが、気にとめるほどのことではありません。

「もう閉幕でいいでしょう。この後は、もう探偵の出る幕はありません。私は、人情的な人たちと違って、アフターケアはしてませんから」

 獣を鎖につないだ時点で、私の役目は終わりです。鎖を引いて、檻へと入れるのは、

「鷹井さん、お願いします」

 警察さんのお仕事です。ただ、そこには京太さんはいません。孤独な檻です。

「……ああ」

 鷹井さんは息を吐いてから、まだ私へ目を向けている天音さんへ近づき、

「殺人の容疑で逮捕。異議はないな」

 容赦なく手錠をかけました。天音さんは、一度だけ手首にある金属の輪へ目をやり、

「本当、最悪ですね」

 誰に向けたわけでもなく、一人つぶやきました。

「こっちが言いたいくらいだ。むちゃくちゃな動機すぎて、一ミリも理解できん。別に、できなくていいんだがな」

 鷹井さんの返しは、かなり投げやりでした。

「行くぞ、中村。もう、ここに用はない」

 それから彼は、中村さんに顎で立ち上がるように促しました。指示に従って、女刑事さんは腰を上げます。

「始末書は書くんですよね」

「言ったろ。事件が解決さえすれば、いくらでも書くって。まっ、誰かさんが報告しなければ、書かなくて済むんだけどな」

 彼の言った誰かさんは静かにため息を吐き、

「なら、ちゃんと書いてください」

「はいはい。お前が見逃すなんて言ったら、明日は雨だからな」

 あっさりと頼みを退けました。鷹井さんがそれを受けて苦笑した後、二人で私たちの方を見てきました。

「それじゃあ、俺たちはこれで失礼させてもらうよ。もう現場で会わないことを祈る」

「不本意ですが、ご協力感謝します」

 それぞれ言ってから、鷹井さんが天音さんの右腕を掴み、空いている手を背中に回しました。中村さんは、二人を先行します。

 去り際に、天音さんが私たちの方へ首を回しました。目はギラギラとしたままです。

「あなたたちは私と同じよ! なんにも違いやしない!」

 叫ぶ声が、家の中に響き渡ります。

「最後の咆哮ってとこか」

 長く口を閉ざしていた啓介が、たいして関心はないながらも、微かにつぶやきました。

「自分たちの“今”が盤石だから、違うなんて言える! 本質は変わらない! それだけは絶対よ!」

 そこまで言い終えたところで、鷹井さんが強引に前を向かせました。その後は、何も言ってくることなく、玄関から外へ連行されていきました。

 私たちが見た、最後の獣の後ろ姿でした。

「ふぅ……」

「お疲れ様」

 やるべきことを終え、肩の力を抜きました。啓介がすかさず私を抱き寄せてくれます。

「さすが沙夜だな。やっぱり、天性の才能がある」

「そんなことないよ。啓介の記憶力と観察力がなかったら、ここまで組み上げられなかったと思う」

 舞台の幕を閉じ、壇上を下りた私は、啓介と笑顔を交わしました。そこへ、客席に残っていた人からの声が入ってきます。

「盛り上がってるところ悪いけど、ちょっといい?」

「ふえっ?」

 完全に気が抜けていた私は、間抜けな声を出し、啓介の腕の中で、話しかけてきた人の方へ顔を動かします。

 警官さん二人と犯人である天音さんが退場した今、当然ながらその人物は三山さんでした。

「えっと、なんですか」

 啓介からは離れずに、返事をしました。三山さんは一度眉をひそめましたが、特に文句を口にしたりはしてきませんでした。代わりに、問いかけがきます。

「本当に、天音ちゃんが犯人なの?」

「はい。間違いないです。信じられないかもしれませんが、それが事実です」

 おそらく、天音さんが子供のときから見てきたために、まだ受け入れられていないのでしょう。それでも現実は変わらないので、私は断言しました。

「そう……。本人も認めていたから、頭では分かってるつもりなんだけど、どうしてもまだ心が納得していなくて」

 三山さんが目線を落とします。親友を殺害された彼女は、間違いなく犯人を恨んでいたはずですが、その犯人が、同じ被害者であるとまったく疑っていなかった親友の娘だったのです。行き場を失った怒りと、増大した悲しみとその他諸々が入り混じって、おそらく彼女自身でも整理できない心理状態になっているでしょう。

「私は……」

 うつむいたまま、彼女はポツリポツリと話し出しました。私たちに向けてのものか、独り言なのか、判別しづらい音量でした。

「私には、あなたたちも天音ちゃんも、理解できない。私は既婚者だから、旦那のことをなんだかんだ大切に思ってるけど、あなたたちほど極端な考えを持ってはない。ううん、持てない。他にも大切なものが、あるから。好きな人と比べても、切り捨てるのが難しいものが。あなたたちは、どうしてそんな簡単に、他はどうでもいいなんて言えるの?」

 どうやら、私たちへの問いかけのようです。私が答えようとしましたが、啓介が私より前に出てきたので、まかせることにしました。

「本当は無理に理解する必要もないんだが、分かりやすい例えを教えますよ」

「例え?」

「あんた、子供はいるか」

「いいえ。色々と事情があって、いないわ」

 顔を歪めたうえに、言葉に濁りがあったのは、おそらく事情というのが、何かしらの苦悩をもたらすものだからでしょう。身体的な問題か、もしくは過去に亡くしたかというところでしょうか。どおりで、親友の娘さんとはいえ泊まり込みで面倒を見たわけです。子供のいない彼女にとっても、天音さんはある意味、娘だったのです。

「そうか。なら、想像でいい。子供が一番大切だと思っている親は、たくさんいるだろ」

「それは当たり前じゃない。時には突き放すことが必要なこともあるけど、どんなことがあろうと、絶対に護りきるのが親だわ。理屈じゃない」

「それだよ」

「えっ?」


「理屈じゃないんだ。愛情なんてものは」


 啓介は、さらりと言ってのけました。さすがと言うべきでしょうか。

「親が子を護ろうとする愛情は、他のすべてを犠牲にしてしまうことがある。俺には、それが理解できないけどな。それと同じだ。俺は沙夜に対して、沙夜は俺に対して、そして捕まったあの女は実の父親に対してそういう愛情を持ってただけだ」

 啓介の口調は、淡々としていました。

「たとえ自分の肉親だとしても、別の人間への愛情が勝れば切り捨てる。そういうものだとしか言えない。ただ、何度も言ってるように、俺たちは理解を求めてない。分からないなら分からないで、そのまま放っておけ」

 言うだけ言ってから啓介は、私の方を向いて、手を握ってきました。

「行こう、沙夜。もうすることはない」

「う、うん」

 身体を引かれるままに、私は啓介と二人でリビングを出ようとしました。

「待って!」

 そこで、後ろから声で引き止められました。二人で振り向くと、三山さんが立ち上がってこちらを見ていました。

「最後に一つだけ教えて。どうして、あなたたちはこの事件を解こうと思ったの? 探偵と刑事の子供だから? 私たちに同情したから?」

 どこか必死さがありました。私たちの中に、理解できる部分を求めているのでしょう。それに応じることができるかどうか分かりませんが、私が答えを口にします。

「面白そうだったからです。非日常は、楽しいじゃないですか」

「なっ……」

 三山さんが絶句します。どうやらこれも普通からズレているようです。横から、啓介が付け足します。

「それに、探偵に事件は付き物だ。ただ解くべくして解いただけのこと。事件に対して探偵が動くことへの理由付けは必要ない」

 いつも通りの調子でしたが、有無を言わせない力強さが混じっていました。

「えっと……、私、探偵って言えるほど立派なものじゃないんだけど」

「探偵だよ、沙夜は。ちゃんと、真実にたどり着いただろ」

「それは、啓介の協力があったのもあるし、なによりたまたまだし……」

 私が横からウダウダ言うと、

「沙夜は探偵だ。俺が保証してやる」

 はっきりした口調で反論してきました。もう何度目か分かりません。それでも、納得はできないですが、

「そうかなあ……。でも、ありがと」

 お礼は言っておきます。それだけ、啓介が私の探偵としての能力を信用しているということですから。

 そんなやり取りを交わして、今度こそリビングを後にします。もう、呼び止める声はありませんでした。




 こうして、許されない恋に捕らわれた哀れな獣の引き起こした事件は、幕を閉じました。彼女の賭けの結果は、惨敗。罪を承知で牙を剥いたのに、何一つ手に入れられず、終わりを迎えたのです。

 獣の檻は、完成しませんでした。

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