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獣の檻  作者: ブナ
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四章 状況展開

 もうすぐで日橋さんの家というところで、再び携帯が鳴りました。すぐに出ると、

『西野さん! 今、どこですか!?』

 天音さんのうわずった声が聞こえてきました。何事でしょうか。

「天音さんの家のすぐそばまで来てますけど。どうかしましたか?」

『お父さんが、お父さんが!』

「落ち着いてください。京太さんが、どうしたんですか?」

 彼女の慌てぶりは、尋常ではありません。さっき会ったときの静かさとは、かなりかけ離れていました。

『お父さんが、警察に連れてかれそうなんです! お母さんを殺した犯人だって!』

「えっ?」

 聞いた瞬間、私は思わず歩を止めました。啓介が訝しげに目を細くします。

『と、とにかく早く来てください! お父さんが連れてかれちゃう!』

 最早、悲鳴に近い言い方でした。

「わ、分かりました。すぐに行きます」

 唐突な展開に頭はついていっていませんでしたが、とにかくそう答えて、携帯を切ると、

「なんか、大変なことになってるみたい! 急ごう、啓介!」

「分かった。行こう」

 啓介に呼びかけ、二人で走り出しました。




 日橋さんの家の前には、以前見たことのある、鷹井さんの車が止まっていました。車体の上には、テールランプが乗っています。

 と、玄関から何人か出てきました。先頭には中村さんがいます。その後ろには、

「あれは……」

「大変なことって、こういうことか」

 剣路さんと鷹井さんに両脇を固められた、京太さんの姿がありました。手錠はかけられていないようですが、うつむいているところから察するに、逮捕と見て間違いなさそうです。

「剣路さん!」

 とりあえず後先考えずに、彼を呼び止めました。こちらに顔が向けられます。私たちを認識すると、渋い表情になりました。車に向かっていた足が止まります。

「啓介に、沙夜ちゃん。なんでここに」

 剣路さんから尋ねられましたが、

「これはいったい、どういうことですか? 京太さんを逮捕するというのは、本当ですか?」

 無視して、逆に質問しました。剣路さんは何か言いたげに、口をわずかに動かしましたが、

「本当です」

 声を出す前に、中村さんが私たちに答えました。

「どうして!」

 なぜ逮捕に踏み切ったのかという意味です。中村さんもそれを察してくれましたが、

「あなた方に話す必要はありません。そもそも、話せることでもありませんし」

 堅物である彼女が教えてくれるはずもありません。期待を込めて、鷹井さんに目を向けます。

「俺を見られても困るよ」

 しかし、彼も肩をすくめただけで何も教えてくれませんでした。冷静に考えて、剣路さんという監視の目があるのですから当たり前です。

「ほら、聞いたとおりだ。話せることはない。どいてくれ、沙夜ちゃん。啓介も」

 その剣路さんが、あごでどくように言ってきます。

「……嫌です。ちゃんと、理由を教えてください」

 ですが、私は首を横に振りました。退くわけにはいきません。なぜなら、私の頭には、京太さんが犯人とは考えがたい推理が組み上がっているのです。相応の証拠がなければ、納得がいきません。

「はぁ……。啓介ならともかく、沙夜ちゃんにこんな食いつかれるとは」

 剣路さんは右手で頭を抱えてから、私に向き直り、

「リビングにあった指紋と、京太さんの指紋が一致したんだよ。おまけに、壊れていた固定電話のデータを修復したら、彼からの留守電が残っていた。時間は昨日の午後十七時すぎ。ちょうど、天音さんが家を出た後だ。内容は分からなかったが、おそらく家を訪ねるとか、そんなところだろう。さらに、昨日の十七時から十七時半にかけて、多くの周辺住民に目撃されている」

 逮捕に踏み切った理由を、次々と上げていきました。しかし、どれもイマイチ決定打とは言えません。そこに反論しようと思いましたが、その前に絶対的な決め手を突きつけられました。

「それどころか、本人の自白がさっきあった。逮捕するのに、これ以上の条件はないだろ」

「自白!?」

 自分の耳を疑いました。証拠が十分でない決めつけでの逮捕ならともかく、本人が犯行を認めてしまっていては、たとえ彼が犯人ではありえないと思える推理を持っていても、どうしようもありません。“日橋さん夫婦が本来どんな関係であったか”だけ分かっていても、自白は覆しようがないのです。

「分かったら、どいてくれ。何をしていたのかはだいたい想像がつくが、事件に素人が首をつっこむもんじゃない」

 剣路さんがこれで十分だと言わんばかりに肩をすくめ、私を見ます。どけということでしょう。

「動機は」

「ん?」

「動機は、なんなんですか?」

 それでも私は、最後の抵抗を試みます。推理どおりであれば、京太さんに麻子さんを殺害する動機はありません。

「奥さんと金のトラブルがあって、そのことで揉めたそうだ。で、口論の末、怒りで我を忘れ、気づいたら殺害していた。もういいだろ。通してくれ」

 粘った結果、ようやく一つの綻びが出てきました。はっきりと、否定を口にします。

「それはないと思います」

「なんだって?」

 私の言葉に、剣路さんが顔色を戻しました。再びシワが出ます。隣でうつむいている京太さんは、肩を震わせたように見えました。

「京太さんと麻子さんは、お金の問題で相手を殺すような間柄じゃありません」

 ためらうことなく続けました。剣路さんが苦言を呈します。

「あんまり、でたらめを口にするものじゃない。何を根拠に言ってるんだ」

「端々に見られる、二人の生活の跡です」

「生活の跡?」

「はい」

 首を縦に下ろしました。彼に対して、人差し指を立てます。

「第一に、麻子さんの携帯に残っていた、頻繁な京太さんとの連絡記録です」

「金の問題について、話をしてただけだろう。なかなか折り合いがつかなくて、回数が増えただけだ」

 私の上げた要素を、剣路さんは京太さんが犯人であるという仮定を持って解釈します。しかし、そうとは思えません。

「確かに、大量の通話記録だけだと、そうも考えられます。けれど、第二にある、飲食店での二人の様子を加えると、まったく見方が変わるんです」

 すでに伸ばしてある人差し指に、中指を加えます。

「どういうことだ?」

 警察さんは、まだ探し当てられていないのでしょう。剣路さんは、訝しげに表情を歪めます。

「京太さんたちが月に一度、食事に行ってたことは知っていますよね」

「当たり前だ。むしろ、なんで君らが知ってるんだ」

「天音さんから聞きました。それより、重要なのは私たちが今日、偶然に見つけたとある飲食店の店員さんの証言です」

「飲食店? どこの、なんという人ですか」

 いつも捜査には関わらせないようにする中村さんですが、私たちの能力を認めている節があるためか、重要という単語に反応しました。啓介が、店名と店員名を伝えるのを待ってから、私は話を再開しました。

「その人によると、天音さんがいるときは不仲に見えた京太さんと麻子さんが、天音さんがトイレに立っている間は、親しく話していたそうなんです」

「親しく話していた?」

 剣路さんは寝耳に水だったのか、今度は顔をしかめず、目を見開いて驚きを外に出しました。

「そうです。これらから導き出される結論は、一つしかありません」

 彼の顔は私より上にありますが、真っ直ぐに見据えました。

「京太さんと麻子さんはなんらかの理由で、本当は仲がいいのに、まるで仲が悪いかのように振る舞っていたんです」

 私が見つけ出した、夫婦の矛盾の理由はこれでした。疎遠になり、仲が悪いように見えていた夫婦は、実際はまったく逆で、仲がよかったのです。

「本当は、仲がよかっただと?」

 私が示した推理に、剣路さんは声を大きくしました。

「はい。他にも根拠があります」

 さらに続けます。鷹井さんと中村さんは口を半開きにして顔を見合わせ、京太さんは変わらずうつむいていました。

「先に細かい部分を言えば、昨日の麻子さんの死を確認して以降の京太さんの態度です。一見、無関心な態度にも見えましたが、拳を強く握っていました。それに、三山さんに詰め寄られることがあったんですが、その時に、握りが強くなったのを啓介が確認してます。麻子さんの死を、悲しんでいたからです」

 昨日、事情聴取を待っている間に見た、京太さんの様子を思い出します。あのときの彼の態度も、矛盾がありました。

「大きいのは、さっきも話に出した、麻子さんの携帯に残されていたデータです。連絡が密であったことが示すのは、お金の話がこじれていたということではなく、それだけ仲がよかったということなんです」

 仲がいいと仮定すれば、別居中である夫婦という情報と矛盾していた部分が、簡単にほぐれていき、逆に証明の材料にもなります。

「それに、私が天音さんと三山さんからもらった証言から、連絡を取り合っていた理由の一つが推測できます」

 言いながら、そういえばその二人の姿がないことに気づきました。私に電話してきたのは天音さんですから、彼女は間違いなく家にいるはずです。どうして、外に出てきていないのでしょうか。不思議に思いつつも、先を進めます。

「まず、天音さんの証言によると、麻子さんはよく一人で出かけていたそうです。一番最近だと、先週の日曜日の夜。どこに行ったのかは、知らないとのことでした。そして三山さんは、同じく先週の日曜日に麻子さんと話した際、彼女は元気な声を出していたと言っていました。時間は昼過ぎです」

「その二つが、どうしたって言うんだ」

 剣路さんの中では、二つの証言が結びつかないようでした。イライラした様子で、先を促してきます。

「分かりませんか? 二人の仲が良好であったとすれば、二つが交差するはずです」

「交差か。なるほどな」

 一番に気づいたのは、啓介でした。啓介にチラッと目を向けてうなずき、正面に顔を戻します。

「つまり、麻子さんの機嫌がよかったのと、外に出たのは同じ日なんです。私の予想ですが、たぶん一週間以内に京太さんに電話をかけていると思います」

「京太さんに電話……。まさか」

 中村さんが私の導き出した答えに辿り着いたようで、声を出しました。

「そう。この間の日曜日、麻子さんは京太さんと二人で食事をするために、出かけていたんです」

 二つの証言の交差点は、これでした。

「夫婦仲がいいのに、なんらかの理由で一緒に生活することはできない。ともすれば、頻繁に連絡を取って会う約束をしていたと考えられます。そこで、二人の証言を照らし合わせると、日曜日の昼過ぎ、夜にある京太さんとの食事が楽しみで麻子さんは元気だった、そして予定どおり、夜に家を出た、というようになるんです」

 麻子さんがたびたび一人で出かけていたのは、京太さんと会う約束を頻繁にしていたからで、三山さんが電話したときに時たま上元気だったのは、その日が京太さんと会う日であったからだと、私は考えたのです。ただ、この推理が抱えた欠点は大きすぎました。

「証拠は?」

 剣路さんのこの非常に短い一言が、あまりにも致命的でした。京太さんの態度や、麻子さんの携帯に残された記録から、絶対的には夫婦仲のよさを証明できないのです。別の理由がある可能性を捨て切れません。一応、複数の要素を組み合わせたものではありますが、推理に合致する情報が増えたからといって、他の可能性を潰せるようなものは手持ちにありませんでした。なんとか、できるかぎりの抵抗を試みます。

「正直に言って、確かなものは一つもありません。日橋さんたちが、どうして仲の悪い振りをしていたのかも分かりません。ですが、私の推理が間違っているとしたら、どうしてお二人の行動に多くの矛盾があるのか説明がつかないんです。そしたら、夫婦仲はよかったと考えてみるべきで、お金のトラブルで殺人に至ったというのは、不自然になると思います」

「そうかもしれないが、そうではないかもしれない。君の推理は、筋は通るけど絶対じゃないな。証拠がなければ、ただの思い込みだ。君だって、それは分かってるだろう」

 ですが、やはりあっさりといなされてしまいました。アリバイもなく疎遠になっていた京太さんが、最有力の容疑者になるのは読んでいましたが、自白はあまりに想定外でした。何も返し手がなく、唇を噛んでうつむきます。

「終わったのなら、早く行きませんか、刑事さん」

 聞こえたのは、低く重たい男性の声でした。顔を上げるまでもありません。京太さんです。

「ええ。行きましょう。沙夜ちゃん、どいてくれ」

 剣路さんが同意し、三度私に道を開けるように言ってきました。頼んでも京太さんとは話させてもらえないでしょうし、これ以上引き止めても意味がありません。身体を引きました。

 そのとき、玄関のドアが勢いよく開けられました。その場にいた、全員の目がそちらに向きます。

「お父さん!」

 天音さんでした。大粒の涙を流し、京太さんの背中に顔をつけます。

「嘘でしょ? お父さんは犯人なんかじゃない。行かないでよ。犯人じゃないって言ってよ!」

 突然の出来事に、誰も反応できませんでした。ただ、目の前の光景を見ています。

「やめなさい、天音ちゃん!」

 膠着を解いたのは、後から出てきた三山さんでした。京太さんにひっつく天音さんを引きはがそうとします。

「離して! お父さんは犯人なんかじゃない!」

「お父さんが自分で認めたことよ! あなたが何を言っても、どうしようもないわ!」

「うるさい! とにかくお父さんは犯人じゃないの!」

 天音さんは聞く耳を持ちません。京太さんの服の背を握り、抵抗しました。京太さん本人は、最初に驚いた顔をしたものの、すぐにうつむき、ずっとそのままです。

「くっ、三山さんじゃ止められなかったか。中村、天音さんを抑えろ。その間に、俺たちは車まで行く」

「分かりました」

 剣路さんの指示に従い、中村さんが天音さんの方へ行き、三山さんと一緒に彼女を京太さんから離します。今のやり取りから察するに、天音さんが外にいなかったのは、必死に三山さんが食い止めていたからのようです。

「離してよ! お父さんは関係ない! 離せ!」

 それにしても、天音さんの取り乱しようは異常でした。確かに京太さんは、親戚を除くと、彼女にとって唯一の家族なので理解できなくもないですが、これまでの彼女の印象とはかなりかけ離れていました。

「行くぞ」

「はい」

 剣路さんと鷹井さんが、私と啓介の横を通って、車へ向かいます。振り返って、乗り込むところを見ていました。

「もういいぞ、中村! 来い」

「はい」

 窓から顔を出した剣路さんの呼びかけに応じ、中村さんが天音さんから手を離して、急いで車へ行きます。

「離せ、離せー!」

 抑えるのが一人になったため、天音さんの暴れ方が激しくなります。案の定、三山さんは振り解かれました。お尻から地面に倒れ、「痛っ」と声を上げます。

「お父さん!」

 そちらには目もくれず、天音さんは車へ駆け寄って行きました。しがみつくように、ドアを叩きます。

「連れて行かないでよ! ドアを開けて! 開けろ!」

 彼女が接近しすぎているため、車は出せなさそうでした。今は、警察に行かせて鷹井さんからの情報を待った方が得策だと考えている私は、

「啓介、天音さんを抑えてきて」

「了解」

 啓介にそう指示しました。

 啓介が車へ歩いていき、天音さんの腕を後ろから掴みました。仕方なしとはいえ、他の女が触れられているところを見るのは不快です。

「何よ! 離して! あんたたちまで、お父さんが犯人だって言うの!?」

「そんなことは言ってない。けど、今は反論のしようがない。ここで騒いでも、今はあんたの父親の無実を証明する方法がないんだよ。時間を無駄にするだけだ」

「うるさい! そんなこと知らないわよ!」

「だろうな」

 冷静さを失っている人間に説得を試みるのは、無駄な労力だと分かっているので、啓介はさっさと強硬手段に出ます。掴んだ腕を引っ張り、無理やり車からはがしました。京太さんを乗せ、発進します。

「お父さん! お父さーん!!」

 バタバタと暴れながら、叫びます。しかし、車が止まったりすることはありません。すぐに見えなくなりました。押さえる必要がなくなり、啓介が手を離します。彼女は、その場に座り込みました。

 私は、背後で尻餅をついている三山さんの方へ振り向きました。

「大丈夫ですか、三山さん」

「ええ。大丈夫、大丈夫。それより、天音ちゃんの方が心配だわ」

 お尻をはたきながら、立ち上がります。門のところで、生気が抜けたように固まっている天音さんに、目をやりました。

「そうですね」

 彼女の意見に、私は同意しました。あれほどの取り乱しぶりだったのです。お父さんが連れていかれてしまった今、天音さんの状態は気がかりでした。

「とりあえず、行ってみましょう」

「そうですね」

 私と三山さんは、門のところに崩れ落ちている天音さんの下へ行きました。

「啓介、ありがとう」

「おう」

 啓介と軽いやり取りをしてから、天音さんに関心を移します。

「お父さん……」

 彼女は、足下を涙で濡らしながら、つぶやいていました。今は、何を言っても無駄そうでした。

「三山さんは、以前にもこんな状態の天音さんを見たことありますか?」

「いいえ。こんなに取り乱したところは、初めて見る」

 放心状態の天音さんの隣にかがみながら、三山さんは答えました。片手を天音さんの肩に置き、もう片方で頭を優しくなでます。

「三山さん、私の推理は聞こえてました?」

「沙夜ちゃんの推理?」

 推理という単語に、彼女は眉をひそめました。どう思ってるのかは一旦置いておくとして、どうやら聞いていなかったようです。

「はい、実はですね……」

 私は手短に、剣路さんたちへ話した推理と根拠を説明しました。

「あの人が?」

 ひと通り話し終えると、三山さんは顔をしかめました。予想はしていましたが、信じられないようです。

「ありえないわ。麻子からも、そういうことは一回も聞いたことがないし」

「なら、京太さんへの不満は聞いたことありますか」

「そりゃもちろん……」

 言いかけて、三山さんは固まりました。

「ないみたいですね」

 彼女は何も言い返してきませんでしたが、それが肯定を示していました。

「それじゃあ、もう一つだけお聞きします。京太さんと麻子さんが、わざわざ仲の悪いフリをしなければならなかった理由は、何か思い当たりませんか」

 続けて尋ねます。彼女は、少し考えた後、

「いいえ。それに、そもそもわざと不仲を装うなんてことがあるとは思えないわ」

 首を横に振って、否定しました。

 確かに、一理あります。日橋さん夫妻は仲がよかったかもしれないという推理は、手に入れた情報から組み立てられますが、普通の考え方であれば、不仲を演じるような理由など存在しないのです。

 ただし、あくまで“普通なら”です。

「それがあるんですよ、たぶん。不仲でなければならなかった、普通ではありえない理由が」

 逆に言えば、そういうことなのです。そして私には、絶対と言いきれないものの、何かあるはずだという、確信に近いものがありました。

 三山さんは、何か文句がありそうな感じで私を見上げていましたが、思いつく言葉がないようで、

「とにかく、天音ちゃんを家の中に運びましょう。藤山くん、手伝って」

 話題を変えました。啓介に顔を向けます。

 しかし、私はそれを止めました。

「待ってください。私が手伝います」

「沙夜ちゃんが? でも、力のある啓介くんが支えた方が……」

「いいですから。早く運びましょう」

「え、ええ」

 急に強硬な態度をとったために、三山さんは戸惑いを見せました。私は気にせず、天音さんを挟んで反対側にかがみ、肩を持ちます。二人で、身体を持ち上げて支えました。玄関へ向かいます。

 私が自分から支えを申し出たのは、簡単な理由です。啓介をこれ以上、他の触れさせたくなかったからでした。




 私たちは放心状態の天音さんを家の中に運び、二階にある彼女の部屋へ入れました。ずっと泣いていましたが、やがて眠ってしまいました。放っておいても大丈夫だろうということで、私たちはリビングへ下りました。

「ふう。しかし、本当にあんな荒れるなんて思わなかったわ」

 イスに腰かけた三山さんがまず口にしたのは、さっきも言っていた驚きの感情でした。

「あの反応だと、天音さんはお父さんのことがかなり好きだったみたいですね。三山さんは、ご存知でしたか?」

「いいえ、まったく。むしろ、嫌ってるのかと思ってた」

 なんとなく予測がつきますが、

「どうして、そう思ってたんですか?」

 一応、根拠を尋ねました。

「どうしてって言われても、麻子の方にいたんだから、そう思うじゃない」

 やっぱり、明確なものはないようです。どうにもこの人は、思い込みが多すぎます。頭を押さえました。

 とはいえ、そこをぐだぐだ言っている状況でもありません。別の話題を始めます。

「えっと、じゃあ、天音さんと麻子さんの仲はよかったですか? さっきの様子だけ見ると、お父さんの方が好きそうですけど」

 昨日、今日と、お母さんの死に対して沈んでいる様子はありましたが、わりと落ち着いていました。ですが、さっきはまるで逆です。慌てふためいていました。

「そんなわけない……、って言いたいところだけど、あれを見た後だと、ぐらつくわね。とりあえず、あの子と麻子の仲は良好だったとは、はっきり言える」

「良好、でしたか」

 母と娘なので、さほど不思議なことではありません。三山さんが話を続けます。

「よく母娘で出かけていたみたいだし、麻子から何度も微笑ましい話を聞いた。あれで、仲が悪いってことはないと思うわ」

 今度は、本人から直接聞いているようなので、まだ信頼できそうです。

 だとしても、疑問は拭えません。天音さんの反応の差は、いったいどういうことなのでしょうか。まったく答えが見えません。

 とにかく、まずできることからやるしかなさそうです。

「三山さん。ちょっと、お願いしてもいいですか?」

「何かしら?」

「麻子さんの部屋の中を、見せてもらっていいですか?」

 現状できそうなのは、これくらいでした。京太さんについては、鷹井さんからの連絡を待つしかありません。夫婦仲が悪いフリをしていた理由に関しては、まだ取っ掛かりもありません。

 警察の手が入った後ですが、麻子さんの部屋を見るのはその取っ掛かりを探す一つの手段でした。

「うーん……」

 三山さんは、しばらく判断しあぐね、

「いいわ。本当は、天音ちゃんに確認したいところだけど、あの状態じゃ無理だろうし」

 心からの賛同ではなさそうだったものの、許可はしてくれました。腰を上げます。

「ありがとうございます」

 私は頭を下げ、啓介と目を合わせてから二人揃って立ち上がりました。リビングを出て行く三山さんに続きます。

 天音さんの部屋は、私たちが昨日、取り調べの順番待ちをしていた寝室でした。パッと見た感じ、変化も奇妙な点もありません。

「あらかたは警察の人が調べてたから、あんまりたいしたものはないかもしれないわよ?」

 こちらを向いて、三山さんは確認してきました。うなずきます。

「分かってます」

 選びうる手段が少ないがゆえの行動です。元から、さほど期待はしていません。

「始めよう、啓介」

「ああ」

 私たちが声を掛け合い、部屋の奥へ歩き出したところで、

「待って。私も手伝わせてもらうわ」

 扉の三山さんが、前に出てきました。

「別に、気を使わなくても大丈夫ですよ。下で、ゆっくりしててください」

 暗に、出て行ってほしいというニュアンスを込めました。私と啓介の二人だけで十分な場面に、他の人が入ってくるのは非常に不快です。

 しかし、これまでの彼女の行動、言動から予想できたとおり、

「遠慮しなくていいわよ。私も、何かわかればと思うし」

 まったく理解していませんでした。

「気持ちは分かりますが、出ていていただけませんか。どうせ俺は全部目を通すつもりですし、あまり荒らさないでほしいんですが」

 啓介が、ほんのわずかイライラした感情を声に含みます。言葉にも、棘がありました。

「そう言わないでよ。私に許可を求めたんだから、一緒に作業するくらいいいじゃない」

 それでも彼女は、自分がこの場に求められていないことを自覚しませんでした。なかなか動じない啓介でさえ、頭を抱えます。

「どうしたの? さっさとやりましょう」

 いつの間にか、主導していました。私も、ため息をつきます。

 仕方なく、三人で手がかりを探し始めました。




 十五分ほど探したところで、

「沙夜」

 本棚の辺りを探っていた私に、啓介が呼びかけをしてきました。

「何かあった?」

 振り向くと、啓介は化粧台の近くにいて、何かメモのようなものを握っていました。

「これ、見てくれ」

 軽く腕を上げて、示してきます。言われたとおり見てみると、やはりメモでした。ただ、人為的に千切った痕があります。ようするに、切れ端でした。

「これって……」

 啓介から受け取り、見てみると、そこには二行に分かれて、『た。どうすればい』『たら殺され』と、それぞれ文の途中が切り取られていました。

「日記の一部かな」

 行線があったので、そう思ったのですが、啓介は首を振りました。

「いや。日記はこの部屋になかった。それはたぶん、これの一部だ。途中に、ページを切り離したところがあった」

 私に示したのは、大学ノートでした。どうやら、落書き程度に絵を描くのが趣味だったようで、中にはラフ描きで景色だったり人間だったりがありました。啓介がページを捲り、そのなくなっている場所を開きます。確かに、人の手で破られた後がありました。

「この切れ端はどこから?」

「化粧台の下だ。たぶん、手でバラバラに千切って捨てたんだろう。ゴミ箱は空だったから、もうゴミ出しされて、場合によっては燃やされ済みだな」

 元のページの復元は、非現実的なようでした。人手を回せるなら、ゴミ処理場も漁れますが、私たちには不可能です。早々にあきらめて、手元にある切れ端に残った文字に注目します。

「何か見つかったの?」

 私たちが寄り合っているのに気づいたのでしょう、三山さんがクローゼットから離れこちらに来ました。

「はい。これです」

「紙切れ?」

 私が渡したものに、最初は顔をしかめましたが、書かれた文字を見て顔色を変えました。

「こ、これって、どういうこと?」

「まだ分かりません。ページ全体はもう失われていて、元の文章を見るのは無理そうなので、それだけを頼りに今から考えます」

 事務的に答え、

「先に一つ訊いておきたいんですけど、麻子さんから、誰かに殺されそうだとか、そういう類の話を聞いたことはありますか」

 続けて、質問をしました。皮肉ですが、ここは彼女がいて助かりました。わざわざ部屋を出て、訊きに行く必要がありません。

「とんでもない。そんなの、聞いたことないわ。私が会ってきた中でも、一、二を争うくらいにいい子で、人に恨まれるような性格じゃないし」

 無条件には証言を信じられない人ですが、とりあえず彼女によれば麻子さんは、恨みを持たれるような人ではなく、殺されるかもしれないというような様子もなかったということです。

「この文字が本音だったと仮定して、周りには話していなかったみたいだな」

 啓介が私の考えを代弁しました。

 麻子さんと三山さんは、これまでの印象から鑑みるに、かなり親しかったはずです。それでも知らないとなると、後は家族くらいしか当てがありませんが、今はどちらからも話を聞ける状況にありません。手詰まりでした。

 仕方なく、別のアプローチを考えます。さほど時間が経たないうちに、私はこの切れ端自体に引っかかりました。

「どうして、破られてるんだろ?」

 そばにいた二人が、私に目を向けてきます。

「紙が破らてるのが、そんなにおかしいのか?」

 尋ねてきたのは、啓介でした。顔を向け、答えます。

「私は変だと思う。だって、本来は趣味に使ってるノートに書いたくらいだよ? 私たちの想像どおりなら、麻子さんはかなりの危機を感じていたために、この文を書いたことになるはず。けど、実際は破り捨てちゃってる。自分用のノートのはずなのに、どうしてわざわざそんなことをする必要があるの? もしかしたら、犯人へつながるヒントになったかもしれないのに」

 自身の危険を綴った文章を消し去ったというのが、どうしても疑問でした。自分一人の悩みを書き出しただけなら、ページを破る必要性はないはずです。

「途中で何を書いているんだろとかって急に思って、気が変わったんじゃないか?」

 啓介が反論してきます。ですが、肯定できません。もっと別の理由がある。私にはそう思えて仕方ありませんでした。

 誰に見せるわけでもない個人用のノートから、ページを切り取ってしまった事情。どんなものがあるでしょう。考え込みます。

 さっきの啓介の意見を否定するならば、次に一番ありそうな理由は、

「誰かに読まれると困るものだった……?」

 突然つぶやいたためか、二人がこちらを注目してきました。啓介が口を開きます。

「誰かって、例えば?」

「天音さんとか」

 この家の中で書かれたものですから、京太さんと別居中だったことを踏まえると、読ませたくない相手は彼女に限られてきます。

「もしかしたら、天音さんは普段から時々ノートを見ていて、麻子さんは娘さんに余計な心配をさせたくなかったから、ページごと文を消したのかも」

 多少、強引な説を上げます。自分で言っておいてなんですが、違う気がしました。

「なるほど。一応、理屈は通るな。本人への確認は、まだできそうにないけど」

 啓介は一定の理解を示しましたが、私の心中には何かモヤモヤしたものがありました。

 本当に、天音さんに見せたくなかったからとかという理由でしょうか。

 頭の中で、思考の方向性を変化させます。この部屋にあったイラスト用のノートに触れる人間は、天音さん以外に誰がいるか。

 思いついた相手に、首をひねりました。なぜ、彼らに対して、犯人かもしれない人物を隠す必要があるのでしょう。そもそも、読まれる前提などあったのでしょうか。

 しかし、普通ありえなくても、今回の事件は夫婦の関係からして異質です。考えを止めるには早すぎます。

 なので、さらに深く考えます。彼らに、犯人を知らせたくない理由。思いつくのは、せいぜい……。

「まさか……」

 思わず、感情が口から零れます。

「どうした、沙夜。何か分かったのか」

 啓介が反応し、私に顔を向けてきます。

「ううん。推測ができただけ」

「推測?」

「もしかしたら麻子さんは、天音さんじゃない、ある人たちに見られたくなくて、このページを破いたのかもしれない」

「ある人たちってことは、複数なのか」

「うん。でも、どっちかというと、不特定多数、って感じかな」

「不特定多数……」

 静かに、啓介が繰り返します。私の頭にある人たちに思い至らないのでしょう。難しい顔をして、黙り込みました。

「誰なのよ。その不特定多数って」

 代わりに、三山さんが追及してきました。「自信はないんですが」と、前置きしてから、

「自分が殺された後、訪れるであろう人たち、つまり警察の人たちです」

「警察ー?」

 私の回答を聞き、彼女は素っ頓狂な声を上げました。冷静な表情を繕っていますが、啓介も驚いていました。頬の筋肉がほんの少しだけ硬くなったのです。

「はい。天音さん以外に文を見られたくない相手を考えると、選択肢の一つとして警察の人たちがあるんです」

 遺品の整理という機会を持つ京太さんたちよりも先に警察の人たちを挙げたのは、目にするであろう順番の問題でした。麻子さんが殺害された場合、現場検証など、捜査中に彼女の持ち物が調べられる可能性があったのです。

「仮に麻子がノートを破った理由がそうだとして、どうして警察に見られたくなかったのよ?」

「それは……」

 私は言葉に詰まりました。分からなかったから、ではありません。

 ですが、

「まだ分かりません。あくまで、思いついたことを言ってみただけですから」

 自分の頭にある考えを表に出さず、首を横に振りました。

「何よ、それ。根拠がないなら、突拍子ないこと言わないでよ。驚いて、寿命が減るわ」

 最後の部分が引っかかったのか、啓介はかなり胡散臭そうな顔を彼女へ向けました。殺しても死なないだろとか、言いたげです。思わず、苦笑してしまいます。

「何、笑ってるの、沙夜ちゃん?」

 それがバレて、問われました。両手を身体の前で振ります。

「あっ、いえ、なんでもないです」

「ならいいけど」

 しつこく訊いてこなかったので、助かりました。ほっと、胸を撫で下ろします。

「それじゃあ、作業に戻りましょう。他にも、何かあるかもしれません」

「そうね」

 私の言葉に、彼女は同意を示しました。啓介には目だけで確認して、三人で捜索に戻りました。

 結局、あのノートの切れ端以外、何も出てきませんでした。片付けをした後、私はお礼を言って、啓介と日橋さんの家から去りました。




 帰り道、日橋さんの家から十分に離れたところで、啓介が小さな声であることを尋ねてきました。

「沙夜、本当は日橋麻子が自分の書いた文を警察に見られたくなかった理由、何か思いついてるんだろ」

 図星でした。声は出さずに、うなずきます。

「どんな理由だと思ってるんだ?」

「そんなに難しいことじゃないよ」

 前提を言ってから、考えを述べます。

「麻子さんを狙っていたのが、彼女にとって自分が殺されたとしても、捕まってほしくない人だったんじゃないかな」

 ようするに、親しい人間ということでした。警察に犯人候補を知らせたくない理由は、あるとすればこれくらいしか考えられません。

「なるほどな。にわかには、信じがたいが……」

 一定の理解は示してくれつつも、さすがの啓介も顔をしかめました。私を無条件に信頼はしてくれますが、それでも違和感があるようです。無理もありません。言ってる私すら、ありえるのかと思っているくらいです。ですが、否定しきれる材料がないかぎり、その選択肢を消すわけにはいきません。

「それが正しいとすると、容疑者は絞られるな。ただ、金銭問題はないとしても、京太に犯人の可能性があることにもなる」

「そうなんだよね……」

 頭の痛いところでした。麻子さんが、自分を殺すのは身近な人間だと予測していたのなら、京太さんも当然ありえます。犯人が彼だとしても、動機はおそらく嘘でしょうが。

「でも、どうしても京太さんが犯人だっていうのは、釈然としないの」

「まあ、そうだろうな。昨日の、“死を悲しんでいた”様子が、説明できない」

 啓介が冷静な分析をしました。そう、それが引っかかっているのです。

 昨日、京太さんが握りしめていた拳。感情を押し隠そうとして、隠しきれていなかった彼が、愛する奥さんを殺害したとは、どうしても信じられませんでした。とすれば、他に目を向けざるをえません。

「他に親しい人間って言ったら、現状だと三山か日橋天音ってとこだな」

 啓介が腕組みをしながら、二名の容疑者候補を挙げます。ですが、それはありえません。

「二人には無理だよ。麻子さんからの電話が切れてから、ずっと私たちといたんだから」

 彼女たちには、はっきりとしたアリバイがありました。

「ああ、そうか。日橋麻子からの電話があったんだったな」

 失念していたらしく、啓介が顔を歪めます。

 そうなのです。天音さんと三山さんは、親しい人間としての条件は満たしますが、絶対のアリバイがありました。死亡推定時刻には引っかかるものの、麻子さんからの電話が彼女たちを疑うことを許しません。現場に落ちていた携帯にも、履歴ははっきりと残っていました。

「ん……?」

 何かが引っかかりました。現場に、携帯が落ちていた。“落ちていた”……。そうじゃありません。あの携帯は、指紋が拭き取られていたはずです。

「啓介、携帯の指紋が拭き取られてたって言ってたよね」

「ああ。鷹井からの情報の中にあった」

「分かった、ありがと」

 お礼を言って、考え込みます。やがて、ある考えにたどり着きました。

 麻子さんの携帯に、データを消された痕跡はないとのことだったはずです。それなら、京太さんが犯人だとして携帯へ触れる理由がありません。

「まさか……」

 もし、考えている通りなら、犯人は“あの人”かもしれません。

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