三章 夫婦の矛盾
翌日の昼休み。私と啓介は空いていた自習室にいました。机を並べ、隣合って座っています。
「じゃあ、始めるか」
「うん」
私がお弁当を食べ終えたところで、啓介が手帳を開き、私を見てきました。うなずきを返します。
何をするのかといえば、
「鷹井さんからは、たっぷりと捜査情報をもらったしな」
これでした。机の上に広げられた手帳には、びっしりと文字が書き込まれています。昨日の晩のうちに、情報をもらっていたのです。
「まず、何からがいい?」
「そうだな……。じゃあ、検死と現場検証の結果からお願い」
「了解」
啓介は手帳を指でなぞっていき、その二つに関する記述を声に出して読み始めました。
「検死からいく。死因はやっぱり頸部圧迫での窒息。凶器は首筋の痕から遺体に巻かれていた延長コードに断定された。死亡推定時刻はだいたい十六時半から十七時半の間。外傷はなしだ」
「十七時半……」
麻子さんからの電話が、十七時二十分の少し前に切れたことを考えると、かなり時間は絞られます。
「次に現場検証についてだが、かなり大事な点が一個上がってる」
「大事な点?」
啓介の言葉に、私は身を乗り出しました。
「日橋麻子、天音親子以外の指紋が、リビングから見つかった。おまけにあんまり時間が経っていないものがな」
思わず、目を見開きました。かなり、重要な情報です。
「誰のかはまだ分かってない。ただ、ところどころに指紋を慌てて拭き取った痕があって、その中に残っていたから犯人のものだっていう可能性はかなり高い」
「具体的には、どこに残ってたの?」
「リビングの入り口横の壁と、その下の床とかだ。あと、リビングではないんだが、例の玄関先で落ちていた電話にもわずかに残っていた」
「電話にも……」
うつむいて、思考を巡らせます。となると、やはり何かしら犯人につながるものが記録されていて、それで壊されたのでしょうか。
「指紋以外だと、たいしたものは発見されてない。キッチンの様子から、調理中だったのが分かるくらいだ。電話の記録に関しても、今復旧できるか確かめてる最中らしいし」
「そっか。でも、通話記録は電話会社にもあるんじゃないの?」
「それが、公衆電話からだったらしいんだ」
「公衆電話?」
私は首を左へ傾けました。確かにそれでは、誰が日橋さんの家に電話したのか分かりません。それに、公衆電話からだとすると、通話記録自体はかけられたという情報しか残りません。とすると、犯人が電話を壊した理由は限られてきます。
「じゃあ、あの電話が壊された理由は、留守電のメッセージとかなのかな?」
「一番ありえるのはそれだ」
啓介も同意します。電話が公衆電話からのものであるなら、これが最も有力です。しかし、別の疑問が浮かびます。
「ねえ、啓介。昨日、麻子さんが家から出た時間があったかどうかとか、分かる?」
「日橋麻子が家から出たかどうか?」
いつもなら、私の意図をすぐに察する啓介ですが、こと推理に関係することだと鈍くなります。個人的には、これはこれで啓介の困惑顔という貴重なものを見れるので、内心ではかなり嬉がっていたりしますが。なにしろ、普段しない表情なので、私だけのようなものなのです。ちなみに、この感情はバレてます。
頬が緩むのをなんとか耐えながら、尋ねた理由を口にしました。
「だって、麻子さんが一日家の中にいたのなら、留守電なんて“残らない”んじゃない? いつ電話がきても対応できたはずだから。あの電話は相手の番号が表示されるタイプだったし、犯人が身近な人間だったていう仮定をするなら、わざと受話器を取らなかったていうのは、まずありえないんじゃないかな。トイレに入っていたとかは、考えられないこともないけど」
要するに、彼女が家に一日いたなら、留守電は残っていないはずということです。
「ああ、なるほどな」
説明に納得し、啓介は手帳をパラパラし始めました。やがて、ページをめくる手を止めます。横から覗いてみたところ、どうやら個々の取り調べ情報のようです。今更ですが、バレたとき鷹井さんがどうなるか心配になります。
「何か見つかった?」
とはいえ、気に病んでも仕方ありません。どうせ向こうから持ちかけてきた話です。啓介の顔を覗き込みます。
「ああ。日橋天音からの供述によると、天音が大学から帰宅した午後十五時半以降は、三山を迎えに家を出た午後十七時前まで麻子は外に出かけてないそうだ」
「そっか」
訊いておいてなんなのですが、在宅を証明できているのが一時間半だけというでは、正直弱いです。
啓介もそこは分かっているようで、
「言っても、こんな短い時間帯だけじゃ意味がないか。麻子が一日いた証明には、足りなすぎるな」
左手で頬杖をつきました。
「他にはないの?」
「悪いけど、ない。そもそも、天音が家にいなければ麻子は一人だ。その間の在宅を証明するのは、かなり難しい」
私の求めたものを出せないために、啓介は額にしわを寄せました。いろんな顔を見るのは楽しいですが、あんまり気落ちさせるのも心苦しいので、話題を変えることにします。これ以上、電話に関して新しいことは分からなそうですし。
「じゃあ、それは一旦置いとこ。他に現場検証で分かったこと、ある?」
「他か。そうだな……」
私の言葉を受け、啓介は手帳のページを先ほどのところに戻します。
「窓はどの部屋のも閉められていた。ただ玄関は、天音の証言でも鍵が開いていたのが確認されているから、密室ではなかったことになる」
それは、私たちもある程度認識していました。啓介が続けます。
「あと、料理はやっぱり三人分だったらしい。元々は女性三人だから、少なめだったらしいが」
「三人分……」
私たちの分が足されていないことからすると、やはり天音さんからの電話を切ってすぐに殺害されたということでしょうか。
「残りは、現場に落ちていた携帯の履歴だな。これがまた、なかなか意味が分からない」
啓介がまた眉間にしわをよせます。どうしたのでしょうか。
「どういうこと?」
「おかしな点が二つあるんだ。まず、指紋が拭き取られていた」
何か変でしょうか。触ってしまったから、拭き取られただけの話だと思うのですが。
そんな私の考えを読んで、啓介が説明を加えます。
「変なのは、指紋が消されてること自体じゃないんだ。データを消されたりとか、そういう痕跡がないのに、犯人がどうして携帯に触れたのかが問題なんだよ」
「犯人が携帯に触れる理由がなかった、ってことか」
確かに、それは変です。下を向いて考え込みますが、何も思いつきません。
「それから、もう一つだ。天音への発信記録はきちんと残っていて、それはどうということはないんだが、“京太への発信”が、ほぼ一日一回ペースで、かなり多く残っている」
「京太さんへの?」
どおりで、啓介が渋い表情をするわけです。三山さんによると、日橋さん夫婦は疎遠だったはずななのに、密に連絡を取っていたことになります。
「ああ。事情聴取のときにはまだ分かっていなかったから、京太には確かめていないけどな」
「何か問題でも抱えてたのかな」
仲が悪化している夫婦が、そんなに話をしていたとすれば、理由はそれくらいしかないはずです。
「分からない。ただ、あの家には不自然なところがある。証言を見ると、より顕著にな」
「証言……」
私が一番気になっていた部分でした。すべてが明らかになるとは思えませんが、ある程度の取っ掛かりにはなるはずです。
「まとめていくぞ。まず三山からだ」
啓介がページをめくります。一人ごとの証言が、まとめられていました。
「日橋夫婦は別居中だった。これは、麻子本人の口から聞いたことがあるらしい。原因は京太にあるに違いないというのは、三山の一意見だ。麻子とはたびたび連絡を取っていたが、家庭に関しての相談はしてもらえなかった」
ようするに、別居だったということ以外は、個人の考えというわけです。信憑性に欠けます。
「次に日橋天音。両親は不仲というよりは、互いに関心を段々持たなくなって、そのうちに離れたそうだ。ただ、時たま三人でご飯を食べることもあって、京太は完全に家族への興味をなくしていたわけではないんじゃないか、と言っていた」
「食事……」
どうやら、疎遠と言うわりには交流があったようです。何か、携帯での発信の多さと関係があるのでしょうか。
「最後に日橋京太。別居は事実で、理由は一緒に生活する意味を感じなくなったから。ただ、妻と娘が嫌いになったわけではなく、月に一度食事に行くなどしていた。今日は仕事を早めに切り上げ、自宅に帰るつもりだったが、妻が死んだという連絡を受けて駆けつけてきた。そういう経緯なために、職場を離れてからは一人だったのでアリバイはない。ちなみに職場は、日橋麻子らの家からもそれほど遠くない場所にある。と、まあこんなところだ」
三人の証言には多少の差違は見られるものの、別居中であることなど、客観的な事実では筋が通っています。逆に、疎遠になっている理由に関してはバラけています。
それよりも気になるのは、
「例の目撃証言については訊いてないの?」
昨日、日橋の家の近くで見かけられた人物が、京太さんなのではないかという情報のことでした。
「いや、訊きはしたらしい。でも、本人は否定した。警察の方も、決定的な証拠はないから、疑いの比重が増えたってくらいで、進展するかどうかは未知数な状態だそうだ」
「未知数、か」
目撃証言がさらに増えるか、物証が出ればというところなのでしょう。なんにせよ、現時点で重要な情報なのは確かです。
「他には何かあるか?」
「他は……」
啓介に訊かれ、伝えられてきた証言を頭の中で整理します。一つ、引っかかるものがありました。
「食事をしていたっていうことかなぁ」
このことが、どうにも腑に落ちませんでした。
「そんなに気になるか? 別に離婚はしてないし、京太も興味がなくなってきたとは言っても、会いたいときがあったとかってくらいだと思うんだが」
啓介は重要視していないようでした。しかし、私は妙に引っかかっています。喉に小骨が刺さっているような、微細な違和感がありました。
ぐるぐると、頭の中でここまでの情報を回します。別居していたわりに、密な連絡と月一ペースの食事。現場での、京太さんの強く握られていた拳。一つ一つを糸でつないでみると、一つの仮説が導き出されました。ただ、そうだとすると、理由が分からないことがあります。
「どうなってるんだろ?」
抱いたことを、そのまま口にします。私の推測に対して、あまりに彼らの証言は矛盾していました。
「情報不足、か?」
悩んでいると、啓介が口を開きました。私が推理を巡らせていたので黙っていてくれたのでしょうが、行き詰まったのを見て取って、区切りを入れてくれました。
「そうなる、かな。とりあえず、事件と関係してるか分かんないけど、一つ仮説ができたから、確かめてみないと」
「仮説?」
「うん」
深くうなずきます。
「で、どうやって確かめるんだ?」
「自分の足で回ってみようと思う」
鷹井さんに調べてもらう気はありませんでした。どうせなら、暇つぶしも兼ねた方が得です。さらに他の利点もあります。
「かなり風変わりなデートになりそうだな」
その利点は、やっぱり啓介には見透かされていました。
放課後、美術部顧問の高橋先生に一度顔を見せて、私は啓介と、ある場所へ向かいました。
街の中心から離れた住宅街。その中にある、青い屋根を持つ二階建ての家の前に私たちはいました。昨日も訪れた、日橋さんのお家でした。
「しかし、初っぱなからここに足を運ぶなんてな。どんな仮説を立てたんだ?」
家を見上げながら、啓介が疑問を口にします。推理の内容を、私は伝えていませんでした。正直、まだ曖昧な部分が多いので、言うべきか迷うのですが、
「啓介には話しとくべきかな。調べてもらいたいこともあるし」
これからしようとしていることを考えると、選択の余地はありませんでした。
啓介が門の横にある呼び鈴を押すと、
『どちら様でしょうか?』
恐々といった感じの声がスピーカーから聞こえてきました。カメラはついてないみたいです。
「藤山啓介です」
『啓介くん? ちょ、ちょっと待ってくれる? 今行くから』
名字だけだと剣路さんと間違われるのを考慮して、啓介がフルネームを伝えました。今度は、驚きからかスピーカーからの声が高くなっていました。女性のものなのですが、三山さんでしょうか。
ほどなく、その三山さんが玄関の扉から姿を見せました。私たちであるのを確認すると、外に出てきて、こちらに近づいてきました。
「あら、本当に啓介くん。それに沙夜ちゃんまで。どうしたの」
口角を上げていますが、目が笑えていません。瞳に生気が足りないのです。麻子さんが死んだのは昨日なのですから、当たり前なのですが。
「皆さんに、色々お訊きしたいことがありまして」
啓介がニコリともせずに、用件を言いました。悲しんでも、死を悼んでもいません。三山さんの顔から、無理して作っていた笑みが消え、眉間にシワが寄ります。
「あなたたち、まだ探偵ごっこをする気? これは、現実で起きた殺人なのよ。小説とか漫画とは違って、本当に人が亡くなってるの。面白半分で、素人が、それも子供が首を突っ込んでいいことじゃない」
眉をつり上げ、かなり厳しい表情を浮かべました。抑えてはいますが、たぶん怒ってます。自然と私は、啓介の背中に回りました。
「そうですね。確かにそのとおりです。でも、一つだけ訊かせてください」
後ろにいるので、目で見ることはできませんが、三山さんと正面から向き合っている啓介は、まったく動じていません。私だから分かります。私以外の人では、私に関わる話でないかぎり、どんな感情を向けても、啓介は涼しい態度なのです。
「あなたは、早く麻子さんを殺した犯人を見つけたいと思いませんか」
問いかけた瞬間、三山さんはまぶたを目一杯広げ、啓介を凝視しました。言葉を待つまでもなく、彼女の答えは明らかです。
「沙夜には、確かな推理力がある。俺が保証します。あなたがもし本当に犯人を早く知りたいなら、たどり着く可能性は多い方がいいと思いますよ」
その反応を見て、啓介がさらに押しをかけます。言われた後、三山さんはうつむき加減に目線をあっちこっちに飛ばし始めて、迷っている様子でした。
と、
「何かあったんですか、三山さん?」
玄関から別の女性の声がしました。私たちは、一斉にそちらへ顔を向けます。儚げにまぶたを三分の一ほど閉じている天音さんが、そこにいました。
「天音ちゃん! 表にはでなくていいって言ったじゃない!」
三山さんが私たちに背を向け、慌てて駆け寄っていきます。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。私ももう大学生ですし」
「そうは言うけど、ただでさえお母さんを失ったばかりのあなたに、負担はかけたくないの。何があるか分からないんだから、私に任せてちょうだいな」
気丈な態度の天音さんに、三山さんは両肩に手を置いて訴えます。彼女なりの心配なのでしょうが、
「そういうわけにはいきません。ここは、私の家ですから」
丁寧に、両手は振り解かれました。彼女の横を、天音さんが通り過ぎます。
「天音ちゃん……」
天音さんの身体と重なって、わずかにしか見えませんでしたが、三山さんの表情は、目元が下がり悲しげでした。
「こんにちは。藤山くん、西野さん。何か御用ですか?」
私たちの方へ歩いてきた天音さんは、痛ましげな笑みを湛えました。
「少し、皆さんに事件のことでお訊きしたいことがあって」
彼女に対しても、言葉を返したのは啓介でした。
「そうですか。そういえば、藤山くんは昨日の刑事さんの息子さんで、西野さんは有名な探偵さんの娘さんでしたね。母を殺した犯人を、突きとめてくださるんですか?」
「ええ。そのつもりです」
ためらいなく啓介はうなずきます。天音さんは、考え込むようにうつむいてから、
「分かりました。できるかぎりの協力を約束します。刑事さんたちは、捜査の進展具合を話してくれませんしね。どうぞ、中へ上がってください」
再び、微笑みました。
それから彼女は、私たちに背中を向け、玄関へ歩き出しました。啓介と一緒に後ろから続きます。
「本気なの、天音ちゃん? この子たちは素人なのよ」
すると、玄関へ行くのを邪魔するように、三山さんが立ちふさがりました。悲しげな瞳ながら、真っ直ぐに天音さんと目を合わせています。
「本気です。普段の私なら、きっとしないと思いますけど、賭けてみたいんですよ。何かの巡り合わせのように、昨日出会ったこの子たちに。普通ならありえないことをしてくれそうじゃないですか」
対した天音さんの回答はとても漠然としていて、まったく論理的なものではありませんでした。彼女はきっと、“特別”に頼りたいのでしょう。自分のお母さんが殺されるという悲劇の日に、初めて会った人間。しかも、刑事と探偵の子供ときたら、何か運命めいたものを感じても、おかしくありません。
しばらく、二人の女性が見合ったまま、静かになりましたが、
「分かったわ。天音ちゃんがそう言うなら、私も協力する」
先に天音さんが口を開き、あきらめたように肩をすくめてました。
「ありがとうございます」
ゆったりと穏やかな口調でのお礼と共に、天音さんは軽く頭を下げました。それから、私たちの方を向きます。
「どうぞ、上がってください」
彼女に対し、私たちは二人でうなずきました。動き出そうとしたところで、
「沙夜」
啓介が私にだけ聞こえるよう、抑えた声で呼びかけてきました。横顔が微かに見える程度に、振り返ってきます。
「何?」
「日橋天音には気をつけろ。奴からは、何か嫌な感じがする」
なぜ、その判断を下したのか私には分かりかねましたが、素直にうなずきました。普通の人よりも数段上の観察力を持つ啓介の言うことです。それなりの根拠があるのでしょう。気を引き締めて、日橋さんの家へと上がりました。
私たちはリビングに通され、真ん中にあるテーブルに座りました。死体があったキッチンにはもう何もないのですが、どうしてもそちらを見るたびに昨日の光景が頭をよぎります。
「大丈夫か、沙夜」
「うん。平気」
啓介が、私の顔を覗き込んで心配してくれました。微笑んで見せます。死体の状態が凄惨ではなかったので、思い出しはしても、前の事件で殺人の瞬間を目の当たりにしたときよりは、辛さを感じませんでした。
「やっぱり、羨ましいですね」
私たちのやり取りを目にして、向かい側に腰掛ける天音さんがポツリと言いました。三山さんはお茶を入れに行っているため、今は席に着いていません。
「何がですか」
尋ねたのは私です。天音さんは、どこか寂しげな笑みを浮かべていました。
「あなたが、いえ、あなた方が、ですね。とても自然に互いを想い合ってる」
「はぁ……?」
返す言葉に困り、私は首をひねることしかできませんでした。言っている意味は分かりますが、なぜ今それに言及するのでしょうか。
まるで、自分の手にはないものかのように。
「ごめんなさい、待たせちゃって。はい、どうぞ」
話していたところへ、三山さんがお茶を運んできました。私、啓介、天音さんの順に置いていきます。
「あっ、ありがとうございます」
「どうも」
「ありがとうございます、三山さん」
それぞれがお礼を言いました。三山さんは最後に自身の席の前へお茶を置き、座りました。
「じゃあ、本題に入りましょうか」
天音さんが口火を切りました。人が揃ったので、当然ではあります。ただ、その前に一つ気になった点がありました。啓介もだったようで、二人に尋ねます。
「京太さんは、いないんですか?」
人は揃ったと言いましたが、彼の姿がなかったのです。
「はい。父は仕事に行ってますから」
こともなげに答えたのは天音さんでした。三山さんが憤慨した様子を見せます。
「まったく、とんでもない父親よ。仕事が大事なのは分かるけど、親なんだからこんなときくらい子供を優先するべきでしょうに」
「まあまあ、三山さん」
天音さんがなだめました。二人のやり取りを見て、私は自分で口を挟みます。
「ずいぶん、京太さんを嫌ってますよね」
すると、三山さんが私に顔を向け、口を尖らせました。
「だって、父親としても、夫としても、しっかりしてないのよ。好きになれっていう方が無理だわ」
「しっかりしてない、ですか」
「ええ。だって、勝手に家を出て、麻子と天音ちゃんを置いていくような人なのよ? 麻子もなんでさっさと離婚しなかったんだか」
やはり、かなり嫌悪しているようです。横に座る天音さんは、苦笑いを浮かべました。
「三山さんは大げさですよ。父には父なりの考えや事情があるんです」
「甘いわね、天音ちゃんは。父親らしいことなんて、ほとんどしてもらってないでしょうに」
「いえ、そんなことは」
「別に無理しなくてもいいのよ。今はここにいないわけだし」
あくまでお父さんの味方をする天音さんに、三山さんは諭すように言いました。人の親のいけない部分を、直接子供に聞かせるのもどうなのかという感じがしますが。
「無理なんてしてません。三山さんは、お父さんへの勝手なイメージが強すぎますよ」
さっきまでの呆れていた様子はなりを潜め、反論した天音さんの声は尖っていました。三山さんがひるみます。
「全部憶測じゃないですか。三山さんはこの家の人間じゃないんですから、当てずっぽうでものを言わないでください」
かなり強い口調でした。ここまで反発されるとは思ってなかったのでしょう。三山さんは、顔を強張らせていました。
一段落したところで、私は口を挟みます。
「天音さんは、ずいぶんとお父さんに好意的ですね」
「え、ええ。実の父親ですし、食事のときに向けてくる目がとても優しいんです。三山さんが言うほど、ひどい人じゃないありませんから」
私たちがいることを失念していたのか、話しかけられた瞬間、肩が少し跳ねました。それでも、返答そのものは冷静です。
「なるほど。優しい目をしていましたか。じゃあ、あなたが見たかぎり、食事のときの京太さんは、麻子さんに対してはどんな態度でしたか?」
「お母さんに対して、ですか?」
問いかけると、天音さんは左手を口元に当て、私から目をはずしながら考え込みました。さほど時間が経たないうちに、回答がきます。
「普通って感じでしたね」
「普通?」
「はい。淡白だったり、白々しかったり、ってことはなくて、かといってものすごく親密って感じでもなかったです。本当に普通って感じでした。なんというか、夫婦というよりは、兄妹とかそういう感じの、“家族”みたいな落ち着きがありました」
「夫婦よりも、家族……」
難しいニュアンスですが、身近で親しさがあるものの、男女や友人のそれではなく、身内のものという感じでしょうか。
「けど、京太さんはこの家とは別のところに住んでいるんですよね」
「ええ、まあ。でも、私や母が嫌になったからではないと思うんです」
私が別居のことに触れると、彼女は警察の取り調べのときと同じ主張をしました。
「でしょうね。今までのあなたの話を聞いたかぎりは」
その部分には、賛成でした。天音さんと京太さんの両方が嘘をついていたりしなければ、そう考える方が自然です。
「じゃあ天音さんは、どうして京太さんはこの家から出たと思いますか?」
だからこそ、別居の理由が気になりました。
「どうしてか、ですか」
天音さんは、再び私から目線をはずし考え込みます。三山さんが何か言いたげでしたが、京太さんへの印象が偏りすぎている彼女の意見は参考にならないので、訊きません。
「一緒に暮らす意味が、なくなったからじゃないでしょうか。完全にではないにしろ、興味は離れていたみたいですし」
そして、天音さんの出した答えはこれでした。ただ、本人も半信半疑なようで、自信なさげに首を傾けています。
「なるほど。じゃあ、あといくつかだけ。京太さんと食事をするのは、どこにあるお店でしたか?」
「うーん。毎回この近辺のところでした。バラバラでしたけど、何回かは同じお店だったこともあります」
「この近辺……」
彼女の回答をつぶやいて、繰り返します。私の隣では、啓介がペンを走らせています。情報を、メモしていました。
それから、私が最も気にしている事項を尋ねます。
「あと、お母さんは一人で出かけることは多くありませんでしたか?」
「え、ええ。よく、出かけてました。土曜か日曜とかは特に多くて、時たま平日にも。どうして、分かったんですか?」
「いえ、なんとなくそんな気がして」
本当はとある推測がありましたが、言いませんでした。もし、合っているなら、このことを天音さんが知らない、もしくは知らないふりをしていることになります。そこにはなんらかの理由があるはずでした。安易には話せません。
「京太さんは、昨日からはこちらにいるんですよね?」
「はい、葬儀などのこともありますから、さすがにこっちにいます。いつ帰ってくるかは分からないですけど、そう遅くはならないかと」
「分かりました。お答え、ありがとうございます」
「そんな、お礼なんて結構ですよ」
私が頭を下げると、天音さんは腰を浮かせて両手の手のひらを胸の前に出してきました。
「いいえ。無理を言ったのはこっちですから」
こっちはこっちで、首を横に振ります。本来なら、門前払いされていてもおかしくないのですから、お礼を言うのは、当然です。
「それより、京太さんにも色々と訊きたいので、帰ってきたら私たちのことを話してもらえますか? 構わないと言ってもらえたら、携帯の番号を教えるので、連絡してください」
急に話題が飛んだためか、彼女は少しキョトンとしてから、
「わ、分かりました」
前に出していた両手を下ろして、うなずきました。
「それから、三山さん」
「えっ、私?」
話は終わったと思っていたのでしょう。彼女は目を丸くしました。
「お聞きしたいのは一つです。京太さんが家を出てから、麻子さんはどんな様子でしたか?」
「どんなって言われても……。どういうことを言えばいいの?」
「元気だったとか、寂しそうだったとか、三山さん個人の印象で結構ですから、教えてもらえませんか」
困惑から顔を歪める彼女に、私は穏やかな声で言葉を重ねました。
「そうね……。だいたいは電話とかメールだったんだけど、いつもはわりと静かだったかな。寂しそうといえば、寂しそうだった。けど、時々変に元気な日があったわ」
「元気な日?」
「声が弾んでて、妙に機嫌がよかったりすることがあったの。毎日話してるわけじゃなかったから曖昧だけど、十回に一回は、そういう日に連絡をしてたわ。一番最近だと、先週の日曜日かしら」
「先週の日曜日ですか。時間はどのくらいでしたか?」
「昼過ぎくらいだったと思うけど」
「分かりました、ありがとうございます」
質問を終えたので、三山さんにも丁寧に頭を下げました。
「お礼なんていいんだけど、これと事件に何か関係でもあるの? 私には分からないわ」
彼女は頭をポリポリとかきながら、そう尋ねてきました。理解できなくても仕方ありません。彼女が持っている考え方は、あまりに私の推測とかけ離れているのです。
「いえ、少し着眼点を変わったところにしてるだけです。普通の見方だと、警察さんに勝てませんし」
「なるほどね……」
とは口にしたものの、彼女は腑に落ちていない様子でした。かといって、何をどう疑えばいいかも分からないのでしょう、それ以上問い詰めてきたりもしませんでした。
「それじゃあ、私からはこれくらいです。協力ありがとうございました」
また頭を下げ、今度は立ち上がりました。京太さんがいないのであれば、今の私にはここにいる理由がありませんでした。啓介も、私に合わせて立ち上がります。
と、そこでもう一つ訊いておくべきことを思いつきました。
「そうだ。天音さん、もう一ついいですか?」
「えっ、はい。構いませんけど」
天音さんは、目をパチクリさせました。
「先週の日曜日、もしくはその前後一日、お母さんはお出かけになりました?」
「えっと……、はい。日曜日の夜に、出かけました。用件は、分からないですけど」
「そうですか、分かりました。それじゃあ、私たちはこれで」
「は、はい」
キョトンとした天音さんに背を向け、私と啓介は日橋さんの家を後にしました。
私たちが向かったのは、駅周辺の飲食店でした。天音さんの証言どおり、家族で食事をしに来ていたのかを確かるためです。どこも大勢が来店しているので、一組の家族の目撃情報が得られるとは思えませんが、デート兼京太さんからの連絡待ちには、ちょうどいい時間潰しでした。まるっきり知らない人と話すので、表に立つのは啓介にすべて任せ、いくつか回った結果、一店だけ奇跡的に、店員さんの一人が日橋さんたちを覚えていました。
その人によると、よく友達と来る天音さんが、珍しく家族で来店したのでよく覚えていたとのことでした。はた目から見たかぎり、ごく普通の家族で、京太さんとも天音さんはよく話し、麻子さんも楽しそうだったそうです。ここまでは、私にとってさほど大事な情報ではありませんでした。重要だったのは、このあとの話です。
京太さんと麻子さんは、どこか距離を置いている様子だったそうなのですが、天音さんがトイレに立っている間は、かなり親密そうに話していたと言うのです。啓介はしきりに首をひねっていましたが、私には確信と疑問を同時にもたらしました。自分への信頼がないので完璧ではありませんが、なぜ不仲であるはずなのに密に連絡を取っていたのかという理由については、かなりの確信を得ることができました。
私の推測は、おそらく正しい、と。
しかしその確信は、避けて通れない疑問も突きつけてきたのです。
「うーん……」
やっと壁を登りきったのに、後ろに新しい壁が現れ、私はうなりました。元々存在を認識してはいたのですが、いざ対面すると、答えが見つかりません。
隣に座る啓介は、色々訊きたいのを我慢し、黙っています。横目で見ると、口を開きたいのをごまかすように、コーヒーをすすりました。普段クールなので、かなり可愛く感じます。
重要すぎる証言が手には入ったので、私たちは飲食店回りをやめ、昨日とは別の喫茶店に来ていました。持てる知力を絞り出しています。
と、私の携帯が震えました。手にとって画面を見ると、日橋天音の文字があります。慌てて電話に出ました。
「もしもし?」
『あっ、西野さん? お父さんが話をしてもいいって。もう家に帰ってきてるから、話すのなら来てください』
「本当ですか? ありがとうございます。すぐに行きますね」
『はい。では、お待ちしてます』
足早に、通話は切られました。久々に啓介がしゃべります。
「京太が話に応じるって電話か?」
「うん。さっそく行こう。ちょうど推理も詰まってたし」
私と啓介は、再び日橋さんの家へ行くことにしました。