一章 本能的嗅覚
三月下旬。厳しい寒さは和らぎ、春の足音が聞こえ始めていました。
今日の天気は快晴。暖かな風が吹いていて、過ごしやすい気候です。
「西野」
窓から入る日差しも気持ちよく、窓際の席である私は、段々まぶたが重くなって、うとうとしていました。
ですが、
「西野沙夜!」
「は、はい?」
授業中だったために、安眠は許されませんでした。いつの間にかそばに来ていた先生に名前を呼ばれ、寝ぼけまなこで顔を上げます。
「まったく。お前は本当に、目を離すとすぐに寝ようとするな」
「えっと……、ごめんなさい」
「すぐに謝るのは、いいところなんだがな」
先生はこめかみを押さえました。渋い表情です。
「とにかく、夜にちゃんと寝ろ。テストの答え合わせまで聞き逃してたら、本当に危ないぞ」
そう言って、約二ヶ月前から、ある“事情”によって私のクラスの数学を受け持っている先生は、黒板の前へ戻って行きました。学年末テストの答え合わせが再開されます。寝起きの頭には、まったく内容が入ってきません。ほどなくして、私は再び眠っていました。
「沙夜ー」
「ふわっ?」
再び名前を呼ばれて起こされました。うっすらと目を開いて、声のした右上方向へ首を動かすと、
「もう、授業終わったよ?」
茶色の短髪で、目のくりっとした、幼さの残る少女が、ニヤニヤしながら私を見下ろしていました。友達である、大野美鈴です。あだ名は名前の一部をとって、すず。
「んー……」
目をこすりながら、返事とつかない返事をします。前方の黒板の上にある時計を確認すると、すずの言ったとおり、六時間目は終わっている時間でした。
「しっかし、よく寝るよね。最後の方、もう先生あきらめてたよ」
すずが声を弾ませます。見た目の活発さに反さず、朗らかな性格でした。
「だって……、眠いんだもん」
言い訳らしい言い訳もなく、そう言うしかありませんでした。とにかく、授業はいつも眠くて、前日に何時間寝てても、起きていられないのです。最近、少し本気で睡眠障害を疑っています。病院へ行く気はまったくありませんが。
「そう言われると、なんにも言えないなー」
私の言葉に、すずは機嫌よく笑みを浮かべました。同姓の私から見ても、可愛らしい表情です。“二カ月前の事件”など、まるでなかったかのようでした。
「ま、あの騒ぎの渦中にいたときでもいつもどおりだったのに、収まった今になって変わるわけないか」
何度見ても、明るい表情に、影は微塵もありませんでした。
すずが口にした騒ぎというのは、二ヶ月前に起きた、私の通う浜野高校の生徒と教師四人が、相次いで殺された事件のことです。“表向き”の犯人はすでに亡くなっているので、警察の捜査は打ち切られています。
死んだ人が多いのも相当な事態でしたが、それ以上に“私たち二人”にとって大変だったのは、事件の中心にいたために、マスコミの人たちがたくさん来たことでした。お父さんたちが守ってくれたので、相当マシではあったと思いますが、二度とごめんです。
それほど盛り上がっていたのに、今では事件など忘れ去られたかのように、学校は平穏を取り戻しています。一皮剥けば、傷痕は随所にありますが、日常が帰ってきていました。変わったことといえば、先生たちの仕事分担と、クラスでの私の扱いが、どこか腫れ物を触るような感じになったくらいでしょうか。
「しかし、早いもんだよねー。あれからもう二ヶ月だよ?」
「そうだね」
同意を求められ、私はうなずきました。種々の問題はあちこちにありますが、“私たち”の生活を邪魔するようなものはすっかりなくなっています。学校の入学試験の合格倍率低下や、親からの苦情などは、関係がありません。
それから、しばらく二人で話し続けていましたが、担任の先生が教室に入ってきたので、打ち切りました。
放課後になり、私はすずと別れました。私たち二人は美術部に所属していますが、今日は休みでした。
美術部も事件でゴタゴタしましたが、二ヶ月経って、ようやく落ち着いてきていました。被害者が部長だったうえに、美術室が一度殺人の舞台になったため、気味悪さが勝り、事件解決後は活動がなくなっていたのです。
顧問である高橋茉莉先生の尽力で、避けられていた美術室での活動が再開されたのが先月下旬。最初は部員誰もが、抵抗感を隠せませんでしたが、日が経つにつれ、段々と軟化しました。先生が、以前となんら変わりなく自身の製作に没頭していたのが功を奏したのかもしれません。死者を悼む気持ちを忘れないようにしつつも、徐々に雰囲気は元に戻ってきています。一人欠けてしまっているがために、完全な元通りは望めませんが。
部活だと、私の扱いは以前と変わりません。部長が殺された理由が火種になり、先輩から責められたこともありましたが、今は和解しています。
美術部は、私の中で大きな存在なので、今の回復具合にはほっとしていました。
ですが、最も大切な存在は別にあります。
隣のクラスの前の廊下で、その彼を待っていました。
しばらくして、大勢のさようならという声が聞こえ、教室から生徒たちが出てきました。その波を簡単にすり抜けて、
「ごめん。待ったか、沙夜?」
背が高く、モデル体型で、顔もスラリとした少年が、私のところに来ました。かっこいいという表現が一番手っ取り早く、つり目であることに着眼するのなら、第一印象は怖い、という感じです。
名前は藤山啓介。互いの両親が知り合いで、幼なじみです。私と同じ高校一年生。私が弱気でお母さん譲りのドジな性格かつ、世話焼きで、勉強は英語以外苦手なのに対し、啓介は強気といかないものの冷静な性格で他人に無関心。失敗はほとんど起こさず、勉強面は学年トップを誇る秀才です。マイナスを上げるとしても、本と人混みが嫌いなことくらいしかありません。
そして、私がすべてを捧げ、私にすべてを捧げさせている男性でした。
「ううん、大丈夫」
問いかけに対し、首を横に振って、向かい合った啓介を見上げました。こうして見ると、外見も逆です。私は女子の中でも背が小さいのですが、啓介は男子の中でも高い方でした。ただ、私の女子として啓介と違ってほしい部分は、残念なことにぺったんこでした。気にしてないとは言ってくれていますが、気にせずにはいられなかったりします。
「なら、よかった」
啓介がつり目を和らげ、優しく微笑みました。私だけに向けられる、私だけの笑顔です。
「行こうか、沙夜」
「うん」
笑い返し、肩を並べて(背の差で並べてませんが)、私たちは下駄箱へ向かいました。
今日は、一緒に買い物です。
私と啓介は、互いの両親が知り合いだったこともあり、幼なじみとして育ってきました。生まれたときから一緒だったと言ってもいいと思います。
でも、物心ついた時にはもう啓介は、はっきりと異性として存在していました。すでに、私の心は啓介に捕らえられていたのです。ぼんやりとした記憶の中で、啓介はずっとそばにいて、私を守っていてくれたので、それが理由なのかもしれません。しかし、理由はたいした意味を持ちませんでした。啓介が好きだという感情が、すべてだったのです。
そして啓介は、私が抱いた好意に、応えてくれました。正式に付き合いだしたのは中学生になってからですが、始まりはもっと前です。
今も、その想いは変わっていません。いえ、変わってはいるのかもしれません。より深く甘美に、狂おしいほど重たく。
制服姿のまま、私と啓介は、学校の最寄り駅から二駅いったところにある、大きな街に来ていました。都会の中心街には遙かに見劣りしますが、人が多すぎない分、人混み嫌いの啓介にも優しい環境です。
「最初は本か?」
改札を過ぎ、駅の出口に来たところで、啓介に尋ねられました。
「うん。買うか分かんないけど、服を先にすると荷物になっちゃうし」
「なら、いつものとこからだな」
啓介の言ったいつものとことは、駅の周りに点在している百貨店などのビルの囲いを抜け出した場所にある古本屋でした。チェーン店で本以外も扱っていましたが、この街のものは規模が大きく、広さのある二階建てで、品揃えが豊富でした。
さっそく二人で歩き出しました。
私が読む本は、もっぱらミステリーでした。この嗜好は、お父さんの影響と言っていいと思います。なぜなら私のお父さんである西野正彦は、探偵なのです。普段の仕事は浮気調査などなのですが、お父さんの場合、さながらミステリー小説のような事件に幾度となく立ち会ってきていました。直接私がその場にいたことはないのですが、家に来る職場の人や警察官の友人さんたちの話を聞いたかぎり、間違いありません。
それに、私のお母さんである西野浅美は、助手としてたびたびお父さんの仕事について行っていて、そのときにつけたのであろう手帳を私は何度か目にしたのですが、殺人事件の情報っぽいものが書いてありました。
そんなわけで、ミステリーを数多く読んできている私は、絶対と言い切る自信はないものの、最近は途中でだいたい犯人が分かるようになってきました。啓介にこのことを言うとすごいなと感心してくれますが、正直そこまでのことではないと私は思っています。
いい例が、二ヶ月前の事件です。私たちが真っ先に疑われてしまって、日々の生活がしづらくて仕方なかったので、自分たちで真相を突き止めようと動き出しました。その結果として、犯人を割り出しましたが、本当の犯人ではありませんでした。私はまだまだなのです。
一方の啓介は、ミステリーはおろか、本をまず読みません。おまけに、いざ読み出すと着眼点はいいのに、いつも真相へはあと一歩が足りません。頭がいい啓介にしては、意外な部分です。ただ、二ヶ月前のときは逆で、本当の犯人を見つけたのは啓介でした。
「またミステリーか。買うより、正彦さんに話を訊いた方が面白そうだけどな」
本屋で私が品定めをしていると、横で本を興味なさげに見ていた啓介が言いました。
「確かにそうかも。でも、話してくれないと思うよ」
「だろうな。うちの親たちも、何にも教えてくれないし」
啓介の両親はさっきも言ったように、私の両親と知り合いです。高校時代の同級生で(啓介のお父さんは一つ年下ですが)仲がよく、四人でいることが多かったそうです。
啓介のお父さんは、藤山剣路さん。刑事さんです。階級は、たぶん警部だったと思います。お母さんは、藤山江摩さん。専業主婦です。
学生時代にも、私たちの両親は色々な事件にあっていたようで、顔を合わせると時たまその話題になっています。
「凄惨な事件だったから、話さないのかな」
ですが、私たちに詳細を話すことはありません。酔っているときに、ちらりと漏らすくらいです。
「さあな。なんにせよ、聞かせたくないのは明らかだけど」
特別気になっている様子なく、啓介は別の本をめくり出しました。啓介が関心を持つものは、この世に数少ないのです。
「そうだね」
うなずいてから、私は二冊のミステリーを手にしました。
本を買った後、服を見に何店か回りましたが、結局試着すらしませんでした。
「今、何時?」
「五時前。服を全然見なかったから、いつもよりだいぶ早いな」
私が時間を尋ねると、啓介が腕時計を確認して答えつくれました。
「でも、買わなくてよかったのか?」
「うん。また今度にする」
「そっか」
何気ない会話をしながら、駅の方へ向かいます。その途中、ビルの立ち並ぶ大通りを歩いていたら、
「あら、もしかして、沙夜ちゃんじゃない?」
女の人の声に呼び止められました。
「ふえっ?」
振り向くと、肩より少し長い髪の中年女性が立っていました。すぐにその人の記憶が引き出されます。
「三山さん?」
確信が持てなかったので、おずおずと口にしました。すると彼女は、明るい笑みを浮かべました。
「そう! 覚えててくれたんだ。嬉しいわ」
合っていました。内心、ほっとします。
「誰だ?」
啓介が、身をかがめて耳元で訊いてきました。
「三山凛子さん。昔、お父さんが解決した事件の関係者だったみたい。お母さんと仲がよくて、何回か私も会ったことあるの」
「ふーん」
私と二人でいるのを邪魔されたので、私にしか分からない程度に、啓介は眉をひそめました。こういうところを見るとにやけそうになるのですが、知り合いの人の手前なので、ぐっと堪えました。
「そっちの男の子は、彼氏?」
三山さんは世のおばさんの例に漏れず、にやけながら啓介のことに触れてきました。
「はい。藤山啓介くんっていいます」
誰に対しても関係を隠さないので、素直に認めます。啓介が私の紹介に合わせて、
「どうも」
無愛想に頭を下げました。明らかにへそを曲げています。
しかし、三山さんにそれを察した様子はなく、
「この子が啓介くんか。浅美さんから聞いてたとおり、いい男じゃない」
いかにも楽しそうに笑いました。
「はい。本当に」
言うまでもないことなのですが、肯定を返しておきます。正直、いい男という言葉だけでは、啓介のよさを表すにはあまりにも足りません。
「言ってくれるじゃない。若いわね。羨ましいわ」
本心からの発言ではないでしょうが、嫌味っぽさがありませんでした。
「浅美さんも、何言ってるんだか」
私の隣で、啓介がため息をついて、額に手を当てました。
「お母さん、隠し事できない性格だから」
私が苦笑すると、
「というか、よほどのことじゃないと隠さない人だな」
啓介が言い換えました。確かに、正しい表現はこっちっぽいです。
「しかし、偶然ってあるのね。こっちまで用事で出て来たら、まさか沙夜ちゃんと会えるなんて思ってなかったわ」
私たちのやりとりが聞こえていない三山さんは、また別のことを口にしました。言われてから、初めて疑問を覚えます。
「そういえば三山さんって、お住まいはこっちの方じゃないですよね」
「ええ。昔馴染みに呼ばれて来たのよ。ただ、早く来すぎちゃったから、時間が余って、今はブラブラしてたの」
尋ねると、軽快に自分の状況を話し出しました。私は気にせず聞きますが、啓介は若干イライラし出していました。外から見た感じ分かりづらいですが、普通のときより微かにつり目の角度が上がっています。
「そうだ。今から、その昔馴染みの娘さんと会うんだけど、沙夜ちゃんたちも来ない? 私とじゃ歳が違いすぎて、間を持たせる自信がないのよ」
いきなりの提案でした。そばで啓介がぼそりと、
「別に、受け答えがなくてもしゃべり続けるだろうに」
文句を口にしました。実際、私もそのとおりだと思ったのですが、何かが後ろ髪を引きました。
「沙夜?」
断ると思っていたのでしょう、考え込む私を見て啓介は怪訝な顔を向けてきました。
「勘か?」
「うん」
私の考えを読み、啓介が尋ねてきました。おずおずとうなずきます。
「なら、沙夜の好きにするといい」
「うん、そうする」
優しい微笑に、さっきより大きなうなずきを返しました。
それから三山さんに向き直って、
「私もついて行きます」
そう言いました。
本当に、ただの勘で決めたことでした。
三山さんの誘いを承諾した私たちは、駅前の喫茶店へと連れて行かれました。古馴染みの娘さんとの待ち合わせ場所なのだそうです。その子が三山さんを家まで案内する間に、古馴染みさんは晩ご飯の準備をするという段取りとのことでした。
店内は、壁も床も木の模様にされていて、森の中にいるような落ち着いた雰囲気でした。流れている音楽も、聞こえるか聞こえないかの微妙なところで、いい味を出しています。ただ、外の通りが見える窓は無機質な銀色の枠で、周りとまったく合っていませんでした。
私たちは同席させてもらうだけなので、コーヒーを一杯だけ飲もうと思っていたのですが、「なんか頼みなよ。お代は私が持つから」という言葉に始まった三山さんの押しに負け、私の前にはチーズケーキがありました。頼んでしまったからには、仕方ありません。おいしくいただくことにします。
それから、主に私と三山さんで雑談していると、
「あっ、三山さんですよね」
私たちの座っている席の前に、肩にかかった薄い茶色の髪をヘアピンでとめている、目の大きな女の子が来ました。身体が細く、背は私より高そうです。なにより気になったのは、同じくらいの歳と聞いていたのに、見た感じ高校生より上だということでした。
「あら、天音ちゃん。久しぶり。また綺麗になったわねー。声だけじゃなくて、見た目もますます麻子に似てきたわ」
三山さんが顔を上げ、笑いかけました。どうやら、この子が古馴染みの娘さんのようです。
「まあまあ、座りなさいよ」
立っている彼女に、三山さんが二人掛けの席を詰め、自分の隣に作ったスペースをバンバンと叩いて示しました。
「あっ、失礼します」
天音さんと呼ばれた女の子は、それに従って席に腰を沈めました。
「ところで、この人たちは?」
それから、私たちへ目を向けてきました。物腰は柔らかいですが、たぶん警戒していると思います。当然の質問でした。
「ああ、この子たちね。私の知り合いの子供さんたちなの。左は西野沙夜ちゃん、右は藤山啓介くん。たまたま会ったから、つれて来ちゃった」
三山さんの紹介に合わせて、私たちは一言挨拶を添えて、軽く頭を下げました。
「そうですか。私は日橋天音です。大学一年生。あなたたちは、高校生?」
「俺も沙夜も、高校一年生です」
問いかけに答えたのは、啓介でした。初対面の人への窓口は、基本啓介なのです。
「まだ一年生ですか。若いですね」
「何言ってんのよ。天音ちゃんも、まだまだ若いじゃない」
天音さんが漏らした言葉を、三山さんは笑い飛ばしました。
「からかわないでくださいよ、三山さん」
天音さんが目くじらを立てます。けれど、三山さんは意に介さないようで、
「からかってるわけじゃないわ。本当のことじゃない。私から言わせれば、天音ちゃんも沙夜ちゃんもおんなじようなもんよ」
私たちたちにとっては大きな差を、同じようなものとくくりました。天音さんが額を押さえ、ため息をつきます。えてして、元気なおばさんには、誰もかなわないものです。
「それより、天音ちゃんもなんか頼みなよ。お代はおばさんが出すから」
「けっこうです。お母さんから、早く連れて来るように言われてますし」
さっきの年齢の話で疲れたのか、天音さんは肩をがっくりと落としていました。うつむいたまま、三山さんの勧めに断りを入れます。
と、そこで携帯のバイブ音がしました。自分の携帯をとっさにカバンから出し待ち受けを開きましたが、午後十七時十分と表示されているだけでした。私ではないようです。啓介を横目で見ると、自分の携帯を確認したりはしてなく、天音さんの方に顔を向けていました。どうやら、振動しているのは彼女のもののようです。
「誰だろ?」
本人もそれに気づいたようで、そうつぶやきました。テーブルの死角になっていて見えませんが、彼女は自分の左側に置いた小さなカバンを、膝の上に移してまさぐっているようでした。数秒でスライド式の携帯を見つけ出すと、すぐに通話にしました。
「もしもしお母さん?」
画面の表記で分かっていたのでしょう。一言目から、お母さんと呼びかけました。
「うん、会えたよ。隣にいる。あっ、そうだ。ちょっと待って」
彼女は一旦、携帯から耳を離し、マイク部分を抑えながら私と啓介の方を見てきました。
「ここで会ったのもなんかの縁ですし、あなたたちもうちでご飯を食べに来ません?」
「えっ、そんなの悪いですよ」
突然の申し出に、私は胸の前で両方の手のひらを向けて、わたわたと動かしましたが、
「大丈夫ですよ。うちのお母さん、料理好きですし」
「でも……」
「遠慮しないでくださいよ。お母さん、晩ご飯、もう二人分追加ね」
強引に話を通されました。会ったばかりである人を誘う方法とは思えません。私は口を開けたまま固まりました。
「まあ、もう少し付き合ってみてもいいだろ。沙夜の勘も気になるし」
見かねた啓介が、私にだけ聞こえるくらいの声量でつぶやきました。
「勘だから嫌なの。これで何もなかったら、時間の無駄だし」
口では、反論してみたものの、
「でも、気になるんだろ?」
啓介には通じません。私の考えは筒抜けなのです。
「うん」
今度は素直に、うなずきました。
「三山さんも、もういるよ。……そんなに心配しなくても大丈夫。……うん、了解」
電話なので切れ切れではありますが、天音さんは元気よくはきはきとしゃべっていました。残念ながら私の耳では、彼女のお母さんの声を拾えませんが、きっと向こうも笑っているだろうなとは想像できる口調です。
それから天音さんは、電話口では必要ない首肯をつけ、幾度か相づちを繰り返してから、
「分かった。今変わるね。三山さん、お母さんが替わってほしいって」
携帯を三山さんに差し出しました。
「私に? あとでどうせ話すでしょうに」
呆れたような言い回しでしたが、顔にそんな様子はなく、笑いを堪えきれずに、目や口が緩んでいました。携帯を受け取ります。
「ごめんなさい、三山さん。私、ちょっとお手洗い行ってきますね」
「はいよー」
渡してすぐに、天音さんが立ち上がりました。三山さんが彼女と目を合わせて、了解の意を示します。そのまま、言っていたとおりお手洗いへ向かって行きます。
「もしもし、麻子ー?」
彼女が見えなくなるよりも前に、三山さんは相手の名前を呼びました。天音さんのお母さんは、日橋麻子というようです。
「あれ……?」
と、三山さんが訝しげな表情を浮かべ、携帯を離して画面を凝視しました。
「どうかしたんですか?」
私の代わりに、啓介が尋ねました。彼女はポリポリと頬をかいて私たちの方を見て、何か言いかけましたが、
『凛子ー?』
「あっ、ううん、なんでもない」
麻子さんの声が漏れ聞こえてきたことに、ほっと一息つきました。私たちに問題解決を示して、左手を振ってきたので、身を引きました。いったいなんだったのでしょうか。
それにしても、三山さんが携帯を離していたおかげで、初めて麻子さんの声を聞くことができました。かろうじて耳に届くくらいの音量でしたが、娘さんと同じように元気のある声でした。
「ああ、なるほどね。って、危ないじゃない、それ!?」
何を言われたのか、三山さんが目を丸くします。それを皮切りに、しばらく彼女は高らかに笑ったり、寂しげに目線を落としたり、肩をすくめたりと、せわしなくしていました。
やがて、
「えっ、ホントに? 分かった。じゃあまたあとでね」
三山さんは、電話を切りました。携帯が天音さんのものであるのを思い出し、どうするか迷って固まっていましたが、テーブル上の、まだ戻ってきていない彼女の位置に置きました。
「切ってしまってよかったんですか?」
尋ねたのは、また啓介でした。
「ええ。誰か尋ねて来たから、またあとでって」
「そうですか」
質問しておきながら、啓介の反応は無感情でした。本当に質問したかったのは私なので、興味がないのです。その私も、少し気になっただけだったので、あまり変わりはないのですが。
「沙夜ちゃんも、もうケーキ食べ終えてるし、天音ちゃんが戻って来たら、出ましょうか」
しかし、無愛想な対応を気にとめず、彼女はお手洗いのある方へ半身を向けました。すると、ちょうど天音さんが戻って来ました。
「あれ、電話切ったんてすか?」
席に座る前に、テーブルの上に置かれた携帯と三山さんを交互に見て、首をかしげました。
「うん。どうせ、あとで会うしね」
「まあ、別にかまいませんけど」
お母さんとまだ話しておきたいことがあったのでしょうか、引っかかるものの言い方でした。頭をポリポリとかき、腰を下ろします。
「ああ、座ったところ悪いんだけど、沙夜ちゃんがケーキ食べ終えたし、そろそろ出ようと思うんだけど」
あまり悪いと思っていなそうな言い方をし、三山さんは天音さんへ顔を向けました。
「まだ、コーヒー一杯も飲んでないんですけど」
天音さんはじとりとした目で見返しました。声も低めで、非難の色が見てとれます。
「そういえばそっか。じゃあ、天音ちゃんがコーヒー飲んでから出ましょ」
それを分かっているのかいないのか、三山さんは承諾しました。朗らかな笑顔を見せているので、たぶん後者だと思います。すぐに天音さんはコーヒーを頼み、私はそれを待つ間にお母さんへ晩ご飯がいらない旨を連絡することにしました。携帯を開くと、十七時二十分という表記が、目に入りました。
結局、私たちがお店を出たのは、十七時四十分でした。日が以前より長くなっているとはいえ、すでにけっこう暗くなっています。
会計は、最後まで天音さんが遠慮しましたが、三山さんが全額持ちました。たいした金額ではありませんが、おごりというのはやはり好感を抱きます。
「じゃ、行きましょうか」
会計を終え、最後に出てきた三山さんが私たちを見回しました。
「そうですね、行きましょう」
天音さんが応答し、彼女を先頭にし、私たちは歩き出しました。大通りを、駅とは逆方向に進んで行きます。日橋家は駅から少し離れた場所にあるようです。
「ここから、どのくらいかかるんですか?」
私が持った疑問を、啓介が天音さんに訊きました。
「だいたい十分、十五分ですかね。ビル街を抜けて、そこからもう少し行かないからちょっと遠いんです」
「そうですか」
啓介の反応は、さっきとまったく同じでした。吹き出しそうになったので、下を向いてこらえます。
そしたら、
「笑うな」
「あたっ」
こめかみ辺りを軽く小突かれました。
「仲いいですね」
そんな私たちのやりとりを、三山さんは左前にいるので右肩越しに、天音さんは右前にいるので左肩越しに、こちらへ首を曲げていました。発言したのは、天音さんの方です。
「ええ」
間髪入れずに、啓介は肯定しました。
「羨ましいの、天音ちゃん?」
ここぞとばかりに、三山さんが口を挟みました。私たちに向いていたニヤニヤが、天音さんに対象を移します。
「羨ましい……。そうですね、羨ましいかもしれないです」
「あら、素直に認めちゃうか。もっと面白いリアクションするかと思ったのに」
ですが、狙いがはずれて、三山さんは目をしばたたかせました。
「でも、天音ちゃん美人じゃない。男の子から人気あるんじゃないのー?」
すると今度は、また別の切り口でからかいにいきました。たくましいというか、なんというか。
「もう。三山さんは、すぐにそういうことを」
「いいじゃない。若い人の話って、面白いんだもの」
天音さんががっくりとうなだれますが、三山さんは一向に気にする様子がありませんでした。
「で、どうなのよ、実際。告白されたりとかないの?」
「ノーコメントです」
顔を上げないまま、天音さんは弱々しく答えました。
十七時五十五分。私たちは、日橋家へとたどり着きました。
中心街から離れた住宅街にある家の一つで、青い屋根を持つ二階建ての一軒家です。
「じゃあ、お母さんを呼んで来ますから、ちょっと待っててください」
二人で玄関から迎えたいということで、私たちを門の前に置いて、天音さんは家の中へ入っていきました。
「それにしても、家に呼ばれるなんて、ずいぶん仲がいいんですね」
今度は、私が自分で尋ねました。
「そうね。昔から一番仲がよかったし。それに……」
いつも朗らかな三山さんが、珍しく目線を落としました。
「それに……?」
彼女の意味ありげな態度を不思議に思い、私は続きを訊こうとしましたが、できませんでした。ただならない事態が訪れたために。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁ!!」
それは、甲高い悲鳴でした。間違いなく、目の前に建つ家から聞こえてきたものでした。
「なっ、何!?」
慌てる三山さんを横目に、
「……啓介!」
「さすが沙夜。かなわないな」
私たちは家の中に踏み込みました。
「えっ、ちょっと二人共!?」
後ろから三山さんの声が聞こえましたが、無視して玄関に滑り込み、ドアを閉めます。
家の中は静かでした。というより、静かすぎます。正面左にある、リビングへ続いているのだろう廊下の先からテレビの音はしますが、料理をしているような音は一切ありません。右には二階に上がる階段がありますが、そちらからも物音は聞こえませんでした。
「沙夜、あれ」
とりあえず靴を脱いでいると、先に上がった啓介が廊下の途中にある落ちているものを指差しました。私もそれを見ます。
「電話?」
床に破片を飛び散らせ、受話器部分も吹き飛んでいる、電話機でした。二人で近づいて確認します。
「沙夜、ハンカチあるか?」
「うん。はい」
「ありがとう」
まだ何があったのかは分かりませんが、最悪を想定し指紋を残さないようハンカチ越しにいじります。
「コードが切れてる。本体も反応なし。明らかに壊れてるな」
どうやら、見た目どおりのようです。
「リビングに行こう」
「そだね」
素人にできる検証を済ませ、啓介が立ち上がりました。私も同意します。
「ま、待って!」
と、玄関のドアが開いて、三山さんが遅れて入って来ました。慌てながら靴を脱ぎます。
「入ろう」
どうせリビングはすぐそこです。彼女が横に並ぶのを待ってから開ける必要はありません。リビングへのドアへ近づき、ハンカチを手にしたままの啓介が、思い切り開きました。
「あっ、あ……」
啓介の脇から顔を出した私の目にまず入ったのは、腰を抜かし、青い顔をしてテーブルの足に寄りかかっている天音さんでした。声にならない声を出しています。私たちから見て左側につけっぱなしのテレビがあることから、おそらく右にあると思われるキッチンの何かから目を離せないらしく、私たちの方をまったく見ません。
「天音ちゃん!」
目を見開き、口をパクパクさせている彼女を見て、私たちを押しのけ三山さんが駆け寄って行きました。
「どうしたの、天音ちゃん!?」
「あ、うあ……」
肩に手を回し問いかけましたが、天音さんは返事すらまともにできていませんでした。
「いったい何が……」
そして三山さんは首を曲げ、彼女の視線の先にあるものを確認し、絶句しました。私と啓介も、彼女たちが目にしているものが見える位置に動きます。
やっぱり、そこはキッチンでした。ただ、そこにあったのは、魚のでも牛のでも豚のでもなく、仰向けの状態で目を見開き倒れ、首に延長コードを巻かれている、調理なんてできそうにない、人間の死体でした。
「まさか、本当に起きるなんてな」
啓介がひそかに言いました。