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最凶公爵令嬢は微笑まない―誰も、彼女の季節を止められない―  作者: 玉響すばる


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第35話 踏み込みすぎない強さは、相手を見捨てることとは少し違う

 人はしばしば、関わることを優しさだと思い、距離を取ることを冷たさだと思う。


 だが実際には、その逆であることも少なくない。


 今の自分が踏み込めば、相手の物語に自分を戻してしまう。

 今の自分が言葉をかければ、相手にまた別の期待を生ませてしまう。

 そう分かっている時に、あえて近づかないことは、時に最も理性的な配慮になる。


 ただしそれは、見た目にはひどく冷たく映る。


 アシュベルン公爵邸の朝は、ここ数日と同じく穏やかだった。


 婚約解消後の余波はなお残っているものの、レティシアの周囲ではもうそれが日常の主題ではない。領地の事務、春に向けた調整、社交の再配列。彼女の時間は完全に次の季節へ向かっていた。


 書斎の机には、領内の修繕見積、会計の試算表、そして数通の返書が並んでいる。レティシアはそのうち二つへ短く指示を書き入れ、三つ目を閉じたところで、セバスチャンが新しい便りを持って入ってきた。


「ヴァルメル夫人より別邸へ返信があったようです」


「そう」


 レティシアは顔を上げる。


「熱を足した?」


「いいえ。むしろ慎重です。急がず、考える時間を持つべきだと」


 その報告に、レティシアはわずかに目を細めた。


「……上手いわね」


「取り込むための、でございますか」


「ええ。本当に雑な人間なら、ここで“あなたは素晴らしい”“今すぐ来るべきです”と焚きつける。でも、その程度では長くは持たないもの。今のフィオナに必要なのは、押されることではなく、自分で選んでいると感じられる余白だと分かっている」


 セバスチャンは静かに頷く。


 それはたしかに巧妙だった。

 相手が未熟であるほど、露骨な誘導は警戒を生む。だが、十分に考えさせてくれる相手だと感じれば、人はその相手へ自発的に信頼を寄せやすい。


 つまり今エレノアが作っているのは、従属ではなく信頼の形をした依存の入口だった。


「王妃殿下は動かれますか」


「まだ動かないでしょうね」


 レティシアは淡々と言う。


「この段階で止める理由が薄いもの。フィオナが少しでも自分の内側を見る方向へ寄っているなら、外から遮る方がむしろ危ない」


 そこに、彼女自身が関わる余地もない。


 それを理解しているからこそ、レティシアはその件へ自分の感情を戻さなかった。


「お嬢様は、本当に一切お関わりにならないのですね」


 セバスチャンのその問いは、確認に近かった。


 レティシアは少しだけ考え、それから正直に答える。


「関わるべき理由がないもの」


「お気持ちの上でも、ですか」


「……なくはないわ」


 その返答は珍しく曖昧だった。


「でも、気持ちがあることと、そこへ手を伸ばすことは別よ」


 彼女は椅子の背へ軽く体を預ける。


「今のフィオナが私に何かを言われたら、きっとそこへ意味を乗せるでしょう。まだ見捨てられていないとか、まだ気にかけているとか、逆に最後まで勝者の余裕で見下しているとか。どう転んでも、あの子の中で私が物語の中心へ戻ってしまう」


 それは避けるべきだった。


 終わったはずの関係へ、勝者側がわざわざ戻ることには、しばしば自己満足以上の意味がない。

 むしろ相手に“まだ自分はこの人の中で重要だ”という誤認を与えかねない。


「だから、踏み込まないのですね」


「ええ」


 レティシアは短く頷く。


「それが冷たいように見えても、今はその方がましよ」


 一方、別邸ではフィオナがエレノアからの新しい返書を読み終えたところだった。


 文面は驚くほど穏やかだった。


 見学で感じたことを急いで結論づける必要はないこと。

 誰かの役に立ちたいと思う気持ちと、自分が必要とされたいと思う気持ちは、どちらがあってもおかしくないこと。

 それらを無理に綺麗に分けるより、今はただ、どちらが残り続けるのかを見つめればよいこと。


 そして最後に、こうあった。


 ――今すぐ次を決める必要はありません。考える時間を持てることもまた、恵みの一つです。


 その言葉に、フィオナはしばらく視線を止めていた。


 急がなくていい。

 決めなくていい。

 それは王城の「静養していなさい」とは違う響きに聞こえた。


 王城の言葉は、彼女にとって“動くな”に聞こえた。

 だがエレノアの言葉は、“あなたが自分で決めるまで待つ”に聞こえる。


 同じく急がせない態度でも、受け取りはまるで違う。


 それは、言葉の差というより、フィオナがその相手へ何を期待しているかの差だった。


「……ずるいわ」


 ふと、そんな言葉が口から漏れた。


 自分でも意外だった。

 エレノアへ向けたわけではない。

 むしろ、自分自身へ向けた苦笑いに近い。


 こうして待たれるだけで、信じたくなってしまう。

 押しつけないから、余計に自分で選んでいる気になってしまう。


 そのことに、フィオナはぼんやりと気づき始めていた。


 人は、あからさまに支配されることには反発できる。

 だが、自分の自由を尊重されているように感じる関係には、むしろ深く入り込みやすい。


 それが悪意か善意かは、まだ分からない。

 ただ少なくとも、自分がその構造へ惹かれていることだけは分かった。


「フィオナ様」


 女官が昼食の知らせを持って入る。


「すぐに参ります」


 そう答えた自分の声が、少しだけ前より落ち着いて聞こえた。


 それは回復とも言えるし、別の依存の入口へ安心しているとも言える。

 どちらなのかは、まだ本人にも分からない。


 王城では、その日エドガルドが地方視察の最終通達へ目を通していた。


 出発は明朝。

 同行者は最低限。

 受け入れ側への事前負担を避けるため、行程の詳細は直前まで絞る。


 その一つひとつへ目を通し、必要な修正がないことを確認したあと、彼は紙を閉じた。


 最近、こうした確認の時間が以前ほど苦ではなくなっていた。

 退屈ではある。

 だが、この退屈さが物事を壊れにくくするのだと、今は分かる。


「殿下」


 文官が低く声をかける。


「視察中、現地で孤児院併設施設との接点もございます」


「そうか」


「事前に何かお考えは」


 その問いに、エドガルドは少しだけ間を置いた。


「特別なことはしない」


 そして続ける。


「見たままを見る。必要以上の言葉も、演出もいらない」


 それは自分への戒めでもあった。


 可哀想に見える者を前にした時ほど、自分が何者として振る舞いたいかを先に決めない。

 まず見る。

 その現実を、綺麗な物語へ変換しない。


 彼はようやく、その重要さを身体で覚え始めている。


 アシュベルン公爵邸では午後、レティシアが領地の春先の巡回予定を整理していた。


 エドガルドが地方へ出る。

 フィオナは別邸で次を考えている。

 その両方が、今の自分に直接関わるわけではない。


 それでも世界は少しずつ動いていく。


 だから彼女もまた、自分の動きを止めない。


「お嬢様」


 セバスチャンが訊く。


「王太子殿下は、今回の視察でさらに変わると思われますか」


 レティシアは手元の予定表へ視線を落としたまま答える。


「変わる機会にはなるでしょうね」


「機会、でございますか」


「ええ。数字の後ろにある現場を見れば、きっとまた少し理解が増えるわ。でも、それで一気に成熟するわけではない。人はそんなに急には変わらないもの」


 その言い方には、妙な期待も軽蔑もない。

 ただ、現実的な観察があるだけだ。


「フィオナ様も」


「同じよ」


 レティシアは顔を上げる。


「一通の手紙、たった一度の見学、それだけで誰かが完全に変わるなら苦労しないわ。大事なのは、そのあと何を繰り返すかよ」


 それは本質だった。


 人は瞬間では変わらない。

 変わったように見える瞬間はある。

 だが本当に差になるのは、そのあとに選ぶ繰り返しだ。


 夜、別邸でフィオナはエレノアからの返書を机へ置き、長いこと手を触れなかった。


 理解されているように感じる。

 急かされない。

 綺麗でなくてもいいと言われる。


 その優しさは、今の自分にとって確かに救いだった。


 でも同時に、心の奥で別の声もしている。


 この人に寄りかかりすぎたら、また同じことになるのではないか。

 必要とされる場所を求めていたはずが、今度は“理解してくれる人”を必要としているだけになるのではないか。


 その疑いを、自分の中に見つけたこと自体が小さな変化だった。


 フィオナはまだ未熟だ。

 まだすぐに揺らぐ。

 まだ、誰かの言葉に救いを求める。


 けれど今は、ただ救いへ飛びつくだけではなく、“自分が飛びつこうとしている”ことに少しだけ気づける。


 それは大きい。


 踏み込みすぎない強さは、相手を見捨てることとは少し違う。

 同じように、誰かへ寄りかかりたい気持ちを持つことも、それ自体が即座に間違いなのではない。


 大事なのは、その構造へ自分で気づけるかどうかだ。


 そうして物語は、少しずつ終盤へ近づいていく。

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