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最凶公爵令嬢は微笑まない―誰も、彼女の季節を止められない―  作者: 玉響すばる


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第29話 見たい未来がある時ほど、人は現在の自分を見誤る

 未来を思い描くことは悪くない。


 むしろ人は、未来の像がなければ今の痛みに耐えにくい。

 問題は、その未来があまりに魅力的に見える時だ。


 そこへ辿り着くために必要なもの。

 今の自分に足りないもの。

 その途中で失うかもしれないもの。


 そうした現実の手触りが、希望の光に消されやすくなる。


 別邸の午後、フィオナは二通目の返書を書き終えていた。


 文面は慎重に整えてある。

 見学の件について、もし本当に差し支えがないなら、静かな形で話を伺いたいこと。

 自分の力がどのように役立つのか、現場を知りたいと思っていること。

 そして、急がせる意図はなく、あくまで夫人のご都合を優先すること。


 何度も読み返し、言葉の角を削り、ようやく封をした。


 この慎重さが、自分を少し大人にしたような気もした。

 以前のように感情のまま何かをぶつけてはいない。

 相手の都合にも配慮している。

 ちゃんと考えている。


 そう思いたかった。


 だがその実、彼女の胸の奥には、もうすでに一つの未来像が膨らみ始めていた。


 自分が地方の施設へ行く。

 子供たちを癒やす。

 人々が感謝する。

 王都にもその話が伝わる。

 そしていつか――。


 その“いつか”の先を、フィオナはわざと最後まで明確にしなかった。

 明確にすると、自分がまだ王都やエドガルドを意識していることが露骨になるからだ。


 だが、曖昧にした願望ほど、心の中では強く育ちやすい。


「これで……いいのよね」


 封を指先でなぞりながら、そう呟く。


 女官が内容確認のためにそれを受け取る時、フィオナは以前より落ち着いて見えた。

 少なくとも外からは。


 だが落ち着いているように見える時ほど、人は自分の思い込みを深く固定していることもある。

 激情は表に出るぶん修正しやすいが、静かな確信は本人にも揺らぎとして自覚されにくい。


「お預かりいたします」


 女官が一礼する。


 フィオナは頷きながら、胸の内で次の段階を考えていた。


 返事はいつ来るだろう。

 見学の話は進むだろうか。

 もし進むなら、どういう装いで行くべきだろう。

 王家へはどう説明されるのだろう。


 考えることがある。

 待つだけではない。

 その感覚が、彼女に一時的な安定を与えていた。


 一方、王妃宮では書状確認の記録がいつも通り淡々と処理されていた。


 ヴァルメル夫人宛の再返信。

 内容は施設見学への関心表明。

 急迫性なし。敵対性なし。

 通達どおり、記録の上で送付可。


 記録を受けた王妃は、紙へ視線を落としたまま言う。


「進みますね」


 側仕えが答える。


「はい。少しずつ」


「焦りは減っているように見える?」


「表面上は」


 王妃はそこで小さく息を吐いた。


 表面上。

 その言い方がすべてだった。


 人は次の目標が見つかると、いったん落ち着いて見える。

 だがその落ち着きが、現実を受け入れた結果なのか、新しい幻想へ移っただけなのかは別問題だ。


「見学が具体化したら、別邸側の同行者を一人増やしなさい」


「監視を強める形になりますが」


「いいえ。見取りを増やすの」


 王妃の言葉は正確だった。


 抑えつけるための監視ではない。

 本人が何を見て、何に反応し、どういう解釈をするのかを把握するための人手だ。


 新しい場所は、本人の願望を強化することもあれば、逆に幻想を壊すこともある。

 どちらへ転ぶかは、事前には分からない。


 だからこそ、見ておく必要がある。


 エドガルドはその頃、地方視察日程の調整を詰めていた。


「この日程では移動が強行すぎます」


 文官の指摘に、彼は紙を引き寄せた。


「では一泊増やせ。その代わり視察先を一つ削る」


「承知いたしました」


 やり取りは実務的で、無駄がない。


 以前なら、詰め込み、見せ場を増やし、少々無理でも押し切ろうとしたかもしれない。

 だが今は、無理な工程がどれだけ現場を歪ませるかを想像できるようになっていた。


 小さな修正だ。

 だが、その小さな修正の積み重ねこそが人を変える。


「殿下、沿岸部の施療所は見送りますか」


「今回は北部に絞る」


「理由を伺っても」


「広げすぎると何も見えなくなる」


 その言葉を口にした瞬間、エドガルド自身が少しだけ黙った。


 広げすぎると何も見えなくなる。

 それは視察日程だけではない。

 あの夜、自分は正義も感情も体面も、一度に全部扱えると思って失敗した。


 今は違う。

 一つずつでなければ、持てない。


 その変化は、誰かへ誇るようなものではない。

 だが確かに彼の中に根を下ろし始めていた。


 アシュベルン公爵邸では、レティシアが珍しく午後の時間に剣を取っていた。


 鍛錬場ではない。

 屋敷内の軽い稽古場で、身体をほぐす程度の動きだ。


 大きく振らない。

 だが軸はぶれず、無駄もない。


 考え事を整理する時、彼女は時々こうして身体を動かす。

 頭の中だけで物事を回しすぎると、感情が見えなくなるからだ。


 数本だけ流したあと、木剣を下ろす。


「お嬢様」


 セバスチャンが新しい報告を持って入ってくる。


「フィオナ様、見学の件を一歩進めました」


「ええ、そうでしょうね」


 汗一つかいていないような声で、レティシアは布を受け取る。


「かなり乗っていますな」


「乗るでしょう。新しい未来を想像できている時、人は自分の現在地を甘く見積もるもの」


 彼女は木剣を壁へ戻しながら続ける。


「“行けば変われる”と思うのよ。もちろん、変わることもある。でも、本当に変わるなら、先に自分の中の何が未整理かを気づかないといけない」


「今のフィオナ様には」


「まだ難しいわね」


 レティシアは即答した。


「たぶん今は、“必要とされる場所がある”という事実だけでかなり救われているもの。救われている時に、その希望の危うさまでは見にくいわ」


 それは別にフィオナだけの話ではない。

 人間は誰でもそうだ。


 苦しい時に差し出された希望は、まず痛みを和らげる。

 その鎮痛作用があるうちは、構造分析まで頭が回りにくい。


「では、見学に行った方がよいのですか」


 セバスチャンの問いに、レティシアは少し考えた。


「ええ。一度は行くべきでしょうね」


「危うくとも?」


「危ういからこそよ」


 彼女は静かに言う。


「頭の中の理想だけでは、自分が何を求めているかは分からないもの。実際の場所へ立って、匂いを嗅いで、雑務を見て、感謝の重さを知って、それでもなおそこへいたいと思えるかどうか。そこではじめて、自分の混ざりものが見える」


 つまり、鏡だ。


 見学は未来の約束ではない。

 今の自分の欲望と限界を映す場になる。


 夕方、フィオナは窓辺で空が暗くなるのを見ていた。


 返書を出した。

 今は待つしかない。

 だが以前の“何もない待ち”とは少し違う。


 待っている先に、形のあるものがある気がする。

 場所。

 役割。

 新しい自分。


 その感覚だけで、胸の空洞が完全ではないにせよ、少し埋まる。


 そして同時に、彼女はまだ気づいていない。


 その空洞を埋めているのが、自分の中から湧いた確かな覚悟ではなく、“そこへ行けば何かになれるかもしれない”という未来像そのものであることに。


 未来像へ依存している状態は、不安定だ。

 けれど不安定だからこそ、本人には推進力として感じられる。


「……行ってみたい」


 初めて、その願いをはっきり言葉にした。


 部屋の中には誰もいない。

 だからこそ、本音に近い。


 役に立ちたい。

 必要とされたい。

 そして、今の自分から少しでも遠くへ行きたい。


 その全部が一つになった言葉だった。


 夜、王都は静かに更けていく。


 王太子は構造を学び、公爵令嬢は境界を守り、元聖女は借り物の希望を少しずつ自分の願いへ変え始めている。


 それぞれの進み方は遅い。

 だが、遅いからこそ本質が出る。


 役割を与えられることと、自分で立てることは違う。

 その違いは、言葉ではなく、実際に歩いてみた時の反応でしか分からない。


 フィオナが本当に何を求めているのか。

 それが露わになるのは、もう少し先だった。

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