因果視の薬師 — 盲いた眼で世界を診る者
俺が最後に見た色は、白だった。
病院の天井。蛍光灯の光。無機質な白が視界を埋め尽くして、それから——何もかもが途切れた。
心臓が止まる瞬間、痛みはなかった。ただ、後悔だけがあった。
あの数字。あの投与量。0.5mg。たった0.5mgの判断が、一人の女性から意識を奪った。
灰原暁、三十二歳。元製薬会社の臨床開発職。死因は心臓発作。引きこもり生活三ヶ月の末の、誰にも看取られない死。
——まあ、妥当な結末だろう。
判断を間違えた人間に、これ以上の人生は必要ない。
そう思って目を閉じたはずだった。
◇
頬に草の匂いがした。
冷たい風が耳を撫でる。遠くで鳥が鳴いている。天井の白はどこにもなく、代わりに広がっていたのは、突き抜けるような青空だった。
身体が軽い。異様に軽い。
手を顔の前にかざすと——小さい。骨張った三十代の手ではなく、まだ肉がつききっていない、少年の手だった。
「……は?」
声まで違う。高い。若い。十五、六の声だ。
混乱する頭で上半身を起こす。草原だった。見渡す限りの緑の丘陵が続いている。遠くに森。もっと遠くに、石造りの塔のようなものが霞んで見える。
日本じゃない。というか、地球ですらない気がする。
——いや。
それよりも。
視界の端で、何かが光っていた。
草の葉から、細い糸のようなものが伸びている。透明に近い金色。それは隣の草へ繋がり、さらにその先の土の中へ潜り、地面の下を無数の脈として走っている。
木を見上げれば、幹から枝へ、枝から葉へ、葉から空気中へと、光の糸が網目のように張り巡らされていた。
世界が——糸で、できていた。
「なん、だ、これ……」
手を伸ばして糸に触れようとする。指先が光の筋をかすめた瞬間、頭の中に映像が流れ込んだ。
——この草は三日前に種から芽吹いた。土壌の養分を吸い上げ、日光を浴び、昨夜の雨で根を伸ばした。来週には花を咲かせ、虫を呼び、受粉し、種を落とす。その種はやがて——
因果。
原因と結果。過去から未来へと連なる、あらゆる事象の繋がりが、目に見えている。
製薬会社にいた頃、灰原暁が誰よりも執着していたものだ。薬が体内でどう作用し、どんな結果を生むか。因果関係の解明。それを視覚的に、直接、この目で見ている。
胸が締めつけられた。
こんな目があの時にあれば——いや、やめろ。考えるな。
立ち上がろうとして、足がもつれた。慣れない身体だ。少年の重心がわからず、膝をついた。
そのとき、背後から声がした。
「おや。森の外れに子供が倒れてるなんて珍しいね」
振り返ると、老婆がいた。
白髪を無造作に束ね、使い込まれた革のエプロンをつけている。背中に巨大な籠を背負っていて、中には様々な植物が詰まっていた。
——そして、彼女の身体からも、因果の糸が無数に伸びていた。
草や木とは比較にならない密度。何十年分もの因果が幾重にも絡み合い、複雑な模様を描いている。その中に、ひときわ暗い——黒に近い糸が一本、心臓のあたりから伸びて、どこか遠くへ消えていた。
あれは何だ。
「どうしたんだい、ぼうっとして。怪我はないかい?」
「……あ、いえ。大丈夫です」
「大丈夫には見えないけどね」
老婆は籠を下ろし、しゃがみ込んで俺の顔を覗き込んだ。皺だらけの顔。だが、目だけが鋭い。薬品の匂いがする。消毒液ではなく、もっと原始的な——薬草を煮詰めたような、土と緑が混じった匂い。
「名前は?」
「……灰原——いや」
名乗りかけて、口を噤んだ。灰原暁はもう死んだ。ここが異世界なら、前世の名前に意味はない。
「アッシュ。アッシュ、です」
灰。灰原の灰。自分の残骸みたいな名前だが、他に思いつかなかった。
「アッシュか。私はヘルガ。この辺りで薬師をやってる」
薬師。
その言葉が胸に刺さった。薬に関わる人間。前世の自分と、同じ側の人間。
「あんた、行くあてはあるのかい?」
「……ありません」
「なら、うちに来な。薬草の仕分けくらい手伝えるだろう」
ヘルガは立ち上がり、籠を背負い直した。振り返りもせずに歩き出す。
ついて行くしかなかった。
◇
ヘルガの家は、村のはずれにある石造りの小屋だった。
一歩入った瞬間、前世の記憶が反応した。棚に並ぶ乾燥した薬草。すり鉢と乳棒。蒸留器のような器具。瓶に詰められた軟膏や液剤。
ラボだ。設備は原始的だが、構造は同じだ。薬を作る場所。
「あんた、薬草に詳しいのかい?」
俺が棚を見回しているのに気づいたヘルガが訊いた。
「……少しだけ」
「ふうん。なら明日から手伝いな。ただ飯食いは嫌いでね」
そうして、薬師の助手としての生活が始まった。
最初の数日で、いくつかのことがわかった。
ここはフェルデン王国の辺境、ミルトの村。人口二百人ほどの小さな集落。ヘルガは村唯一の薬師で、住民の健康を一手に引き受けている。
そして——因果視。この目で見える光の糸について、ヘルガは何も知らなかった。他の誰も見えていない。俺だけの能力。俺だけの呪い。
使わないと決めた。
因果が見えたところで何になる。前世でも、データは見えていた。因果関係を分析する専門家だった。それでも間違えた。見えていても、正しい判断ができる保証なんてどこにもない。
むしろ、見えすぎることが怖い。
ヘルガの心臓から伸びる黒い糸。あれが何を意味するのか、深く見ればわかるかもしれない。だが、それを知ってどうする。知ったところで正しい対処ができなかったら。また誰かを傷つけたら。
俺は薬草を仕分け、すり鉢で粉を挽き、瓶を洗い、棚を整理した。言われたことだけをやる。判断しない。考えない。ただの助手。それでいい。
◇
異変が起きたのは、村に来て十日目の夜だった。
悲鳴で目が覚めた。
小屋の外に出ると、村の中央に人だかりができていた。松明の光の中、一人の男が地面に倒れている。
「トーマスが急に倒れた!」
「息はある、だが目を覚まさない!」
ヘルガが駆けつけた。男——トーマスの脈を取り、瞳孔を確認し、口の中を覗く。
「熱はない。外傷もない。毒か、あるいは……」
ヘルガの表情が曇った。何か心当たりがあるような、しかし口にしたくないような顔。
俺は少し離れた場所から見ていた。見ないようにしていた。だが、因果の糸は勝手に目に入る。
トーマスの身体から伸びる糸が、おかしかった。
通常、人間の因果の糸は無数の方向へ広がっている。家族へ、仕事へ、過去へ、未来へ。生きている人間の糸は、たとえ弱くても、動いている。
トーマスの糸は——止まっていた。
いや、正確には、切れかけていた。身体から伸びる糸が一本ずつ、端からほつれるように消えていく。まるで、存在そのものが世界から剥離していくかのように。
そして、その消えていく糸の先に——何かが見えた。
黒い靄。糸を食い散らかすように蠢く、暗い何か。トーマスの因果を、侵食している。
背筋が凍った。
ヘルガが周囲に指示を出している。「湯を沸かせ」「あの薬草を持ってこい」。的確だ。だが、俺にはわかる。ヘルガの処置は症状への対応であって、原因への対処ではない。
因果視を使えば、原因が特定できる。あの黒い靄が何なのか、どこから来ているのか。深く見れば、わかる。
——使うな。
頭の中で声がする。前世の自分の声だ。
——お前が関わると、人が傷つく。お前の判断は間違える。見えていても、間違える。黙って見ていろ。ヘルガに任せろ。お前はただの助手だ。
拳を握った。爪が掌に食い込む。
トーマスの因果の糸が、また一本消えた。
翌朝、トーマスは目を覚まさなかった。
ヘルガはあらゆる薬を試したが、効果はなかった。トーマスは生きている。呼吸もしている。だが、目を開けない。話さない。反応しない。まるで——意志だけが、抜け落ちたかのように。
「蝕み、だろうね」
ヘルガが小さく呟いた。
「蝕み?」
「昔から、時々起きるんだ。人から意志が消える。目から光が消えて、ただ息をしているだけの抜け殻になる。原因はわからない。治療法もない。大昔は呪いだと言われていたが……」
ヘルガは窓の外を見た。その目に、かすかな恐怖が滲んでいた。
「最近、増えてるんだよ。蝕みにかかる人間が」
その日の夜、もう一人倒れた。
若い女性だった。パン屋の娘で、名前はアンナ。朝は元気に笑っていたのに、夕方には地面に崩れ落ち、目を開けたまま動かなくなった。
因果の糸が、アンナからもほつれていくのが見えた。あの黒い靄が、また。
三日目、四日目。毎日のように新たな患者が出た。
村にはわずか二百人しかいない。五人目が倒れた頃には、恐慌が広がっていた。
「ヘルガ先生、何とかしてくれ!」
「うちの子供が昨夜から目を覚まさないんだ!」
ヘルガの小屋の前に、村人が列を作った。ヘルガは寝ずに対応し続けていた。だが、打つ手がない。症状を和らげることすらできない。
俺は奥の部屋で、薬草をすり続けていた。
言われたことだけをやる。判断しない。考えない。ただの助手。
——嘘だ。
考えている。ずっと考えている。因果視を使えば原因がわかるかもしれない。あの黒い靄の正体を突き止められるかもしれない。だが——
「アッシュ」
ヘルガの声がした。振り返ると、彼女は薬棚に寄りかかっていた。疲労が顔に刻まれている。六十を超えた身体で、三日間ほぼ眠っていない。
「……はい」
「あんた、何か知ってるね」
心臓が跳ねた。
「何か見えてるんだろう。最初にうちに来た時から、あんたの目は普通じゃなかった。薬草を見る目が、ものを知ってる人間の目だった。それだけじゃない。患者を見る時、あんたは——患者じゃなくて、その周りの空気を見てる」
否定しようとした。口が開かなかった。
「言いたくないなら言わなくていい。ただ、一つだけ訊くよ」
ヘルガは俺の目をまっすぐに見た。
「あんたに、できることはあるのかい?」
沈黙。
すり鉢を握る手が震えた。
「……あるかも、しれません。でも」
「でも?」
「——俺の判断が、正しいとは限らない」
声が裂けた。押し込めていたものが溢れかけた。
「前に——前にも、俺は同じような場面で判断を間違えた。自分の判断を信じて、人を傷つけた。だから、もう——」
「ああ、そうかい」
ヘルガの声は、驚くほど穏やかだった。
「あんたは、間違えるのが怖いんだね」
「……はい」
「そりゃそうだ。間違えるのは怖い。特に、その間違いで誰かが傷つくなら」
ヘルガは棚から一つの瓶を取った。中に、黒ずんだ粉末が入っている。
「これは二十年前に作った薬でね。ヤマトリカブトの根を精製したものだ。猛毒だよ。一匙で人が死ぬ」
「なぜそんなものを」
「昔、この村で疫病が出た。大人は耐えられたが、子供には致命的だった。唯一の治療法が、この毒を極微量使うことだった。量を間違えれば死ぬ。多すぎても少なすぎても」
ヘルガは瓶を光にかざした。
「私は八人の子供に投与した。七人は助かった」
「……一人は」
「死んだよ。投与量を、間違えた」
ヘルガの声は震えなかった。だが、瓶を持つ指の関節が白くなっていた。
「その子の名前はレナ。六歳だった。よく笑う子でね。私の小屋に来ては、薬草の匂いが好きだと言ってた」
ヘルガは瓶を棚に戻した。
「二十年経っても、レナの顔を忘れた日はない。量を間違えた。それは事実だ。私の判断が、あの子を殺した」
「……それでも、薬師を続けてるんですか」
「続けてるよ。七人の子供が生きてる。孫もいる。レナの分まで、とは言わない。そんな綺麗な話じゃない」
ヘルガは俺に向き直った。
「ただね、アッシュ。薬を調合するってのは——何を治して、何を諦めるかを、自分で決めるってことだ。正解なんてない。あるのは、自分が選んだ結果だけだ」
「でも——」
「間違えるかもしれない。そりゃそうだ。でもあんた、今この瞬間にも、選んでるんだよ。何もしないって選択を。その結果がどうなるかは、わかってるだろう?」
外から、子供の泣き声が聞こえた。母親が蝕みで倒れたのだ。
因果の糸が見える。
村中を覆い始めた黒い靄が見える。
このままいけば、あと数日で村の全員が蝕みに呑まれる。それが見えている。見えているのに——何もしない。
それは、判断を避けているのか。
それとも、「見殺しにする」という判断をしているのか。
膝から力が抜けた。すり鉢が手から滑り落ち、石の床に硬い音を立てた。
「——怖いんです」
声が震えた。視界が滲んだ。
「また間違えるのが。また誰かを傷つけるのが。俺が関わらなければ、誰も——」
「誰も傷つかない?」
ヘルガの声が、静かに遮った。
「今、目の前で人が倒れてるよ。あんたが関わらなくても、人は傷ついてる。あんたが選ばなくても、世界は選ぶんだ。あんたの代わりに」
レナの瓶が、棚の上で鈍く光っていた。
二十年間、ヘルガはあの瓶をそこに置き続けている。後悔を忘れないために。それでも薬を作り続けるために。
——正解なんてない。あるのは、自分が選んだ結果だけだ。
涙が頬を伝った。前世で泣いた記憶がない。引きこもりの三ヶ月間、泣くことすらできなかった。感情が凍っていた。
今は、泣ける。この少年の身体は、まだ涙を出せる。
「……やって、みます」
声を絞り出した。
「因果視っていうんです。俺の目には、ものごとの因果関係が——光の糸として見える。あの病気の原因も、たぶん——」
「たぶん?」
「——見えると、思います。ただ」
ここからが問題だった。因果視を深く使った時、直感的にわかっていたことがある。視界の端がわずかに暗くなった——草の因果を読んだ、あのたった一回で。
「使うたびに、目が悪くなる。たぶん、何回も使ったら——失明する」
ヘルガは長い沈黙の後、言った。
「それでもやるのかい」
「……わかりません。でも——」
外で、また誰かが崩れ落ちる音がした。
「——今は、何もしないことのほうが怖い」
◇
深夜。村は静まり返っていた。
蝕みで倒れた村人たちは、ヘルガの小屋と村の集会所に寝かされている。意識のない身体が並ぶ光景は、病院の集中治療室を思い出させた。
俺はトーマスの枕元に座った。最初の患者。因果の糸が最も長い時間、侵食されている。
——やるぞ。
目を凝らした。普段は視界の端にぼんやり見えている因果の糸を、意識的に焦点を合わせる。
世界が変わった。
通常の視覚——色、形、距離——が薄れ、代わりに因果の糸だけが鮮烈に浮かび上がる。トーマスの身体から伸びる無数の糸。家族との繋がり。仕事。過去の記憶。未来への因果。そのすべてが、目の前に広がった。
そして——黒い靄。
因果を深く見れば見るほど、それは鮮明になった。靄ではなく、糸だった。黒い糸。通常の因果の糸を覆い、絞めつけ、ゆっくりと窒息させていく寄生的な因果。
その黒い糸を辿る。トーマスから出て、地面を潜り、村の外へ——北東の方角。森を超えた先にある、何かに繋がっている。
頭に映像が流れ込んだ。
——大地を這う黒い脈。それは一つの村だけではなく、無数の集落を結んでいる。蜘蛛の巣のように広がる暗い因果のネットワーク。その中心にいるのは——
途切れた。
視界の右端が、暗くなった。
突然の暗転ではない。じわりと、墨を垂らすように、視野が欠けた。右目の端三割ほどが、闇に沈んだ。
「——っ」
こめかみを押さえた。頭痛。鋭い、錐で刺すような痛み。
それだけではなかった。トーマスの因果を深く見た瞬間、彼の感情が流れ込んできていた。家族への愛情。仕事への誇り。それが蝕みに奪われていく恐怖。暗闇の中で意識だけが残り、叫ぶこともできない絶望。
トーマスの苦痛が、前世のトラウマと重なった。病院のベッドで意識を取り戻さない被験者の女性。あの人も、こんな暗闇の中にいたのか。こんな恐怖を感じていたのか。
吐き気がこみ上げた。
だが——わかった。原因が、見えた。
「ヘルガ先生」
声がかすれていた。右目の視野が欠けている。頭が割れそうだ。それでも、口を開いた。
「この病気——蝕みの原因がわかりました」
ヘルガが燭台を持って近づいた。俺の顔を見て、表情が強張った。
「あんた、目が——右目の色が変わってるよ。瞳が白く濁ってる」
「……代償です。でも、今はそれより」
俺は立ち上がった。膝が震えたが、壁に手をついて耐えた。
「蝕みは、外部からの侵食です。黒い因果の糸が村人の意志に巻きついて、窒息させてる。根っこは村の外——北東の方角にある何かから伸びてきてる」
「北東……マグナの森の奥かい」
「わかりませんが、根を断たなければ村人は助からない。ただ——」
言葉を切った。
根を断つ。それは因果を「操作」することを意味する。因果視で見るだけでなく、因果そのものに介入する。
第三の代償。等価交換。
誰かの因果を動かせば、別の誰かの因果が歪む。それは直感的にわかっていた。因果の糸を見れば見るほど、世界が精密なバランスの上に成り立っていることがわかる。一本の糸を動かせば、全体が揺らぐ。
「——まず、症状を抑える方法を考えます。因果を見て、この蝕みに効く薬の調合を——」
「薬で治せるのかい?」
「因果視で見た限り、黒い糸は患者の『意志』に巻きついています。意志の活動を支えている身体の機能——前世の知識で言えば神経伝達物質に近いもの——を活性化する薬を調合できれば、蝕みの進行を遅らせられるかもしれない」
ヘルガの棚を見る。因果の糸が見える——もう意識しなくても見えてしまう。薬草の一つ一つから伸びる因果が、その効能を教えてくれる。
白い花の薬草。神経を活性化する因果が見える。だが、量が多すぎると心臓に負担がかかる。
青い苔。精神を安定させる因果。蝕みの侵食速度を遅くする可能性がある。
そして——棚の奥に、見覚えのある因果のパターンを持つ植物があった。地球のセントジョーンズワートに似た因果構造。抗うつ作用。意志の回復を促す。
「この三つを組み合わせます。白花草を四、青苔を一、この黄色い花を二の比率で。煎じる温度は——」
前世の薬学知識と、因果視で見える因果のパターンが重なる。データではなく、因果を直接見て調合する。これまでの製薬研究の延長線上にあって、しかし全く異なるアプローチ。
「——六十度で一刻。それ以上加熱すると白花草の因果が変質して毒性が出ます」
ヘルガが黙って材料を揃え始めた。疑問を挟まなかった。薬師としての直感が、俺の処方の正しさを察知したのかもしれない。
調合に二時間かかった。
出来上がった薬液は、淡い琥珀色をしていた。因果の糸で見ると、液体から穏やかな金の糸が揺らいでいる。
「トーマスに飲ませてください」
ヘルガがトーマスの口に薬液を含ませた。
因果視で見守る。右目の視野はまだ欠けたままだ。頭痛も続いている。だが、見なければ。
薬液の因果がトーマスの体内に広がっていく。金の糸が、黒い糸と接触する。反発。拮抗。黒い糸が僅かに緩む——完全には剥がれないが、締めつけが弱まっていく。
「……指が動いた」
ヘルガの声。
トーマスの右手の指が、かすかに震えた。目は開かない。意識も戻らない。だが、完全な静止から、微かな反応が現れた。
「効いてる。進行を遅らせることはできる。でも——」
「根本的には治せない、か」
「根を断たない限り。北東の、あの黒い因果の根源を」
ヘルガは長い息を吐いた。
「マグナの森の奥は、この辺りの人間は近づかない。化け物が出るとか、入ったら帰れないとか、昔から言い伝えがある」
「……行かなきゃいけないと思います」
自分の声が信じられなかった。判断を避け続けてきた人間が、自分から危険に踏み込もうとしている。
「今日は休みな」
ヘルガが言った。
「あんたの右目、もう見えてないだろう。これ以上無理をしたら——」
「右目は端が欠けてるだけです。まだ——」
「嘘おつき。白く濁った目で見えてるわけがないだろう」
言い返せなかった。
「薬を全員に行き渡らせる。時間は稼げる。森へ行くのは、あんたの目が少しでも回復してからだ」
「回復——するんですか」
「知らないよ。でも、使い物にならない身体で突っ込むのは、勇気じゃなくてただの自殺だ。薬師なら、自分の身体も診ろ」
ヘルガの声は厳しかった。だが、その因果の糸——心臓から伸びる糸に、温かい色が混じっていた。心配している。この老婆は、出会って十日の見ず知らずの少年を、本気で心配している。
「……わかりました」
横になった。
天井を見上げる。右目の視野の端は暗いままだ。左目は正常。因果の糸が、天井の木目からも見える。
——あと何回、使える。
一回の深い使用で、右目の視野の三割が欠けた。単純計算で、両目合わせてあと五、六回。それを超えたら——
完全な闇。
怖い。怖いに決まっている。
だが、外で眠っている村人たちの因果の糸が——黒い靄に蝕まれていく糸が——瞼の裏にちらついた。
トーマスの指が動いた時、ヘルガの目に浮かんだ光。
前世では、ああいう光を見たことがなかった。病院の蛍光灯の下で、書類の数字だけを見ていた。患者の顔を知らなかった。因果関係はデータの上にしか存在しなかった。
ここでは、因果が見える。人と人の繋がりが見える。選択の重みが、光の糸として見える。
だからこそ——怖い。
見えるからこそ、間違えたときの代償が、はっきりとわかる。
灰原暁は、それが怖くて逃げた。
アッシュは——
まだ、わからない。
でも、明日の朝が来たら、薬を作る。村人に飲ませる。時間を稼ぐ。
そしていつか——たぶん、遠くないうちに——あの森に入る判断を、しなければならない。
右目の暗闇が、その覚悟の重さを、静かに教えていた。
◇
翌朝。
全患者に薬を投与し終えた頃、村の入り口に見慣れない人影があった。
フードを深く被った細身の人物。背は俺より少し低い。村人が警戒する中、その人物はフードの下から周囲を見回し——俺と目が合った。
因果の糸が見えた。
その人物から伸びる糸の一本が、北東へ——マグナの森の奥へ——まっすぐに伸びていた。
そして、その糸の色は——
黒と、金が、螺旋のように絡み合っていた。
蝕みと同じ黒。だが、それと対を成すように、強い金色の糸が共存している。蝕みの根源に繋がりながら、蝕まれていない。
「——あなた」
フードの下から、少女の声がした。若い。俺と同じくらいか。
「あなたの目。普通じゃないですね」
少女がフードを上げた。
銀色の髪。深い紫の瞳。整った顔立ちに、どこか影のある表情。
そして——その瞳の奥に、見覚えのある光があった。
因果を、見ている目。
俺と同じように、世界の因果が見える目。
「私はリーゼ」
少女は——後に世界の命運を分ける存在となる少女は——小さく微笑んだ。
「あなたに、話さなければならないことがあります。——この蝕みの、本当の原因について」
北東の空が、かすかに翳った。
物語は、まだ始まったばかりだった。




