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最後の嘘

あの日のことを思い返し、孝明は深く息を吐いた。


あの話を聞いてから──

彼の生活は壊れていった。


酒に逃げ、稽古にも行かず、

部屋で泥のように眠り続けた。


それでも彼女は、責めることはしなかった。


ただ、悲しそうに微笑んで、

孝明の髪をそっと撫でながら言った。


「何があったのか分からないけど……私は孝明を信じてるよ」


その声を、遠のく意識の奥で聞いていた。


孝明には分かっていた。


自分さえ手を離さなければ、

彼女は絶対に離れない。


だからこそ──逃げた。


悩んで、悩んで、悩み抜いて。

現実から目をそらし続けて。

そしてついに──


“別れ”という最終手段を選んだ。


決意した瞬間から、後悔だけが押し寄せた。


稽古ばかりで時間を作れなかった。

売れない夢を追い続けて、重荷を背負わせた。


それでも彼女は笑って、

孝明を受け止め続けてくれていた。


悲しくて、苦しくて、切なくて。

だけど──


自分が手を離さない限り、

彼女は永遠に手を離さない。


売れるかも分からない自分のために、

彼女の未来を犠牲にするなんて、絶対にしたくなかった。


だから。


「……別れよう」


バイトを休んで、

彼女の帰りをずっと待ち続けた。


「え?」


驚く彼女に、俯いたまま呟く。


「俺……他に好きな子ができたんだ。

お前より、若くて……可愛い子」


──顔なんて、見られなかった。


泣いているのか。

怒っているのか。

呆れているのか。

悲しんでいるのか。


怖くて、何も見られなかった。


しかし返ってきたのは、淡々とした声。


「そうなんだ……」


俯いたままの彼女。

その沈黙が、何よりも刺さった。


怒ってほしかった。

罵ってほしかった。


「最低!」のひと言でもいい。

平手打ちでもいい。


その方が、まだ楽だった。


だが彼女は──何も言わなかった。


その沈黙から逃げるように、

孝明は自分でも覚えていないほど酷い言葉を吐き続けた。


思いつく限りの、女なら傷つく言葉ばかり。


その中の一つに、彼女が微かに反応した。


ゆっくり顔を上げたその瞳は、

悲しそうに笑っていた。


そして──

堪えていた涙が、ぽろりと落ちた。


孝明の心は悲鳴を上げた。


「……俺、早くこの部屋出るから」


絞り出すように言った。


彼女は涙を拭い、

静かに告げた。


「私が出ていくよ。

ちょうど……来月から本社に異動になったの。

いつ話そうか迷ってたから……ちょうど良かった」


それは、きっと──

彼女の最後の嘘。


孝明は笑おうとしたが、どうしても笑えなかった。


後日、会社の人から聞かされた。


彼女は孝明のために、

本社勤務を断っていた。


惨めだった。

悲しかった。

悔しかった。


そして何より──


“そんな選択をさせてしまった自分”が情けなかった。


孝明が俯いて黙り込むと、

彼女が小さな声で尋ねた。


「……孝明。本当に、好きな人ができたの?」


ハッとして顔を上げる。


そこにいたのは──

散々傷つけられたのに、

まだ孝明を信じようとしている彼女だった。


(なんでだよ……

なんでそんな顔で俺を見るんだよ……)


心が砕けそうだった。


それでも孝明は、

最後の嘘をついた。


そして──

彼女は最後まで取り乱さなかった。


ただ、悲しそうに微笑んで、

孝明を見つめていた。


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