十年の恋が終わった日
「別れよう」
切り出したのは、孝明だった。
いつものように、仕事終わりに夕飯の支度をしていた彼女は、
驚いたように目を見開いた。
「……ど……して?」
その声は震えていた。
「俺はこんな奴だから、結婚してあげられないし」
「そんなの……そんなの望んでない!
私、孝明と一緒にいたいの。ねぇ、何が悪かったの?
直すから、迷惑かけないから……そんなこと言わないで……」
彼女が初めて見せた“弱い姿”だった。
(なんでだよ……!
お前はすごく良い女で、
俺なんかより……ずっとずっとずっと良い男が、
世の中にはいっぱいいるだろ!)
心の中では怒鳴るほど叫んでいた。
なのに、口から漏れた言葉は──
「……もう、たくさんだ」
たった、それだけ。
彼女は泣き出しそうな笑顔で、
それでも最後まで優しい声で言った。
「そっか……ごめんね……」
その“泣き笑い”は、
孝明の脳裏に深く刻まれ、今も消えずに疼く傷になった。
***
翌朝。
彼女は大きな鞄に衣類を詰め込み、
「しばらく友達の家に行くね」
そう言って静かに部屋を出て行った。
数日後。
孝明がバイトから帰ると、
部屋から彼女の荷物は完全に消えていた。
自分の物だけが残された部屋は、
妙に広く、底冷えするほど静かだった。
(……部屋、引っ越さないとな)
ぼんやりと考えながらスーパーの袋を下げて歩いていると、
大家さんにばったり会った。
「菅原さん、こんにちは。
彼女、海外勤務なんですって?
一人暮らし、大変ねぇ〜」
孝明は苦笑するしかなかった。
続く言葉で、思考が一瞬止まる。
「でも助かったわよ。
『来年には戻るから』って言いながらさ、
家賃を一年分まとめて払っていってくれて。
おかげで募集かけなくて済んだの」
──頭が真っ白になった。
孝明は走るように部屋へ戻り、
引き出しをひっくり返して通帳を掴む。
すると、メモが一枚。
『最後の嫌がらせ。
全額、家賃と転居費用に使ってやった!
ざまぁみろ!!』
それは──
二人が“結婚資金”として、
小さな給料から少しずつ貯めてきたお金だった。
孝明は崩れるように床へ座り込む。
「馬鹿野郎……
こんなことに……使ってるんじゃねぇよ……」
通帳を握りしめた手が震える。
そして、止めようとしても止まらない涙が溢れた。
***
その日からだった。
孝明は毎晩、毎晩……酒に溺れるようになった。
意識が飛ぶまで飲んで、
昨日を消すように飲んで、
気づけば朝になっていた。
──まるで。
“最後に見た彼女の涙”を、
自分の中から消してしまいたいかのように。




