第8話 夕ご飯…一緒に、食べよっか
「今日、もう少しだったね」
まだわずかに赤みを残した、暗がりの空。
あれから帰路についた僕たちは、行きに登った石段をゆっくりと下っていた。
「すごい景色だったよ」
「ほんと? なら嬉しい」
「でも……やっぱり僕は、……本当に、絵が描けないんだな」
とっておきの景色だったと思う。
あんな光景を絵に収めたい。そんな衝動が生まれたのは本当だ。
それでも残念ながら、この手は今回も動かなかった。
「イツキくんはやっぱり、どうしても筆の力に頼りたくない?」
早く【黒い筆】の力を頼ればいい。そうすればすぐ片付く話だ。
なのにそれを頑なに拒み続けている自分に、ずっとモヤモヤしていた。
そんな僕の頭をミミさんがぽすんと触れた。
雨のせいでセットが台無しになってしまった髪を、わしゃわしゃっと。
「ねぇ。しょんぼりしちょったら、つまらんとよ?」
「な、なんだよ」
「ほら、偏屈なのがイツキくんでしょ? もっといつもみたいに煽りプレイとかしてこないの?」
「それはミミさんだけだろ」
「私はそんなことしないし」
いや、してた。
そんなことを思っていると、彼女は「よっ、とっ、とっ」なんて声を上げながら一段飛ばしで石段を下っていった。
僕の前に出て、にへっと笑って振り返ったミミさん。
その姿は薄闇と重なり、表情の色まではうかがえない。
それでも頬は、まだ温もりが息づいているように思えた。
……これ以上、彼女を僕のワガママに付き合わせるのはダメだろうな。
「ミミさん」
「なに?」
「ミミさんは僕に【黒い筆】を使わせるのが目的なんだろ? だったら僕の〝渇望〟を満たせるものであれば、別に絵を描くことじゃなくたっていいんだよな?」
「え。イツキくんにそんなこと、他にあるの?」
質問で返されてしまったが、今はそれがあるような気がしている。
ミミさんが〈使い〉になって、どうしても叶えたいと言っていたこと。
それなら、僕がこの筆を使って叶えたっていいんじゃないのか。
そんなことを考えていると、ミミさんの思考は斜め上を飛んでいた。
「は! も、もしかして彼女が欲しい、とか!?」
「彼女? ああ、そうか。そういう渇望もあるのか」
「!? え、冗談だったんだけど! 本気じゃないよね!? あ、いや……確かにイツキくんは年頃の男子……まさか……」
「そうだなぁ、彼女。彼女がいたらなにか変わるかもなぁ」
「ウソ……それ、本気で言ってる……?」
「どうだろうな」
「一応、一応、確認ね。イツキくんって女子のタイプとか、あ、あるの?」
「あるっちゃあるけど」
「そ、それは架空の、たとえばアニメの女性キャラクターのことですか?」
「いんや」
「ということは、現実にいる女性のことですか……?」
「……なんかアキネイターみたいなことしてないか?」
それからミミさんは壊れた機械のようにがしゃがしゃと歩き、僕はその背中を追っていく。
どこからともなく漂ってきたカレーの香りに、ようやく地上が近いことを実感した。
今回は競い合うこともなく、お互い目を合わせて息を揃え、せーので地上に着地。
そして軽く手をタッチし合い、近くのベンチに二人で腰を下ろした。
「お疲れ様でした。暑いのに大変だったでしょ。まだ眠い?」
「一時間も寝ればだいぶマシになったよ。ていうか待たせちゃったよな」
「その間、蚊に刺されないように虫除けスプレー、がしがし掛けておいたから」
「やっぱそうか。なんかすっげー匂いするなと思ったんだよ」
「今のイツキくん、蚊にとっては悪魔のような存在だからね」
「悪魔て」
「『ルシファー・イツキ』」
「ははっ、なんだよそれ。いや、いそう。ギリいそう」
僕たちはひとしきり笑い合い、そして不思議と、笑い終えるタイミングまでぴったり同じだった。
あたりが真っ暗になるまでの短い時間。柔らかな空気が肌を撫でる。
行きがけにはいつ帰ろうかなんて考えていたのに、今はもう少しだけここにいてもいいかなと、そんな気がした。
「……ところで、イツキくん、お腹……減った?」
「減った」
「…………」
それからほんのわずかだけ沈黙に包まれ、
「夕ご飯……一緒に、食べよっか」
ミミさんは照れくさそうに誘ってくれた。
いや、冷蔵庫に今日賞味期限を迎えるものがあったな。なんてことが頭をよぎったが、まあ……そんなの、明日の朝に食べればいい。
「そうだな。どこか入ろう」
「うん!」
ミミさんの小さな顔がひょこひょこと縦に揺れ、何度も頷いていた。
ずいぶんと人と深く関わりたがる〈使い〉なんだなと内心思うが、今さらだ。
それからミミさんはスマホを取り出し、近くの飲食店を探そうとしていた。
僕も同じように地図アプリを立ち上げたところ、
「っと、その前に。ちょっと待ってね」
「うん?」
「この子たちもご飯の時間だ」
ミミさんはリュックから小袋を取り出し、粒状のなにかを地面に撒きはじめた。
なんだなんだ。その物体を見ていると、どこからともなく黒い影が集まってくる。
三羽の鳥。
艶のある黒い羽を揺らしながら、カァ、と声を鳴らした。
「カラス?」
「カラスはカラスでも〝八咫烏〟だよ。ねー、ピーちゃん、ポーちゃん、パーちゃん」
八咫烏。名前だけは聞いたことがある。
ミミさんの撒いた米のような餌を夢中でついばむその鳥たちの足は、三本あった。普通のカラスとは違うらしい。
赤、緑、青の首輪をつけた三羽は、普通のカラスよりも一回り小さく、ふっくらとしていて、ぬいぐるみのようだ。
「もしかして神の使い魔、ってやつか」
「使い魔なんて言葉じゃ足りないかもね。彼らは神話にも登場する、高天原の案内役。太陽の化身って説もあるの。すごいんだから」
「はー、久しぶりに神っぽいな。巫女姿のコスプレ女子って印象がずっと強くてさ」
「コ、コスプレ女子……? あれはイツキくんに信じてもらいたくて……」
「ウソだろ? あれはどう見ても次の一手でヤバい壺を売ってくるだろうって」
「だ、だからなにそれ! 私はそんなことしないし、信用してよ!」
「信用て。おい、カラスのお前らは大丈夫なのか? 全員合わせて『ピポパ』って、電話みたいな名前つけられておかしくなってないか?」
「やっちゃっていいよ、みんな」
バサバサバサ――。
なんて羽音とともに、三羽の八咫烏が一斉に僕の頭めがけて突っ込んできた。
やめ、やめろ、くすぐったい。痛くはないがくすぐったい。
「ほら、ちゃーんと仲良くしてあげてね? この子たちは私と、筆に選ばれたイツキくんにしか見えないんだから」
「く……そっ……」
腕を組み、不敵に笑うミミさんの肩へ八咫烏が舞い戻ってきた。
ミミさんは悪役のような表情をしているが、ここ一番楽しそうでもある。
「ていうかミミさん、本当にこいつらって僕たち以外には見えないのか」
「うん?」
「ほら、そこ」
指差した先には、一匹の大きなドラ猫が八咫烏たちを睨みつけていた。
背中の毛を逆立て、まさに臨戦体制。野生の勘という奴だろうか。
とにかく、猫が「シャアアッ!」と鋭い声を上げて飛びかかろうとした瞬間、八咫烏たちは逃げるように一斉に空へ飛び立った。
「ちょっと! みんな!?」
そんな声を置き去りに夜闇へと消えていく八咫烏たち。
「待って待って! うそ! そんなの聞いてない!」
「使い魔って猫に負けるのか……」
まったくもって、神様の関係者とやらは僕を巻き込むのが得意らしい。