第7話 夕虹
ポツポツと始まった雨はすぐに大粒となり、絵馬掛けはカタカタと音を立て始めた。風も強くなっているようだ。
「やば! 夕立!」
「げ、傘持ってきてないんだけど」
「とりあえずどっか入ろ!」
ミミさんと共に走り出し、近くの休憩所へと駆け込んだ。
ベンチに並んで腰を下ろす。
「まじかぁ、今日雨なんて言ってなかったのに」
「私もカバン変えたから折り畳み忘れちゃった……」
なんて話しているうちに、ごろごろと雷鳴が響きはじめた。
「……っ」
ミミさんが身をすくめ、不安そうな表情を作っている。
「雷、苦手か」
「そりゃそうだよ……イツキくんも?」
「雷はまだ大丈夫」
「『まだ』って。なにそれ」
少し濡れたミミさんの手が、僕の手のすぐ傍にある。
小さな手だ。ここに来るまでずっと競い合っていた彼女も、今の姿を見るとなんだか気の毒になってしまった。
「仕方ない。【黒い筆】で雨雲、全部取っ払うか」
「それはイツキくんが本当に叶えたい〝渇望〟じゃないでしょ」
「はは。まあ、筆はミミさんに預けたままだしな」
すると。
ミミさんは、怪訝な顔で僕の方を見つめていた。
「……え? 【黒い筆】、イツキくんに渡してなかったっけ……?」
「ん? ミミさんが持ってたよな? 途中で出してたけど」
「あれ。あの時、私、イツキくんに渡したような……」
「あ、」とミミさんが短く声を漏らすと、慌ててカバンの中を探りはじめ、さらには立ち上がって服のあらゆる場所をまさぐっていく。
そして。
「落とした……説……」
ミミさんがそう言うと、雨の音が一層強くなった気がした。
「……まじ?」
「ここに登ってくる前、あの場所だと思う。私、なにやって……」
「やばいじゃん。雨止んだらすぐ探しにいこう」
だがミミさんは立ち上がったまま、枝垂れるように落ちてくる雨と向かい合っていた。
「お、おい。まさか今から探すとか言わないよな? 雨が止んでからでいいだろ?」
「……すぐ探さないと。だって、もし……だよ? 誰かが通りかかってその筆を持ち帰っちゃったら……雨で変な場所に流される可能性だってある」
「この豪雨でそんなことする奴いないって。つか、傘もなしにこんな雨の中……しかもミミさんは雷苦手なんだろ」
「関係ない。もし筆をなくしちゃったら……私、もう〈使い〉でいられなくなっちゃう、から……」
「いや、危ないって。事故でも起こしたらどうすんだよ。自分の安全の方がよっぽど……」
それでも、ミミさんは耳を貸そうとはしなかった。
「私ね、〈使い〉になったのは、……やらなきゃいけないことがあるからなんだ」
その瞬間、空がぱっと白く閃いた。
「うわっ」
空気が引き裂かれたような音が鼓膜を打つ。
雷雲がすぐそこまで近付いてきているようだ。
「大丈夫だよ、イツキくん。『自分のことは自分でなんとかする』。イツキくんの言葉、私も借りるね。だから」
なんとかする、じゃない。
違う。それは僕のルールだ。誰かに押しつけるためのルールじゃない。
ミミさんを止めろ。いや、どうやって。でも止めなきゃ後悔する。止めなきゃダメだ。
なんとかする、なんとかする。
自分がなんとかする。
――いつの間にか、ミミさんの腕を引っ張っていた。
「イツキくん……? え! ちょ、ちょっと!」
彼女と入れ替わるように屋根の外へ飛び出した。
滝のような雨がシャワーとなって僕を出迎える。
ああ。これでも一応、髪型、下手なりにセットしてきたんだけどな。
「ちょうどよかった、徹夜明けで眠かったんだ。行ってくる」
水たまりをびちゃびちゃと蹴散らしながら、僕は走り出した。
*
筆はあっけなく見つかった。しかも雨の被害をあまり受けずに、だ。
カッコつけて飛び出したのが少し恥ずかしくなる。ずぶ濡れになる覚悟で向かったものの、僕の姿を見た社務所の方がすぐにビニール傘を貸してくれたのだ。
足元こそ多少ぐしゃぐしゃになったとはいえ、大事な筆を無事に見つけ、ミミさんのもとへ戻ることができた。
だが本当の問題はその後に起きた。
「おはよう、イツキくん」
目を開けると、ミミさんの顔が真上にあったのだ。
「へ? ……え?」
「ぐっすり、よく寝てましたね?」
そして僕の頭がなにか柔らかいものに触れている。
……ミミさんの膝が〝枕代わり〟になっていたのだ。
「ウ、ウソだろ!? え!? は!? なななななんで……っ」
膝枕……だと――。
僕はバネのようにばちんと飛び起きた。
「イツキくんはね、戻ってきた後、疲れてすぐ寝ちゃったのさ」
「い、いや、うたた寝したまでは覚えてるけど……」
「それがすごい爆睡でね、いつの間にか横になって寝ちゃって」
「…………」
「頭が硬いところに当たって痛そうだったから、枕を用意してあげたの」
心臓をばくばくと鳴らす僕に、ミミさんがにやにやと微笑んでいる。
「イツキくんの寝顔って意外と可愛いんだねぇ?」
「……最悪……」
「よかよか♪ 私の方がお姉さんなんだし?」
「たった一ヶ月だけな……」
くそっ、徹夜したことがまさかこんな結果になってしまったとは。
いや、それよりも僕は一体どれくらい寝ていた。今の時刻を見ると……。
「もうこんな時間!? や、やば、一時間近く寝てたのかよ!」
「神様はやっぱり見てるんだなって。ホントに最高のタイミング」
「最高……? って、な、なにが……?」
「がんばった人にはね、ご褒美がやってくるんだ」
ミミさんが見つめた先。
空の向こうは、柔らかな色に包まれていた。
夕焼け。いや、少し違う。それだけじゃない。
白金の光の中にいくつもの色が溶けている。
ミミさんが僕の手をとって駆け出した。
本殿からちょっとだけ離れた、この街を一望できる場所へ。
虹――巨大な虹だ。
世界に大きな境界線を引いたように、くっきりとした弧が空に浮かんでいる。
夕陽に溶けた七色は普通の虹と違って見えた。赤と橙は染み込むように濃く、黄色はあたたかく、それは街を包むベールのようだ。
めったに出会えない〝夕虹〟。
運がいい。今のうちにもっと色を追え。境目はどうなっている。時間が経てばどう変化する。
僕が夢中になっている間、ミミさんも隣で静かに虹を眺めている。
やがてその弧が薄れはじめた時、彼女はぽつりとつぶやいた。
「ありがとう」
その言葉がなにに向けられたものか、僕には分からなかった。
だから頷くこともせず、ただ黙って、消えゆく夕虹を見送った。