第6話 狛犬? どう見たってカバの絵だろ
いつの間にか始まっていた勝負は、引き分けということで決着がついた。
敗者は勝者に自販機で飲み物を奢る。そんな後付けルールも、引き分けということで互いが互いの飲み物を買ってやることに。
カラカラの喉がポカリスエットを欲するが、しめしめ、他の飲料より高い。迷わずそれを選んでやったが――ミミさんもまったく同じことを考えていたらしい。
結果、双方の財布からただポカリスエット代が消えるという、なんとも不毛な引き分けとなった。
その後、ミミさんは自分たちがしでかしたことを今さらながらに反省し、大鳥居の前まで戻って改めて深々と一礼。
そしてようやく、正式な作法で境内へと足を踏み入れた。
「鳥居の真ん中は神様が通るから端っこによってね。一礼も忘れずに。分かった?」
「そのルール、さっき全部破らなかった?」
「……絶対誰にも言っちゃダメだから」
ミミさんは共犯者を念入りに口封じさせるようだった。
それから僕たちは参道を進み、両脇の狛犬に見守られながら通り過ぎる。
拝殿と賽銭箱の前にたどり着くと、再び説明が始まった。
「神社の場合は二礼二拍手一礼。お寺とは違うんだよね」
「そういうの多いよなぁ。あんまりルール多いと、新規が入りにくくないか」
「あの、ゲームとかじゃないからね。私たちは今、神聖な場所にいるんです」
「分かってるよ」
ちょっと不服そうに唇を尖らせたミミさん。
それから見本を示すようにお賽銭を入れ、鈴をジャラジャラと鳴らして祈りを捧げはじめた。
お賽銭はいくらが相場なんだろう。聞いておけばよかったな。
とりあえずは僕も財布の中にあった最後の五円玉をちゃりんと投げ入れ、彼女に倣った。
彼女の動きを真似て手を合わせ、目を閉じる。
やがて一通りの所作を終えて拝殿の前から立ち去ろうとすると。
……まだやってたのか。
祈りを捧げ続ける彼女を見て、そんな心の声がこぼれた。
熱心な様子だ。〈神の使い〉が一体なにを祈っているのか不思議に思う。
まさか僕の代わりに願いを……なんて、そんなわけないか。
だが、ふと――違和感を覚えた。
さっき、どうしてミミさんはあれほど僕の絵を語っていたのだろう。
僕はまだミミさんに自分の絵を見せたことがない。
ネットで本名を検索すれば出てくるから、それを見て話していたのだろうか。
夏のセミがけたたましく鳴く中、ここだけは世界が切り取られたようで、僕は彼女をじっと見つめてしまっていた。
ちょっとだけ汗ばんだ額。まっすぐな鼻筋。長く艶やかな睫毛。
やっぱ綺麗……だよな。
「お待たせ」
「お、おう」
「? イツキくん、私のこと見てた?」
「……蚊が止まってた」
「ウソ!? 見てないで助けてよ!」
「これからパンパンに腫れ上がると思う。南無三」
「ど、どこどこ! いやじゃぁぁ……っ」
ウソだ。でもミミさんが面白かったからしばらくは黙っておこう。
それから僕たちは少しだけ曇り始めた空を気にしながら、移動した。
「それじゃあ次は絵馬だね。ここの社務所は結構遅い時間までやってるんだ」
「絵馬ってあれか。落書きみたいなやつか」
「落書きじゃありません。絵馬はね、お願いごとを神社に奉納するものなんです。お願いが叶ったあとにお礼として奉納することもあるかな」
ミミさんは千円札を取り出し、二枚分の絵馬を買おうとしていた。
奢られるのは癪なので咄嗟に五百円玉を差し出すと、ミミさんは笑う。
「イツキくんはお願いごと、決めた?」
笑いの余韻を残して彼女がそう言うが、僕の考えは変わらない。こういうのに頼ったら負けだ。
とはいえせっかく買った絵馬を無駄にするわけにもいかず、なにを書くべきか、奉納されている絵馬を見て回ることにした。
「ここには色々な人のお願いが集まってる。イツキくんもなにかビビっと来たりして」
まるで物欲の展示会じゃないか。
そう思いながらズラリと並んだ絵馬を眺めていると――。
「ちょ、ミミさん、これ……っ」
「! もしかしてピンと来たものあった!?」
「絵馬にこんなエッチなの描いていいのか……!?」
絵馬には、胸元の開いた衣装でお色気ポーズを決めるキャラクターの姿。
これはなに目的だ。SNSに投稿するためか、あるいは友達と来てノリで描いたのか。
「……まあ、あんまやりすぎないようにね……」
ミミさんは少し困ったような表情で、その絵馬にささやかな赦しを与えていた。
いや、しかし上手いな。構図もよく練られ、絵を学んでいる者の筆致だ。他の絵馬にも絵は描かれているが、この一枚は飛び抜けて上手い。
ならば。
「人物、か」
リュックの中から鉛筆を取り出した。
「ミミさん、同じポーズできる? この絵馬にデッサンを残そうと思う」
「え……ええ!? 私があのポーズすんの!?」
「絵馬には絵馬を。力には力を。僕は僕の力を証明する」
「なにカッコいいこと言ってんの! 恥ずかしくてできるわけないじゃん!」
そう言いながらも、ミミさんはもじっと照れた様子で汗をぬぐい、髪を整え、服もちょいちょいと直していた。
「……ん。まあ、いい、よ。イツキくんがそれで絵が描けるなら……」
木陰でミミさんが胸元をきゅっと寄せるようにして、前屈みになりながら、上目遣いで見つめてくる。
む……リクエストしておきながら、いざ目の当たりにすると……。
しかし残念ながら、やはり筆は動いてはくれなかった。
「……やっぱナシで」
「あ……私、やっぱ魅力なかったよね……ご、ごめん」
「いや、絵馬は願いを書くもんだろ? 真面目にやろうぜ?」
そう言うと、ミミさんは僕の表情から察したのか。
ハメられた。なんて顔で、僕の両肩をわしっと掴んできた。
「こ、このぉぉ……私の純情を返せぇぇぇ……」
「はは、悪かったって」
とはいえ願いを書くのも気恥ずかしく、僕はさっと絵馬に書きつけ、その絵馬の近くに掛けておいた。
「なに、『待ってろ』って。果たし状みたい。ていうかイツキくんって人の絵、気にするんだ?」
「自分より上手い絵を見たら気になるだろ」
「それは人それぞれなんじゃないかなぁ。ライバルとかいるの?」
「……さあ」
――人の中に突然土足で入り込んでくる。
ミミさんが前にそんなことを言っていたが、アイツの絵にも同じものを感じた。
『九州水彩展高校生部門・最優秀賞』受賞、シバナミ。
優秀賞止まりだった僕を差し置き、そいつはその年の頂点をさらっていった。
描かれていたのは、海の上に街を築く大きなクジラの絵。
人を呑み込むようだった。僕のように緻密さを追求する絵とは思考のベクトルがまるで違う。ある意味でシバナミは僕の天敵のような存在なのかもしれない。
シバナミ、シバナミ、シバナミ。
珍しい苗字に下の名前は美憂だとか、そんな女子だ。
ああ、同い年にそんな奴がいたとは悔しいじゃないか。
早くリベンジマッチしたい。
けれどその前に、今の僕は……コンクールに応募すらできそうもない。
この足踏み状態がどうしようもなくもどかしかった。
「イツキくん、すっごい楽しそうな顔してる」
「んなわけあるか……」
「誰かさんのこと、けちょんけちょんにしてやるって考えてたんでしょ? イツキくんのライバルは大変そうだな〜」
そう言ったミミさんは狛犬の方を見つめ、なにやら絵馬に絵を描き始めていた。
なにか――妙な雰囲気がある。
絵が好きと言っていたミミさん。しかし腕前までは知らない。
……いやまさか。この気迫……僕より上手いなんて、あるわけ……。
ミミさんの絵を見て、衝撃を受けた。
「……ミミさん、その絵」
「あ、分かっちゃった? ふっふっふ」
「そいつはなんだ……? カバか……?」
「違う! 狛犬見て描いてるんだから狛犬に決まってんじゃん!?」
「いや、なんでそれが狛犬なんだよ。ふざけてるわけじゃないよな?」
「ひどい! 私は本気なの!」
ミミさんは狛犬……というより、ほとんどカバの絵を描いた絵馬を奉納していた。
確かにミミさんは絵の才能がないと自称していたが、ううむ、否定はできまい。
まあ、誰にだって得意不得意はある。少し不機嫌にさせてしまったのが申し訳なく、どう謝ろうかと考えていた矢先――。
雨が降ってきた。