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最終話 反時計回りのあなたに祝福を

 どこまでも平凡な住宅地を駆け抜ける。


 ついさっきまでカナタさんの車で駅までの涼しい時間を過ごしていたのに、この全力疾走で台無しだ。背中にまとわりつく汗を振り切るように足を動かし、目の前の黒い影を追いかけた。


「あんのカラス……まじかよ……っ」


 自宅の鍵を奪われてしまったのだ。

 ポケットから取り出した一瞬を狙われ、食べ物でもついばむように鍵をひったくられた。そいつは今、すいすいと僕の前を飛んでいる。


 色付きの首輪をした、丸っこいカラス。


 なぜ首輪なんかつけている。そんな疑問は後回しにして、とにかく今はそいつを捕まえなければならなかった。あの鍵がなければ僕は自宅に入れないのだから。


 やがてカラスは一軒の家の中へ入っていった。

 この辺りでは珍しい古民家のような佇まい。玄関は無防備に開け放たれ、そのせいでカラスが勝手に上がり込んでしまったらしい。


 もちろん、このまま僕が踏み込めば不法侵入だ。

 まずは住民に知らせようとインターフォンを押すと、女性の声が返ってきた。「どうぞどうぞ」なんてゆるい返事で。


 意を決して靴を脱ぎ、どこか懐かしい木の匂いに迎えられながら踏み入れる。

 奥へと延びる廊下。その途中の一室にカラスは逃げ込んだようだった。


「はぁ、はぁ……いい加減、もう観念しろよ……」


 しかし部屋の中に入ると。

 そこには〝絵〟があった。


 十畳はありそうな広い部屋。その壁一面を横長の巨大な水彩画が覆っている。

 搬入だけでも相当な手間だったろうに、家主はよほど絵が好きなのか。


 だがそんなことをすぐに頭から追い出すほど、その幻想的な絵は僕の視線を縫い留めた。


 空一面に広がった、濃く鮮やかなマゼンタの色彩。

 その下には、青く塗られた木々と森。枝葉も木陰も青だらけの自然。


 色使いは思った以上に大胆で、かといえば細部には息を呑むほどの緻密さが宿っていて。

 意識が奥へと引きずり込まれそうになるが……この絵はどこかで見たことがある。確か以前にも似た感想を抱いたような……。


 ……いや、気のせいか。


「はは……マジですっげぇ絵……」


 そう呟いたあと、こぼれたため息は思いのほか沈んでいた。


 どこの誰が描いたかは知らない。だけどはっきりと力の差を思い知らされたから。

 かつての僕なら、これほどの絵を前にしても挑みかかれる牙があったかもしれない。


 だけど今はダメだ。

 だって僕の右手は、事故でもう絵を描けなくなってしまったんだ。


 絵描きとしてもう未来がない。

 そんな状態でこれほどの絵を見せられたら降伏するしかないだろうに。

 でも――。


 なぜだかそれじゃあダメな気がして、近くに置かれていた筆を手に取り、その絵に向けていた。


 僕は誰かと約束した気がする。


 僕は僕をまっとうすると。絵を描き続けると。

 まるでこの絵に宣戦布告するかのように筆を構えた、その時だった。



「がんばった人にはね、ご褒美がやってくるんだって」



 聞き覚えのある声だった。

 インターフォン越しに聞こえた家主の声。


 いや。


 ずっと長い間、近くで聞いてきた声。


「……イツキくんは最後、叶える願いを少しだけ変えた。それは〝二人で元の世界に戻る〟っていうお願いに、ちょっとだけ足したもの」


 大きな瞳がこちらを見つめてくる。

 胸の奥で、なにかが弾け出そうになる。


「〝二人がまた立ち上がれるように〟――って。イツキくん、言い出したら聞かなかったみたいでさ。……でも、それに見合う代償をちゃんとキミは積み上げた」


 やっぱりイツキくんは絶対にやり遂げるんだね、と。

 部屋に入った彼女は、そう言って笑った。


「それよりイツキくん、もしかして全部忘れてる? ほんなら私の勝ちとね?」


 ――ミミ、ミミ。ミミさん。美憂――志羽波美憂。

 火花となって名前が噴き上がってきた、その瞬間。

 彼女は僕の動きをそっと止めた。


「ううん、まだ。もうちょっとだけガマンして」

 

 そして僕の首にそっと手を添え、視線を絵の方へと導く。


「よく見て。その絵のこと。これまでのこと」


 ……そうか。


 それからは、すべての絵の具が溶け出したようだった。

 二人だけで過ごしたあの世界の記憶。


 白金色の太陽を追いかけた。マゼンタの空を何度も塗った。青い森の中を駆け抜けた。不思議な色の苔を探した。大きな葉っぱをたくさん集めた。冷たい水を探した。温かい水も探した。好きな貝殻を交換こした。新しい動物の名前を一緒に考えた。ウミガメの産卵を二人で待った。夕陽が一番綺麗に見える場所を探した。月明かりの海を泳いだ。綺麗な魚を探した。星をどっちが多く見つけられるか競い合った。洞窟を探検した。二人で砂浜で寝転び風を浴びた。夜は手を繋いで朝を待った。


 多分その先もあった。本当に本当に、長い旅だったんだ。

 だからすべてを思い出せたわけじゃない。それでも間違いなくそこにミミさんがいた。

 僕たちの世界はそれがすべてで――。


「この絵を……描いたのは……」



 ――僕たちだったんだ。



 それはあの日、初めてミミさんの家に行って見た絵。


「イツキくんはがんばった……本当に本当に、がんばった……だって右手が使えなくっても、キミは左手があるって……ずっと……描き続けてたんだ……」


 彼女が僕の左手をそっと掴む。

 この左手に「がんばったね」と語りかけるように。

 彼女の手を握り返す。


「ミミさんだって……そうだ……。〝才能〟を失っても、描いて描いて、描きまくって、こんな絵が描けるように……なって……」


 この部屋にはいくつもの絵が飾られていた。

 あまりに線が安定しない絵があった。あれはきっと、僕が慣れない左手で描いたから。

 なんの絵か分からない拙い絵もあった。それはきっと、ミミさんが才能を取り戻そうともがきながら描いたから。


 大変だったはずだ。本当に長い時間がかかったはずだ。二人しかいない世界で、僕たちはその世界と戦いながら、絵を描き続けた。


 それでも、僕たちはそれを全部乗り越えて到達した。

 二人でこれだけの絵を描いてみせた。


「だから大丈夫、大丈夫なんだよ、イツキくん。私たちはもう一度……がんばれる。あの時の私たちが証明してくれた。『こんなに描けるよ』って、この絵が、私たちにそう案内してくれたから……」


 気が付くと、僕は地面に膝をついていた。

 元の世界に戻った僕たちは、積み上げたものを失った状態でまた歩き出さなければならない。

 それでも立ち上がれるように――そう願って託されたのが、この絵なんだ。


 あの時の僕たちは、今の僕たちに向けて残してくれた。

 大きな道標を。


 ありがとう。


 そんな思いが込み上げ、抑えきれなくなると、涙があふれていた。

 救われた。助けられた。背中を押してくれた。


「僕たちは……また、描ける……だってここには……ミミさんがいて……」

「うん……イツキくんとまた、一緒に……競い合って……」


 たとえ右手が使えなくなろうとも、左手で描き続けた絵描きがいた。

 たとえ才能を奪われようとも、描き続け、才能を取り戻した絵描きがいた。


 二人で何度も勝負を重ね、何度も支え合って。

 きっと二人は愚直で、毎日ただひたすらにそれを続けてきた。

 二人だからできた。ミミさんがいたから、それができた。


 互いに手を握り合う。指と指を絡ませる。

 お互いがここにいるんだってことを確かめ合うように。

 あの言葉を確かめ合うように。


 がんばった人には、ご褒美がやってくるんだって。


 正しくがんばることは難しくて、世の中はそんなに優しくなくて、それを「がんばってる」って認めてくれる人は少ないかもしれない。

 でも、それをちゃんと見てくれて、ちゃんと手を差し伸べてくれる人が、きっとどこかにいる。


 ――窓からこぼれる夏の光。


 大きな絵が、僕たちを見守っている。


 静かに、ただ静かに。


 それは僕たちにエールを送っているようで。



「僕たちは、もう大丈夫だから」



 大丈夫。二人でいればもう、大丈夫。



 僕たちの時計の針は、これから前に向かって進み出す。



    反時計回りのあなたに祝福を 了

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