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第41話 ただいま

「……おい。おい、イツキ」


 誰かに肩を揺すられ、ゆっくりと目を覚ます。


 光。ぎらぎらとしていて、まぶしい。

 潮の匂いが鼻の奥でじんと広がる。鳥の声だって聞こえてきた。


 ここは、……海……?

 首がやけに重く、あぐらをかいたまま眠ってしまっていたらしい。

 背中はぐっしょりと汗で湿っているが、海風がそれを少しだけ冷ましてくれた。


「いつまで寝てんだっつの。起きろ、イツキ」


 ウェーブがかかった長い茶髪。端正な顔立ち。ちょっと荒っぽい口調。

 タンクトップ姿のカナタさんが、そこにいた。


「見ろ、ようやく釣れたぞ」


 ふと地面に手をつくと、ざらついたコンクリートの感触が伝わった。

 ここは釣り場、か。

 カナタさんはこれ見よがしにバケツの中を泳ぐ魚を見せつけていた。


「お、おぉー……?」

「反応薄すぎだろ。いやー、でもこれでワタシらの勝ちだな」

「勝ち?」

「周りの奴らがさ、『そんなエサじゃ絶対釣れない』なんて散々言ってきたろ。でもワタシは絶対イケるって勘があったんだ。やっぱり粘り勝ちだな」


 カナタさんは嬉しそうに魚の写真を撮っている。鱗が陽を弾き、綺麗だと思った。

 一体なんのエサを使っていたのかは知らないが、それから彼女は魚をそっと海へ返し、釣具を片付ける。それから薬のようなものを飲んでいた。


「っつーわけでワタシは満足したから帰る。医者も安静にってうるさくてさ」


 医者。安静。

 耳慣れない組み合わせにぼけっとしていると、カナタさんはむっとした顔で僕の脇を小突いてきた。


「悪かったって、ワタシのせいで台無しにしちゃって。はー、まさか乗船直前でワタシがぶっ倒れるなんてなぁ……」

「え」

「でも、あのまま無理してたら危なかったんだとさ。ホント、今こうしてピンピンしてるのはお前らのおかげだよ」


 うっすらとした記憶をたぐり寄せるように、スマートフォンを取り出した。

 今日は八月二十五日。カレンダーアプリには、昨日と今日の欄にこう記されていた。


 ――屋久島。


 だけどここは違う。鹿児島中央にあるただの釣り場だ。

 どうやら僕たちは出発前のトラブルで屋久島行きを断念し、今に至るらしい。

 なんとなくカナタさんとの出来事を思い出してきたような……。


「あ。カナタさん、そういえば」

「どうした?」

「やっぱりキャバクラのお仕事、クビになっちゃったんですか?」


 なんでそんなことを聞いたのか、自分でも分からない。

 ただ、口をついて出てしまった。


「あぁ? 知らねぇよ」


 そう言ったあと、彼女は肩をすくめて笑う。


「あんな店、ワタシからやめてやったんだ。とりあえずしばらくは無職だな、わははっ」


 それを聞いて、不思議と僕はほっとした。


「無職は〝最強のカード〟らしいんで、大丈夫だと思います」

「なんだそりゃ。どこの無職の戯言だっつの」

「カッコいい人でしたよ」


 僕を車に乗せて、ここから遠くまでぶっ飛ばしてくれた人。

 イジワルなメガネの大人も一緒にぶっ飛ばしてくれたような。


 ちょっと乱暴なところもあるけど、僕が本当に尊敬した人。


 その人はカナタさんによく似ていて……いや、違う。

 あれはやっぱり、カナタさんだ。


「ただいま、カナタさん」


 不思議と、なんの躊躇いもなく言葉が出た。

 まるで夢の中で、その瞬間のためにずっと準備していたみたいに。

 カナタさんは狐につままれたような顔をした。


「は? なに寝ぼけたこと……」


 彼女の視線が僕の首元に落ちた。

 ――石のペンダント。

 彼女は自分の首元に手をやり、まったく同じものをつまんだ。


「……な、んで……ワタシのネックレス……」

「夢の中でもらった気がするんです」

「いや、もらったって。ワタシのこれ、この世に一つしかないんだよ。なんでイツキも同じのを持って……」


 立ち上がった僕は彼女と並んだ。

 目線の高さなんて変わっていない。それでもカナタさんはこんなことを口にした。


「……ていうかイツキ。ちょっと大人になってないか」

「気のせいだと思います」

「『男子三日会わざれば刮目して見よ』って言うけど、……いや、……」


 すると――カナタさんの瞳から、ぽつりとなにかがこぼれた。


 それは途切れることなく、両の目からぽろぽろと流れ、地面に落ちていく。


「いや……マジ、意味、わっかんね……なんで……」


 彼女が顔を手で覆っても、嗚咽は堰を切ったように漏れ続けた。


 まるで違う世界にいる誰かの想いが、今、ここにいるカナタさんを通してあふれ出しているかのように。


「ぜんっぜん……わかんないけど……さ……」


 僕たちしかいない釣り場で、カナタさんは僕を抱き寄せる。

 彼女だってもしかして、夢の中でその言葉をずっと準備していたのかもしれない。


「おかえり、イツキ」


 やっぱりカナタさんからは、優しい匂いがした。

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