第39話 この世界の真ん中で、もう一度だけキスをする
ミミさんの、小さくて、桜色の、優しい……唇。
ほんのわずかな間、先端がそっと触れただけなのに、身体の奥で火でもつけられたように熱が広がっていく。
それからミミさんは頭を起こし、こう告げた。
「絶対に……私の方がキミのこと……ずっとずっと、何倍も……好き……だから……」
……そういう意味か。
そう理解した瞬間にはミミさんはもう一度唇を近付け、重ねてきた。
もう絶対に離すまいと、今度はさっきよりも長く、お互いの唇の形を知ろうとするように、深く、静かに、寄せ続ける。
身体の熱が広がる。ミミさんの全部に触れたくなって、僕からも彼女の背中を抱き寄せた。
右手を背に添え、動く方の左手はミミさんの手を探り当て、指をすくい取り、その一本一本をお互い結び合った。
もっともっと、重ね合う。
お互い、もう絶対に離れないように。
「私が消えちゃう前……イツキくんから返事、もらえばよかったって……ずっと後悔してた……。あの時、すっごい勇気振り絞ってさ、キミのこと、す……好きって……」
「遅れてごめん」
「さ、さび……寂しかった、んだよ……? イツキくんが思ってるよりずっと、ずっと! ここ、なんにもなくて、誰もいなくて……いつかイツキくんが来てくれるんじゃないかって心の底では期待しちゃってたけど……でも、イツキくんを不幸にさせちゃうから、それだけは絶対にダメって……」
「不幸なわけあるか。自分から来たんだ」
「ほ、ほんとに、……いいの……? だって、これから私たち、ずっと二人っきりだよ……? 可愛いカフェもないし、お買い物だってできないよ……? 絶対に飽きちゃうよね……?」
「ミミさんがいれば飽きるわけない」
「で、でも、ケンカだって、する……よね。私、きっと、イツキくんが思うより重いよ? イツキくんが冷たいと……拗ねちゃうかも。……そうしたらちょっとだけ時間置いて、また仲直り……してね」
「分かった、そうするよ」
「たくさん……たくさん、私と……勝負、してね。絵じゃなくたって、どっちが朝早く起きられるかとか、なんでもイツキくんと勝負して……一緒に……いたい」
「ミミさんの方がすやすや寝坊してるイメージなんだけど」
ぽかっと優しく頭をはたかれてまった。ミミさんは笑っている。
やがて彼女は涙を拭い、立ち上がった。
「ねぇ、約束して」
差し出された手を掴み、僕も立ち上がってミミさんと向かい合う。
「私たちが元の世界に戻っても、イツキくんはちゃんと全部覚えてるって」
「……それは……」
筆を使用するためには〝最も大切なもの〟を失わなければならない。
ここで培った経験や技術のすべてを捧げるつもりだが、その成長の過程で、僕たちは互いを無視できないほど強く影響し合っているはずだ。
ならば数珠繋ぎのように、きっと互いの記憶も失うことになるだろうと、高山さんは説明していた。
「……元の世界に戻っても、お互い絵を描き続けよう。約束だ」
「絵を?」
「僕とミミさんは、もともと絵を通じて繋がっていたんだ。たとえ記憶が失われたって、お互い絵を描き続けてさえいればまた再会できる」
ここで積み上げた技術がリセットされ、また絵がヘタになっていようが関係ない。
カナタさんのおかげで確信できたんだ。互いの根っこの部分が変わらなければ、途中の道が多少違えど、必ず僕たちは巡り会える。
そんなことをミミさんに説明したが、僕の提案は――。
「却下」
なんと、一蹴されてしまったらしい。
「全然納得できない。忘れたらイツキくんの負け。ホント許さない。絶対に許さない。追いかけに行く」
「まじか。ミミさん、僕よりガンコになってないか」
「そんなことない」
そう言いながらも、糸が切れたようにミミさんは笑った。
そして手にしていた筆を僕に向ける。
「いいよ。この勝負、乗った。イツキくんとここで、五年経っても、十年経っても、百年経っても勝負し続ける。私の連戦連勝だ。これからたっぷり分からせてやる」
厄介な勝負師に挑んでしまったものだと苦笑しながら、僕もまた筆で応えた。
「残念ながらそれは無理だ。一度やると決めた僕に負ける要素はない」
「私、朝七時に起きるもん。毎日早起きしてイツキくんがすやすや寝てる間もがんばるし」
「いや、おっそ……僕は休みの日も五時に起きてるんだが。なんでそんな寝てんだよ」
「なんでって、え! 眠いからでしょ! イツキくん、夜更かしとかしないの!?」
「しない。毎日夜九時に寝てる。早く寝ろって教わらなかったのか」
「や、やば、赤ちゃんみたい。やっぱイツキくん、可愛くない……?」
「可愛くないっつの……」
からかうようなミミさんの目とぶつかる。
ちょっとお姉さんぶったって、誕生日は一ヶ月しか違わない。
ぱちぱちと光が踊る瞳はむしろ子どもみたいで、目が離せない。
いや、ずっと見ていたい。その奥へ吸い込まれてもみたい。
ああ。やっぱり僕はミミさんが好きなんだろうな。
すると彼女は、イタズラっぽく笑って勝負をもちかけた。
「じゃあまずは、どっちがあの太陽まで近付けるか。よーい――」
どん。
言い終わるより早くミミさんは靴を脱ぎ捨て、先手必勝とばかりに海へと駆け込んだ。
ばしゃばしゃと水を蹴り上げながら、迷いなく沖へ進んでいく。
おいおいまじかよと、僕もつられて砂を蹴り出した。
足裏でほのかに温かな波を踏みしめ、ミミさんに近付こうとすればするほど、服が海水を吸って重くなっていく。
やがてお腹まで海に浸かったあたりで、ようやく彼女に並んだ。
太陽に手を伸ばし、勝利宣言しようとしたその瞬間、わぷっと声が出て後ろに倒れ込んだ。大きな水飛沫が空に向かって伸びる。
ミミさんに押されてしまったらしい。卑怯だぞと立ち上がって、今度は彼女の肩を押して沈める。ミミさんも海水にまみれた。
はしゃぐ、はしゃぐ。
バカみたいにはしゃぐ。何度もお互いを海に沈め合い、笑い声をあげて。
それは、これから押し寄せてくる不安に押しつぶされないように。
お互いの顔は海水でぐしゃぐしゃで、たとえ涙を流していたってバレやしない。
マゼンタの空に浮かぶ白金色の太陽。
いつ手が届くか分からない。長い長い、二人の旅がこれから始まる。
でも大丈夫。僕は僕をまっとうすると決めたから。
「はい、イツキくんの負けっ」
だから僕たちはお互いにエールを送るように。
この世界の真ん中で、もう一度だけキスをした。




