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第37話 一緒に探しにいきたいんだ

「イツキくんの右手、もう……もう、動かない……ん……だよね……?」


 ミミさんが地面に崩れ落ちると、懺悔するように僕の手のひらに顔を伏せた。

 砂浜に彼女の雫が落ちていく。


「せっかくミミさんに治してもらったのに、ごめん。それを返すことになっちゃって」

「そんなこと……ない……っ。ない、……から……! 全部全部! 私のせい……で……」

「ミミさんのせいじゃない」


 これが本来の形だったんだと思う。

 元はといえば僕の事故が全ての始まりだ。そしてミミさんが筆を使って僕の〝右手〟を取り戻し、それでも間違ってしまったから彼女の長い旅が始まった。


 大変な道のりだったはずだ。ミミさんには自分の人生だってあったはずなのに、僕のために〈神の使い〉なんて存在になったんだ。


 だから今は絶望なんかじゃない。

 ミミさんの選択だって、すべてに意味があったんだって証明したい。


「ただ、我儘を言わせてもらうと、僕のお願いを聞いてほしいんだ」

「お願い? いい、いいよ……なんでも……聞くから……」


 僕はもう一本の筆をミミさんに差し出した。


「僕と勝負してほしい」


 言うと、ミミさんは涙を浮かべたまま固まっていた。


「……え」

「思えば僕たちはいろんな勝負をしてきたのに、一度だって絵の勝負はしたことがなかった。あの水彩展の『最優秀賞』と『優秀賞』が出会ってたっていうのにさ」


 そりゃ僕が熱量を奪われて、筆を少しも動かせなかったんだ。そんなの勝負にすらならない。

 でも今は違う。


「冗談……でしょ。今のイツキくんと勝負なんて……」

「僕は右手が使えない。ミミさんは才能を奪われた。案外いい勝負だと思わないか?」

「でも……」

「ほら、これ」


 渋々と画材を受け取ったミミさんが描き始める。

 彼女が絵を描くところを見るのはこれで二度目。前回は絵馬だったし、その時はまだ彼女の正体を知らなかった。


 髪を後ろで一つに結び、息を止めたような表情。真剣な目が筆先を追っている。

 改めて見ると、こんな顔で描くんだなと。


 僕も負けてはいられない。


 二人並んで、海の向こうを睨むように描いていく。

 ミミさんが絵の具を重ねていく。僕は左手で色を置いていく。


「……ん。できた」


 しばらくしてミミさんが描き終えた。

 濃紺の雲と、それを囲うマゼンタ色の空。そして海の絵。

 二枚の絵を並べてみる。


 ……ひどい。地獄のような比べ合いだ。


 ミミさんの絵は前に描いたカバの絵より多少マシな程度だ。失った才能も長い時間をかけて積み上げれば克服できると聞いていたが……彼女はここに来てからまともに描いてこなかったのだろう。しかも今回も描いてきた動物はカバだ。


「ミミさん」

「なに」

「さすがに僕の絵の方がマシじゃないか」

「……そんなことない。イツキくんのは風景だけで生き物いないじゃん。可愛くない」

「ミミさんは本当にカバ描くの好きだよな。もしかして神じゃなくて〝カバの使い〟だったりするのか?」

「は……!? カバじゃない! その子はカメだ!」

「カバだろ、これ。甲羅背負ったカバ。カメってもっと頭小さいんだが」

「ひ、ひど! イツキくん、もしかして私にイジワルしてる!?」

「はぁ、ミミさんの連勝もこれまでか。残念だけど今回ばかりは僕の勝ちだ」

「ダメ! ちょっと待って、もう一回描くから!」


 必死で二枚目を描こうとするミミさんに笑ってしまいそうになる。変わらないな、なんて。

 その間に僕は立ち上がり、砂浜に転がったキャリーケースの蓋を一つずつ開けた。


「まあ、画材は大量にあるから大丈夫だ」


 ケースからあふれるように出てくるのは、数え切れないほどのスケッチブックと絵の具の数々。衣類や生活用品なんてほとんどなく、代わりに画材ばかりを詰め込んできたのだ。


「……なに、これ……どういうこと……?」

「ここを一緒に抜け出すための条件を確認した。僕たちはもう一度、【黒い筆】を使う」

「え……」

「【黒い筆】を使うには、使用者の〝最も大切なもの〟を捧げる必要がある。だけど残念ながら、今の僕には〝ここをミミさんと一緒に抜け出したい〟という願いに見合う対価がない。それは多分、ミミさんも同じだと思う」


 お互い、既に大切なものを失っているんだ。ミミさんは〝才能〟を、僕は〝ミミさんに治してもらった右腕〟を。


 筆の代償は、使用者本人に関わるものだけ。つまり今は持ち弾がない状態。

 じゃあ僕たちがここを抜け出すため、なにを捧げるべきなのか。

 僕が高山さんに持ちかけた案をここで明かす。


「だからミミさん、ここで一から積み上げよう。ミミさんの〝才能〟も、僕の〝左手で絵を描くこと〟も。それが本物になれば、筆に捧げる〝大切なもの〟になる」


 高山さんは何年かかるか分からないと言っていた。もしかすると十年、いや、何十年かもしれない。

 積み上げると言っても、ちょっとやそっとじゃダメなんだ。供物として価値あるものにするには、手放すのが惜しいと思えるほど僕たちは成長しなければならない。


 つまりこの場所で僕たちは、描いて描いて、描き続ける。


 幸い、この空間は外界と時間の流れが隔絶されている。食事もいらず病気にもならない。屋久島という場所柄、描く題材も尽きない。画材を使い切っても八咫烏が運んでくれると高山さんは言っていたし、それすら途絶えたら絵は砂浜に描いてやればいい。


 そしていつか、その時が来たら。

 僕たちが積み上げた経験と技術、すべてを筆に捧げて、元の世界に戻るんだ。


 時計の針を一度逆回転させて、再び前へ進めるように。

 それが、ミミさんを果てしなく長い罰から解放する唯一の方法だった。


「ということで、最後はどっちの絵が上手くなってるか長い勝負だな」


 そう宣言すると、ミミさんの顔色は一変した。

 次の瞬間には僕の身体は砂浜に押し倒され、仰向けに転がされてしまったらしい。

 見上げれば、ミミさんの顔。


「ばか……ばか、ばか、ばかっ!! うそ、うそ! なにやってんの!? イツキくんも……ずっとここに閉じ込められちゃうってこと!? キミには元の世界があって……そこで幸せになれたんだよ!?」

「ごめん、迷惑だったか」

「違う! なんで私のためにイツキくんまで犠牲になって……そんなの……ダメに決まって……」


 ミミさんの両手が僕の肩を強く押さえつけていた。

 のしかかられた姿勢はなかなかに苦しい。このままでは上手に喋れなくなるかもしれない。

 だから言いたいことは、今のうちに言っておこう。


「一緒に探しにいきたいんだ。二人が生きやすい世界を」

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