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第34話 さようなら

 昼食を終え、約束の家に到着すると、高山さんは空き部屋に置いていたスーツケースをすべて居間に集めていた。


「これで全部か。まったく、この家を倉庫みたいに使いやがって……」

「イツキの部屋が狭いんだからしょうがないだろ」

「……それなら仕方ないな」


 カナタさんの言葉に高山さんはあっさりと折れていた。


 あれから高山さんとも何度も会話を重ねてきた。

 議論の内容は、もちろん、どうやったらミミさんを助けられるかだ。


 ミミさんはこの世界とは異なる次元に隔離され、そこでたった一人、〝彷徨い続ける〟罰を受けているという。

 その罰を軽減したり、そこから逃れたりすることは、〈神の使い〉の力をもってしても、ましてや人間の力では到底不可能。


 ただ一つの方法を除いては。


「私も調べてはみたが……やはり、イツキの挙げた方法以上に確実な手段はなかった」


 高山さんのその結論は予想していた通り。

 僕は頷き、ポケットから【黒い筆】を取り出した。


「元々そのつもりでしたから」

「……本当に後悔はないんだな。お前のそれは、途中で引き返せるような生半可なものじゃない」

「そういうのを最後までやり切るのが得意なもので」


 よくも悪くも、一度決めたことを誰よりも徹底して成し遂げようとする性格だ。

 だからこの選択は僕に合っているのだろう。


 いくらか心残りもあるが……その一つとして、最後にスマホのメッセージ画面を開いた。

 美憂さんからのメッセージ。


『夏休み、今日で最後になっちゃったね。また新学期が始まっても会ってくれませんか?』

 

 ――なんて、美憂さんからのお誘いだ。

「ちなみにうちの制服、こんなです」と送られてきた制服姿の写真もあって、やっぱり可愛い人だと思う。


 僕は「別の僕」の都合なんて知らず、快諾の返事をしてやった。

 僕はミミさんのところに行くから、彼女のことはよろしく頼む。そう添えて。


「ここから〝僕がいなくなった〟あと――僕と入れ替わりになった別の僕がまた戻ってくるんですよね」

「ああ。そいつは〈使い〉のミミと出会っていない、つまり美憂と出会うべき方のお前だ。私たちが調整し、そいつがこれから……この世界で上手くやっていく」

「それを聞いて安心しました」


 カナタさんの方を振り返る。

 この世界から遠矢樹という存在が消えることはない。だからそんな顔をしないでほしいと思った。

 だってあのカナタさんが、さっきからずっと寂しそうにしているんだ。


 そして、高山さんが最後の確認を始める。


「さて、イツキ。そろそろいいか? こちらの手配はもう済ませてある。あとはお前が【黒い筆】を使うだけだ」


 これから僕は、筆を使ってミミさんのもとへと向かう。


 あのなにもない空間だ。そこでどれほどの時間を過ごすことになるのか分からない。

 もし戻れたとしても、この世界に帰ってくることはない。

 でも、それでいい。この世界にはちゃんとさよならを済ませてきたつもりだ。


 かつては憎らしい悪魔の道具だと思っていたこの筆が、今では唯一の救いになっている。

 不思議なものだと、握る手に力がこもった。


「それじゃあカナタさん」

「あ……」


 行ってきます。

 そう言おうとしたところで、カナタさんが一歩前に出て、僕の真正面に立った。


「悪い、なんか言おうと思ってたんだけど……忘れちゃったよ」

「大丈夫ですよ。カナタさんはもう十分、たくさんのことを教えてくれました」

「……ん」


 すると。

 カナタさんは身につけていたネックレスを静かに外し、僕に手渡してくれた。

 黒い革紐に、綺麗な石のペンダントトップが揺れている。


「これ……やる。ワタシの宝だったモンだ」

「え。そんな大切な物、いいんですか」

「いいんだって。メガネの高山も言ってたろ? 向こうのワタシはあれからイツキとすれ違っちゃったって。……これでさ、向こうのワタシがまた、ちゃんとイツキのこと見てあげられるようにって」


 僕が元の世界で暴走した時、その世界のカナタさんは止められなかったのか。

 こっちのカナタさんはずっとそれを気にしていたが、高山さんによれば、詳細は話せないものの様々なすれ違いが起こってしまったらしい。

 船を降りた時のカナタさんの体調の悪さは……もしかすると二日酔いや船酔いだけではなく、他になにかあったのかもしれない。


「ま、イツキの嫌いな〝おまじない〟だ。必要なかったら途中で捨てていい」


 そんなことするわけないですよと、僕はそれを握りしめた。


「イツキ」


 するとカナタさんは。


「お前はクソ真面目で、ガンコで、変な哲学があって……悪いところが目立ちやすいお前は、これからも誤解されることが多いんだと思う。でもワタシはそんな他人の評価、クソくらえだと思ってさ。……イツキが納得できるなら、それでいい。それでいいよ」


 だから、と、カナタさんは言って。


「ちゃんと最後まで、自分をまっとうしろよ」


 その瞳は深く、吸い込まれるようで。

 カナタさんは僕の手からもう一度ネックレスを受け取り、僕の首にかけようとしてくれた。

 かすかに震えた、僕よりも小さな手。


「……って言ってみたけど、悪い、こういうのがプレッシャーなんだよな」

「そんなことありません」

「ミミのいる場所にはワタシは……いないんだと思う。だから、なにかしてやれるとしたらこれが最後だ。これから〝向こう〟で絶望がやってきて、本当に本当に、どうしようもないことだって起こるかもしれない。多分、その時もイツキはなんとかしようとするのは分かってる。……そういう時は、さ」


 カナタさんはペンダント部分をぎゅっと握った。

 まるで、そこに願いを封じ込めるように。



「祈ったっていいんだからな」



 優しい瞳だった。


「イツキは誰にも頼ろうとしない。そのスタンスは貫いたって別にいいと思う。……だけど」


 まぶたをそっと下ろし、またゆっくりと開いて。

 それはきっと、誰も傷つけようとしない眼差しなんだと思う。


「本当に本当に、どうしようもなかったら、最後は祈ったっていいんだ」


 そしてカナタさんはぎゅっと、力強く僕を抱きしめた。


「……イツキ、言ってたよね。祈ったって無駄だよって。ロクなことにならないって。でもワタシはね、そうは思わない」

「カナタさん……」

「別になにも願わなくたっていい。目を閉じて、ただじっとしているだけでもいい。祈りと願いは別だ。そこに求めるものを〝欲〟だとはワタシは思わない。それだけで肩の荷が、ほんのちょっと軽くなる。それが祈りなんだよ」


 カナタさんの優しい匂いがする。少しうねった髪がちょっとくすぐったい。


「だって私たちは、本当はどうしようもなく弱いんだ」


 孤高の人だと思っていた。

 カナタさんは一人でなんでもできて、僕が抱えるような不自由も、きっとそつなくこなしてしまう大人なのだと、そう思っていた。


 でもカナタさんだってちょっとだけ生きづらそうで、不器用なところがあって。

 僕よりもずっとまっすぐで、あったかい人。


 そんなカナタさんのことを心から尊敬したいと、そう思った。


「じゃあ、元気でな」


 カナタさんの言葉を最後に、僕は筆を使った。

 周囲の景色が、ゆっくりと変わっていく。

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