第31話 世界のバグ
「残念ですが、本物の【黒い筆】はこっちなんです」
高山さんの顔が、こんなにも歪んでくれるなんて。
「な……!? バカ……な……!」
「僕から絵と筆を奪おうとした男がいた。その時点で警戒していました。だからダミーの筆を用意して、本物は肌身離さず持っていたんです。こんな大事なもの、カバンに入れっぱなしにするわけないでしょう」
「……ッ。クソ……ガキ、が……!!」
周囲の暗さと、この筆の簡素な作りが幸いした。
本物の【黒い筆】を握りしめ、慎重に構える。
「動くなよ……僕にこの筆を使わせたくなかったら、すべて話してください。もっとミミさんのこととか、隠してることがあるんでしょう……?」
「お前……もしそれを使ったら……」
「今の僕の〝渇望〟なんて決まってるだろ」
ミミさんがひとりぼっちにならないように、世界を丸ごと書き換える。
渇望を叶える代償として、使用者の大切なものを奪うこの筆。僕の持つものだけで足りるのか分からない。もし足りなければ、あの時――ミミさんが消えたあとに使った時のように発動しない可能性もある。
それならいっそ、叶えられるものを片っ端から願ってやろう。そうしたら世界はどうなるのか。ひょっとすると、世界はとんでもない歪みを生むのかもしれない。
それでも、ミミさんがひとりぼっちで寂しい思いをしているなら。
もう、なにもかも、どうでもいい。
が――その瞬間、致命的な油断をした。
背後で音がして咄嗟に振り向いた。他に仲間がいたのかと思ったが、川の向こう岸で動物が動いただけだった。
高山さんはその隙を見逃さなかった。
信じられない速さで飛びかかり、僕は押し倒され、地面に押さえつけられた。
「筆を渡せ……イツキ!」
「イヤだ……! 絶対に渡すもんか……!」
「なにが『自分のことは自分でなんとかする』だ! お前はどこへ行っても変わらない!! その強情で、ガンコで、計画性もない向こう見ずな行動で〝絶対に〟目的を果たそうとする! 他人を不幸に巻き込んででもな!」
ああ、僕はずっとそうだった。
あの夜の歓楽街で、黒服に追い詰められた時だってそうだ。カッとなって冷静さを失い、自分だけでなんとかしようとして、結局はミミさんも危険に巻き込んでしまうところだった。
小学生の頃に起きたあの出来事だって、きっと周りの方が正しかった。
絶対になんとかしようという僕の気持ちが、結果、クラスのみんなを不幸にさせた。
だから僕は〝バグ〟だと言われた。
まるで逆回転する歯車のようで、世界にとってはいない方がいい存在なんだ。
それでもミミさんは、そんな僕にこう言ってくれた。
僕の生きやすい世界を一緒に見つけに行こうって。
「ミミさんに会えたら……もう二度と……しま、せん……。だから……」
いつの間にか、涙がぼろぼろと溢れていた。
情けない、情けない。本当だよ、なにが「自分のことは自分でなんとかする」、だ。
もっと孤高でありたかった。もっと賢くありたかった。
僕はあまりに人として不出来で、孤高になんてなれず、ただそれに憧れ孤立を選んだだけの人間で。
それでも――ミミさんに会いたい。この想いだけは譲れない。絶対に、絶対に。
だってミミさんの告白に返事をしないと。もしミミさんがもう僕のことを嫌いになってしまっていたら、その時は静かに姿を消すと約束する。
だけど、もしミミさんがひとりぼっちで助けを求めているのなら。
絶対に助けなきゃ。
それ以外はもう、どうなったっていい。
「ふざけるな!! 筆を渡せ!! お前はいい加減、大人になれ!!」
「イヤだ……そうしたら……ミミさんに、もう、会え……ない……」
「会わなくていい!! お前みたいに危険なヤツは二度とミミに近付くな!! お前はなにがあっても、いつまで経っても変われない! それが今の行動で証明された!! お前はそういう人間なんだ!!」
「分かってる……分かってるよ……だから僕は……だ、誰も、巻き込まないで……い、一生、一人で、絵を描くことに……した……んだ……。で、でも……でも……ミミさんだけは……」
「最後のチャンスだ!! 変われ!! お前のその性格はな! 周りを不幸にするだけだ!!」
身体から力が抜けていく。
手に握りしめた筆も、もうすぐ高山さんに奪われるだろう。
そうなった僕はどうなるのだろうか。もしかすると、あらゆる手段を使って別の〈使い〉を探し出し、筆を奪おうとする計画を立てるかもしれない。
ああ、高山さんの言う通りだ。僕は変われないんだ。だからずっと世界のバグなんだ。
――すると。
どん、と。鈍い音が響いた。
僕の上に馬乗りになっていた高山さんが、突然吹き飛ばされたのだ。
仰向けになって夜空と向き合った高山さん。それきりぴくりとも動かない。
「はぁっ、はぁっ……クソっ……神のなんたらって奴をぶっ飛ばしちまったよ……こりゃ末代まで祟られるな……」
そこには、やってしまったと頭を抱えるカナタさんの姿があった。




