第30話 遠矢樹の罪
高山さんの話はどれもウソだと信じたかった。
だが彼の言葉によれば、ミミさんを失った僕は闇に堕ちていたという。
喪失感と絶望に取り憑かれ、彼女を取り戻すために手段を選ばなくなった僕は、【黒い筆】の理不尽な力を切り札として〈神の使い〉たちの秩序を壊して回っていたらしい。
時には〈神の使い〉らを欺いて情報を引き出し、時には他者に【黒い筆】を使わせて自分の目的を果たそうとした。
すべてはミミさんを救うため。
だが高山さん、いや、僕以外の人間の目には、それは悪鬼のように映っていたという。
「冗談……だろ……僕が……?」
「神は人間に慈悲深い。大罪を犯したお前だが、最後のチャンスを与えてやった。ミミを失ったことが原因なら、そもそも彼女が〈使い〉になっていない――つまりミミが消えることのない〝別の世界〟へ連れていってやろうと、お前は赦された」
〈使い〉にならず、僕と過ごした記憶こそないが、普通の高校生として暮らしてきた志羽波美憂がこの世界にはいる。僕の好きな絵だって自由に描ける世界。
「お前が幸せに暮らせる世界を神が導いてやったんだ。不満なんてどこにある?」
「でもそれじゃあ……僕が今まで一緒にいたミミさんは……?」
「あれはミミの落ち度だ。〈使い〉になった時点で彼女は責任を負う立場にある。もうお前には関係ない。なぜそこまで気にする?」
「責任って……ミミさんはいつまであんな孤独な場所に……?」
「……さあな。誰にも分からない」
少なくとも十年や二十年で終わるものではないと、彼は冷酷に言い足した。
「そ、そんな……だって……ミミさんは寂しいのが嫌いで……」
「気持ちは分かる。だがミミのことはもう忘れろ」
まるで聞いていられるものではなかった。
「……筆を……返して……」
「なんだと?」
「筆を使わなきゃ……ミミさんを……助けなきゃ……」
瞬間、頬に鋭い痛みが走った。
高山さんが僕の顔を平手打ちしたのだ。
「目を覚ませ。お前は……やっぱり同じ過ちを繰り返すのか……?」
腕を組んで立ちはだかる高山さんの瞳には、怒りを越えて呆れが滲んでいた。
彼はスマートフォンを取り出す。
「……仕方ない。筆のないお前はもう無力だが、これからまたなにをするか分からない。こうなった以上、お前のことは……」
が、近くから声が聞こえた。
「お、おい、イツキ? なにやってんだよ……?」
鳥居の向こうにカナタさんが立っていた。
高山さんは眉をひそめ、厄介そうに彼女を睨みつける。
「……どうしてここが分かった」
「美憂から連絡があったんだ。心配になって追いかけてきたら……なんなんだよ、さっきから。世界が違うとか……イツキがやばいとか、意味不明なことばっかり……」
高山さんは答えない。
その隙にカナタさんが駆け寄り、僕の肩を叩く。
「イツキ、まあ、ちょっと落ち着こうぜ? ほら、ワタシが話聞くから……」
カナタさんを見て一瞬だけ安堵を覚えた。
だけどそれは、ほんの一瞬だ。
どうしてかその安堵は氷に変わり、静かに心の奥に広がっていった。
ああ、そうだ。やっぱりそうなんだよ。カナタさんだって、確かめなきゃ。
「……カナタさんって、なんのお仕事をしていたんでしたっけ」
「え? なんだよこんな時に」
「答えてください。キャバクラで、どんな名前で働いていたか覚えてますか」
「キャバクラ? なんのことだ……?」
以前彼女にその話をした時も、反応に違和感があった。
この世界のミミさんが別の人生を歩んでいたように、カナタさんも同じなんだ。
「カナタさんと初めて会った夜……カナタさんは僕とミミさんを助けてくれたんです。それからカナタさんはずっとカッコよくて……でも、あなたは違うカナタさん、なんですよね」
「イツキ……」
「僕が絵が描けなくなった時のことも知らないし、ミミさんのことを……ずっと思い出せないカナタさんだ。はは、そうだよ。そりゃ当然だ。ここは違う世界なんだから」
さっきまであれだけ詰まっていた言葉が、今はすらすらと出てくる。
自分の性悪さに苦笑してしまった。
「世界がなんだとか、なに言ってんだよ……? ワタシはワタシだ。イツキのことが心配なのは変わらなくて――」
「大丈夫です、〝香奈多〟さん。自分のことは自分でなんとかします」
その時の彼女の表情は見ようともしなかった。
彼女はそれきり黙り込み、僕としてもそれが一番助かった。
だって、僕の心はもう決まっているから。
高山さんから距離を取り、ポケットから〝あるもの〟を取り出した。
「残念ですが、本物の【黒い筆】はこっちなんです」




