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第3話 すっごい可愛いと思うんだ

 ギィ、ギィ、と軋んだ音が聞こえる。

 それ以上、なにか音がしたわけではない。特別な匂いがしたわけでもない。

 それでも、その扉が手招きしているように見えて足は止まっていた。


 なぜだろう。この部屋に入るべきなんだと、そんな直感が僕の中にあった。


 ……他人の家だ。勝手に入るのはよくない。

 だけど扉の向こうには一体なにがあるのか。

 それが妙に気になってしまい、隙間から覗き込んだ。


「なんだ、これ」


 絵だ。絵があった。しかも――壁一面の絵だ。

 そこは寝室のような空間だろうか。カーテンがぴたりと閉じられ、夜のように暗いのに、まるで水族館のガラスの向こう側を見た子どものような気持ちになった。

 理性なんて置いてけぼりにして、僕は扉を押し開けていた。


「う……お……」


 青い木。青い森。青だらけの自然。

 絵の中の空一面には鮮やかな赤紫――マゼンタの色彩が泳ぐように流れ、見たこともない幻想的な水彩画がそこにあった。

 そしてデカい。十畳はあるかというこの部屋になんとか収まったような大きさだ。


 目の前に立つと吸い込まれそうになる。

 瞬き一つすれば、次の瞬間にこの絵から手が伸びてきて、連れていかれてしまいそうな絵。

 中心には青の大樹がそびえ、その先には地平線、そして赤紫色に世界を染める太陽。生き物の影は見当たらないのに、不思議とあたたかい。


 しかし目は逃げ場を失うようで、意識が奥へ奥へと引っ張られていく。これは……一体どういう技術だ。色の置き方が大胆で、極端に異なる彩度を遊ぶように塗っているのか。計算ではなく直感に頼ったような描き方だが、一体どんな目をしていたらこうなる。僕には到底できないものだ。

 それでいてこの絵は緻密だ。端から端まで、空気すら描き込もうとする執念が感じられる。

 言葉を失った僕は、ただ絵の前に立ち尽くすことしかできなかった。


 すると、部屋に電気が灯された。


「なーに勝手に入ってんの」

「……あ、ミミさん……わ、悪い。人の家なのに……」

「ん。ていうかイツキくんもこの絵、見惚れてたんだ?」

「ミミさんが描いたってわけじゃないよな……?」

「冗談。私は絵の才能、ないから」


 ミミさんは指で自分の髪をくるくると弄びながらそう答えた。

 どうやら〈使い〉の仕事の一環で、偶然上司からこの絵をもらったのだという。

 彼女は美術鑑賞が趣味らしく、「あ、じゃあ他にもあったら全部ください」と、この絵以外にもたくさんの絵をもらってきたらしい。

 しかし数が多い。部屋の壁には絵が所狭しと飾られ、床にも積み上げられていた。

 そんな中からミミさんは特別な一枚を取り出して見せてくれた。


「じゃん! その中でも私のお気に入りはこれ!」


 それは、普通のスケッチブックに描かれた絵。

 今見ていた大作と比べれば、まるで取るに足らない絵だった。


「は? そんなのが?」

「こ、こら! そんなのとか言わない! この絵はね、ヘタでもがんばって絵を描くぞって熱量が伝わったんだ。イツキくんも感じない?」


 じっくりと見るものの……いや、よさがまるで分からない。

 女性を描いたものらしいが、とにかく不安定な絵だ。あまりに線がぎこちない。基本的な構図の知識はあるようだが、単純に「ヘタな絵」という感想以外を抱くことはなかった。


「ミミさんの絵の趣味はよく分からん」

「えぇー……。……しゅん」


 それよりも気になるのは、こっちの大きな絵だ。一体誰がこんな絵を?

 アイツの作風と少し似ているが、やはり違う。

 色使いは確かに通ずるものがあるが、アイツの絵はもっと荒く、こんな緻密に描けるような奴じゃない。


「ミミさん、これ、誰が描いたか知ってる?」

「分かんない。有名じゃない人の作品だからもらえたっぽくて」

「この作者が無名ってこと? 冗談だろ。そっちの世界には天才がウジャウジャいるのか」

「そんなことないよ、私たちだって普通の人間だから。それよりイツキくん、その絵に夢中だね。ふふ」


 好きとか好きじゃないとか、そんな話をしたかったわけじゃない。

 これだけの絵を描けるようになるには、一体なにをすればいいのだろうか。

 今の僕には足りないものが多すぎて、ただ歳月を重ねて描けるようになる絵だとは思えない。

 まったくイヤになる。こんなスランプ、さっさと抜け出して絵を描き始めるべきだろうに、僕はなにをのんびりしているんだ。


「てことで、あの筆、使いたくなったでしょ?」


 それは、渇望を叶える【黒い筆】のこと。

 ミミさんはしめしめと言わんばかりに笑みを浮かべていた。


「……悪魔かよ」

「別にイツキくんに悪いことが起きるわけでもないじゃん。早く筆使ってさ、たくさん絵描いちゃおうよ?」

「知らん。そんなの明日にでも克服してみせる」

「う、うわ、強情」


 早く帰ってリハビリだ。

 そう思って部屋を出ようとしたところ、ミミさんのひとりごとが僕を呼び止めた。


「私はね、絵が好き」


 それが少しだけ気になって、足を止めた。

 ギシ、とまた床が音を鳴らす。


「イツキくんがこの絵に夢中になったように、絵は一瞬で人の心を捕まえる。こんな表現、私は他に知らない」

「映像や音楽だってそうじゃないか」

「もちろん、色々な解釈があると思う。だけど絵はさ、たった一枚なんだ。たった一枚に込められたものが、突然土足で私の中に入ってきて、私の中で勝手に色を溶かしてきちゃう」


 彼女はゆっくりと、部屋の中の絵を一枚一枚、覗いていくようだった。

 そして。


「だから絵はね、すっごい〝可愛い〟と思うんだ」


 そんなおかしなことを言ってのけた。


「……可愛い? 絵が? なんだそれ……」

「イツキくんは思わない?」

「一度も思ったことない」

「じゃあイツキくんは絵のこと、どう思ってるの?」


 そう言われてしまうと言葉に詰まる。

 絵について、か。考えたことなんてなかったが、なんとか言葉にしてみよう。


「一瞬で最大火力をぶつけてやれる表現。それが絵なんだと思う」


 一瞬、間が生まれた。

 ……しまった、ド滑りした。

 気恥ずかしさに目をそらすと、ミミさんが楽しそうにこちらを見ていた。


「おー……これはこれは……」

「な、なんだよ」


 ミミさんの上目遣いがぶつかってくる。

 なんて目だ。僕をくすぐってきそうな、悪そうな視線。

 いや、ウソは言っていなかったはずだ。にしたって今の言い方はさすがにナシだったろうか。

 そんなことで頭がいっぱいになっていると、彼女はこんなことを提案した。


「ふふ。決めた。イツキくんさ、夏休み暇でしょ?」

「いや全然暇じゃない。とっととこのスランプから抜け出して……」

「それ、私が助けてあげる」

「は……」

「今の話聞いてキミの絵、見たくなっちゃった。イツキくんにはやっぱり【黒い筆】が必要だ。キミが心の底から使いたいって思えるように、私がエスコートしてあげる」

「余計なお世話すぎんだろ。ていうか何度も言わせんなって。自分のことは自分でなんとかする。そんな力に頼ったら……」

「怖いもんね?」


 ミミさんの言いっぷりは、悪意を多分に含んでいた。


「ごめんね? 私みたいな女子に突然会って、お家にまで上がらせてもらって、もう今日は頭パンクしちゃったよね? 大丈夫だよ、それは男子として当然の反応だ。うんうん、やっぱりキミは可愛いんだ♪」

「お……お前……ついに完全に煽るスタイルに切り替えてきたか……」

「お前じゃなくて『ミミさん』。私の方が誕生日勝ってる」

「たったひと月だけな……?」


 ミミさんはくすくすと笑っているが、いいだろう。乗ってやる。彼女の好きな〝勝負〟とやらに。


「分かった」

「お?」

「なんでそんなに僕に筆を使わせたいのか知らないけどな、付き合ってやる。そんなもんに頼らないで僕が絵を描けるようになったら、僕の勝ちだ」

「なるほど。じゃあその逆なら私の勝ちだっ」


 僕が諦めて【黒い筆】の力を頼ることになったら、僕の負け。ルール成立だ。


「悪いけど、今晩にはもう早速勝負が決まってるかもしれないな」

「イツキくんがぎゃん泣きして私にごめんなさいしてるってことね」

「ふっ。そうそう、ミミさん、切符買っとけよ」

「切符?」

「僕に負けて明日帰るんだろ? 神様んところに怒られに」

「……! や、やられた! 最悪っ……!」


 長期戦なんてごめんだ。夏休みは残り十日。その期間内でケリをつけてやる。

 ミミさんはといえば、なにやら電子書籍を夢中で読み始めてしまったが、あれは僕に仕返しするためのネタを探しているのだろう。今のうちにと僕は隙をついて帰ることにした。


 しかし本当に厄介な女子に会ってしまった。

 ため息混じりに空を見上げると、日差しは少し柔らかくなり、街は雲の切れ間からこぼれた光を浴びている。


 母親に手を引かれ、チューブのアイスを吸って歩く子ども。

 涼しそうな日陰に集まり、のんびりとする猫の集まり。

 窓からこぼれるピアノの音を聴く、庭いっぱいのひまわり。


 ――だから絵はね、すっごい〝可愛い〟と思うんだ。


 彼女の言葉の意味はよく分からなかったが、まあ、どうせ変な奴だ。

 この夏の暑さには、もうしばらく付きまとわれそうだった。

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